Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

ビルマ国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。このテンプレートの使い方
出典検索?"ビルマ国" – ニュース ·書籍 ·スカラー ·CiNii ·J-STAGE ·NDL ·dlib.jp ·ジャパンサーチ ·TWL
(2019年12月)
ビルマ国
ဗမာနိုင်ငံတော် (ミャンマー語)
イギリス統治下のビルマ1943年 -1945年イギリス統治下のビルマ
ビルマ国の国旗ビルマ国の国章
国旗国章
国歌:တို့ဗမာသီချင်းビルマ語版(ビルマ語)[1]
ドバマ・タチン
ビルマ国の位置
公用語ビルマ語[要検証ノート]
英語
日本語
宗教国家神道
仏教
キリスト教
首都ラングーン
国家代表
1943年 - 1945年バー・モウ
内閣総理大臣
1943年 - 1945年バー・モウ
面積
678,500km²
人口
18,846,800人
変遷
建国宣言1943年8月1日
イギリスに占領1945年3月27日
通貨チャット
時間帯UTC +6:30(DST: 無し)
ミャンマーの歴史
ピュー (–10世紀)
モン王国英語版 (825?–1057)
パガン王朝 (849–1298)
ペグー(ハンターワディー)王朝 (1287–1539)
ピンヤ朝 (1313–1364)
アヴァ王朝 (1364–1555)
タウングー王朝 (1510–1752)
ペグー王朝 (1740–1757)
コンバウン王朝 (1752–1885)
イギリス統治下 (1824–1948)
英緬戦争 (1824-1852)
ビルマ国 (1943–1945)
現代 (1948–現在)
ビルマ連邦 (1948–1962)
ビルマ連邦社会主義共和国 (1962-1988)
ビルマ式社会主義
ミャンマー連邦 (1988–2010)
ミャンマー連邦共和国 (2010–現在)

ビルマ国(ビルマこく、ဗမာနိုင်ငံတော်英語:State of Burma)は、1943年昭和18年)8月1日から1945年(昭和20年)3月27日にかけて、日本占領時期のビルマ(現ミャンマー)に存在した日本の傀儡国家である。

成立

[編集]

1941年(昭和16年)12月26日、アウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が建軍され、日本軍と共にイギリス統治下のビルマへと進軍(ビルマ戦役)、翌1943年4月にはイギリス軍を駆逐して刑務所に収監されていたバー・モウが解放された。日本軍は新政府の指導者となるようバー・モウを説得し、彼を新しく設けた行政府の長官に就任させた。

1943年(昭和18年)8月1日早朝、ビルマ方面軍司令官河辺正三は、バー・モウらを前に軍政施行撤廃を宣言。このあと日本政府・軍の後押しによる独立準備委員会は建国議会の成立と独立を宣言、「ビルマ国」が誕生した。バー・モウは「Naingandaw Adipadi(ビルマ語では国家元首を意味する一般名詞だが日本ではバー・モウがついたこの役職を国家代表と訳することが多い)」に推戴され[注釈 1]、訪日時に授与された勲一等旭日大綬章を佩用して就任を宣誓[注釈 2][2]。そのあと閣僚15名と枢密院議員17名を任命した。また即日、日本政府から承認を受け、同盟条約を締結するとともに、ラジオ放送を通じて英に対し宣戦布告をおこなった。なおビルマ国を承認したのは日本のほかに、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(汪兆銘政権)、満州国クロアチアスロバキア、ブルガリア、バチカン市国の9か国である[3]

経緯

[編集]

しかし独立と同時に締結された「日本国緬甸国軍事秘密協定」により、約20万人の日本軍は引き続きミャンマーへの駐留が認められ、その行動の自由が保障され、軍隊(ビルマ国民軍)と警察に対する指揮権が認められるなど、ビルマ国は独立とは名ばかりの日本の傀儡政権だった[3]

しかもその日本支配の評判たるや惨憺たるものだった。日本軍がミャンマーに持ちこんだ憲兵隊は、反日活動の疑いをかけた者を容赦なく拷問にかけ、気に入らないことがあれば一般市民を平手打ちし[注釈 3]コレラの予防注射証明書の提出が遅い女性のスカートを公衆の面前でまくるなど乱暴狼藉を働いた。憲兵隊は「キンペイタイ」と今でもミャンマー語に残り、語り草になっている。また本来裸足入るべきパゴダに軍靴のまま上がったり、ミャンマーではご法度な人前で全裸になって水浴びをしたり、ミャンマーの価値観にそぐわない日本兵たちの行動も顰蹙を買った[4]

のちに国連事務総長となったウ・タントは以下のように回想している[2]

例えば、日本の一等兵は、自分に対して無礼な態度を取ったビルマ人を平手打ちした。その結果、4年間の日本統治下におけるビルマ人の気分は、激しい恐怖感と完全な無力感に特徴づけられた…私が驚いたのは、私の経験上、最も教養があり、最も文明的で、最も礼儀正しい国民の一つである日本人が、最も傲慢で残忍な支配者になり得るという事実だった。 — ウ・タント

また日本軍は1943年10月以降は制空権を失い、主要都市や軍事基地が英空軍の空襲に晒され、建物・インフラが破壊された。最大の輸出品だった米は国際市場との繋がりを失い輸出量は10分の1まで減少、作付面積と生産量も大幅に減少した。日本軍による飛行場建設、架橋工事、道路工事への強制徴用、インド人労働者の退去により労働力は極端に不足。そんな中で日本軍は軍票を乱発したので、物価は1941年12月から1945年6月にかけて306倍に上昇、ハイパーインフレーションは人々の生活を圧迫した。1942年6月から始まった泰緬鉄道の建設には、ミャンマー人も10万6千人徴用され、劣悪な労働環境と拷問のせいで4万人以上が命を落とした[3]

崩壊

[編集]

1944年末までにインパール作戦で大敗を喫するなど日本の敗色が濃くなった為、4月25日、南方軍ビルマ方面軍参謀副長磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一がバー・モウ暗殺未遂事件を起こす。1945年3月27日、アウンサンは日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。

1945年、連合国軍のビルマ奪回を目指す攻勢を受け、日本軍は同年5月にラングーン(現ヤンゴン)から撤退した。それにより、ビルマ国政府は日本に亡命し、元首のバー・モウも8月にはタイ王国経由で日本へ亡命した。同年8月に日本が連合国に降伏したことでビルマ国は事実上解体、戦犯容疑者とされたバー・モウは同年12月に自らイギリス軍へ出頭した。なおこの敗走の過程で、日本軍は第一モールメン・タキン事件カラゴン事件といった戦争犯罪を引き起こしている。

その後

[編集]

現在、ミャンマー政府は、ミャンマー独立をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。またミャンマー国軍は1945年3月27日の対日一斉蜂起を成立日とし国軍記念日としている(しばしば勘違いされているがビルマ独立義勇軍の成立は12月26日であり、3月27日のミャンマー国軍記念日とは関係がない)。一方でミャンマー政府は1981年4月、独立に貢献した南機関鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している[5]

教育政策

[編集]
→「ミャンマーの教育 § 日本占領時代」も参照

インドネシア等と異なり、形式上は独立国であったため、日本語学校の設立など普及活動はなされたものの、日本語や日本文化は必修科目ではなかった。満州国では日本語が学校教育における教授言語とされたのに対し、ビルマ国では選択科目の1つにされたに過ぎず、公用語ともされなかった。英語の非公用語化は順次すすめられ、英語の法令や公文書をビルマ語に置き換える作業が行われた。

美術

[編集]
独立記念切手(1943年)

ビルマ国発足に関連して、日本の著名な従軍画家の手により戦争記録画が製作された。それらの多くは戦後、GHQ軍国主義的であると判断されて没収1970年(昭和45年)、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で日本に返還され、いずれも東京国立近代美術館に収蔵されている[6]

  • 『バーモウ・ビルマ国家代表像』(伊原宇三郎 1943年)[7]
  • 『ビルマ独立式典図』(小磯良平 1944年)[8]
  • 『日緬条約調印図』(小磯良平 1944年)
  • 『ラングーンの防空とビルマ人の協力』(鈴木亜夫 1944年)
  • 『衛生隊の活躍とビルマ人の好意』(鈴木良三 1944年)
  • 『ビルマ進攻作戦開始』(高田正二郎 1944年)

ビルマ国政府

[編集]

最初のビルマ国内閣は、以下のとおりである。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^バー・モウはビルマ国内に向けては「Naingandaw Adipadi」を名乗っていたが、共和制を忌避する日本に配慮し、対外的には首相を名乗った。1943年11月には東京で開かれた大東亜会議にバー・モウが参加しているが、大東亜共同宣言にはビルマ国内閣総理大臣として署名している。
  2. ^当初、日本軍はコンバウン朝最後の王ティーボーの異母兄弟・ピンミナ王子(Pyinmina Prince)を王位に就けることを検討していたが、実現しなかった。
  3. ^ミャンマーでは大変無礼な行為である。

出典

[編集]
  1. ^Nippon News, Number 166, Nippon News, No. 166, August 11, 1943 (video). NHK International Inc. 11 August 1943.
  2. ^abThant Myint-U 2008, 10.THE IMPORTANCE OF DRESSING UP.
  3. ^abc阿曽村・奥平 2016, pp. 83–88.
  4. ^鈴木 1977, pp. 125–131.
  5. ^藤井厳喜「教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章]」夕刊フジ 2014年2月26日
  6. ^25年ぶり戦争絵画 報道関係者に公開『朝日新聞』昭和45年(1970年)6月16日夕刊、3版、9面
  7. ^伊原宇三郎 1894 - 1976 IHARA, Usaburo 作品詳細”. 独立行政法人国立美術館. 2022年9月2日閲覧。
  8. ^小磯良平 1903 - 1988 KOISO, Ryohei 作品詳細”. 独立行政法人国立美術館. 2022年9月2日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
ポータル 大東亜共栄圏
大東亜共栄圏を構成する国・地域
ウィキポータルPortal:大東亜共栄圏
日本の旗日本
共通法における領土区分
統治権を一時保有する地
中国方面
東北三省満洲2
中国本土
内蒙古3
南方北方方面
既存の国家
新設のまたは政府
 日本のその他占領地
関連する出来事
  • 1:共通法第1条の規定により、樺太は内地に包含された。
  • 2日本政府の立場では、満洲の独立は地元住民の自発的な意志に依るものであり、中国の行政・領土的保全を約する九カ国条約の遵守と満洲国の承認は矛盾するもので無かった。
  • 3:日本は内蒙古を中国本土とは異なる地域として扱かっていたが、現地の政治権力上は中国内の自治行政区画に留められた。
  • 地方自治の為に設置された組織。現地の意向に関係なく、日本には中央政府へ発展させる意図がなかった。
  • :大東亜会議開催(1943年)以前に消滅した組織。
  • :日本政府から政府承認を受ける前に消滅した組織。
スタブアイコン

この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

スタブアイコン

この項目は、ミャンマーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますPortal:東南アジア /プロジェクト:アジア)。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ビルマ国&oldid=106665598」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp