| 伊集院 光 | |
|---|---|
| 本名 | 篠岡 建(しのおか けん) |
| 別名義 | 先代・三遊亭楽大 |
| 生年月日 | (1967-11-07)1967年11月7日(57歳) |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | |
| 血液型 | O型 |
| 身長 | 184.0cm |
| 方言 | 標準語、江戸弁 |
| 最終学歴 | 東京都立足立新田高等学校中途退学 |
| 師匠 | 六代目三遊亭円楽 |
| 事務所 | ホリプロ |
| 活動時期 | 1984年 - |
| 現在の代表番組 | |
| 過去の代表番組 | |
| 他の活動 | ラジオパーソナリティ、俳優、ゲーマー |
| 配偶者 | 篠岡美佳 |
| 公式サイト | プロフィール |
| 受賞歴 | |
| ベストゲーマー賞(2000年) ゴールデンマイク賞(2001年) ギャラクシー賞(2002年) | |
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伊集院 光(いじゅういん ひかる、1967年〈昭和42年〉11月7日 - )は、日本の男性タレント、俳優、お笑い芸人、ラジオパーソナリティである。
本名:篠岡 建(しのおか けん)、旧姓:田中(たなか)。東京都荒川区西尾久出身。妻は元タレントの篠岡美佳。
かつては六代目・三遊亭円楽門下の落語家・三遊亭楽大(さんゆうてい らくだい)として活動していた。
東京都立足立新田高等学校中退。ホリプロ所属。落語家時代は星企画[注 1]に所属していた。
1984年(昭和59年)に三遊亭楽太郎(のちの六代目・三遊亭円楽)に弟子入りし[1]、落語家・三遊亭楽大として活動後、1987年頃から、タレント・伊集院光として『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)や、『Oh!デカナイト』(ニッポン放送)、『深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)などラジオパーソナリティとして人気を博す。
『深夜の馬鹿力』は25年以上続く深夜ラジオ番組であり、『オールナイトニッポン』『Oh!デカナイト』から数えると30年以上ラジオの第一線で活動していることから、メディアなどでは「ラジオの帝王」と称されることも多い。
テレビでの伊集院は『Qさま!!』(テレビ朝日系)のような、博学で人当たりの良いおおらかな人物であるが、深夜ラジオでは歯に衣着せぬ毒舌と、タブーをも恐れぬ軽妙なトークが特徴[2]。
三ツ組橘は、五代目・圓楽一門の定紋である | |
| 師匠 | 六代目・三遊亭円楽 |
|---|---|
| 活動期間 | 1985年 - 1990年 2021年 |
| 所属 | 五代目円楽一門会 |
1984年(昭和59年)7月、不登校を案じられて、叔父の知り合いである「吉河さん」[注 2]の紹介で、圓楽一門の三遊亭楽太郎(のちの六代目・三遊亭円楽)に弟子入りし、三遊亭楽大を名乗った。卒業間近の3年次の2月に高校を中退している[注 3]。
初高座は1985年(昭和60年)9月10日、寄席若竹で演目は「釜泥」[3]。
師匠には内緒で、当時ニッポン放送ディレクターだった安岡喜郎に「伊集院 光」と名付けられ[4]、ラジオ番組に出演を始める一方、1988年に二つ目に昇進し、同年には第17回NHK新人落語コンクール(現:NHK新人落語大賞)本選に、「子褒め」で出場している」[5][6]。楽太郎から伝授された噺は40から50以上あり、『笑点』の「若手大喜利」にも出演したことがある。
1987年(昭和62年)、兄弟子であった石田章洋[注 4]からの誘いで、ニッポン放送のお笑いオーディション番組『激突!あごはずしショー』に出演し、オーディションで優勝したことが、お笑いタレントとしてのデビューのきっかけと語っている。優勝の結果、ニッポン放送の「山口良一のそれゆけ!土曜日行進曲」のレポーターになる。
当時のキャッチフレーズは「オペラ座の怪人」を捩った「オペラの怪人」[注 5]。タキシードで正装し、威風堂々と「オー・ソレ・ミオ」を「恐ぉ〜れ山のイタコ」、「鰹風味のほんだし」(味の素「ほんだし」サウンドロゴ)を「鰹風味のふんどし〜」、「静かな湖畔の森の影から」の歌詞を「静香の眉間にシワがある〜、クドークドー」など、替え歌ギャグをオペラ調に歌うギャグオペラ歌手という肩書きだった。
テレビの深夜番組や、『笑っていいとも!』、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』で、上記のギャグオペラを披露する仕事が時々あったが、リサイタルと称した舞台(お笑いライブ)でもギャグオペラのコーナーを設けなければならず、また当時は「足立新田高校声楽科中退」後イタリアに留学し、ルチアーノ・パヴァロッティに師事していたと語ってしまったため、ある程度オペラについての知識を勉強せねばならず苦労したという[注 6]。本物のオペラ歌手だと間違われて、オペラのCDのライナーノーツ(解説)の依頼があったという逸話もある。
『あごはずしショー』終了後は『山口良一のそれゆけ!土曜日行進曲』のレポーターや『寺内たけしのオールナイトニッポン』の笑い役などを経て、1988年(昭和63年)10月より冠番組『伊集院光のオールナイトニッポン』を開始。伊集院は後年「当時の2部に出ているアーティストの方が、だんだん有名になってきて、得体の知れない人がいないと。余裕の産物で、ジョーカーを入れようってなった」と述べている[8]。『あごはずしショー』で共演した岩井富士夫が制作スタッフであった『CREATIVE COMPANY 冨田和音株式会社』(CBCラジオ)にも1989年(平成元年)10月より週1レギュラーで出演を始め、以来、名古屋でも断続的にレギュラー番組を持つようになる。『オールナイトニッポン』では番組内から生まれた架空のアイドル・芳賀ゆいが話題になるなど、次第にコアな人気を集めてゆく。
一方で1990年(平成2年)には「伊集院光」として脚光を浴びていたラジオ番組出演が一門に知られ、楽太郎の師匠五代目・三遊亭圓楽も「弟子が勝手やってるらしいな」と問題視する事態となった。楽太郎は日々関係各所に出向き伊集院のために頭を下げていたという[9]。また、この時期五代目圓楽が、一門の定席であった若竹の閉鎖という暗いニュースを打ち消そうと、一門の二つ目を一斉に真打にしようとしており[注 7]、まだ5年ほどのキャリアしかなかった伊集院はそれに困惑し、落語そのものへの迷いも生じ始めた[10]。さらに人間関係のストレスも抱えた伊集院は[9]「伊集院という名前で落語をやったっていいんだよ」と楽太郎から言われたものの、若さゆえに「いや、落語の方はこれでキッパリとケリをつけます」と言い出て行き落語から離れた[11]。伊集院はこれにより破門状態になったと認識していた[11]が、師匠の楽太郎 のちの六代目・三遊亭円楽は没した2022年9月まで終生伊集院を弟子扱いしていて、ラジオ番組三遊亭円楽のおたよりください!には伊集院光を番組収録に同席出演させて、円楽没後には伊集院光のおたよりください!として番組を終了まで引き継がせた。
1991年(平成2年)3月には平日の帯番組である『伊集院光のOh!デカナイト』が放送開始され、人気となった。『Oh!デカナイト』内の企画で久保こーじと組み「荒川ラップブラザーズ」(略して「ARB」)のクレジットでラップのCDをリリースしたり、名物コーナーであった「ザ・ベースボールクイズ」をメインとして電気グルーヴ、THE BLUE HEARTS、福山雅治なども登場したイベントで東京ドーム・西武球場のスタンドをリスナーで満員にするなど人気番組となった。一方でスポンサーやニッポン放送との関係は悪化していった[注 8]。
これを聞いたTBSラジオの永田守[注 9]は、『Oh!デカナイト』の番組生放送中に番組スタッフ向けの差し入れの品を携えてスタジオに来訪。さらに番組内番組である『ピンクワンダーランドCoCo一番』の録音やCMが流れている間に生放送ブースに闖入し、伊集院に対して『TBS来いよ』とあからさまな引き抜きをかけている[8][12]。
1995年(平成7年)4月末に『Oh!デカナイト』が終了。これに伴い、伊集院はニッポン放送と一種の冷戦状態となっていた。
1995年(平成7年)10月からTBSラジオの深夜番組『深夜の馬鹿力』を開始し、主なラジオでの舞台をTBSラジオへ移す。初代の番組ディレクター兼プロデューサーは永田が勤めた。
『深夜の馬鹿力』は2025年時点も続いており、1998年(平成10年)4月から2008年(平成20年)3月までの10年間に渡って日曜午後のワイド番組『伊集院光 日曜大将軍』『伊集院光 日曜日の秘密基地』のパーソナリティも務めた。この時、一番長くアシスタントを務めたTBSアナウンサー(当時)の竹内香苗からはその「妻に対する誠実な人柄」により「理想の男性」と評されている。
TBSラジオでの活動において、2000年(平成12年)には「ナイスプレー賞」、2001年(平成13年)にはTBSラジオから「ゴールデンマイク賞」、2003年(平成15年)には放送批評懇談会から「ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞」、『日曜日の秘密基地』の2006年(平成18年)2月のスペシャルウィーク企画「どこの誰かは知らないけれど、話してみたらスゲー人スペシャル」にてギャラクシー大賞ラジオ部門をそれぞれ受賞した。
毎年大晦日にTBSラジオ、文化放送、ニッポン放送の在京3局が持ち回りで担当していた全民放AMラジオ局およびラジオたんぱ合同の『ゆく年くる年』では、ニッポン放送時代に1993年(平成5年)年明けまで、TBSラジオ時代には1997年(平成9年)及び2000年(平成12年)年明けまでと3度パーソナリティを担当した。
2016年(平成28年)春より、30年間放送された『大沢悠里のゆうゆうワイド』の後を継ぎ、TBSラジオの平日午前帯ワイド番組のパーソナリティを務めることが2016年(平成28年)1月18日に発表された[13]。2016年(平成28年)4月11日、『伊集院光とらじおと』のタイトルで新番組開始[14]。同日、オフィシャルブログ「伊集院光とらじおとぶろぐと」を開設した[注 10]。
2022年(令和4年)1月11日、パーソナリティを務める『伊集院光とらじおと』が、今春いっぱいで終了することを番組内で発表し、同年3月24日に最終回を迎え、6年の歴史に幕を下ろした[15]。
2023年からはニッポン放送にもレギュラー番組を持つようになった。ナイターの無い日に『ニッポン放送ショウアップナイタースペシャル 伊集院光の集まれ!野球おじさん』を担当したりナイターオフには『伊集院光のタネ』を担当したりしている。これには以下のような心境の変化がある。
そもそもTBSで担当を開始した『伊集院光とらじおと』は伊集院自身のラジオの集大成として15年は続けようと考えていたという。その点を踏まえ、これまで自身が担当してきた様々なジャンルのコーナーを詰め込んでいた。その一方でそれが却ってスタッフの負担を増やしているのではないかと危惧した。曰く「番組が楽しくなるなら、自身の労力が増える分には構わないが、各家庭もあるスタッフを含め同じ方向を向くのは難しい。構造的な問題を抱えていては最後のラジオにはできない。いろいろ考えを変えねばならない。」と考え、最終的に「辞任」という形で番組を終えることとなった。
この価値観の変化がラジオ局に対するスタンスへも変化をもたらす。もともと伊集院はお世話になっている局に忠誠を誓う性格であり、「TBSに出ている以上他局に出てはいけない」という考えでいた。しかし、ナイツが局をまたいで平日帯と土曜縦長の両ワイドをかけ持つように、一種の専属形態が薄れたうえ、TBSは2018年10月期をもって対外的に聴取率調査を取りやめ、スペシャルウィークを無くした。伊集院はこれまで「聴取率さえ上げていれば番組は続けられる」と考えていたが、聴取率が関係ないとなると「いつでも切られる可能性がある」と考えるようになる。事実TBSラジオでは「役目を終えた」ことを理由に番組が終了したり、枠を縮小させた番組が増えていく。これ以降、「(番組を持った局とは)ギヴ・アンド・テイクでウィンウィンな関係を作りたい」と考えているが、ニッポン放送においては古巣かどうかではなくラジオそのもの、そしてリスナーに誠実にいたいという考えに変わったことによる。
さらに伊集院は改めて5年以内に5年間にわたって「自身の集大成的番組を持ちたい」と考えており、多様な番組を持つのはその「下地作り」だという。また、この先は次シーズンやネット配信も視野に入れ、スポンサーとも関係を作りながら全体の向上につなげたいと語る[16]。
楽太郎は六代目円楽を襲名して以降も一貫して伊集院を弟子として扱い続けた。
伊集院が落語家を廃業した後、約10年ぶりに再会した際、「伊集院さんは弟子ですか」と聞かれた楽太郎は「クビにした覚えはない。俺を尊敬してるなら弟子だ」と述べている[9][11][21]。
その後も2003年(平成15年)4月の三遊亭楽太郎一門会へ出演させたり、毎年正月3日に行われる六代目円楽一門の新年会に招待し、ラジオやテレビ番組でも共演するなど、身内(弟子)として扱い続けた[注 11]。伊集院もタレント転向以降も、円楽のことを「師匠」として敬意を払っている。テレビ番組『プレバト!!』の「俳句の才能査定ランキング」では六代目円楽が俳句部門の名人として出場していたが、2021年(令和3年)6月10日放送回で共演した際に円楽は、伊集院を「今まで見てきた弟子の中で一番の弟子です」と紹介している[22][23]。
2020年(令和2年)5月、自身のラジオ番組にゲスト出演した六代目円楽から、新型コロナウイルスの流行が落ち着いた後に二人会をやろうと提案され[24]、2021年(令和3年)6月13日に有楽町読売会館内のよみうりホールにて「三遊亭円楽・伊集院光 二人会」が昼夜2公演で開催された[25]。伊集院としてはこれが約30年ぶりの高座復帰となった[26]。
2022年(令和4年)9月30日に六代目円楽が肺がんで死去した際には報道陣へのコメントの他、『深夜の馬鹿力』内で心境を吐露している[27]。また、同年12月2日に都内で開催された円楽のお別れの会に参列した際には、門弟を代表して石田章洋・楽大(後述)・一太郎[注 12]含めた六代目円楽一門の弟子達と共に登壇し、遺された兄弟弟子達を1人ずつ紹介し、円楽の教えを継承していくことへの意気込みを語っている[28]。円楽の死後も円楽門下の弟子達とは交流を持っており、円楽の73回目の誕生日である2023年(令和5年)2月8日には、円楽門下の末弟である三遊亭楽太がプロデュースした「円楽師匠の誕生日落語会〜弟子と仲間に囲まれて一門の再出発〜」(深川江戸資料館)に楽太からの指名で出演し、三遊亭楽生、三遊亭楽京、楽大、三遊亭楽八、三遊亭楽花山と共に座談会のトークゲストとして共演した。
円楽が生前担当していた『三遊亭円楽のおたよりください!』(JRN系ネットワーク)は、伊集院がTBSラジオで『伊集院光とらじおと』を担当していた際の企画ネット(『伊集院光とらじおとお便りと』)になっていた事から、円楽が2022年1月に脳梗塞で療養となって以降『おたよりください』についても、同年2月14日放送分から7月20日放送分まで伊集院が代演として担当(その間に『伊集院光とらじおと』は同年3月24日に放送終了している)、さらに円楽が同番組に一時復帰の際にはアシスタントを務めた。その後、円楽が再入院したことから再び伊集院がアシスタント待遇のまま代演し、同年9月の円楽の死去を受け、同年12月5日放送分以降は『伊集院光のおたよりください!』に改題する形で正式に後任パーソナリティを引き継ぐこととなった。
伊集院が名乗っていた「三遊亭楽大」の高座名は、伊集院が自主廃業を決めてから17年後に入門した天野吉秀が名乗っている[注 13]。楽大は学生時代から伊集院のラジオのファンであり、圓楽門下に入ったのも伊集院の師匠だったことが理由の一つであると明かしている他、伊集院が二ツ目で廃業したので通常は代数に数えないにもかかわらず自ら2代目を自称するとともに、先輩落語家に対しての呼称である「兄(あに)さん」と呼び、相弟子として交流を持っている[注 14]。
伊集院は2020年(令和2年)4月に真打に昇進した楽大の口上書きに寄稿を行い、楽大も前述の二人会に開口一番として出演している[30]。
伊集院自身の回想によれば、ニッポン放送のプロデューサーである宮本幸一[注 15]は初対面で伊集院の頭を掴み、「売れる匂いが全くしねぇ」と述べ、それ以降も様々なことから確執が生まれたとされる[31]。後年、宮本はこのエピソードを「ネット上のデマ」であるとして対処を求めたが、伊集院は「本当のことだよ!上から下まで100%本当のことだよ、デマじゃねえよ!思い出したよ、あんたのそういうところが出たくなくなるとこだよ!」と反論している[31][32]。
さらに『Oh!デカナイト』が改編期でない時期での番組終了となった事とニッポン放送幹部から出入り禁止を告げられたことから、伊集院とニッポン放送は「冷戦状態」となり[12]、降板から2年が経過した1997年(平成9年)3月23日に放送された『ニッポン放送社屋移転特別番組 有楽町からお台場へ 1242人夢のマイクリレー』においても、伊集院は同局の歴史上から抹消された扱いを受けており、番組出演の話も来なかったと後年述懐している[要出典]。
『Oh!デカナイト』の終了から14年が経過した2004年(平成16年)7月15日、開局50周年記念特番として放送された『ニッポン放送開局記念日スペシャル 笑顔が一番!あなたと一緒に50年』にて『Oh!デカナイト』の一夜限りの復活放送が行われ、伊集院は久々のニッポン放送への出演を果たした[12]。その後、上柳昌彦の仲介で2014年(平成26年)7月15日に放送された開局60周年記念特番『ニッポン放送開局60周年記念 ラジオで聴いた『忘れられぬミュージック』』にて再びニッポン放送の番組に出演をしているが、宮本と遭遇して口論したことにより、ふたたび疎遠となったという[31][32]。
2019年(令和元年)、事務所の大先輩である和田アキ子と会食した際、伊集院はニッポン放送とのエピソードを伝え、「あんだけのことをぶち上げて、ニッポン放送と絶縁というか、出てないから、アッコさんが呼びつけてくれるという形が一番スムーズなんですよ」と述べた。これをうけた和田が『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』のゲスト出演を要請、同年5月18日放送分にて5年振りにニッポン放送の番組にゲスト出演[32]。同年6月19日には『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』放送分にゲスト出演[8][33]、翌2020年5月にはお互いにホリプロ所属で同い年である三村マサカズの番組『さまぁ〜ず三村マサカズと小島瑠璃子の「みむこじラジオ!」』に3週連続でゲスト出演[34]、2020年(令和2年)には『春風亭一之輔 あなたとハッピー!』10月16日放送分でゲスト出演[35]するなど、継続的にニッポン放送の番組にゲスト出演を続けている。
2023年(令和5年)2月19日には『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』の一環として、「伊集院光のオールナイトニッポン」が33年ぶりに放送されることとなった[36]。
同年10月にはナイターオフ番組として「伊集院光のタネ」が始まり好評を博し、翌年春にナイター中継が開始されたが、番組が継続された。
自らが主宰する草野球チームなどで、若手芸人との親交を持つ。アンタッチャブルとは「師弟関係」とされており、2019年のコンビ復活の際にも相談を受けている[37]。
2024年12月31日の年明け放送分の『あちこちオードリー』で、昨今の純粋な面白さをおざなりにして「技術を競うだけの競技」と化した『M-1グランプリ』を指して「滅びるよ」と危機感を露にした。また、初期の『M-1』の審査員の人選にお笑い業界に拘らない多様性があったのに対し、昨今は『M-1』経験者のみが審査員となっている点を指摘。伊集院は『女芸人No.1決定戦 THE W 2024』でファーストステージ敗退したキンタロー。について「絶体絶命なのに、なおぶっ壊れ続けるあの感じ。俺は、面白い女性芸人の “芸事” よりも、あれが見たいの」と自身がイメージする芸人のあるべき姿についても語っている[38]。
1997年から週刊ファミ通にてコラムを連載しておりゲーム雑誌に掲載された連載コラムとしては世界最長を記録している。数々のテレビにおけるゲーム番組のMCを務めるなど、2000年にはその功績が認められ日本ゲーム大賞にてベストゲーマー賞を受賞している。
下記の他不定期で、プロ野球中継の日本ハム戦に、ゲスト解説として出演することがある
{{cite web2}}: CS1メンテナンス: 数字を含む名前/author (カテゴリ){{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ){{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ)| グループ会長:堀義貴、代表取締役社長:菅井敦 | ||||||||||||||||||||||
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| 関連項目 |
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ギャラクシー賞ラジオ部門DJパーソナリティ賞 | |
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| 賞典導入以前 | |
| 1993年度 - 2000年度 | |
| 2001年度 - 2010年度 | |
| 2011年度 - 2020年度 | |
| 2021年度 - | |