| 「千葉科学大学」とは異なります。 |
| 千葉工業大学 | |
|---|---|
| 大学設置/創立 | 1942年 |
| 学校種別 | 私立 |
| 設置者 | 学校法人千葉工業大学 |
| 本部所在地 | 千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号 北緯35度41分21.15秒東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 /35.6892083; 140.0213361座標:北緯35度41分21.15秒東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 /35.6892083; 140.0213361 |
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| ウェブサイト | https://chibatech.jp/ |
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千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語:Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学。1942年創立、1942年大学設置。大学の略称は千葉工大(ちばこうだい)または工大、英称ではCITまたはChibaTech。
この節は大言壮語的な記述になっています。Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2024年10月) |
千葉工業大学は、第2次世界大戦開戦日の1941年(昭和16年)12月8日に設立許可申請がなされ、同大戦中の1942年(昭和17年)5月15日に日本国政府主導のもと国策で設立された大学を起源に始まった。今日においては日本で現存する最古の工業大学で[1][注 1]、現存する私立の理工系大学としても最も長い歴史を持ち[2]、国公立を含む日本の理工系大学としては東京科学大学に次ぎ2番目に古い大学でもある。
2025年現在、学長は伊藤穰一(就任時ビデオ)。現在までに14代の学長が統じており、初代学長は京都帝国大学の元総長である小西重直。
設置科は5学部17学科、大学院10研究科修士課程19専攻・博士後期課程4専攻で[3]、学生数は約1万名[4]。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する[5]。
週刊東洋経済誌 臨時増刊『大学特集 本当に強い大学2025週刊』において、「教育・研究力」「就職力」「財務力」「国際力」の4つの観点から全国562大学を総合的に評価した「本当に強い大学ランキング2025」で 全国総合14位、関東・首都圏エリアの私立大学では第4位(国公私含めて第6位)にてランクされている[6]。
2018年度の志願者数は78,905人で、日本の私立大学[7]の中で第10位である。2023年度には志願者数は14万5128人で、全国第2位[8]に達している。2024年度の志願者数は全国1位となる16万2005人となり、史上最多志願者数を更新した[9]。
千葉工業大学は、1942年(昭和17年)5月15日に国家中枢を担う人材養成を目指し太平洋戦争に中に設立されたが、日本の敗戦後は、もっぱら現存する日本最古の私立工業大学として中堅技術者の育成という役割を担ってきた。しかし、近年は「建学の精神に帰ろう」を合言葉に自学の建学精神をもう一度見直し、現在は「世界文化に技術で貢献する」を目標に国家や社会で活躍する理系人材の養成を目指して建学以来の大改革を行っている。
本学の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた(千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年を参照の事)。
千葉工業大学の原点は創立者でもある小原國芳が京都帝国大学の学生時代に構想した理想の教育をする「夢の学校」計画に起源を持つ。そして、明治から昭和時代まで教育者・小原國芳と小原を取り巻く教育者たちの体験と研究に基づき理想が具現化されていったのであり、その理想の教育精神は欧米の進歩主義および新教育運動の影響も受けながら、江戸時代までの吉田松陰や広瀬淡窓などの先哲たちの教育思想を融合したもので、松下村塾や咸宜園の教育精神を基盤としている。
また、「大学の教育は理工系人材たる前に紳士たれ」という理念のもと、全人教育を基本にリベラルアーツ教育と人間教育などが重要視され、設立当時、制服は一般的な学生服ではなく、紳士服を採用し、日本の「ジェントルマン」たる姿勢を備えた人格形成を目指し、個性の伸長にも注力(千葉工業大学50年史より)。
尚、大学のホームページでは教育目標として下記を掲げている[10]。
師弟同行(していどうぎょう)、師弟共生(していきょうせい)の教育を以て、
- 広く世界に知識を求める好学心を持つ人材の育成
- 自ら学び、自ら思索し創造する人材の育成
- 自由闊達、機智縦横な人材の育成
- 善隣及び協力をつくり上げていく人材の育成
- 高度な専門知識と豊かな教養を持つ、学理及び技術に優秀な人材の育成
を目指す。
また、教育理念は、欧米の進歩主義教育と、江戸時代の吉田松陰や広瀬淡窓などの先哲たちの思想を融合したもので、松下村塾や咸宜園の精神を基盤とし、20世紀初頭の欧米で起きた新教育運動の影響も受けた(詳細は「興亜工業大学設立趣意書」参照)。

計画当初、小原ら関係者は滝川事件などの経験から国立教育の限界[11]を感じ、自由と多様性がある私学こそ、国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であると考え「明治維新の大業は私学が成した[12]」と私学教育の重要性を説いた。また、幕末期の日本の松下村塾やヨーロッパのパブリックスクールなどの影響も受け、当初「玉川塾工業大学」として玉川学園の主導によって計画された[13]が、国から校名を「興亜」か「東亜」に変更するように通達がなされ、途中で大学設置計画は国の主導で行われる。
当時の社会的風潮(全体主義や軍国主義)に反する教育理念(個性尊重や自由主義)を掲げていたため、軍部や旧来の教育をする関係者からの反発や圧力が強く、設立は難航したが、橋田邦彦文部大臣をはじめ、皆川治広東京市教育局長、小西重直元京都帝国大学総長、本多光太郎元東北帝国大学総長、平賀譲東京帝国大学総長、八木秀次東京工業大学学長、西田幾多郎京都帝国大学名誉教授、波多野精一同教授などの教育界関係者をはじめ、政治家の東郷実、森コンツェルンの森矗昶・森曉親子、東京川崎財閥の川崎守之助をはじめとする財政界の支援を受けながら、数は少なかったものの、皇族で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王や、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将や財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将や土肥原賢二陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。
当時、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省(現:文部科学省)の指導によって、日本だけでなくアジアや世界を視野に国策的な意図をもった大学へと発展、太平洋戦争中の1942年5月15日(東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称の6年制の理工系大学として玉川学園内に設立された[14]。戦前当時の日本で6年制の理工教育を行うことを許可されていた大学は帝国大学各校と東京工業大学、そして私立大学では早稲田大学理工学部と慶應義塾大学理工学部(旧藤原工業大学)と千葉工業大学(旧興亞工業大學)の3校のみ。また、当時の旧制大学の中では珍しく創立時から大学院の設置も構想されていたという[要出典]。大学設立の際、不足していた実験設備や実験機器などは東京帝国大学と東京工業大学からの取り計らいにより共同利用させてもらうことで対処した。
創立時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だったが、興亜工業大学ではまだ自由な雰囲気があったため、急速に設立された開校当初、すべての建物がまだ完成していなかったが、大学予科の英語や音楽、古典、道徳などの教養科目授業を青空教室で行う対処をした。結果的に、この授業方式は生徒と先生との関係(先生を囲んでの授業)において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。当時の在校生の回想録では『いずれの授業も和気あいあいとした授業で、文字通り、いい意味での「エコール・ビュイソエール(みどりの学園)」であった』と称している。
授業は学内のみでなく神社や寺、河川敷、喫茶店などでも行われ、ある時は「百聞は一見に如かず」「百聞は一労作に如かず」との教育理念のもと、小原國芳の発案で観光バスを連ねての東京名所の見学会が行われたり、第一ホテルなどでテーブルマナーの講習会などが行われたりもしたという[要出典]。しかし、当時の学生の中には軍国思想に染まっているものも少なくなく、こういった自由な雰囲気に馴染めず、大学を中退して軍学校などに入りなおす者もいたという。
1944年(昭和19年)には大学本部と本科を東京都千代田区に大学予科を神奈川県川崎市へ移転。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツの神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。
戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場、松代大本営の造営などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成の高まりから陸軍士官学校や海軍兵学校などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。
太平洋戦争が終結すると日本の敗戦により、これまでの日本の政策は否定され、アメリカの占領下で公職追放や国家政策の転換が計られた。この影響は、戦時中に国策大学として設立された興亜工業大学にも及び、1946年(昭和21年)には国の提案もあって千葉県君津町(現・君津市)の旧海軍施設跡へと移転し、校名も国策色が濃かった「興亜工業大学」から「千葉工業大学」と改名した[15]。さらに、それまでの政府の庇護下から外れたことによって、急速に資金難などの問題が発生し、経営環境が悪化。これに伴い、理工系大学の設立を模索していた芝浦学園や理工系学部の増設を考えていた中央大学、法政大学などとの合併話や早稲田大学への合流話など次々と浮上した。また、大学の設立意義や国策の旧制大学として設立された背景から、伝統ある同校をそのまま廃校することへの忍びなさから、当時GHQの政策によって新たに設立されようとしていた国立大学の千葉大学への合流構想なども持ち上がったが、いずれも実現には至らなかった[16]。そうした動きの中で、在学生や教職員の多くはなんとか大学を存続させようと、学生たちの中には木更津港から船で横浜へ渡り、アルバイトで得た収入を大学にカンパする者も現れたが、最後は日本国民や千葉県民からの寄付や支援などもあってなんとか持ち直した。このように、君津校舎時代の千葉工業大学は、大学史上最も困難な時期であったが、寄付によって集めた資金をもとに、教職員と学生が協力して校舎の整備や大学の運営に尽力するなど、教職員と学生が一丸となっていた。また、大学周辺の住民との交流も盛んで、地域の住民チームとスポーツを楽しむなど、日常的に親しい関係が築かれており、時には大学の教養科目の講義を地域の学校や寺院などの施設を借りては行われ、町民も共に参加することもあったほか、学生たちは農作業など地域住民の仕事を手伝うなど、地域との深い結びつきがあった。しかし、君津校舎で発生した火災によって施設の多くが焼失してしまい、交流があった東京大学や東京工業大学などの協力を得ながら、学生を収容するための新たな施設を求めて候補地を探すことになる。
1947年(昭和22年)4月から一部の学生を千葉県津田沼町にあった田中航空機器製作所(後の田中工業)施設跡に移す。田中航空機器製作所の代表であった田中孝は「国破れて、いま教育を捨てたらどうなるか。工業人として郷土の遺産が失われようとしているのを目の前に見、黙っているわけにはいかない」という思いから受け入れを支援した。
その後、1950年(昭和25年)には国による旧軍施設の払い下げ提案を受け、田中航空機器製作所からJR津田沼駅前にあった旧陸軍の鉄道第2聯隊施設跡(現在の同県津田沼町(現・習志野市)の津田沼校地)に移転し、現在に至っている。
この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。内容過剰の基準、解決法、このテンプレートの除去基準を説明しているページもご覧ください。(2015年1月) |




| 年 | 月日 | 沿革 |
|---|---|---|
| 1929年 | 4月 | 小原國芳が成城学園から分離し、町田に財団法人玉川学園を設立。幼稚部・初等部・中等部を設置。 |
| 6月 | 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。 | |
| 1939年 | 9月 | 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始。 |
| 1940年 | 9月 | 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化。 |
| 1941年 | 6月 | 「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず。 |
| 12月8日 | 太平洋戦争開戦 興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理[注 2]。 | |
| 1942年 | 5月15日 | 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で創立(予科3年・本科3年) 小原國芳が理事・学監、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎が顧問に就任。 |
| 5月24日 | 成城中学、早稲田中学で第1回入学試験を実施。 | |
| 6月8日 | 開校式を実施。航空工学科(50名)、冶金学科(50名)、機械学科(60名)の160名が入学[注 3]。 | |
| 1943年 | 7月 | 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任。 |
| 10月30日 | 顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、東京工業大学学長の八木秀次が相談役に就任、新体制が決定する。 | |
| 1944年 | 4月 | 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転。 |
| 9月 | 神奈川県川崎市大師河原の日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得。 | |
| 10月1日 | 日本冶金川崎製造所内に工学部(本科)を開設。 | |
| 1945年 | 4月13日 | 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼。 |
| 5月25日 | 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災。 | |
| 9月 | 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)の日本の降伏文書調印。 君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託。 戦災による実験設備の損失から学生を東大、東工大、東北大などに預け、卒業研究を開始。 | |
| 11月11日 | 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始。 | |
| 1946年 | 3月30日 | 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称。 |
| 12月4日 | 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算して不動産を所有しない大学となる。 | |
| 1947年 | 2月7日 | 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼。 |
| 3月 | 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る。 | |
| 9月30日 | 第1回卒業式。 | |
| 1948年 | 4月 | 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請。 予科寮を旧君津海軍病院施設に移転。 |
| 12月 | 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される。 | |
| 1949年 | 4月 | 新制大学となる。 |
| 11月26日 | PPA創立。 | |
| 1950年 | 旧鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転。 | |
| 1953年 | 11月 | 校歌制定。電気工学科を増設。 |
| 1954年 | 10月7日 | 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得。 |
| 1955年 | 電気工学科第2部を増設。 | |
| 1961年 | 3月10日 | 電子工学科、工業化学科を増設。 |
| 1962年 | 8月 | 千種校地を取得。 |
| 12月20日 | 土木工学科、建築学科を増設。 | |
| 1964年 | 4月1日 | 日本私立大学協会常務理事校となる。 |
| 1965年 | 8月11日 | 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置。 |
| 8月11日 | 飯岡研修センターを開設。 | |
| 1967年 | 3月31日 | 千種寮が完成。 |
| 1968年 | 千葉市千種校地に電子計算センター完成。 | |
| 1972年 | 千種校地に硬式野球場・武道館完成。 | |
| 1986年 | 芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成。 | |
| 1987年 | 茜浜運動施設(茜浜校地)完成。 | |
| 1988年 | 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設。 | |
| 1989年 | 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻) 修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設。 | |
| 1990年 | 第2部電子工学科・情報工学科・建築学科を増設。 大学院工学研究科博士課程(土木工学専攻)修士課程(精密機械工学専攻)を増設。 | |
| 1991年 | 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加。 大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。 | |
| 1992年 | 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻) 修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。 | |
| 1994年 | 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。 | |
| 1995年 | 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。 | |
| 1997年 | 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。 | |
| 1999年 | 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入。 ハイテクリサーチセンター開設。 | |
| 2001年 | 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行。 3学部全学科に昼夜開講制を導入。 | |
| 2002年 | 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功。 | |
| 2003年 | 工学部9学科を5学科に改変してフレックス制を導入 (機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)。 未来ロボットセンターを開設。 日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築。 大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入。 | |
| 2004年 | 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。 | |
| 2005年 | 文部科学省の特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定される。 | |
| 2006年 | 工学部に未来ロボディクス学科を新設。 | |
| 4月 | 御宿研修センター開設。 格付投資情報センター(R&I)による格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持。 | |
| 2008年 | フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。 | |
| 2009年 | 4月 | 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。 惑星探査研究センターを開設。 |
| 2012年 | 5月22日 | 東京スカイツリーイーストタワーに東京スカイツリータウンキャンパスを開設。 |
| 2014年 | 2月23日 | 東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaII開設。 |
| 4月 | 新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成 | |
| 2015年 | 3月3日 | キャンパス内に千葉銀行と共同で、千葉工大ひまわり保育園を設置。 |
| 4月1日 | 人工知能・ソフトウェア技術研究センター STAIR Labを設立。 | |
| 2016年 | 4月 | 国際金融研究センター(GiFr)、次世代海洋資源研究センター(ORCeNG)を設立。 |
| 2019年 | 9月26日 | 玉川大学と連携に関する協定を締結[17][18]。 |
| 2023年 | 5月 | 第14代学長に伊藤穰一を選出。任期は2023年7月1日から2027年6月30日までの4年間[19][20]。 |
| 2024年 | 4月 | 情報科学部と社会システム科学部を情報変革科学部と未来変革科学部に改組 |
| 2025年 | 4月 | 工学部機械電子創成工学科が宇宙・半導体工学科に改組 |
| 学部・学科 | 大学院 | |
|---|---|---|
工学部
| 工学研究科(博士前期課程・博士後期課程)※2019年度入学生まで
| 工学研究科 (博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
|
創造工学部
| 創造工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
| |
先進工学部
| 先進工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
| |
情報変革科学部
| 情報科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
| |
未来変革科学部
| 社会システム科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
|
廃止された学科
| (旧制大学時) | (新制大学時) | (2003年工学部再編時) | (2024年情報科学部、社会システム科学部再編時) |
|---|---|---|---|
| \ |
2005年、文部科学省]が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に「マルチメディア教材による教育・学習支援」(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)が採択された[要出典]。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典][32]。
人工知能・ソフトウェア技術研究センター[43]
2015年に米澤明憲を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。センターでは幼児の言語獲得や学習過程の解明などを目標として研究をしている。
国際金融研究センター
2016年に小林孝雄を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。国際的な金融システムの創造や創出などを目的に研究をおこなっている。
次世代海洋資源研究センター[44]
2016年に学内に設立された研究所の一つ。日本の次世代を担う海洋資源の調査や、新たな関連産業の創出・発展を目的とした研究がなされている。
数理工学研究センター
変革センター[45]
2021年に設立、世界中から多様な分野の研究者が結集し、専門性の枠を超えた新しい技術的・文化的なプラットフォームの創生を行っている。
デザイン&サイエンス研究科 (School of Design and Science, SDS)[46]
通称SDS (School of Design and Science, SDS)は2026年4月より開設される。従来の学問分野の枠組みにとらわれず、プロジェクトを中心に据え、原則に導かれたアンチディシプリナリー(既存の学問分野の境界を越え、知識や手法を自由に統合し、問題解決や研究を行う)なコラボレーションを推進することを目的としている。また、SDS内では授業、作業、日常コミュニケーションにおいて英語が使われる。
以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2020年(令和2年)5月現在)。


男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。
文部科学省資料[52]による。
語学研修
短期留学
長期留学
千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。
千葉県
2022年5月千葉工業大学は『千葉日報』に「科学者に告ぐ」という表題の全面広告を掲載した。これは科学技術が軍事力に転用されることに警鐘を鳴らすものである[57]。

撮影協力・製作協力
事件・不祥事等
| 設置科 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 研究科 |
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| 付属研究所 | |||||||
| スポーツ | |||||||
| 関連項目 | |||||||
| 設置計画のあった教育機関 | |||||||
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| 帝国大学 |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 両大戦間期 |
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| 第二次世界大戦開始後 |
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| 太平洋戦争中 |
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| 第二次世界大戦終結後 |
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この項目は、大学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育/PJ大学)。 |