| 上原 康助 うえはら こうすけ | |
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![]() 2012年5月、沖縄復帰40周年記念式典にて | |
| 生年月日 | (1932-09-19)1932年9月19日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (2017-08-06)2017年8月6日(84歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 沖縄県立北山高等学校 |
| 所属政党 | (日本社会党→) (社会民主党→) 民主党 |
| 称号 | 従三位 勲一等旭日大綬章 |
| 内閣 | 細川内閣 |
| 在任期間 | 1993年8月9日 -1994年4月28日 |
| 選挙区 | (沖縄県全県区→) 沖縄3区 |
| 当選回数 | 10回 |
| 在任期間 | 1970年11月16日 -2000年6月2日 |
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上原 康助(うえはら こうすけ、1932年〈昭和7年〉9月19日 -2017年〈平成29年〉8月6日[1])は、日本の政治家、労働運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。
衆議院議員(10期)、北海道開発庁長官(第59代)、沖縄開発庁長官(第28代)、国土庁長官(第24代)を歴任。
沖縄県国頭郡本部町字伊豆味に、農業・上原幸福の二男として生まれる。1951年沖縄県立北山高等学校を卒業後、米軍沖縄地区工作隊に就職する。当時の米軍基地では、USCARの布令116号でストライキに参加することは違法で解雇とされ、琉球住民への賃金差別をはじめとする差別待遇が横行していた。やがてある日一方的に解雇通告を受けたことを契機に労働問題への関心を強め、1960年上原が中心となって「軍労働問題研究会」を立ち上げ、翌1961年には全沖縄軍労働組合連合会を結成、委員長となる。
1963年には全沖縄軍労働組合(全軍労)に改組・拡大し、以後沖縄で最も存在感のある労働組合として、大量解雇撤回スト(1970年)等の争議を指導して待遇改善を勝ち取り、また沖縄革新陣営の中核として、屋良朝苗の行政主席当選などに貢献した。1970年、沖縄において戦後初の衆議院議員選挙に日本社会党から立候補し当選。以後連続当選10回を果たす。党内では左派系の「平和戦略研究会」代表を務め、安全保障問題に取り組んだ。
党国民運動局長等、田辺誠委員長を首班とする社会党シャドーキャビネット防衛庁長官を歴任(山花貞夫に委員長や首班が交代した後も留任)。1993年細川内閣で北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官として初入閣。沖縄県選出の国会議員では初の閣僚となった[1]。1994年には社会党副委員長となり、1996年社会民主党副党首に就任する。
かねてから、沖縄基地問題に対する社民党(特に沖縄県本部)の硬直した対応を疑問視していた上原は、1998年5月、政策研究会「未来21・沖縄」を結成し、日米安保体制がアジア地域における安全保障の公共財産となっていると認めた上で、基地問題解決を図るべきであるとする「沖縄もう一つの選択」アピールを発表した。基地の半分撤去を目指す「ハーフオプション」などを含むこの構想は、全基地撤去が建前だった大田昌秀沖縄県知事ら革新勢力と確執を生み、「裏切り者」との批判は政界引退後もつきまとうことになった[2]。
なおこうした中で、保守陣営から大田昌秀の対抗馬として県知事選に擁立する動きもあったが実現せず、同年6月19日には社民党を離党し除名処分を受け、民主党入りし翌1999年9月民主党代表選挙では新政局懇談会会長横路孝弘推薦人名簿に名を連ねた。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では沖縄3区で東門美津子に敗れ、比例復活もならず落選。この選挙を最後に政界から引退した。
2002年11月の秋の叙勲で勲一等に叙され、旭日大綬章を受章する[3][4]。
2017年8月6日、呼吸不全のため、沖縄市内の病院で死去した。84歳没[5]。死没日付をもって従三位に叙された[6][7]。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 佐藤観樹 | 1995年 - 1996年 | 次代 深谷隆司 |
| 公職 | ||
| 先代 北修二 | 第59代:1993年 - 1994年 | 次代 羽田孜(事務取扱) 佐藤守良 |
| 先代 北修二 | 第28代:1993年 - 1994年 | 次代 羽田孜(事務取扱) 佐藤守良 |
| 先代 井上孝 | 第24代:1993年 - 1994年 | 次代 羽田孜(事務取扱) 左藤恵 |
| 沖縄開発庁長官 | |
|---|---|
| 沖縄及び北方対策担当大臣 | |