この項目では、英語での「Faith」や「Belief」の和訳の1つについて説明しています。他の類似語については「信条 」、「信念 」をご覧ください。
「崇信 」はこの項目へ転送 されています。中国の県については「崇信県 」をご覧ください。
信仰 (しんこう、英 :faith )とは、
イスラム教 では聖地 メッカ への巡礼 「ハッジ 」は一生 に一度は果たすべき義務 (モスク 「マスジド・ハラーム 」)神 や仏 などを信じること。また、ある宗教 を信じて、その教えをよりどころとすること[ 2] 。人やものごとを信用・信頼すること[ 3] 。 証拠抜きで確信を持つこと[ 4] 。またそれらを信じることを正当化する要因[ 5] 。 信仰のことを仏教 においては「信心 (しんじん)」と呼ぶことが一般的である。「信仰」と書いて古くは「しんごう」と読んでいたこともある[ 6] 。
神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。
— ブレーズ・パスカル 、『パンセ 』 断章278 このように、この語は多くの場合宗教的概念、例えば神、教義などを信じることに対して用いる[ 4] 。広辞苑 によれば、信仰は一般に、畏怖よりも何らかの親和の気持ちが根源にあるとしている[ 注釈 1] 。「宗教 」という語が、組織や制度までも含めて指す包括的な語であるのに対し、「信仰」や「信心」は人(あるいは人々)の意識に焦点をあてた語である。
また、何らかの対象を絶対のものと信じて、疑わないこと[ 7] を指すこともある。この用法は、日本語では比喩的且つ否定的なニュアンスを持つ修辞として用いられる事が多いが[ 8] 、公的な中国語 での「信仰」の概念は、宗教もマルクス主義 信仰などの宗教以外の信仰も同等に対象とされ、同じ文脈で語られ得る[ 8] 。
初期ユダヤ教 、旧約聖書 においては、信仰の概念は神に対する人間の態度であって、神に対する従順と信頼がテーマとされた (創世記 15:6、イザヤ書 7:9)。初期ユダヤ教において、信仰の典型あるいは最も古典的な例として扱われているのはアブラハム のそれである(創世記 15:6)。
信仰は「神の民の命の基礎」(イザヤ書 7:9)、とされ、神に対する従順と信頼が真のアブラハムの子孫としての証しであった(シラ 44:19-23)。信仰によって、民は救いと霊魂の不滅が約束されている(知 15:3)、とされた。
キリスト教 における信仰。
共観福音書 においては、「信仰」や「信仰する」という語はギリシャ語でそれぞれ「pistis」「pisteuein」という語で表現されており、これら信仰を表す語は旧約聖書においてよりも頻繁に用いられている。信仰は奇跡 を起こす(マタイ 17:20、21:21、ルカ 17:6)、とされ、信仰は、神の子、あるいはメシア として、イエスが神との特別な関係にあると信じること(マルコ 1:24、3:11、15:32、マタイ 8:29、14:33、ルカ 4:41)とされる。イエスの十字架 上の死と復活 の後、「救世主イエス」「神の子イエス」に対する信仰は、イエスの弟子たちにより展開・確定し、原始教団の信仰の核となっていった[ 9] 、とされる。
それ以来、キリスト教徒にとっては、唯一の神への信仰は同時にイエス・キリスト への信仰となった[ 9] 。キリストを信じることにより罪のゆるしが得られるのであり(使徒行伝 10:43、26:18)[ 9] 、キリストを信じることは救いのための唯一の必要条件である(使徒行伝 4:12、16:31)[ 9] 、とされるようになった。
3〜5世紀になると、三位一体 論とキリスト論の教理が定められ、信仰内容は客観化された。アタナシオス信条 として具体化されると、この客観的に表現された事柄を信じることが正統とされ、この信条を受け入れないことは異端 とされるようになった[ 10] 。
アウグスティヌス は新プラトン主義 に基づいて、神は存在そのものであり、真理と神の認識はひとつであるとした[ 10] 。理性は過ぎ去るものに執着する人間性に基づいたものであるから英知界(mundus intelligibilis)にたどり着けない、信仰に基づく認識のみが真理に到達しうる、とした[ 10] 。また、信仰は神の霊感 (inspiratio Dei)であると説いた。また「善を行う神を信頼することによって、よく行動することにとどまる(Credendo adhaerere ad bene operandum bona operanti Dei)」と述べた。これは人間性を回復させるものが愛(アガペー )であることを意味しており、信仰は愛(アガペー )と密接に結びついている[ 10] とされる。
宗教改革 の旗手となったマルティン・ルター は、パウロ書簡 を引用して信仰のみによる救済を説いた。信仰義認 は、その後のプロテスタント の根幹となるテーゼの一つとなった[ 11] 。
[ 注釈 2]
約束や、教えなど[ 注釈 3] 。
超絶的存在と深い関係があると見なされている人など[ 編集 ] 「信仰」という表現は、転じて、何らかの対象を絶対のものと信じて疑わない状態のことを指すようにもなっている[ 12] 。例えば以下のようなものごとについて用いられる。
^ 畏怖の気持ちが根源にあるものについては、別の語("崇敬"など)をあてるのが一般的。 ^ 超絶的存在という語を使用しているのは、宗教を定義する時に「超絶的存在」「超越的存在」といった言葉を用いつつ行うのがひとつのオーソドックスで古典的な方法であり、概念構造がはっきりとし、便宜上好ましいからである(例えば『宗教学辞典』(東京大学出版会)の宗教の項などを熟読のこと) ^ 「旧約聖書 」「新約聖書 」に含まれる「約」の字は「約束」「契約」を意味している。 ^ ユダヤ教 、キリスト教 、イスラム教 においては聖典が特に重視されていることから、それらを指す「聖典宗教」という呼称も存在する。