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1955年当時の山下艶子 | ||||||||||||||||
| 生誕 | (1928-03-19)1928年3月19日 大阪府大阪市 | |||||||||||||||
| 死没 | 2021年2月12日(2021-02-12)(92歳没) | |||||||||||||||
| 選手情報 | ||||||||||||||||
| 代表国 | ||||||||||||||||
| 大会成績 | ||||||||||||||||
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山下 艶子(やました つやこ、旧姓:生田[1]、1928年3月19日[2] -2021年2月12日[3])は、日本のフィギュアスケート選手、コーチ。大阪府大阪市出身。大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)[2]、関西学院大学卒。155cm。長女は元フィギュアスケート選手で1968年グルノーブルオリンピック、1972年札幌オリンピック女子シングル日本代表の山下一美(現姓・大西)。
6歳のとき、大阪・中之島にあった朝日会館内のリンクで永井康三に師事し、スケートを始めた[1]。
1938-1939年と1939-1940年シーズンの全日本フィギュアスケートジュニア選手権で2連覇を果たし、1940-1941年の全日本フィギュアスケート選手権で3位となった。しかし1942年以降は競技会は戦争終結まで中止となった。
二児の母となった後、第二次大戦後の1953-1954年、1954-1955年シーズンの全日本フィギュアスケート選手権で2連覇を達成。オリンピック、世界選手権の候補選手となったが、出場することは無かった。
1955年、27歳で引退した後はコーチとして佐藤信夫、大川久美子、長女の一美らを指導した。稲田悦子らとともに日本フィギュアスケーティングインストラクター協会を設立。2003年まで大阪スケート倶楽部でコーチを続けた。日本フィギュアスケートインストラクター協会の名誉会員に就任した。
| 大会/年 | 1938-39 | 1939-40 | 1940-41 | 1946-47 | 1947-48 | 1950-51 | 1953-54 | 1954-55 |
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| 全日本選手権 | 3 | 2 | 2 | 3 | 1 | 1 | ||
| 全日本Jr.選手権 | 1 | 1 |
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| ※ 開催年は年度。1929–65年度は翌年1–4月、1966–81年度は同年11–12月、1982–96年度は翌年1月、1997年度以降は同年12月に開催された。 |
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| ※ 開催年は年度 |