この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月) |
| 地崎 宇三郎 ちざき うさぶろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1919年7月21日 |
| 出生地 | 北海道札幌市 |
| 没年月日 | (1987-11-11)1987年11月11日(68歳没) |
| 出身校 | 立命館大学中退 |
| 前職 | 地崎工業代表取締役社長 (現・岩田地崎建設) |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 |
| 親族 | 父・2代地崎宇三郎 長男・地崎昭宇 孫・T-SK |
| 内閣 | 第2次大平内閣 |
| 在任期間 | 1979年11月9日 -1980年7月17日 |
| 選挙区 | 北海道第1区 |
| 当選回数 | 7回 |
| 在任期間 | 1963年11月22日 -1983年11月28日 |
| テンプレートを表示 | |
3代地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 -1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。
3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。
父追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退した。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など)。
自民党に所属し、1969年には石田博英、宇都宮徳馬、山口敏夫らと石田派を旗揚げするが、派閥の維持が困難となり1971年に石田博英らと共に三木派に合流した。1979年、自民党内で2人の首班候補が争ったいわゆる「四十日抗争」では、福田赳夫を推す三木武夫の意向に反して大平正芳に投票し、三木派を離脱。直後に成立した第2次大平内閣で運輸大臣に就任。1983年に政界から引退するまで連続7期当選していた。
地崎の道連会長在職中に引退表明した事が中川一郎自殺と1983年北海道知事選挙(新人対決)において、日本社会党推薦横路孝弘に前副知事三上顕一郎が敗北したことに繋がったとする見方も多い[要出典]。
また、北海タイムス会長、日刊スポーツ北海道本社社長、学校法人成徳学園理事長、学校法人札幌大学理事長、北海道テレビ放送取締役[1]も務めた。
1987年11月11日、腎不全のため死去。68歳没。同月13日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位勲一等に叙され、瑞宝章を追贈された[2]。
趣味はゴルフ、囲碁、読書、少林寺拳法など多岐にわたり、無類の酒豪で焼酎を愛し、ピカソの絵を好んだ。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 森山欽司 | 第51代:1979年 - 1980年 | 次代 塩川正十郎 |
| 議会 | ||
| 先代 小山省二 | 1976年 - 1978年 | 次代 木村武千代 |
| 先代 広瀬正雄 | 1975年 - 1976年 | 次代 伊藤宗一郎 |
| 学職 | ||
| 先代 岩澤誠 | 学校法人札幌大学理事長 第3代:1984年 - 1987年 | 次代 伊藤義郎 |
| 統合前 |
| ||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 統合後 | |||||||||||||
| 2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。 | |||||||||||||