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|---|---|---|---|---|
小野川喜三郎(左) | ||||
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 小野川才助(2代目)、小野川喜三郎 | |||
| 本名 | 川村喜三郞(生来)、小野川喜三郎 | |||
| 生年月日 | 1758年 | |||
| 没年月日 | 1806年4月30日(48歳没) | |||
| 出身 | 近江国滋賀郡大津京町(現・滋賀県大津市京町[gm 1]) | |||
| 身長 | 176cm | |||
| 体重 | 140kg | |||
| BMI | 45.2 | |||
| 所属部屋 | 小野川部屋 | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第5代横綱 | |||
| 幕内戦歴 | 144勝13敗4分10預3無40休(23場所) | |||
| 優勝 | 優勝相当成績7回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1776年 | |||
| 引退 | 1797年 | |||
| 備考 | ||||
| 2013年7月28日現在 | ||||
小野川 喜三郎(おのがわ きさぶろう、1758年〈宝暦8年[1][異説では1761年{宝暦11年}[2]]〉-1806年4月30日〈文化3年3月12日〉)[1]は、江戸時代中期の大相撲力士[1](第5代横綱[1])。近江国滋賀郡大津京町(幕藩体制下の公儀御料江州大津京町。現・滋賀県大津市京町)出身で小野川部屋に所属した。生来の本名は川村 喜三郎(かわむら - )[1]、養子になってのちは小野川 喜三郎。別の四股名として、師から引き継いだ小野川 才助( - さいすけ)がある。
谷風梶之助とともに寛政の勧進相撲繁栄に貢献した[1]。古今十傑の一人。
琵琶湖南西畔で栄える大津の街に生まれた川村喜三郎は、長じて、頭取[* 1]・小野川才助(初代小野川で、初代小野川才助)の養子となり、安永5年(1776年)、大坂相撲で初土俵を踏んだ。安永8年(1779年)には江戸相撲に合流して[3]二段目筆頭(現在の十両に相当)に付け出される[3]と共に、久留米藩(摂津有馬家)の抱えとなり[4]、赤羽根(武蔵国荏原郡三田町内。現在の芝赤羽)の全域を占めていた[5]摂津有馬家の江戸上屋敷(久留米藩江戸上屋敷。現在の東京都港区三田1-4に所在した[gm 2])内に小野川部屋が開かれた[4]。
天明2年(1782年)3月場所7日目には、未だ二段目であった小野川が、大関・谷風(2代目谷風梶之助)の63連勝を止める殊勲の星を上げた。取組内容は、突いていなしたのち、渡し込みで破っている[2]。時の狂歌師・大田南畝(蜀山人)は、この大番狂わせを「谷風はまけたまけたと小野川が 喝をよりねの高い取り沙汰」と詠んでいる[2][3]。これ以降、両力士の取組は相撲史上に残る名勝負として現在まで語り継がれている。その功績により、来る将軍・徳川家斉の上覧相撲に備えて[3]、寛政元年(1789年)11月場所の7日目に、吉田司家から大関・谷風と関脇・小野川が共に横綱免許を授与された[3]。事実上、これが現在まで引き継がれている横綱制度の始まりである[4]。かくして寛政3年6月11日(1791年7月11日)に向両国の回向院(現在の東京都墨田区両国2‐8‐10に所在)境内で開催された上覧相撲では、家斉の要請を受けて谷風・小野川戦が特別に組まれ、両力士は以前と変わらない熱戦を繰り広げて家斉を喜ばせた。
寛政元年(1789年)3月から寛政3年(1791年)11月までの六場所間は、優勝相当成績五回、その間敗れたのは寛政2年(1790年)11月場所9日目の谷風戦のみ(そのときまで32連勝)と、谷風から第一人者の座を奪ったといえるほどの活躍を見せた。だが、寛政4年(1792年)3月場所からは欠場が多くなり、寛政9年(1797年)の10月場所を最後に引退した。
享和元年(1801年)、師であり義父であった初代小野川才助が死去。それからおよそ5年後の文化3年3月12日(1806年4月30日)、小野川喜三郎も江戸で死去した[4]。満年齢でおよそ48歳没。帰坂して没したという通説は誤りである[4]。
なお、小野川喜三郎が没した後、阿武松緑之助が横綱免許を授与されるまでの間、すなわち、文化3年3月13日(1806年5月1日)から文政11年2月(1828年3月頃)までの約22年間、存命中の横綱経験者が1人もいない状態になっていた。これは、事実上の成立期から現在(2021年)までの横綱制度全史において唯一の例となっている。もっとも、その期間中に横綱に値する力士が輩出されなかったというわけではなく、文政6年(1823年)に柏戸利助と4代目玉垣額之助が五条家から横綱免許の授与を同時に打診されながらも、吉田司家に遠慮して共に辞退している。
初代小野川才助に始まる「小野川」という名は小野川喜三郎(2代目小野川才助)の没後も長く引き継がれ、2021年(令和3年)下半期現在、日本相撲協会が所有する年寄名跡の一つに数えられている。
体躯・筋力に優れる谷風に対して、機敏なスピード相撲で知られ[2]、谷風・雷電の両強豪に挟撃されながら歴代一級の戦績を残したことで、現在では「大相撲史上最強のナンバー2」と評される。なお、雷電とは全盛期を過ぎてからの対戦が多く、江戸では一度も勝てなかった。
谷風は自室の床の間に小野川の画像を掲げていた。中井竹山がそのわけを聞くと「相撲取りというのは勝てない相手にはずいぶん汚い立ち合いをするものですが、小野川関にかぎって、いつでも仕切りに念をいれて、決して相撲をみだりに取らぬ人です。かような人がいてこそ、私のことを強いとか何とか申されるようになったもので、それゆえ、私はこの人を床の間にまつっておかねばならぬわけです」と語ったという 。一方、「尚古堂相撲草」に、「小野川は片手をわきの下へ入れ、立ち合いもさされぬ用心なり、すきなき事かくの如くにして谷風の足しびれたる時分、様子をうかがひ立ち合たり、誰にも喜三郎この通り立合きたなし」と、作戦的な立ち合いが批判されている[6]。
横綱免許授与後に最も数多く使用した四股名は「小野川喜三郎」であるが、大関の時(当時は横綱免許と番付は無関係)は「小野川才助」と書かれていた。
江戸相撲の本場所のみを示す。
| 春場所 | 冬場所 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1779年 | x | 東幕下筆頭 0–0–10[* 2] | ||||
| 1780年 | 東幕下筆頭 0–0–6[* 2] | 東幕下5枚目 8–2[* 2] | ||||
| 1781年 | 東前頭3枚目 5–1–3 1預 | 東幕下5枚目 6–2–2[* 2] | ||||
| 1782年 | 東幕下3枚目 5–1–4[* 2][* 3] | 東前頭4枚目 7–1–1 1分 | ||||
| 1783年 | 東前頭4枚目 5–0–3 1預1無[* 4] | 東前頭2枚目 6–0–2 1分1預 | ||||
| 1784年 | 東小結 6–2 2預 | 東関脇 9–0 1無[* 5] | ||||
| 1786年 | 番付非掲載 不出場 | 東関脇 7–0–3[* 5] | ||||
| 1787年 | 東関脇 – 興行中止 | 東関脇 7–1–2 | ||||
| 1788年 | 東関脇 7–2–1 | 東関脇 7–1–1 1預 | ||||
| 1789年 | 東関脇 10–0[* 5] | 東関脇 8–0 1分1預[* 5][* 6] | ||||
| 1790年 | 東大関 8–0 1無[* 5] | 東大関 6–1–2 1預[* 7] | ||||
| 1791年 | 東大関 8–0–1 1無[* 5] | 東大関 8–0–1 1預[* 5] | ||||
| 1792年 | 番付非掲載 不出場 | 番付非掲載 不出場 | ||||
| 1793年 | 番付非掲載 不出場 | 東大関 8–1 1分 | ||||
| 1794年 | 東大関 3–0–7 | 東大関 0–0–10 | ||||
| 1795年 | 東大関 4–0–1 | 番付非掲載 不出場 | ||||
| 1796年 | 番付非掲載 不出場 | 東大関 7–2–1 | ||||
| 1797年 | 東大関 引退 8–1–1[* 8] | x | ||||
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口 幕内序列:横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||

第5代横綱(在位:1789年11月 - 1798年10月) | |
|---|---|
| 初代 - 10代 | |
| 11代 - 20代 |
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| 21代 - 30代 |
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| 31代 - 40代 | |
| 41代 - 50代 | |
| 51代 - 60代 | |
| 61代 - 70代 | |
| 71代 - 80代 | |
| 無類力士 | |