北尾 光司(きたお こうじ、1963年〈昭和38年〉8月12日 -2019年〈平成31年〉2月10日[1][2])は、元大相撲力士で第60代横綱。立浪部屋所属。引退後は総合格闘家・スポーツ冒険家・武道家・プロレスラー[3]など、様々な肩書を名乗っていた。三重県津市出身。
横綱時代の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。横綱まで昇進しながら幕内最高優勝を一度も経験せずに相撲界を去った力士でもあった。
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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 双羽黒 光司 | |||
| 本名 | 北尾 光司 | |||
| 生年月日 | (1963-08-12)1963年8月12日 | |||
| 没年月日 | (2019-02-10)2019年2月10日(55歳没) | |||
| 出身 | 三重県津市 | |||
| 身長 | 199cm | |||
| 体重 | 161kg | |||
| BMI | 40.66 | |||
| 所属部屋 | 立浪部屋 | |||
| 得意技 | 右四つ、寄り、掬い投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 廃業 | |||
| 最高位 | 第60代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 348勝184敗24休(54場所) | |||
| 幕内戦歴 | 197勝87敗16休(21場所) | |||
| 優勝 | 十両優勝1回 序ノ口優勝1回 | |||
| 賞 | 殊勲賞5回 技能賞2回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1979年3月場所[3] | |||
| 入幕 | 1984年9月場所[3] | |||
| 引退 | 1988年1月場所(番付掲載のみ、前年12月に廃業)[3] | |||
| 引退後 | スポーツ冒険家 プロレスラー・格闘家 ナイフ評論家 立浪部屋アドバイザー | |||
| 趣味 | パソコン、模型作り、ナイフ収集[4] | |||
| 備考 | ||||
| 金星3個(北の湖・千代の富士・隆の里) | ||||
| 2020年5月29日現在 | ||||
幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった[注 1][5]。次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、津市立東橋内中学校へ入学して以降は立合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった[5]。中学入学後は同じ中学生に十分な相手がいなかったために三重高等学校へ出稽古に出かけたが高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝した。中学校には相撲部や土俵が無かったためにアマチュア相撲界では無名だった北尾が、これにより角界でたちまち評判になった[5]。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰る」との条件付きで、中学卒業と同時に立浪部屋に入門した[5]。
1979年3月場所に初土俵を踏む。この場所、中卒で初土俵を踏んだ昭和38年生まれ力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ、北尾もその一人として数えられた。初土俵を踏んだ時点で195cmの長身[6][4]と当初から鳴り物入りで角界入りした北尾は恵まれた体格と素質は誰もが認めるほどだった。また、相撲教習所では自他ともに認める「バスケットボール選手みたいな体」で注目を集め、中でも同期の保志(のちの横綱、現在の理事長である北勝海信芳)は特に驚いていたという[5]が、北尾は「小柄な保志は保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している[5]。幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文してはほとんど完食する大食漢であった。
しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と音を上げる癖があった[6]。さらに口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、立浪も北尾ではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった[注 2][6]。黒姫山秀男はこれに関して「幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。ましてや私生活の面は稽古が終われば僕たち(親方衆)は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して腫れ物に触るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった」と後年語っている[7][6]。そして、椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は、立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には廃業を決意して友人の家に行ったがすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、高砂部屋への出稽古通い[注 3]や隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという[8]。相撲記者の荒井太郎の記事によると、若い頃は入院中に落ちた筋力を取り戻すために退院後はたっぷりと四股を踏み、一日500回が日課のスクワットもこなしながら下半身強化に努めた他、持病の腰痛を克服するために、幕下時代には独学で太極拳をマスターするなどしたという[9]。
部屋を抜け出す騒動を度々起こしても持ち前の素質や出稽古などは欠かさなかった成果か、同期の保志には先を越されたものの、北尾は1984年1月場所で新十両、同年9月場所で新入幕を果たした。北尾の十両昇進によって1982年11月場所から続いていた立浪部屋の関取不在は解消された[4]。前頭三枚目に昇進した翌11月場所には初日に大関・北天佑勝彦を破る番狂わせを起こすと、3日目には憧れの横綱・北の湖敏満と最初で最後の取組を演じ、これに勝利した。「対戦できたこと自体がもう嬉しくて。自分が目標としてきた力士と対戦できる喜び。とにかく負けてもいい」と後年に語っていた中での初金星であった[5]。この場所はその取組が評価されて初の三賞となる殊勲賞を獲得、1985年1月場所は新小結に昇進し、2場所連続で10勝、同年5月場所は新関脇となったが、中日の保志戦で左足を怪我したため途中休場(その後13日目から再出場)で6勝(6敗3休)に終わり、平幕に陥落した。しかし、翌7月場所は東前頭筆頭の地位で千代の富士貢と隆の里俊英の両横綱を共に下して2個の金星を獲得した他、対戦した全横綱・大関を相次いで破る活躍で12勝を挙げ、優勝次点で殊勲・技能の三賞も獲得した[4]。中でもこの場所5日目の千代の富士戦は、立ち合い諸手突きで千代の富士得意の左前ミツを許さず、そのまま一気に押し出した[10]。同年9月場所関脇に復帰して11勝、次の11月場所も関脇で12勝の優勝次点と、幕内上位及び三役の地位で3場所連続二桁勝利を達成、この3場所合計でも35勝の好成績を挙げた事を高く評価され[注 4]、1986年1月場所で新大関となった[4]。関脇までは保志のほうが番付で先行したが、大関には北尾が先に昇進した。
大関時代の同年5月場所には、同場所で大関獲りだった小錦との取組で鯖折りによって小錦の右膝を負傷させた。この一番は、一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しの一番で小錦は膝を負傷させられた。小錦にとってはこの故障が引退まで祟り充分な力が出せなくなったうえ、双羽黒が後述のトラブルが原因で廃業したことで横綱昇進の基準が厳しくなったこともあり、双羽黒が小錦の横綱昇進を阻んだと見られることがある。但し小錦本人は双羽黒を憎んではおらず「あのケガがあったから大関になれた」と語っており、また「自分は体重が重くて足が小さいから」と遅かれ早かれ怪我をすると割り切っていた。
5月場所は千秋楽結びの一番で千代の富士との相星決戦に敗れ、12勝3敗の優勝次点で終えた。次の7月場所は「横綱挑戦」[11]の場所となり、場所前の稽古では高砂部屋や九重部屋への出稽古を繰り返した[12]。7月場所は11日目に保志に敗れた1敗のみで、千秋楽に全勝の千代の富士との取組に臨んだ。本割では北尾が左からの上手投げで制し優勝決定戦に持ち込んだが、決定戦では左上手を切られた北尾がそのまま寄り切られ、初優勝をまたしても逃した。
千秋楽翌日の横綱審議委員会では、協会が2場所続けて千秋楽まで優勝争いに絡んだ北尾の横綱推薦を諮問した[13]。委員長の高橋義孝は「稀に見る逸材で将来性の多さが買える」と高評価を与えた。北尾のウィークポイントである優勝経験の無さについても「心・技・体の心と技に若さから劣る面もあるが素質は十分。横綱としてやっていけると思う」と述べ、当時の協会理事だった大鵬幸喜も「スケールの大きい素晴らしい素質。まだ若いし、大成できるかはこれからの努力次第。稽古で鍛えればダイヤモンドになれる」と期待を寄せた[14]。しかし委員の一人である稲葉修は「幕内優勝の経験が一度も無い力士が(横綱に)なるのはおかしい。身体は文句無しだが精神面に甘さがある。北尾は『心・技・体』のうち『心』がダメだ」と述べ、昇進に最後まで反対した[15]。結局約45分の審議の末、最後は多数決によって賛成6票、反対1票で北尾の横綱推薦が決定した[14][3] 。当時、22歳11ヶ月での横綱昇進は昭和以降では4位のスピード記録であり、新入幕から12場所での昇進も昭和以降で6位であった[14]。
師匠・立浪はかねてより「横綱になれば四股名をつける」と話しており、候補として「緑嶌」と「双羽黒」の二つを挙げていた[16]。北尾は横綱昇進を機に春日野から「立浪一門から生んだ双葉山定次の『双』と、立浪部屋の定番でもある羽黒山政司の『羽黒』を合わせて四股名を付ければ良いではないか。そうすれば史上最高力士が誕生するかもしれん」と説得され、最終的には「双羽黒」への改名を受け入れた[3][14]。双羽黒と同様、横綱昇進と同時に改名した玉の海正洋、若乃花の推挙式の際には、推挙状はそれぞれ大関時代の「玉乃島」「若三杉」名義だったが、双羽黒の際には「双羽黒」名義で発行された[5][注 5][注 6]。なお、ノンフィクションライターの小室明も後年、優勝経験が無い北尾を昇進させたことを問題視し、「未来の大横綱を期待する春日野理事長の気持ちは分かるが、『双羽黒』という四股名はあまりにも不自然に作られたもので、候補にあった『緑嶌』などに留めるべきだった」と指摘、日本相撲協会の幹部や横綱審議委員会の責任についても言及している[17]。
9月場所の番付編成会議に先立って行われた理事会で北尾の横綱昇進が正式に決定し、昇進伝達式では「謹んでお受けします。心技体の充実を心掛け、横綱の名に恥じぬよう、稽古に精進いたします」と口上を述べ[18]、横綱土俵入りの型は立浪・伊勢ヶ濱連合伝統の「不知火型」を選択した(指導は佐渡ヶ嶽)。なお、日本相撲協会は1986年5月に吉田司家と絶縁していたことで、明治神宮での横綱推挙式は協会単独で行われ、11月場所前に行われていた司家での奉納土俵入りも廃止された。横綱土俵入りの際の太刀持ち・露払いは、当時の立浪部屋に双羽黒のほかに幕内力士がいなかったため、同門で幕内に定着していた旭富士、板井、魁輝、高望山などが務めた[注 7]。
こうして「第60代横綱・双羽黒光司」が誕生したが、双羽黒の土俵入りにはせり上がり後に1ヶ所余計な構えが含まれており、その姿から「交通整理」と揶揄され、東西どちらの土俵入りでも足は必ず正面側から出すべき所を何度か向正面側から出したことがあり、これが双羽黒の横綱としての評価を落とす最初の要因になってしまった。さらに昇進直後に食中毒と虫垂炎で入院したことで体調管理も問題視され、一部マスコミからは「イタイイタイ病」と評されていた。
新横綱で迎えた1986年9月場所は3勝3敗で頸椎捻挫のため途中休場、11月場所は8連勝して中日での勝ち越しを決めるが9日目に土が付き、千代の富士と共に12勝2敗で千秋楽を迎えたことで17場所ぶりの横綱相星対決となったが、あっさり敗れて優勝を逃した。続く1987年1月場所は前場所と同じ中日で勝ち越したものの、9日目に初顔合わせの益荒雄に初金星を与え、10日目にも小錦に敗れて連敗となり、千代の富士と同じ2敗となった。13日目に大乃国に敗れて3敗となり、千秋楽は2敗の千代の富士戦が組まれたが、本割では千代の富士を破って優勝決定戦に持ち込んだものの決定戦で敗れ、またも優勝を逃した。幕内最高優勝が一度も無いまま横綱に昇進したことから、「(千代の富士の一人横綱状態を解消するための)仮免横綱」と呼ばれるなど、実力が正当に評価されないことが多くなった[19][注 8][注 9]。
3月場所は9日目を終わって7勝2敗となり、この時点で1敗だった北勝海を追っていたが、10日目から左膝の痛みを理由に休場を発表、多くの批判が浴びせられた。5月場所は10勝5敗と2桁に乗せたが、7月・9月と1桁の勝ち星に終わり、9月場所後の巡業中には付け人が集団脱走する騒ぎが起きた(詳細は後述)。
11月場所は初日から13連勝と勝ち続けて初優勝も期待されたが、14日目の北勝海、千秋楽の千代の富士に連敗して優勝を逃した(千代の富士は全勝で22回目の優勝)。翌年こそ双羽黒が初優勝を果たすと思われたが、同年暮れに起きた突然の廃業により(後述)、幕内最高優勝の夢は完全に断たれた。
横綱昇進後も、結果的に合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その全てで最後は千代の富士に敗れて優勝を逃している。また、肝臓疾患と靭帯損傷が影響したためか、当時の横綱陣の中で双羽黒の成績が最優秀だったことが一度も無く、番付でも必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、その後の騒動によって廃業したことで、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは無かった[14][注 10]。結果的に最後の出場となった1987年11月場所の優勝予想では5分の4の親方衆が双羽黒の名前を挙げたものの、その予想は見事に外れてしまった[5]。
1987年12月27日、6代立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった[14][20][3] 。
発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』[21]と横綱(双羽黒)が言っている」と6代立浪に言いつけたことだった。6代立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという[19]。立浪は「絶対に許せない」とし、もう双羽黒は土俵に上がらないという結論になるのかという記者からの質問に対して「そういう風になると思う」と述べ、怒りをあらわにした[22]。一方、12月30日夜のニュースステーションでは、「立浪親方夫人を殴ったというのは事実無根」という双羽黒の談話を伝えた[22]。後年の北尾の著書では「ちゃんこが美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、日頃から親方に再三指導するよう求めてきた。その日もその事を言ったら全く取り合ってもらえず、果てには逆に若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と主張している。
後年、北尾が亡くなった際には主要な一般紙の多くが「ちゃんこの味付けを巡って衝突した」という6代立浪の主張について触れておらず、その説を支持も否定もしていない。ただ、日本経済新聞、朝日新聞などは女将を突き飛ばしたという主張を肯定している[23][24][25][26]。
部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたが、部屋付きの11代武隈が見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間に6代立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した[4]。この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した。出席者の中には退職金・功労金が支給されない「除名」を主張する向きもあったが、「まだ若く、将来を配慮して」として「廃業」という形が採用された[27]。また、6代立浪が当面謹慎および3ヶ月間3割の減俸処分、理事全員が3ヶ月間2割の減俸処分を決定した。春日野理事長はこの処分について「協会の恩情だ」[28]と強調しながらも「これからの人生を考えると、(双羽黒は)何をやっていくつもりなのか」「何も功労にあたることはしていないよ」[28]と吐き捨てた。横綱審議委員会委員長の高橋は「破門と思っていたので、廃業というのは協会の寛大な措置と受け止めている」「横審が双羽黒の横綱昇進に賛成の答申を出したことはあの時点では間違っていなかったと考えている」とコメントした[28]。
同日午後4時ごろ、双羽黒はマンションから出て都内の通信社に向かい、記者会見を開いた。廃業の決定について「悲しいことかもしれませんが、決定には従います」と述べた[29]。失踪騒ぎについては「親方と相撲道のことで口論になった。私と師匠の考え方が食い違い、師匠にはついていけないと思った。幕下のころから考え方が違うと感じていた」「私が部屋の若い衆に意見をすると、親方は『お前は意見を述べる立場じゃない』と言った。横綱である前に私も人間。人間として親方を許せなかった。ただ、この世界は師匠に逆らった時点でもう弁解の余地はなかった」と悔しそうな表情で述べた[29]。また、角界からの追放については「9年間、自分なりに頑張り、燃え尽きた。横綱の名を汚したことはよくなかったが、自分の相撲道を貫き通したと思う」「好きな相撲を何らかの形で続けたい」とした[29]。今後のことを問われると「実業家にもなりたいが、タレントとしてもやっていく」と述べたが、その直後に「取材ならギャラを払ってほしい」と発言し、周囲だけでなくマスコミ関係者からも大バッシングを受けた[30]。また、ニューヨーク・タイムズには「日本人にとって怒りを爆発させることは無作法であり、無礼者は面目を潰される」と評論されたほど、世界を騒がせたニュースとなった[30]。
既に発表されていた1988年1月場所の番付には双羽黒の名が東張出横綱に残っていたが、横綱在位数は僅か8場所(番付上では9場所)と、琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイ[注 11]の短命横綱に終わった。元々現役時代の週刊誌報道などで不真面目横綱として認知されていた上に、ケガや体力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩した挙句の廃業とあって世間の見方は非常に厳しく、双羽黒への同情論はほとんど聞かれなかった。一方、野坂昭如など僅かに双羽黒を支持する者もいた[31]。一方で立浪についても「中学を出たばかりで全く世間知らずの少年を『部屋のドル箱』とばかり、寄ってたかって過保護に育ててきたツケが回ってきたといえよう」[32]として、その管理能力が問われた。
高橋は双羽黒の廃業を受けて「今後は『大関で2場所連続優勝』とした横綱推薦内規の第2項以上に『品格、力量抜群』とした第1項を絶対的に尊重していきたい」[28]と述べ、さらに1988年1月場所後でも「横綱昇進については、否が応でも慎重でありたい」[33]と申し合わせた。一方、双羽黒の横綱昇進に最後まで反対した稲葉は結果的に自身の予想が的中した形となったが、その件について自ら述べることはなく、廃業決定前夜の取材に対し「情状酌量の余地は無いが、もし本人にやる気があればしばらく謹慎させ、鉄砲や四股の基本からたたき直す道を考えてやってもいいのではないか」[22]と述べた。
1988年3月には東京都内のホテルで「北尾光司君を励ます会」との名目で断髪式が行われたが、同年3月場所の直前だったため関係者や後援会からは一人も出席せず、最後の止め挟を入れたのは父親だった[14]。この廃業が事実上の「破門」であることは、6代立浪と双羽黒の双方が認めている。
リーチを生かした突っ張りから右を差して左おっつけから上手を引く相撲が北尾の型で、相手によっては頭をつけることも厭わず、寄り、上手投げ、掬い投げを得意とした[3] 。ほぼ2メートルの長身でありながら腰高や脇甘は顕著でなく、番付を上げるにつれ腰高や脇甘を招く諸手突きはめっきり減った[12]。機敏さもある程度持ち合わせていた。がっぷりに組めば、当時の第一人者であった横綱・千代の富士をも苦しめることがあり、外四つになって肩から覆いかぶさる相撲や喉輪でも力を発揮した。
左の上手を欲しがるあまり、左に変わる癖があり、1986年5月場所の千代の富士との相星決戦ではこの変化を読まれて黒星を喫し、初優勝を逃している[12]。しかし翌7月場所の千代の富士戦(本割)では、左へ変わりながら執念で左上手をつかみ、上手を切られてもさがりをつかみながら執念で左をさぐり、とると親指をがっちりと入れた。この執念が本割での勝ちにつながった[16]。
大相撲廃業後は二種免許を取得しており、プロレス入りまではボクシング・アメリカンフットボールなどの誘いを断って「スポーツ冒険家」の肩書きでタレント活動を行う。テレビや週刊誌の取材にも応じて「相撲は自分のビジネスの一つだったので、未練は全くないです」と語っていた。週刊プレイボーイ・ビッグコミックスピリッツ(新感覚人生相談 綱に訊け!)では人生相談のコーナーを担当し「自分のことを『大相撲を辞めたからプロレスへ行くんだろう』とか思っている人もいますけど、そんな安易な考えはありませんね」と語っている。
北尾の今後の動向について世間では「彼の場合は、もうプロレスへ行くしかないんだろうね」という意見が多くを占めていた。その最中に、スポーツ冒険家の仕事でアメリカ合衆国のプロレスラー養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れた所、北尾と同行していた東京スポーツの取材に対して「もしプロレスをやるのなら外国人選手と同じように、1シリーズ毎の契約という形になるでしょうね」と、初めてプロレス転向に前向きなコメントをしている。この時は特に進展することはなかったものの、この発言がもとで北尾のプロレス界入りが濃厚となった。
| 北尾 光司 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | 北尾 光司 北尾 光覇 |
| 本名 | 北尾 光司 |
| ニックネーム | 世紀末の超闘王 デンジャラス新人類 サンダーストーム |
| 身長 | 201cm |
| 体重 | 157kg |
| 誕生日 | (1963-08-12)1963年8月12日 |
| 死亡日 | (2019-02-10)2019年2月10日(55歳没) |
| 出身地 | 三重県津市 |
| 所属 | 武輝道場 |
| スポーツ歴 | 大相撲横綱 |
| トレーナー | 坂口征二 ルー・テーズ アポロ菅原 |
| デビュー | 1990年2月10日 |
| 引退 | 1998年10月11日 |
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大相撲の電撃廃業から約2年後の1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会でのプロレスデビューが発表された。北尾曰く「アメリカで数ヶ月間、みっちりと修行を重ねて来た」という触れ込みで帰国し、その際に行われた記者会見では、その鍛え上げられた筋骨隆々の上半身をマスコミ前に披露する。またルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の師匠は、ルーお父さんですね」と語っている。リングネームは自身が考案した「サンダーストーム北尾」を希望していたが、実際は使用されずに本名でデビューすることになった。これは具体的に検討されていたらしく、オリジナル技の名称や、入場曲[注 12]に名残がみられる。
デビュー戦の相手は、巨体ながら軽快な動きと優れた運動神経を持っており、タトゥーを全身に刻んでいる斬新奇抜な容姿で人気のあったクラッシャー・バンバン・ビガロとなる。プロレスラー・北尾光司の初披露はデーモン閣下に作曲を依頼した入場テーマ曲「超闘王のテーマ」が流れ、次々とスモークが吹き上がって多くのスポットライトを照らす中、派手なコスチュームに身を包んだ北尾が現れるという、新人としては非常に豪華なものだった。この際に着用していたリベットなどで装飾を施し、超闘王式ベルトを装着した独特なデザインの革製ジャケットは、北尾が漫画「北斗の拳」の大ファンだったのを受けて制作された特注品である。
悠々とリングに登場した北尾は、黄色いタンクトップを引き裂く派手なパフォーマンスを観せて、声を上げながら決めポーズを取るというアメリカンプロレスが反映されており、デビュー戦は勝利で飾った。この試合のフィニッシュ技にはギロチン・ドロップを披露し、試合展開やパフォーマンスは世界的に人気があるレスラーのハルク・ホーガンを意識している。そのために自信満々の態度を取って入場しながら相手を挑発し、帰国会見時とは違い練習不足のため弛んでいる締まらない上半身になってしまい、勝利して威張りながら意気揚々と引き上げる容姿と思い上がる態度・言動もあったことによって、プロレスファンからの失笑とブーイングを買うよりになり、時折「帰れ!、帰れ!」コールまで起きるようになってしまう。
北尾より数年先に全日本プロレスでデビューした輪島(第54代横綱)にも同様の特別待遇があった。38歳からのプロレス転向は無謀であるといわれていたが[34]、輪島本人は横綱のプライドを捨てて真面目にしっかりと努力を重ねており、大相撲ファンからも同情されて温かい目で見守られた[35]。一方の北尾は20代半ばと若かった上に、下積みの努力をすれば本格的なレスラーになるものと期待されていたため、相撲廃業の時と同じく厳しい目で見られた。
大相撲時代から稽古嫌いで有名だったが、プロレスへ転向した後はアメリカで真面目にしっかりと身体を鍛えていた。しかし帰国後は練習するのを嫌がって怠けるようになってしまい、度々トラブルを起こす。
対戦相手に恵まれて勝利を重ねたが、デビュー戦の頃から単調で進歩のない試合ぶりは、プロレスファンから批判され「北尾の試合はしょっぱいんだよね」という声が上がるようになる。次第に観客からは激しいブーイングや痛烈な野次・罵声を浴びるようになり、対戦相手の2級外国人レスラーが偶然にも北尾が対戦した後、アメリカで復帰して有名な選手となったレスラーに応援コールが湧き起こった[注 13]。またファンからの厳しい評価に不満を持ち始めるようになり、観客からのブーイングや罵声に機嫌悪く反発して開き直るという思い上がった態度を取るため、益々ファンからの反感を買うようになってヒール扱いされる。
当時、シングルとして発売された「超闘王のテーマ」のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が早く終わってしまうから、客はそれを不満に思ってブーイングが起きちゃうんだよね」という持論を展開している。しかしプロレスマスコミや解説者からも「彼は存在自体がヒールなんですよ」と評していて、ファンを含めて対戦するレスラーの間からも不満の声が出始めてしまい、北尾に対して軽蔑・険悪感を示す選手も見受けられた。
また受け身に関して未熟だったこともあるため、特定の技を苦手として敬遠・嫌うようになってしまい、自分から逃げて技を受けつけない姿勢だった。そしてある試合中、対戦相手からブレーンバスターをやられた際に、その恐怖心から無理な体勢で受け身を取らずにマットへ叩き付けられた。これにより腰を強打して負傷する。このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛いから休むよ」「体調が良くないので休みたい」「練習と試合は大事を取って休むから」などと、自ら理由を付けて練習しないのと共に休みたがるようになり、更に地方巡業へ帯同して当日組まれていた試合があるのにもかかわらず、突然欠場を申し入れてしまうなど大相撲時代の頃と同様に、練習嫌いの問題児が再来してしまった。
その後、新日本プロレスの現場責任者およびマッチメイカーを兼任する長州力とは非常に激しく対立していた。この影響もあって他のレスラーも北尾から距離を置くようになる。日頃から目に余る横柄な態度には我慢ならず(たとえ試合が無い日でも、練習はするべきだという長州の方針とは違い、北尾はやる気が無く練習道具すら持たずに、手ぶらで巡業バスに乗り込むこともあった)、長州が発した「お前良く聞けよ。プロレスラーはな、常に多少なりとも故障を抱えているし、我慢して試合に出ている選手もいるんだ。フロントが俺にどうこう言ったってな、練習しない奴を試合に出して使わないんだよ。そのことはお前分かってんだろ、なぁ?」という厳しい言葉に対し、長州を嫌っていた北尾は「俺に何か文句があるんなら、ここで勝負(喧嘩)をして負けたら言うことを聞いてやるよ」「俺が怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度が過ぎた悪質な暴言を口にして反発し、民族差別発言により長州が遂に「お前はアウトだ!」と激怒してしまい、新日本プロレスから契約を解除された。また北尾は「もう長州とは一緒にやりたくないから」として、自ら契約金を返還している。
北尾の退団が決まった際には、当時社長であった坂口征二が同席しての記者会見が開かれた。
など、数々の内部事情が明るみとなる。それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人との十分な話し合いと同意を得た上の円満退社である」という旨のコメントを出している。長州は後のインタビュー記事で「何処の団体が北尾を獲得したって、あいつは必ず同じトラブルを起こすに違いないぞ」と憤りながらコメントしており、それは時を要さず現実に不祥事が起こってしまった。
なお北尾の退団後、新日本プロレスへ大相撲出身の安田忠夫(元小結・孝乃富士)が入団した際は、北尾を特別扱いして後にトラブルとなった反省を踏まえ、安田を特別扱いはせず新弟子扱いの所属選手として、一から厳しく鍛え直す方針に改めている。
新日本プロレスから専属フリー契約を解除された後、大相撲の先輩である天龍源一郎を慕いSWSに移籍する。当初の構想としては、当時経営難に陥っていたパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、北尾をエースに立てた別動隊の母体としようとする動きがあり、実際にパイオニア戦志の代表である剛竜馬が支度金を受け取っていたという。しかし、それまでの剛との数々の因縁により選手会のほぼ全員からの猛反対を喰らい、別動隊の動きは立消えになっている[36]。
別動隊の動きが立ち消えになったため、北尾は天龍が道場主のレボリューション(天龍派)所属となる。移籍早々の道場マッチでは対戦相手の大矢健一(現・大矢剛功)からKO勝ちを納めて驚異的なアピールを行い、またSWSがWWFと業務提携していたこともあり1991年3月24日に行われたレッスルマニアVIIに、天龍とタッグを組んで出場(スマッシュ&クラッシュのデモリッションに勝利)[37]するなど活躍を期待されたが、8日後の4月1日に行われた神戸ワールド記念ホール大会で、同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク。元幕下・琴天山)との第2戦目の試合中にトラブルが発生し、後に大きな騒動となった。
1991年4月1日、神戸ワールド記念ホール大会で行われたジョン・テンタとの第2戦目となる試合に挑んだ北尾は、開始ゴング当初から不満気で憮然とした表情を浮かべていたが、最初は普通に組んで試合が進行していった。開始数分後にテンタは北尾のバックを取り、レスリング技術で投げ飛ばし優位に立つ。やられた北尾は不機嫌な表情でそのままリング下へ降り、突然放送席の机を奪い取りテンタに向けて投げ付ける暴挙によって、場内の観客からはブーイングが起きた。リング上に戻って試合が再開されたその後、北尾は右手をVの字にして目潰しのポーズを取って威嚇する俗にいう「シュート」を仕掛けて来た。テンタも様子を伺いながら身構えていると実際に危険な目潰し(未遂)攻撃を行い[注 14]、それに立腹したテンタはキックを放ち応戦して殺伐な雰囲気と化した。北尾の傲慢な態度と、シュートを仕掛けられたため遂に我慢ならずテンタは激怒してしまい、負けじと右手をVの字にしながら目潰しの構えで北尾を挑発する。その後両者は共に臨戦ポーズを取りながら睨み合い硬直状態となり、試合を組み立てようとするテンタも北尾を指差しながら憤って怒鳴り挑発を続け、完全に試合進行は不可能となった。しかし注意のため近付いたレフェリーに、北尾がローキックを浴びせてリング外へ倒してしまい、直後リングに必死の形相でしがみついたレフェリーの指示によって強制試合終了のゴングが鳴らされ、北尾の反則負けを宣告。その瞬間にテンタは両手を挙げ、勝利をアピールする。この判定に対して観客から大ブーイングに包まれた。
北尾は反則負けを宣せられた挙句に、リングを降りて手にしたマイクでテンタへ向かって「八百長野郎この野郎、八百長ばっかやりやがって。(障碍者を差別する用語)もんがなあよくもやりやがったなあ。この八百長野郎、八百長!」と絶叫した。北尾の発言により場内はさらに激しい怒号とブーイングで騒然となる。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼するという北尾の姿はプロレス業界全体を唖然とさせたが、当の北尾本人はこの直後に満足気な表情を見せて「どうだい、盛り上がっただろう?」とコメントしている[注 15]。
その後は『北尾事件』として、プロレス誌だけでなく一般週刊誌もスキャンダラスに報じ、北尾含めてSWSの印象は悪くなってしまう。団体のエースだった天龍は「この件につきましては、私の不徳と致す所です」と謝罪のコメントと共に、当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関して田中八郎社長へ辞表を提出[注 16]する。マッチメイカーのザ・グレート・カブキは「北尾の復帰戦にはな、この俺がやってやるんだよ!」と憤って発言するなど、騒動の波紋と代償は非常に大きかった。SWS側は田中社長の判断により、一旦北尾に対して制裁金と1ヶ月の謹慎(この処分の経緯については、北尾がこの騒動に対して田中社長へ直接謝罪したため、本人も反省しているからという社長の温情が働いたこともある)を命じたが、その甘い処分に対して内外からの批判が渦巻いたためこの事態を重視し、最終的に北尾を解雇する決断を下した。この決定に関しては「仕方がないと思っています」と、やむを得ず受け入れることになる。
北尾の没後に、当時控室に待機していた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している[38]。それによると北尾は試合直後の控室で癇癪を起こして大暴れしており、現場監督の田中社長夫人が一連の言動を注意すると、北尾は「うるせえ、ババア!」と罵声を浴びせた上に、さらに椅子を投げ付ける暴挙にも及んだという。もし椅子が直撃していたら怪我では済まなかったこの行為に関して、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境に、レスラーへの態度を一変させてしまったという[38][注 17]。また現場に居合わせた谷津嘉章も同様の発言をしている[39]。また北尾はこの試合をマッチメイクしたカブキに対して相当な不満をぶちまけており、試合内容・態度を叱責したカブキと揉み合いになったという[39]。この事実について、当時のプロレスマスコミは一切報じていなかった。
また藤原喜明よると、SWSサイドでは北尾を一旦解雇した後、プロフェッショナルレスリング藤原組のリングで復帰企画を検討しており、田中社長同席において藤原と共に面談に応じたが、挨拶もそこそこに北尾は持参していたノートパソコンを取り出して「私はこういう感じで(試合を)やりたいんですよね」と、自分の売り出しをプレゼンテーションし始めたので、それに呆れた藤原が席を立ちその場で帰ってしまい、藤原組での復帰は立ち消えになった[40]。
天龍は過去を振り返り、SWS時代の北尾を「新日本プロレスのリングでデビューし、SWSに来たんだけど、結局『(プロレス界に)来てやったんだぞ』が捨てられなかったようだ」「北尾に受け身とか試合運びを教えると『天龍さん、俺が一気に力を出したら相手はぶっ壊れちゃいますよ』ってそればっかりで、真面目に練習しないんだから。『客にショー的な部分も見せて初めてプロレス、初めてプロレスラー北尾なんだ』って何度言っても分かってくれなかったね」「会社の移動バスに乗っても『長いんだよバスは!キツいんだよ!』って、俺がいないとしょっちゅう文句を言っているんだけど、俺がバスに乗っていると大人しい(笑)」「そんな北尾を少しでもカッコつくようにしたかったんだけど、最後までうまくいかなかったよ。だから新日本でも長州力と揉めたんだろうな…」と評しており[41]、ザ・グレート・カブキは「横綱の印象はねぇ…こう言っちゃ悪いんだけどね、あれはレスラーじゃなかったよ。練習も全然やらなかったし、受け身だって全く取れていなかったんだよね」「メガネスーパーの田中八郎社長から『今度、横綱が入るので宜しく』って言われたんです。それを聞いたので、正直『あんなのを獲ってどうするのよ?』って頭を抱えちゃいましたね。団体のマッチメーカーを担っていた自分としては最悪でした。『馬鹿じゃ出来ない。利口じゃ出来ない。中途半端じゃなお出来ない』っていうのがプロレスですからね」「彼はよくねえ『カブキさん、僕は相撲で優勝したことがないんですよ。それでも横綱になれたんですからね』って自慢していたので『横綱、そういうことは人に言わない方がいいですよ』って助言をしていたんですけどね」と評している[42][注 18]。
新日本プロレス・SWSと続けてトラブルにより解雇されたため、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は非常に難しい状況であり、事実上の永久追放ではないか?」と捉える関係者も多かった。
SWSを解雇された北尾は、充電期間の後『空拳道』の師範である大文字三郎を伴って謝罪会見を開き、その場で「武道家の道を歩んで行きたい」と宣言し、総合格闘家に転向することを発表した。しかし総合格闘技路線の試合を組む団体は少なく、移籍先を探しながら奔走するようになる。
約1年後の1992年3月、UWFインターナショナルが北尾の参戦を発表して、マット界への復帰が正式に決まる。Uインター側は当初、悪評がついて回る北尾の起用に消極的だったが、同団体のプロモーション業に携わる宮戸優光が「北尾は道場に通うようになって礼節が身に付いて来たし、人間的に落ちついたみたいだよ」という話を耳にし、ワンマッチ契約の条件付きで参戦が決まった。そして同年5月8日、Uインター横浜アリーナ大会で山崎一夫と対戦して北尾が勝利を収めた。この試合直後、山崎との再戦について問われ「既に勝負がついた相手(山崎)とはもうやりたくはないし、やっても意味がないんで…。次はもっと強い相手と対戦したいです」と語り、山崎を格下扱いする発言であるとマスコミに書き立てられた。しかし実際は、北尾のヒール的なイメージを利用して、次の高田戦を盛り上げるため意図的な発言だったことが後に文献で判明している。大文字はUインターと3試合分の契約を結んでいるとされていたが、山崎戦後にファイトマネーを持ち逃げしたまま大文字が蒸発して行方不明となり、急遽北尾は個人事務所である「北尾企画」を設立した。
山崎戦から5ヶ月後の10月23日、北尾は日本武道館で高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨む。この試合は当初、山崎戦と同じ時間無制限一本勝負のルールで予定していた。しかし「北尾の代理人」を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否し、試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールへ変更された。この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返しており、試合直前にもかかわらずクレームを付けて試合放棄をほのめかしたため、交渉役の宮戸が北尾の控え室へ駆け込み、怒声を上げて抗議した逸話がある。この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けてダウンし、KO負けを喫した。この勝敗には諸説あるが、本来は判定による引き分けで終わるはずだったとされる。この一戦は、北尾の言動を快く思わないプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たない高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれてしまう。総合格闘技への復帰後は以前の態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる。前述の山崎戦では試合直後、ダウンしている山崎にも一礼するなどの謙虚さもあり、過去を知るファンを驚かせた[注 19]。
1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。SWS時代の思い上がった態度を見せず普通にプロレスもこなしており、ファンから声援を送られて天龍とのタッグも多かった。しかし前述のジョン・テンタと数年ぶりの再戦がWAR興行で行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となり、呆気ない幕切れとなる。
初期のPRIDEやUFCにも参戦し、1996年4月5日に行われた「第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング」では、ペドロ・オタービオと対戦して1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗れる。同年5月17日に行われたUFC 9では、 マーク・ホールと対戦したが、鼻骨骨折によるドクターストップで敗れた。1997年10月11日にはPRIDE.1においてネイサン・ジョーンズと対戦し、総合格闘技戦では初勝利を挙げている。
1998年5月1日に開催された全日本プロレス・東京ドーム大会で、同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル[注 20]となり、全日本出場は幻に終わる。その後「やりたいことはやり終えた」として現役引退を表明。同年7月18日、北原光騎主催のキャプチャー・新宿ACBホール大会で、北原を相手に引退試合を同年10月11日のPRIDE.4で引退セレモニーを行った[43]。北尾が退いた後の武輝道場は、当時所属していた岡村隆志が引き継いでいる。
プロレスの引退から5年後の2003年、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーに就任。元付け人でかつて部屋を脱走したと報じられた羽黒海(引退後、立浪部屋の世話人)の要請で、短期間ながら「報酬はいらない。今でも相撲が好きだ」と猛虎浪栄ら後進に熱心に指導を行っていたという。当時三段目で停滞していた猛虎浪は北尾の指導で殻を破った。北尾は番数はあまり多く取らせなかったが、指導が細かくてうまかったという評判であった[44]。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した[45]。アドバイザー在任は短期間(1年ほどという説もある[44])であったことが後年判明しているが[26]、歴代の横綱が集まる横綱会へ出席するなど日本相撲協会との関係も改善し、現役時代の暴れん坊のイメージとはかけ離れた優しさでも知られるようになった[45]。
退任後、宴席で同席した相撲関係者が尋ねたところ、岐阜県関市でナイフのデザイナーをしていると答えたという[46]。
突如としてプロレスラーとしての現役を引退し、立浪部屋アドバイザーもごく短期間のうちに活動を終えた理由の一端としては、自らの過去の事績により一人娘の将来に悪影響を与えることを避けたかった意志があったものとみられる。元気なころは娘を旅行に連れて行ったり一緒にゲームをしたりしていたが、一方で自分に付き纏う問題児のイメージは気にしており、自分が人前に現れて娘がからかわれるといけないと思って娘の入学式や卒業式には参列しなかった。北尾は、娘を女の子らしく育てようとリカちゃん人形を与え、「顔にケガをしたら大変だから」と格闘技系の習い事はやらせなかった[47]。2019年4月に『週刊新潮』の取材に応じた娘の述懐によると、娘が物心つく頃には既に角界やプロレス・格闘技界とは完全に関係を断っており、角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、ナイフマガジンなどの趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。家庭内で北尾や夫人は現役時代の話をほとんどしなかった為、娘は子供の頃は北尾の事を「他の家のお父さんと比べて、体が大きくて多趣味な人」程度にしか認識していなかったという[47]。
2010年、匿名の『角界関係者』『夕刊紙・相撲担当記者』による消息筋の伝聞形式で「北尾の近年の動静と意向」を報じる記事が配信されている。その記事は、同年の貴乃花の相撲協会理事選挙への立候補を巡る騒動の前後から、横綱会を通じて角界に影響力を行使しようと試みたり、NHK Eテレの子供向け番組『にほんごであそぼ』にレギュラー出演していたKONISHIKIのように、自身も子供向け番組のタレントとして芸能界入りしたいという意志を示していたとするものであった[48]。
しかし、2019年3月29日に長らく公の場に姿を現さなかった北尾の訃報が明らかになった[1][2][49]。同年2月10日、慢性腎不全のため千葉県の病院で死去。55歳没。死去6年前の2013年から腎臓を患い闘病生活を送っていたという[6]。生前からの本人の希望で葬儀は家族葬として行われ、妻と娘だけが葬儀に参列した[50]。死去が公表される際、夫人は「何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いなとてもピュアな人でした」とその人物を語っている[50]。
2019年4月の『週刊新潮』の報道によると糖尿病の悪化により2010年代前半から寝たきりに近い状態になり、トイレに行くこともままならなくなり排泄に家族の介助を必要としていたとのこと。死去の6年前には両足首に褥瘡ができ、医師から両足首の切断を勧められたと伝わる。死去する5年前から入院生活を始め、2018年秋から人工透析を始めたという。この頃には糖尿病が末期の段階に進行して目はほとんど見えなくなり、意識も朦朧として娘を認識できなくなっていたという[47]。
同年6月28日放送のTBS系「爆報! THE フライデー」に北尾の夫人が出演し、これまで公には知られることの無かった闘病生活について述懐した。
夫人は北尾が小結の頃にファンとして出会い、北尾の廃業直後に結婚した。夫人から見た北尾はマスコミが問題児と報じる人物像とは違っており、支えなくてはと思い結婚をしたと述べている。「好きだったから別れようと思った事はなかった」とも話しており、廃業後の仕事が軌道に乗って行かない北尾を支えてきたという。
しかし、2003年9月に立浪部屋と和解した直後に、北尾の闘病生活が始まった。日曜大工をしていて右足首に負った擦り傷が何か月たっても治らず、医師の治療を受けても化膿が進んだという。電気ストーブで足が焦げているのに気付かないほど感覚が麻痺、右足を庇って負担がかかった左足にも褥瘡が出来るという形で化膿が広がり、引退後の暴飲暴食に起因した『重度の糖尿病』と診断された。両脚膝下の切断が必要と医師に告げられたが、「切断後に生きる保障も再び歩くことが出来る保障も出来ない」と言われたことや「横綱になった足」であることから夫婦は切断を拒否。そして、別の病院を探したが入院を拒否されたという。その後、夫人は勤務医の仕事を辞めて北尾の自宅介護を続けていたが、椎間板ヘルニアを発症し一人娘の助けなしに介護を続けられなくなってしまった。このため一人娘に進学を断念させることにもなってしまった。こういったことから北尾は「俺、生きてていいのか」と何度も自殺未遂を繰り返し、夫人は24時間夫から目が離せない日々を過ごすこととなった。そして遂には腎機能が衰え、最後の入院となった。北尾はこの入院中(死の2年前)視力も記憶も失っていく中で「自分は骨にならないと家には帰れないから、撮っておけ」とビデオで自分の姿を撮影するよう求めており、そのビデオの内容も番組中で放送された[51][52]。
同番組では北尾の娘がすでに舞台出演も経験している[53]女優(雪城ハルネ)で、2019年7月から放送のTBS系ドラマ『Heaven? 〜ご苦楽レストラン〜』の出演オーディションを受けて合格したことも夫人の述懐とともに紹介された。
横綱時代、支度部屋で付け人に「こんなやつ、負ければいい」と吐き捨てられるなど、付け人に尊敬されない一面があった[67]。また立浪部屋のちゃんこには本当に不満があったようであり、北の富士の著書には北尾が当時の九重部屋のちゃんこを羨んでいたことが記述されている[68]。このことや廃業の経緯について、北尾本人は2015年2月配信の光文社新書メールマガジンのインタビューに応じ、自らの言い分を述べている。その頃には、6代立浪の指導方針に対してその真意を汲み取る様子を見せ、6代立浪に対する感情は軟化していた[5]。
また、6代立浪の人格(祝儀のピンハネ疑惑等)などの問題もあり、後年、北尾だけを一方的に悪者にする見方は疑問視されている[69]。
なお、まだ部屋・6代立浪との確執による廃業から年月の浅い時期に出版された自著では角界そのものへの不満・恨みは見せておらず「憎いのはひたすら6代立浪」という論調であった。
| 一月場所 初場所(東京) | 三月場所 春場所(大阪) | 五月場所 夏場所(東京) | 七月場所 名古屋場所(愛知) | 九月場所 秋場所(東京) | 十一月場所 九州場所(福岡) | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979年 (昭和54年) | x | (前相撲) | 東序ノ口5枚目 優勝 7–0 | 東序二段21枚目 4–3 | 東序二段2枚目 4–3 | 東三段目78枚目 4–3 |
| 1980年 (昭和55年) | 西三段目56枚目 4–3 | 西三段目40枚目 2–5 | 西三段目69枚目 4–3 | 東三段目55枚目 4–3 | 東三段目36枚目 5–2 | 西三段目9枚目 4–3 |
| 1981年 (昭和56年) | 西幕下55枚目 4–3 | 西幕下40枚目 5–2 | 東幕下23枚目 4–3 | 西幕下15枚目 3–4 | 西幕下21枚目 4–3 | 西幕下13枚目 4–3 |
| 1982年 (昭和57年) | 東幕下9枚目 3–4 | 東幕下15枚目 0–1–6 | 東幕下50枚目 6–1 | 東幕下22枚目 5–2 | 西幕下11枚目 4–3 | 東幕下9枚目 3–4 |
| 1983年 (昭和58年) | 東幕下15枚目 4–3 | 東幕下12枚目 4–3 | 東幕下7枚目 4–3 | 東幕下3枚目 2–3–2 | 東幕下18枚目 6–1 | 西幕下4枚目 4–3 |
| 1984年 (昭和59年) | 東十両13枚目 8–7 | 東十両9枚目 10–5 | 東十両7枚目 10–5 | 西十両筆頭 優勝 12–3 | 東前頭8枚目 8–7 | 西前頭3枚目 8–7 殊★ |
| 1985年 (昭和60年) | 西小結 10–5 技 | 東小結 10–5 殊 | 西関脇 6–6–3[注 23] | 東前頭筆頭 12–3 殊技★★ | 西関脇 11–4 殊 | 東関脇 12–3 殊 |
| 1986年 (昭和61年) | 東張出大関 10–5 | 西大関 10–5 | 東大関 12–3 | 東大関 14–1[注 24] | 西横綱 3–4–8[注 25] | 西横綱 12–3 |
| 1987年 (昭和62年) | 西横綱 12–3[注 24] | 西横綱 7–3–5[注 26] | 西横綱 10–5 | 西横綱 8–7 | 東張出横綱 9–6 | 西張出横綱 13–2 |
| 1988年 (昭和63年) | 東張出横綱 引退 ––[注 27] | x | x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口 幕内序列:横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 青葉城 | 1 | 1 | 朝潮 | 12 | 4 | 旭富士 | 12 | 6 | 板井 | 7 | 1 |
| 巨砲 | 8 | 1 | 大錦 | 3 | 2 | 大乃国 | 8 | 9 | 魁輝 | 0 | 1 |
| 北の湖 | 1 | 0 | 霧島 | 2 | 0 | 起利錦 | 1 | 1 | 麒麟児 | 4 | 1 |
| 蔵間 | 1 | 0 | 高望山 | 2 | 3 | 琴ヶ梅 | 6 | 1 | 琴風 | 2 | 1 |
| 小錦 | 9 | 7(1) | 逆鉾 | 9 | 4(1) | 陣岳 | 10 | 0 | 太寿山 | 2 | 3 |
| 大徹 | 2 | 0 | 隆の里 | 3 | 0 | 孝乃富士 | 0 | 2 | 隆三杉 | 2 | 1(1) |
| 多賀竜 | 3 | 0 | 玉龍 | 5 | 0 | 千代の富士 | 6 | 8** | 寺尾 | 7 | 0 |
| 出羽の花 | 10 | 1 | 闘竜 | 2 | 1 | 栃司 | 5 | 0 | 栃剣 | 1 | 1 |
| 栃乃和歌 | 2 | 1 | 花乃湖 | 6(1) | 0 | 飛騨乃花 | 1 | 1 | 藤ノ川 | 2 | 0 |
| 鳳凰 | 1 | 0 | 北天佑 | 13 | 3 | 北勝海 | 9 | 8 | 前乃臻 | 1 | 0 |
| 益荒雄 | 2 | 3 | 水戸泉 | 3 | 1 | 両国 | 1 | 1 | 若嶋津 | 7 | 7 |
プロレス時代の北尾は恵まれた体格を利して圧力をかけ、大技で一気にダメージを与えるという試合運びを好んだ。元大相撲横綱という肩書きは伊達ではなく、攻めに転じた際は日本人離れしたパワーで相手を圧倒した。
しかし防御面にやや難があり、レスラーとして持ち技は多い方ではなかった。そのため試合を膠着させてブーイングを浴びる場面もあったが、後にプロレスラーとしての活動に注力するようになってからは小技もある程度こなすようになり、タッグマッチでも活躍するなど技術的な成長を見せている。
この節の加筆が望まれています。 |
| 総合格闘技 戦績 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
| 1 勝 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 2 敗 | 1 | 1 | 0 | 0 | ||
| 勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
| ○ | ネイサン・ジョーンズ | 1R 2:14 V1アームロック | PRIDE.1 | 1997年10月11日 |
| × | マーク・ホール | 1R 0:40 TKO(ドクターストップ:鼻の骨折) | UFC 9: Motor City Madness | 1996年5月17日 |
| × | ペドロ・オタービオ | 1R 5:49 ギブアップ(肘打ち) | Universal Vale Tudo Fighting 1 | 1996年4月15日 |
第60代横綱(在位:1986年9月-1987年11月) | |
|---|---|
| 初代 - 10代 | |
| 11代 - 20代 |
|
| 21代 - 30代 |
|
| 31代 - 40代 | |
| 41代 - 50代 | |
| 51代 - 60代 | |
| 61代 - 70代 | |
| 71代 - 80代 | |
| 無類力士 | |
| 1970年代 | |
|---|---|
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 |
|
| 初代-10代 | |
|---|---|
| 11代-20代 | |
| 21代-30代 | |