ヘルシンキ (フィンランド語 :Helsinki ,フィンランド語発音: [ˈhe̞l.siŋ.k̟i] ) listen [ヘルプ /ファイル ] ;スウェーデン語 :Helsingfors , listen [ヘルプ /ファイル ] 、漢字表記 「赫爾辛基 」[ 4] )は、フィンランド の首都で同国最大の都市である。また、バルト海 東部のフィンランド湾 に面した同国南部のウーシマー県 の県庁所在地である。
ヘルシンキ市の人口は674,500人[ 5] (2023年12月31日現在)でフィンランドの人口の12%を占める。また、都市的地域の人口は 1,360,000人(2023年)、ヘルシンキ都市圏である大ヘルシンキ (英語版 ) の人口は1,576,438人で、フィンランドの人口全体の3割弱を占める都市域を形成している。
ヘルシンキ都市圏には核となるヘルシンキの都市的地域とエスポー やヴァンター 、カウニアイネン (英語版 ) 、周辺のベッドタウン が含まれる[ 6] 。ヘルシンキは100万人以上が住む都市圏としては最北に位置する都市圏 で欧州連合加盟国 の首都としては最北に位置する都市であり、フィンランドの政治や教育、金融、文化、調査センターなど様々な分野の中心都市で、ヨーロッパでも最北の大都市である。
フィンランドで事業を行う外国企業の70%はヘルシンキ地域で事業を行っており[ 7] 、2009年に、2012年の世界デザイン首都 [ 8] に国際インダストリアルデザイン団体協議会 (英語版 ) により選ばれ、僅差でアイントホーフェン を破っている。
エコノミスト・インテリジェンス・ユニット は2012年8月に住むのに適した都市の調査で、ヘルシンキは総合で8位にランクした[ 9] 。2011年、モノクルマガジン (英語版 ) の調査Liveable Cities Index 2011 でヘルシンキは最も住むのに適した都市に位置している[ 10] 。
ヘルシンキは、同じくフィンランド湾 に面するエストニア の首都タリン やロシア の旧都サンクトペテルブルク と歴史的に密接な関係にある(なおヘルシンキから南のタリン までは85キロメートル (53 mi)、東のサンクトペテルブルク までは277キロメートル (172 mi)である)。またヘルシンキは、バルト海 の対岸にあり西方400キロメートル (250 mi)に位置するスウェーデン の首都ストックホルム とも歴史的に関係が深い。
ヘルシンキHelsinki (フィンランド語発音: [ˈhelsiŋki] フィンランド語 では最初の音節に強勢がある)は、多くの言語で「ヘルシンキ」という名称が用いられているが、スウェーデン語 では「ヘルシングフォシュHelsingfors 」(発音:[hɛlsiŋˈfɔrs] または[hɛlsiŋˈfɔʂ] )という名称が使われる。これはかつてのヘルシンキ市の公式名称であり、初期の綴りはHellssingeforss であった。
フィンランド語の「ヘルシンキ」という名称は、おそらく現在のヴァンター川 に使われていたHelsinga という名前に由来し、14世紀には既に記録されていた。Helsingfors は、周辺の教区名Helsinge と、急流を意味するスウェーデン語fors に由来している。また、中世のスウェーデン人入植者がスウェーデンのヘルシングランド地方 から来たという説も存在する。さらに、helsing の以前の形であるスウェーデン語のhals (首の意)から派生し、川の狭い部分や急流を意味するという説もある[ 11] 。同様の地理的名称を持つスカンディナヴィア都市は他にも、ヘルシンゲル やヘルシンボリ がある。
ヘルシンキのスラング (英語版 ) には「スタディStadi 」や「ヘサHesa 」という俗称がある。Stadi はスウェーデン語で都市や街を意味し、ヘルシンキ出身者が地元出身であると主張する時に使われる[ 1] 。Hesa はヘルシンキの短縮形にスラングの接尾辞sa を付けたものである。北部サーミ語でのヘルシンキの呼称はHelsset である。
1820年以前の都市改造前のヘルシンキ。C.L.エンゲル作画 18世紀に始まったスオメンリンナの要塞の建設。 ヘルシンキは1550年に交易の街としてグスタフ1世 によりヘルシングフォシュHelsingfors として、ライバルとなるハンザ同盟の都市レヴァルReval (今日のエストニアの首都タリン )に対抗するために創建された。ヘルシンキは貧困、戦争、災害に見舞われ都市の計画は少しも進まず、小さな街のままであった。1710年のペスト ではヘルシンキの街の住民の多くが亡くなった[ 12] 。海軍の要塞であるスオメンリンナの要塞 が築かれた18世紀になるとヘルシンキの状況も改善されたが、ロシアがスウェーデンを破った第二次ロシア・スウェーデン戦争 と併合によるフィンランド大公国 が成立する1809年まで十分な都市の開発は行われなかった。戦争中、ロシアはスオメンリンナの要塞を包囲した。そして、1808年の大火により市街の大部分は焼失している。
アレクサンドル1世 はフィンランドでのスウェーデンの影響を減らすことやサンクトペテルブルクに近いことから首都をヘルシンキに移した。続いて1827年に起こったトゥルク大火 (英語版 ) で当時フィンランドでは唯一の大学であったトゥルク帝国アカデミー (英語版 ) はヘルシンキに移転され、最終的には現代のヘルシンキ大学 になった。この動きは都市の新しい役割を強化し、成長の継続を促進させた。市街の中心のほとんどがドイツ生まれの建築家カール・ルートヴィヒ・エンゲル (英語版 ) の計画によるサンクトペテルブルクに似た新古典主義 の街並に変えられている。他の点では、鉄道や産業化などの技術の進歩は都市の成長の背後にある重要な要素であった。
フィンランドの20世紀前半の歴史は混乱し続けたが、ヘルシンキは継続的な発展が続いた。1939年 11月30日 には、ソビエト連邦が不可侵条約 を破棄して冬戦争 が始まり、初日からヘルシンキ工科大学や民家が空爆 を受けて大きな被害を出した[ 13] 。
1952年にはヘルシンキオリンピック が開催された。1970年代にはフィンランドでの急速な都市化が他のヨーロッパの地域と比べ比較的遅く起こり、都市圏の人口は3倍になり地下鉄網などが整備されている。
SPOT からのヘルシンキ、エスポー地域の衛星写真。ヘルシンキ中心部はバルト海に向かって南に突き出た半島に位置し、その周辺の湾沿いや島々に市街が広がっている。中心部はヴィロンニエミ (英語版 ) (「エストニア岬」の意)という名がついているものの、そのように呼ばれることは多くない。中心部を離れると、戦後に開発された住宅地が、点在する森林を縫うように広がっている。ヘルシンキ中央公園 (英語版 ) は中心部から北側の市境に延びる市民の憩いの場である。ヘルシンキの主な島には、ラウッタ島 (英語版 ) 、セウラ島 (英語版 ) 、ヘルシンキ動物園のあるコルケア島 (英語版 ) 等がある。これらの島は本土と橋でつながっている。他には、世界遺産に指定された要塞の島であるスオメンリンナ島 や、全域が陸軍 の基地となっているサンタハミナ島 (英語版 ) がある。ピヒラヤ島 (英語版 ) はゲイやナチュラリストにサマースポットとして好まれ、ニューヨークのファイアーアイランド (英語版 ) に匹敵する[要出典 ] 。
ヘルシンキの都市的地域 ヘルシンキの都市的地域は10の異なった自治体[ 14] に広がり、フィンランドでは唯一メトロポリス を形成している。[ 15] 人口は1,156,211人を擁し、面積は631.11km2 を占め、人口密度は1,836.8人/km2 である[ 16] 。フィンランドでは最も人口密度が高い地域で、ヘルシンキに続くタンペレ の3.7倍になる。
ヘルシンキの首都圏はヘルシンキ、エスポー、ヴァンター、カウニアイネン (英語版 ) の都市で構成され、74,511km2 を占め人口は約100万人である。フィンランドの国土の0.2%の地域に人口の19%が居住し、住居の密度はフィンランドの平均よりも高い。ヘルシンキ首都圏には雇用も大きく集中し、約58万人の雇用を擁している。土地利用の度合いに関わらず、地域には大規模な保養地や緑地が広がっている。ヘルシンキ首都圏は世界最北の人口100万人を越える都市的地域で、欧州連合加盟国の首都の中でも最北の都市である。また、ヘルシンキ大都市圏には130万人の人々が暮らしこれはフィンランド人の4分の1にあたる。
ヘルシンキは亜寒帯湿潤気候 または湿潤大陸性気候 である。バルト海 や北大西洋海流 の影響により冬の寒さは軽減され、高緯度に関わらず同緯度にある他の地点より高い。冬(12月~2月)の平均気温は-3.7℃である。−20 °C (−4 °F)を下回るのは通常、年に1、2週間くらいである。しかしながら、緯度のため冬至 のあたりには昼の時間は6時間と続かず日照は弱く、とても曇りがちな天候はこの時期の暗さを強調している。逆にヘルシンキの夏は長い昼の時間を享受し、夏至 の頃には19時間ある[ 17] 。夏(6月~8月)の最高平均気温は20.2℃である。海洋性の影響により夏の気温は涼しく、夜間の気温は内陸部より高い。夏の気温が25 °C (77 °F)を超えることはまれである。
ヘルシンキ (1991~2020)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録°C (°F ) 8.5 (47.3) 10.3 (50.5) 15.1 (59.2) 21.9 (71.4) 27.6 (81.7) 30.9 (87.6) 33.2 (91.8) 31.2 (88.2) 26.2 (79.2) 17.6 (63.7) 13.4 (56.1) 10.5 (50.9) 33.2 (91.8) 平均最高気温°C (°F ) −2.1 (28.2) −2.8 (27) 1.2 (34.2) 8.1 (46.6) 14.8 (58.6) 19.0 (66.2) 21.9 (71.4) 19.8 (67.6) 14.5 (58.1) 8.0 (46.4) 3.1 (37.6) −0.1 (31.8) 8.8 (47.8) 日平均気温°C (°F ) −4.3 (24.3) −4.8 (23.4) −1.4 (29.5) 4.4 (39.9) 10.7 (51.3) 15.1 (59.2) 18.1 (64.6) 16.5 (61.7) 11.5 (52.7) 5.6 (42.1) 1.3 (34.3) −1.9 (28.6) 5.9 (42.6) 平均最低気温°C (°F ) −6.6 (20.1) −6.8 (19.8) −3.8 (25.2) 1.1 (34) 6.7 (44.1) 11.6 (52.9) 14.6 (58.3) 13.3 (55.9) 8.7 (47.7) 3.4 (38.1) −0.6 (30.9) −3.8 (25.2) 3.2 (37.8) 最低気温記録°C (°F ) −34.4 (−29.9) −33.0 (−27.4) −31.3 (−24.3) −19.8 (−3.6) −7.0 (19.4) −0.5 (31.1) 4.9 (40.8) 2.1 (35.8) −4.5 (23.9) −13.9 (7) −25.5 (−13.9) −35.0 (−31) −35 (−31) 降水量 mm (inch)53.2 (2.094) 40.0 (1.575) 33.2 (1.307) 35.7 (1.406) 37.6 (1.48) 63.0 (2.48) 63.0 (2.48) 75.2 (2.961) 59.2 (2.331) 79.0 (3.11) 70.9 (2.791) 61.5 (2.421) 671.5 (26.436) 出典:http://www.pogodaiklimat.ru/history/02978.htm
ドイツの建築家カール・ルートヴィヒ・エンゲル (英語版 ) (1778–1840)は新しい都市の中心を設計するよう任命された。エンゲルはいくつかのヘルシンキの新古典主義建築 の建築物の設計に携わっている。エンゲルの都市計画の中心的なポイントはヘルシンキ元老院広場 である。周辺には東側にフィンランド政府宮殿 (英語版 ) 、西側にヘルシンキ大学の本館、北側にエンゲル没後12年の1852年に完成した巨大なヘルシンキ大聖堂 がある。後にエンゲルの新古典主義の都市計画に刺激され「北の白い都市」と形容されている。
20世紀初頭には、アール・ヌーヴォー やユーゲント・シュティール に影響を受け、また民族叙事詩カレワラ の出版を契機に高まった民族意識を反映して、ナショナル・ロマンティシズム 様式の建築が盛んに建てられた。例えばフィンランド国立博物館 がその典型である。ヘルシンキのアール・ヌーヴォー様式はカタヤノッカ (英語版 ) やウッランリンナ (英語版 ) といった住宅地にも数多く見られる。ヘルシンキ中央駅 をてがけたエリエル・サーリネン (1873-1950)はフィンランドのアール・ヌーヴォー/ナショナル・ロマンティシズムを代表する建築家である。
ヘルシンキのいくつかの建築物は世界的に著名な建築家であるアルヴァ・アールト のものを特徴とし、機能主義 建築の先駆者の一人として見なされている。しかしながら、彼の作品である製紙会社ストラ・エンソ の本社やコンサート会場であるフィンランディア・ホール は市民の間では意見が分かれる対象となっている[ 18] [ 19] [ 20] 。
ヘルシンキの他の有名な機能主義の建築物にはヘルシンキ・オリンピックスタジアム やテニスパラッツィ (英語版 ) 、ボートレース場、ヘルシンキスイミングスタジアム (英語版 ) 、自転車競技場、ラシパラッツィ (英語版 ) (ガラスの宮殿)、トーロスポーツホール(Töölön kisahalli )、ヘルシンキ・マルミ空港などがある。スポーツ競技場は1940年に開催が予定されていたヘルシンキオリンピック の会場として整備されたが、第二次世界大戦の影響により中止されたため、1952年に開催されたヘルシンキオリンピック の会場としての目的として全てを満たすため整備された。歴史的な挿話としてヘルシンキの新古典主義の建築物は、多く冷戦時代にハリウッドの映画でソ連を背景として設定されたシーンでソ連では撮影が不可能だったのでしばしば使われた。有名な作品にはクレムリンレター (英語版 ) (1970)、レッズ (1981)、ゴーリキー・パーク (1983)がある。いくらかの街並はサンクトペテルブルクやモスクワの古い建築物を思い出させ、商業映画に利用されることは多くの住民を失望させた。同時に政府は密かにフィンランドの当局にこのような映画の企画の支援の延長を行わないことを指示していた[ 21] 。
Kamppi Central と周辺部のパノラマ。
ヘルシンキ市議会は85人の議員で構成されている。2012年の地方選では国民連合党 (23)、緑の同盟 (19)、フィンランド社会民主党 (15)が三大勢力である。[ 22] ヘルシンキ市長のユッシ・パイユネン(Jussi Pajunen)は国民連合党のメンバーである。フィンランドの全ての自治体議会のようにヘルシンキ市議会は地方政治の主要な意思決定機関であり、都市計画 や学校、保健、公共交通機関など様々な議題を扱っている。85名の議員は4年ごとの市議選で選出されている。伝統的に保守派の国民連合党kokoomus はヘルシンキの地方政治では最大の政党で、フィンランド社会民主党は2番目に大きな政党であった。2000年の選挙で緑の同盟はフィンランド国内ではヘルシンキでは支持が最もあり、2番目に支持がある政党の地位を得た。しかしながら、2004年の選挙ではフィンランド社会民主党が再び以前の地位を得ている。2008年の選挙では緑の同盟が再び、2番目に大きな政党となり2012年の選挙でも保った。左翼同盟 は4番目に大きな政党で、真のフィンランド人 は着実に支持を伸ばしている第五の勢力である。スウェーデン人民党 は何年もの間支持を減らしているが、これはヘルシンキのスウェーデン語話者の割合が減っていることによる。フィンランド中央党 は全国区の政治では3大政党のうちの1つであるが、ヘルシンキでは僅かな支持しか得られていない。
海に飛び込む子供。ラウッタ島 ヘルシンキでは女性の割合が53.4%と、フィンランド国内全体の51.1%と比べて高い。ヘルシンキの1平方キロメートル 辺りの人口密度は2,739.36人/km2 とフィンランド全体と比べ、はるかに高くなっている。平均寿命は全国平均に比べ若干低く、男性は75.7歳に対し75.1歳、女性は82.5歳に対し81.7歳であった[ 23] [ 24] 。ヘルシンキは1810年代以来、後にフィンランド共和国となるフィンランド大公国 の首都がトゥルク から遷都されて以来、強い成長を経験している。ヘルシンキはフィンランド内戦 の期間を除いて、強い成長を示し続けていた。第二次世界大戦後から1970年代まで地方からフィンランドの都市には多くの人が移動している。
1944年から1969年までのヘルシンキ市の人口は275,000人[ 25] から525,600人[ 26] とほぼ倍に増加した。1960年代にヘルシンキの市域人口は主に住宅不足から衰えている[ 27] 。多くの住民は近隣のエスポーやヴァンターに移動し始め、それ以来人口は急速に増加している。エスポーの人口は1950年の22,874人から2009年には244,353人と60年間で9倍に増加し、今後も増加が見込まれている。[ 28] ヴァンターも同様にこの期間急速に変化し、1950年には14,976人に過ぎなかった人口は2009年には197,663人と13倍増加している。
これらの劇的な人口増加はヘルシンキ首都圏の自治体に公共交通の分野[ 29] や、廃棄物管理などの分野[ 30] でより強い協力関係を押し進めている。住宅不足の増加やヘルシンキ都市圏での高い生活コストから多くの日々の通勤者は、以前は辺ぴな田舎に過ぎなかった場所や同じように遠い場所である50km離れたロホヤ やポルヴォー 、100km離れたハメーンリンナ やラハティ などで住宅を見付けることを強いられている。
ヘルシンキ市の公式の言語はフィンランド語 とスウェーデン語 である。1990年代初頭には人口の90%がフィンランド語(またはサーミ語)を母語としていた[ 31] が、この割合は現在は75%まで減少している[ 32] 。もっともフィンランド語母語話者人口の絶対数はむしろ微増しており、割合の減少は他の言語を母語とする人口の増加によるものである。人口の約5%はスウェーデン語を母語とする。その他の言語を母語とする人口は、1990年代初頭にはわずか1%ほどに過ぎなかったが、2010年に10%を超え、現在は約20%を占める。
ヘルシンキでは、フィンランド語が異なる母語話者間の公共の場でのコミュニケーションの共通言語である。話者にフィンランド語の知識がない場合では、英語が用いられる。スウェーデン語は、市や国の機関ではハメーンティエ (英語版 ) の社会福祉部門やカンッピ (英語版 ) のルッカン文化センターなどで使われている。フィンランド語の知識は、通常は雇用市場では基本的な必要条件である[ 33] 。
フィンランド語話者は1890年にスウェーデン語話者を上回りヘルシンキの人口の多数派になった[ 34] 。当時のヘルシンキの人口は61,530人であった[ 35] 。現在ではスウェーデン語話者に代わってロシア語話者がフィンランドでは増加しており、数の上ではスウェーデン語話者に近づきいずれ上回ることも予想されている[ 36] 。ヘルシンキスラング (英語版 ) はフィンランド語やフィンランド・スウェーデン語、ロシア語から影響を受けている。
ヘルシンキはフィンランドの海外からの玄関口である。ヘルシンキ市は移民の人口が絶対的にも相対的にもフィンランド国内では最大である。130を超える国の人々がヘルシンキでは見受けられ、移民の大きなグループはロシアやエストニア、スウェーデン、ソマリア、セルビア、中国、イラク、ドイツ、トルコからの人々である。外国人の市民は人口の8.0%を占め、外国生まれの人は11.1%であった[ 31] 。2012年には68,375人の住民はフィンランドで話されているフィンランド語やスウェーデン語、サーミ語 などこれら3つ以外の母語を話している[ 31] 。フィンランドを背景としていない最大のグループはロシア(14,532)、エストニア(9,065)、ソマリア(6,845)である[ 31] 。フィンランドの移民人口の半分はヘルシンキ首都圏に居住し、3分の1はヘルシンキ市内に居住している[ 37] 。
カンッピセンター (英語版 ) はヘルシンキ中心部のショッピングセンターと交通の複合施設。ヘルシンキにはフィンランド銀行 がある。ヘルシンキ都市圏地域はフィンランドのGDPのおよそ3分の1を生み出し、1人当たりのGDPは全国平均の約1.3倍に達する[ 39] 。フィンランドの100社の大企業のうち83社は近隣都市を含む大ヘルシンキ圏に本社を置いている。これは国際的なつながりや物流網、労働力が利用出来ることによる。もっとも、ノキアなど主要企業のいくつかはヘルシンキ市内ではなくエスポーなど近隣都市に本社を置いている。ヘルシンキを拠点とする主要な企業には大手通信企業のエリサ やメディア企業のヘルシンギン・サノマット 、大手流通グループのケスコ 、小売業者のHOK-Elanto、デパートチェーンのストックマン などがある。20世紀半ばまで、ヘルシンキはフィンランドの工業の重要な中心と見なされて来たが、1960年から1980年の間、工業部門の多くの雇用は半分に減った。
200のフィンランド人の高所得の企業幹部のうち、3分の2は大ヘルシンキ圏に居住し42%はヘルシンキに居住している。トップ50の平均所得は165万ユーロであった[ 40] 。証券取引所のナスダック・ヘルシンキ やノルデア銀行 など多くの銀行がヘルシンキにはあり、フィンランドの金融の中心となっている。ヘルシンキの今日の経済の中心は情報技術や金融が担っている。ヘルシンキの経済は徐々に工業から今日の基盤となるサービス部門に移って来た。造船のSTXフィンランド や陶器のアラビア 、アセア・ブラウン・ボベリ の工場は今でも周辺に残っている。
ヘルシンキ大学 本館ハーガ=ヘリア応用科学大学 (英語版 ) はフィンランド最大のビジネスポリテクニック。ヘルシンキには190の総合中等学校と41の高等学校、15の職業訓練機関がある。41の高等学校の半数は私立か国立で、残りの半数は自治体運営の公立である。
ヘルシンキ首都圏には、ヘルシンキ市に拠点を置くヘルシンキ大学 とエスポー市に拠点を置くアールト大学 の2つの主要な研究大学があるほか、以下の高等教育機関や、ポリテクニック または応用科学大学と呼ばれる職業大学 が専門教育を提供している。
ヘルシンキは欧州工科大学院 (英語版 ) (EIT)のナレッジセンターとイノベーションコミュニティが共にある場所の一つである[ 41] 。
ヘルシンキ現代美術館 ヘルシンキにある最大の歴史博物館であるフィンランド国立博物館 は先史時代から21世紀までの幅広い収蔵品を展示している。博物館の建物自体は20世紀初めに建てられたフィンランドロマン主義建築の中世風の城のスタイルで、観光名所になっている。他に有名な歴史博物館にはヘルシンキ市立博物館があり、来館者にヘルシンキの500年の歴史を紹介している。ヘルシンキ大学 もまた多くの博物館を所有し、大学博物館や自然史博物館も含まれる。フィンランド国立美術館はフィンランドの古典芸術のアテネウム美術館 、ヨーロッパの古典芸術のシネブリュコフ美術館 、モダンアートのヘルシンキ現代美術館 の3施設で構成されている。アテネウム美術館の建物は19世紀からのネオ・ルネサンスの建物で市内でも著名な歴史的な建築物である。3つの美術館はフィンランド政府出資の特殊会社Senaatti-kiinteistöt を通じて国有施設である。
ヘルシンキにはヘルシンキ国立劇場 (英語版 ) やヘルシンキ市劇場、フィンランド・スウェーデン語のスウェーデン劇場 (英語版 ) Svenska Teatern の3つの主要な劇場がある。ヘルシンキのメインとなる歌劇場にはフィンランド国立歌劇場 (英語版 ) があり、フィンランディア・ホール とフィンランド音楽センター (英語版 ) [ 42] にはヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団 とフィンランド放送交響楽団 が本拠地としている。音楽センターにはシベリウス音楽院 の一部が含まれている。ヘルシンキで開催される大きなコンサートやイベントは通常、市内に2つあるハートウォールアリーナ やヘルシンキアイスホール (英語版 ) で開かれている。ヘルシンキにはまたフィンランドでは最大のコンベンションセンターであるヘルシンキエキシビジョン・コンベンションセンター (英語版 ) がある。
多くの広く有名で定評あるバンドはヘルシンキを発祥とし、その中にはハノイ・ロックス やHIM 、ストラトヴァリウス 、The 69 Eyes (英語版 ) 、ノーサー 、ウィンターサン 、フィントロール 、エンシフェルム 、ザ・ラスマス 、アポカリプティカ が含まれる。ハートウォールアリーナ ではユーロビジョン・ソング・コンテスト2006 でローディ が優勝したことからユーロビジョン・ソング・コンテスト2007 が開催され、これはフィンランドにとっては初のユーロビジョン・ソング・コンテスト の開催であった。
ヘルシンキ・フェスティヴァル は毎年8月に開催される芸術や文化の催しで、白夜祭 であるアートの夜 (英語版 ) Taiteiden yö が含まれる。ヴァプンアーットVappu は学生や労働者のための毎年恒例のヴァルプルギスの夜 の祭典である。ヘルシンキ元老院広場 では2010年9、10月にフィンランドでは過去最大の野外芸術展が開催され、140万人の人々が国際的なユナイテッドバディーベア の展示を鑑賞した。ヘルシンキは2012年に世界デザイン首都 に選ばれ[ 43] 、都市でデザインを効果的なツールとして社会や文化、経済開発に使われていると評価された。ヘルシンキが選択される際、世界デザイン首都の審査委員はヘルシンキで使われている革新への都市に結びついたデザインである「組み込み型のデザイン」を強調し、これらは世界的なブランドであるノキア やコネ 、マリメッコ や毎年のヘルシンキデザイン週間、ヘルシンキ芸術デザイン大学 (現在のアールト大学 )、エリエル・サーリネン やアルヴァ・アールト と言った著名な建築家やデザイナーを生み出している[ 8] 。2021年より隔年でヘルシンキ・ビエンナーリ (フィンランド語版 ) が開催され、市内のヴァッリサーリ (英語版 ) 島やヘルシンキ美術館 (フィンランド語版 ) で展示が行われる。
リーナス・トーバルズ はヘルシンキ出身のプログラマで、Linuxカーネル の開発者として知られる。今日では、200紙の新聞や320の大衆誌、2,100の専門誌、67の民間ラジオ局、3のデジタルラジオチャンネルや1つの全国局、5の公共ラジオ局がある[要出典 ] 。サノマ (英語版 ) は412,000部が流通し フィンランドは最大の発行部数を誇るヘルシンギン・サノマット [ 44] やタブロイド 版の夕刊紙イルタ・サノマット (英語版 ) 、経済紙のタロウスサノマット (英語版 ) を発行している他、テレビ局ネロネン (英語版 ) を運営している。他の有名な出版社にはアルマ・メディア (英語版 ) があり30を超える雑誌を発行し、その中には日刊紙のアームレヘティ (英語版 ) やタブロイド版のイルタレヘティ (英語版 ) 、経済紙のカウッパレヘティ (英語版 ) がある。世界的にフィンランド人は他の北欧諸国の人々や日本人 と並んで、多くの時間を新聞を読む時間に充てている[ 45] 。YLE は5のテレビ局と13のラジオ局を運営する公共放送で、YLEの資金は受信料と民放の手数料により賄われている。全てのテレビチャンネルは地上波やケーブルも含めデジタルテレビ放送 である。民放にはMTV3 やラジオ局のラジオノヴァ (英語版 ) があり北欧のメディアグループであるボニアグループ (英語版 ) やProventus Industrier が所有している。
人口の約79%はインターネットを利用している[ 46] 。2007年6月末時点で、フィンランドでは152万人がブロードバンドのインターネットに接続しており、これは1000人当たり287人が利用していることになる[ 47] 。全てのフィンランドの学校や公共図書館はインターネットに接続されほとんどの市民は携帯電話を所有しているが付加価値通信サービス (英語版 ) は希である[ 48] 。2009年10月にフィンランドの交通・通信省はすべてのフィンランドの人々が2010年7月には最低速度1メガビット/秒のスピードのインターネットにアクセス出来るように約束した[ 49] 。
ヘルシンキ・オリンピックスタジアム ヘルシンキには長いスポーツの伝統があり、最初に多くの国際的な認識を得たのは1952年ヘルシンキオリンピック の期間で、その後も市内では様々なスポーツイベントが開催されている。ヘルシンキは1940年夏季オリンピック の開催都市に選ばれたが、第二次世界大戦により中止されその代わりに1952年の開催都市となった。オリンピックはヘルシンキにとってはソ連と戦った冬戦争 や継続戦争 からの経済的な完全な復興や象徴的で画期的な出来事であった。開催されてから半世紀以上経った現在も、夏季オリンピック 開催地では最も緯度が高い場所に位置している(冬季オリンピック 開催地では、ノルウェー で開催された1994年リレハンメルオリンピック のリレハンメル が北緯61度と最も緯度が高い)。
1983年には初の世界陸上競技選手権大会 が開催され、2005年にもヘルシンキで開催され初めて2度開かれた都市となった。1971年、1994年、2012年にはヨーロッパ陸上競技選手権大会 が開催されている。
ヘルシンキはフィンランドでは最もポピュラーなチームスポーツであるサッカーとアイスホッケーで成功した地元クラブチームを擁している。HJKヘルシンキ (HJK)はフィンランドでは最大で最も成功したサッカークラブチームである。ヘルシンキの陸上競技クラブであるHelsingin Kisa-Veikot もまたフィンランド国内では主要なチームである。アイスホッケーは多くのヘルシンキ市民にとってはポピュラーなスポーツで、一般的には地元のクラブチームであるIFKヘルシングフォース (英語版 ) (HIFK)かヨケリト (英語版 ) を応援している。HIFKは14のフィンランドチャンピオンシップのタイトルに輝き、最上位のバンディ デビジョンでプレーしている[ 50] 。オリンピックスタジアムでは1957年に、バンディ世界選手権 が初めて開催された[ 51] 。
1980年以来、ヘルシンキシティマラソンが開催されているがこれは通常8月に開催されている。またF1 やラリー で多くのチャンピオンを輩出している国柄で、1997年5月25日にはフォーミュラー3000のレースが市内の通りで行われた。2009年にはヨーロッパスケート選手権が開催されている。
ヘルシンキ地下鉄 は明るいオレンジ色が特徴的な世界最北の地下鉄。ヘルシンキ・マルミ空港 は世界でも古くからある、フィンランドでは主要なゼネラル・アビエーション の空港。ヘルシンキの公共交通機関は路線バス、ヘルシンキ・トラム 、ヘルシンキ地下鉄 、ヘルシンキ近郊列車 、フェリーなどで構成されている。これらの公共公共交通機関は2010年に発足したヘルシンキ地域交通局 (英語版 ) により統括されている。ヘルシンキは長らくフィンランドで唯一路面電車が利用出来る都市だったが、2021年にタンペレにも路面電車が開業した。(以前はトゥルクにも導入されていたが、1972年に廃止された。)
ヘルシンキ地下鉄は1982年に開業した、フィンランド唯一の地下鉄システムである。開業から16年間は1路線だけであったが、1998年に東側に分岐線が開業し3つの駅が追加された。2006年に長らく議論されていたエスポー 南部への西側への延伸がエスポー市議会により認可され、2017年に一部区間が開通した。東側のシポー方面への延伸や新たな地下鉄路線も計画されている。
ヘルシンキ近郊列車はヘルシンキ・ヴァンター国際空港 やヘルシンキ都市圏郊外や近郊の都市とを結ぶ路線で2006年に開通したラハティ駅 までを結ぶ路線は最高時速220㎞と高速運転を行う。
2023年10月にはヘルシンキ・トラムと同じメーターゲージでヨケリ・ライトレール というライトレール 路線が開通した。この路線はエスポー のKeilaniemi とイタケスクス の間を結ぶ路線である。
ヘルシンキの主要駅にはヘルシンキ中央駅 やパシラ駅 があり、フィンランド各地に向け列車が運行されている。ペンドリーノ が主要都市間で運行されている。また、ロシアのサンクトペテルブルク とカレリアントレインズ によって3時間半で結ばれていたが、2022年ロシアのウクライナ侵攻 にともない、運行が停止された。
ヘルシンキの主要空港はヴァンター 市に位置するヘルシンキ・ヴァンター国際空港 で、ヘルシンキ中心部から北へ約19km離れている。欧州域内やアジアの各方面に定期便が就航し、フィンエアー のハブ空港 となっている。ヘルシンキの2つ目の空港はヘルシンキ・マルミ空港 でプライベートや一般向けに使われている。タリンへはヘルネサーリヘリポート (英語版 ) からヘリコプターが利用出来る。
フェリー航路はタリン 、マリエハムン 、ストックホルム へ様々な事業者が運航している。フィンラインズ (英語版 ) は貨客フェリーでポーランドのグダニスク やドイツのトラフェミュンデ やロストック 方面が利用出来る。サンクトペトロライン (英語版 ) は客船でサンクトペテルブルク へ週3便就航している。
ヘルシンキの自動車道路網の中心は3本の半円の環状道路であるケハ1号線 (英語版 ) Kehä I 、ケハ2号線 (英語版 ) Kehä II 、ケハ3号線 (英語版 ) Kantatie 50 は東西の動脈であるLänsiväylä やItäväylä などの高速道路に接続しフィンランド各地へ通じている。都心部を通るトンネルKeskustatunneli は繰り返し提案されているが、2011年現在構想段階に留まっている。ヘルシンキの自動車の普及率は1,000人当たり390台である[ 52] 。これは同程度の人口密度であるブリュッセルの1,000人当たり483台やストックホルムの401台、オスロの413台に比べると少ない[ 53] [ 54] 。
ヘルシンキのランドマーク、ヘルシンキ大聖堂
サウスハーバー
クリスマス時期のアレクサンダー通りに面したデパートのストックマン。
右側がレストランVltava 、背後はSanomatalo
6月上旬のEsplanadi
フィンランド国立劇場
テンペリアウキオ教会
夏のヒエタニエミビーチ
ヘルシンキ東郊では最大のイティスショッピングセンター
トゥール地区Töölö
デザイン博物館
ヘルシンキ議員ホール
旧市場内
ウルランリンナ地区
シルタサーリ地区
スヴィタリ地区
在フィンランド日本大使公邸
ヘルシンキには姉妹都市 は存在しない。しかし、EU加盟国や北欧諸国・バルト海 沿岸の都市などとの交流が盛んに行われている。
提携都市 ^a b Ainiala, Terhi (2009年). “Place Names in the Construction of Social Identities: The Uses of Names of Helsinki ”. Research Institute for the Languages of Finland. 2011年9月22日閲覧。 ^ "Area by municipality as of 1 January 2011" (in Finnish and Swedish). Land Survey of Finland. Retrieved 9 March 2011. ^ VÄESTÖTIETOJÄRJESTELMÄ REKISTERITILANNE 31.1.2014" (in Finnish and Swedish). Population Register Center of Finland. Retrieved 11 February 2014. ^ “ヘルシンキ漢字で書くと赫爾辛基 ”. 2021年1月28日閲覧。 ^ “Suomen virallinen tilasto (SVT): Väestörakenne [verkkojulkaisu ]”. Tilastokeskus (2024年4月26日). 2024年11月23日閲覧。 ^ “Cities of Finland ”. Eurostat. 2013年5月18日時点のオリジナル よりアーカイブ。2013年2月10日閲覧。 ^ Helsinki region in brief ^a b “City of Helsinki appointed World Design Capital 2012 ”. Worlddesigncapital.com (2009年11月25日). 2009年11月28日時点のオリジナル よりアーカイブ。2010年4月13日閲覧。 ^ “Liveabililty Ranking and Overview August 2012 - Economist Intelligence Unit ”. Eiu.com. 2013年3月12日閲覧。 ^ 0:00:00 0:01:00. “Most liveable city: Helsinki - Monocle Film / Affairs ”. Monocle.com. 2013年3月12日閲覧。 ^ “Utbildning & Vetenskap: Svenskfinland ”. Veta.yle.fi. 2009年7月8日閲覧。 ^ “Ruttopuisto – Plague Park ”. Tabblo.com. 2008年4月11日時点のオリジナル よりアーカイブ。2008年11月3日閲覧。 ^ ソ連軍、国境全線で攻撃開始(『東京日日新聞』昭和14年12月1日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p382 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ http://www.ymparisto.fi/download.asp?contentid=6776&lan=fi ^ Uudenmaan maakuntakaava selostus Archived 2011年8月13日, at theWayback Machine .^ “Taulukko: Taajamat väkiluvun ja väestöntiheyden mukaan 31.12.2012 ”. 193.166.171.75 (2012年12月31日). 2014年2月17日閲覧。 ^ Tukiainen, Matti. “Helsinki, Finland – Sunrise, sunset, dawn and dusk times around the World! ”. Gaisma . 2011年2月11日閲覧。 ^ “Stora Enson pääkonttori, Kanavaranta 1 ” (Finnish). "Helsingin Aallot" blog (2007年2月25日). 2011年2月5日閲覧。 ^ “Kohtaako Enson konttori voittajansa?” (Finnish). Helsingin Sanomat : Lead editorial. (2008年6月14日). http://www.hs.fi/paakirjoitus/artikkeli/Kohtaako+Enson+konttori+voittajansa/HS20080614SI1MA01re3 2011年2月5日閲覧。 ^ Penttilä, Vappu. “Kiasma nousi inhokkien ykköseksi ” (Finnish). Verkkoliite . Helsingin Sanomat . 2011年6月29日時点のオリジナル よりアーカイブ。2011年2月5日閲覧。 ^ Ministry for Foreign Affairs of Finland, Political Department:Memo 56 of 20 January 1982 (labelled highly confidential in 1982) (PDF , 1.37 MB) ^ “Helsingin vaalipiiri - Tulospalvelu - Kuntavaalit 2012 ”. Vaalikone.fi. 2013年1月1日時点のオリジナル よりアーカイブ。2013年3月12日閲覧。 ^ Tapani Valkonen ym. (2007年12月17日). “Tutkimuksia 10/2007: Elinajanodotteen kehitys Helsingissä ja sen väestönosaryhmissä 1991–2005 ”. Helsingin kaupunki, tietokeskus. 2007年12月30日閲覧。 ^ Tilastolaitoksen historiaa. “Tilasto ”. Stat.fi. 2010年4月13日閲覧。 ^ “Helsingin historia ”. Hel.fi. 2010年4月13日閲覧。 ^ “Maan alle ”. Aatos.fi (1972年12月30日). 2010年4月13日閲覧。 ^ Butzin, Bernhard (1991). “Helsinki — aspects of urban development and planning”. GeoJournal (Springer, Netherlands) 2 (1): 11-26. doi :10.1007/BF00212573 . ISSN 0343-2521 . ^ City of Espoo. “A Nordic Story of Youth, Growth and Excellence FACTS ABOUT ESPOO 6頁 ”. City of Espoo. 2013年5月17日閲覧。 ^ “HSL Helsingin seudun liikenne – About HSL ”. Hsl.fi (2010年1月1日). 2010年1月19日時点のオリジナル よりアーカイブ。2010年4月13日閲覧。 ^ “HSY – Default ”. Hsy.fi. 2010年4月13日閲覧。 ^a b c d http://www.hel2.fi/tietokeskus/julkaisut/pdf/12_06_28_Tilastoja_23_Peuranen.pdf ^ https://www.hel.fi/static/kanslia/Kaupunkitieto/24_06_17_Helsinki_facts_and_figures_2024.pdf ^ “Immigrants Learning Swedish over Finnish Run into Problems | News | YLE Uutiset ”. yle.fi. 2011年9月16日閲覧。 ^ “Helsingin nimistön vaiheita ”. Scripta.kotus.fi. 2010年4月13日閲覧。 ^ IGS.kirjastot.fi Archived 2012年5月4日, at theWayback Machine .^ “Russian language expanding rapidly in Finland ”. alaskadispatch.com (2010年5月13日). 2013年5月19日閲覧。 ^ Katriina Pajari (2008年12月7日). “Kolmannes maahanmuuttajista asuu Helsingissä – HS.fi – Kaupunki ”. HS.fi. 2010年4月13日閲覧。 ^ “Foreigners in Helsinki 2011 ”. City of Helsinki. 2014年7月22日閲覧。 ^ Helsinki Region Statistics Retrieved 2010-12-10.^ “Helsingin Sanomat – International Edition – Metro ”. Hs.fi (2005年11月9日). 2009年7月8日閲覧。 ^ “European Institute of Innovation and Technology: Home ”. Eit.europa.eu. 2010年4月13日閲覧。 ^ ヘルシンキに待望の音楽センターが誕生 フィンランド大使館 2011/08/30 ^ 2012~2014年、ヘルシンキが「世界デザイン首都」に 2009/11/26 フィンランド大使館^ “Circulation Statistics ”. The Finnish Audit Bureau of Circulations (Levikintarkastus Oy). 2009年6月1日時点のオリジナル よりアーカイブ。2009年7月25日閲覧。 ^ “World Press Trends: Newspapers Still Reach More Than Internet ”. World Association of Newspapers and News Publishers. 2012年11月19日閲覧。 ^ “Internet used by 79 per cent of the population at the beginning of 2007 ”. Statistics Finland . 2007年12月22日閲覧。 ^ “Market Review 2/2007 ” (PDF). Finnish Communications Regulatory Authority (FICORA) (2007年8月31日). 2007年9月4日閲覧。 ^ Information technology has become part of Finns' everyday life (Statistics Finland).^ “1Mb Broadband Access Becomes Legal Right ”. YLE (2009年10月14日). 2009年10月16日閲覧。 ^ Video from the Finnish final 2009 against OLS fromOulu :Youtube.com ^ Video from the tournament ^ This is Helsinki Archived 2011年12月11日, at theWayback Machine ., by City of Helsinki^ EAUE.de Archived 2013年9月23日, at theWayback Machine .^ “Tietokeskus: suunnatframe ”. Hel2.fi. 2009年7月8日閲覧。 ウィキメディア・コモンズには、
ヘルシンキ に関連する
メディア および
カテゴリ があります。
01.ヘルシンキ (656,229人) 02.エスポー (291,439人) 03.タンペレ (239,076人) 04.ヴァンター (235,911人) 05.オウル (206,001人) 06.トゥルク (193,089人) 07.ユヴァスキュラ (142,321人) 08.ラハティ (119,944人) 09.クオピオ (119,249人) 10.ポリ (83,809人) 11.コウヴォラ (81,778人) 12.ヨエンスー (76,334人) 13.ラッペーンランタ (72,288人) 14.ハメーンリンナ (67,774人) 15.ヴァーサ (66,960人) 16.セイナヨキ (63,961人) 17.ロヴァニエミ (63,032人) 18.ミッケリ (52,962人) 19.コトカ (51,869人) 20.サロ (51,778人) 21.ポルヴォー (50,610人) 22.コッコラ (47,734人) 23.ヒュヴィンカー (46,572人) 24.ロホヤ (46,054人) 25.ヤルヴェンパー (44,053人) 26.ヌルミヤルヴィ (43,403人) 27.キルッコヌンミ (40,055人) 28.ラウマ (39,006人) 29.トゥースラ (38,779人) 30.ケラヴァ (37,103人) 31.カヤーニ (36,570人) 32.ノキア (34,348人) 33.カーリナ (34,333人) 34.ユロヤルヴィ (33,264人) 35.サヴォンリンナ (32,872人) 36.カンガサラ (32,117人) 37.ヴィフティ (29,222人) 38.リーヒマキ (28,781人) 39.ラーセポリ (27,580人) 40.イマトラ (26,329人) 41.ラーヘ (24,574人) 42.ライシオ (24,344人) 43.サスタマラ (24,140人) 44.レンパーラ (23,711人) 45.ホッロラ (23,428人) 46.トルニオ (21,573人) 47.シポー (21,514人) 48.シーリンヤルヴィ (21,396人) 49.イーサルミ (21,317人) 50.ヴァルケアコスキ (20,885人)
初期加盟国 第一次拡張 (1973) 第二次拡張 (1981) 第三次拡張 (1986) 第四次拡張 (1995) 第五次拡張 (2004) 第六次拡張 (2007) 第七次拡張 (2013)