この項目では、旧名「鈴木自動車工業」について説明しています。音楽楽器メーカーについては「鈴木楽器製作所 」をご覧ください。
Sマークのロゴ スズキ株式会社 (英 :SUZUKI MOTOR CORPORATION [ 5] )は、日本の静岡県 浜松市 に本社を置く世界 大手の輸送機器 及び機械工業 メーカーである。日経平均株価 およびTOPIX Large70 、JPX日経インデックス400 の構成銘柄の一つ[ 6] [ 7] 。
四輪車 の世界販売台数は第10位、国内販売台数は第2位[ 8] [ 9] 、二輪車 の世界販売台数は第8位、国内販売台数は第2位[ 10] 、船外機 では販売台数世界第3位である[ 11] 。
2020年度には国内販売台数(普通車と軽自動車の合算)が2位となった[ 12] 。
1998年から採用しているコーポレートスローガンは、「小さなクルマ、大きな未来。」[ 13]
大工 から身を起こした鈴木道雄 により、1909年 (明治 42年)に織機 メーカー「鈴木式織機製作所」として創業された[ 注釈 2] 。当初の木製織機からのちには金属製自動織機の生産へ移行し、企業規模を拡大すると共に、精密機械の加工ノウハウを蓄積した。しかし、近代化された力織機 はいったん織物工場に納入されると長年の稼働が可能な耐久商品で代替需要が小さく、将来の販路飽和が予見されたことから、機械技術を活かした多角化策として、早くから自動車産業への進出検討を始めていた[ 注釈 3] 。
本格的な参入は、1950年代 初頭の自転車 補助エンジンブームを機にオートバイ 開発に乗り出した、1952年 (昭和27年)からである。更に1955年 (昭和30年)には四輪軽自動車 分野にも進出し、以後、小型オートバイと軽自動車分野をメインに、日本の小型自動車業界での地歩を築いた。ロゴの制定は1958年 (昭和33年)で、美術系の大学生に呼びかけて候補を募った。300余点の候補のなかから手銭正道[ 注釈 4] のデザインが選ばれた[ 15] 。
四輪車は軽自動車や小型車などを主力としている。軽自動車の分野では、1973年 (昭和48年)から2006年 (平成18年)までの34年間にわたり販売台数日本一を誇るものの、その間、1975年 (昭和50年)に自動車排出ガス規制 が導入された際には、基準をクリアするエンジンを生産することができず、湖西工場が2か月間操業停止に追い込まれるなど経営危機にも直面した[ 16] 。1989年 (平成元年)にマツダ 向けの軽自動車(マツダ・キャロル )生産を開始、1990年代以降は日産自動車 、三菱自動車工業 へのOEM 供給も行っている。社団法人全国軽自動車協会連合会 (全軽自協)の発表した2006年度(平成18年度。2006年4月 - 2007年3月)軽四輪車新車販売台数速報[ 17] によれば、長年競い合ってきたダイハツ工業 に1位の座を譲った(ダイハツ61万6206台、スズキ60万5486台)。
同社は2006年(平成18年)にスイフト やSX4 などの小型車や普通車 の強化を表明しており、生産能力確保の為には軽No.1にはこだわらず、軽生産の縮小も辞さないという姿勢を打ち出している。
しかし、2014年(平成26年)1月に発売を開始したクロスオーバーSUV のハスラー が、販売初年で10万4,233台を記録するヒット車種となったことで軽乗用車販売台数の大幅アップ(2013年比15.9 %増)に貢献し、全軽自協による2014年(平成26年)の軽四輪車新車販売速報[ 18] ではダイハツ工業(70万6288台)を2,795台上回る70万9083台となり、8年ぶりに軽自動車年間販売台数No.1の座を奪還した[ 19] [ 20] 。
新興国 市場への進出に積極的で、特に早くからインド 市場で強みを発揮しており、インドにおける自動車年間販売シェアの54 %はスズキが占めている[ 21] 。2002年(平成14年)にインド政府との合弁会社マルチ・ウドヨグ をマルチ・スズキ・インディア として子会社化し、連結経常利益の4割を占めている。ハンガリー (マジャールスズキ )とインド(マルチ・スズキ)の生産拠点では、日本国外市場向けの製造のみならず、日本市場への輸出も積極的に行っている。
東京商工リサーチ 浜松支店が2016年(平成28年)5月18日に発表したところによると、日本国内の仕入れ先は5,372社で、そのうち一次仕入れ先は1,154社、二次仕入れ先は4,218社であり、一次仕入れ先の約半数である506社が静岡県内の企業で、数としては一位を占めている。またそれとは別に、一次仕入れ先の過半数は資本金5000万円未満の企業である[ 22] 。取引銀行は、三菱UFJ銀行 、静岡銀行 、りそな銀行 である。
自動車以外ではモーターサイクル 、モーターボート (スズキマリン)、船外機 、発電機 、リース /クレジット 事業(スズキファイナンス)、住宅 (スズキハウス)、マジャール・スズキからの縁によるハンガリー産ワイン ・はちみつ 、保険 の販売やカー用品 事業(オートリメッサ)、ガソリンスタンド 、ゴルフ場 の経営なども手がける。これらのほとんどは関連会社のスズキビジネス が担当している。
2020年(令和2年)に創立100周年を迎えた国内自動車メーカーの中でも歴史の長い名門企業である。現在の大手自動車メーカーでは珍しく、起業から現在に至るまで創業家一族が経営の中枢を担う 役職を世襲 している。ただし、2000年(平成12年)から2008年(平成20年)までは創業家以外から社長が選出されており、初代社長の鈴木道雄と2015年(平成27年)に社長に就任した鈴木俊宏 以外の創業家出身の社長は全て婿養子 である。
代 氏名 就任日 退任日 主な実績や特記事項 鈴木式織機製作所 社長 1 鈴木道雄 1909年10月 1920年3月 創業者。スズキの前身である「鈴木式織機製作所」を創業し、各種製織機を発明した。 鈴木式織機 社長 1 鈴木道雄 1920年3月 1954年6月 「鈴木式織機製作所」を株式会社化し「鈴木式織機」を設立した。 鈴木自動車工業 社長 1 鈴木道雄 1954年6月 1957年2月 自動2輪車の研究開発に投資し、軽自動車の4輪乗用車スズライトの導入に至った。社名を「鈴木自動車工業」へ改称した。 2 鈴木俊三 1957年2月 1973年5月 道雄の長女婿養子。社長が実際に参加して自動2輪車の開発が行われた。最初は岳父の道雄が掲げた4輪車の開発に反対していたものの理解を示し、車輌開発と生産計画を継続し完了させた。 3 鈴木實治郎 1973年5月 1978年6月 俊三の義弟、道雄の三女婿養子。自動車及びオートバイ事業の世界への拡大と、医療福祉施設への参入を行い、電動車椅子の導入を実施。そして、スズキワークスチームが、ロードレース世界選手権 に戻るように導いた。1978年6月で、病気を理由に社長を辞任した。 4 鈴木修 1978年6月 1990年10月 俊三の長女婿養子。日本の軽自動車の覇権を握る「スズキアルト」、「スズキワゴンR」などのモデルを発売。Maruti Suzuki (以前はMaruti Udergius)をインド に設立。更に投資する為、ハンガリー に行きMagyar Suzuki を設立。 スズキ 社長 1 鈴木修 1990年10月 2000年6月 米国大手自動車大手ゼネラルモーターズの資本協力を行ったり、社名を「スズキ株式会社」に改称した。 2 戸田昌男 2000年6月 2003年3月 初の創業家以外の社長。販売面における業務提携を川崎重工業と結び、オートバイ、ATVなどの製品の相互OEM供給を行う協力を発表した。しかし、後に業務提携は、スズキの意向により解消された。 3 津田紘 2003年3月 2008年12月 先代に続き創業家以外の社長。「スズキスイフト」、「スズキSX4」などのモデルを発売し、世界ラリー選手権 に参戦した。 4 鈴木修 2008年12月 2015年6月 鈴木修の長女婿だった小野浩孝を第7代目の社長に人選していたが、膵臓癌のため2007年12月12日に死去。当時78歳の修が社長に復帰した。2009年には、ドイツのVW Group と株式所有交換を行い事業提携を共にしていたが、VW側の買収工作を端に泥沼の裁判の末、スズキの意向により解消された。 5 鈴木俊宏 2015年6月 現在 鈴木修の長男。創業者の道雄以来、初の直系親族の社長になった。
氏名 就任日 主な実績や特記事項 スズキ 相談役 鈴木修 2021年 6月中興の祖。 原山保人 2021年 6月小野浩孝亡き後のスズキの経営体制を支える。 杉本豊和 2021年 6月監査役として財務体質の強化を行った。
乗りものをつうじてひとりひとりを豊かに(1970年代中期) 価値ある製品づくりをめざす鈴木自動車 もっと個性的に、もっとあなたらしく Personal Best(1987年 -1997年 ) 小さなクルマ、大きな未来。(1998年 - 現在) Way of Life!(グローバルスローガン) 日産自動車 とは2002年4月からMRワゴンを日産・モコ としてOEM供給を開始した事を皮切りに、2007年1月には6代目アルトを日産・ピノ (2010年1月まで販売)として2009年12月にはパレットを日産・ルークス (2013年3月まで販売)として、2013年12月には2代目エブリイワゴン/5代目エブリイ/12代目キャリイを2代目NV100クリッパーリオ /NV100クリッパー /NT100クリッパー としてそれぞれOEM供給を行なっている。反対に、日産自動車からミニバンの日産・セレナ (3代目から5代目)のOEM供給を受け、2022年までランディとして販売されていた。
三菱自動車工業 とは2011年3月から、3代目ソリオを三菱・デリカD:2 として、2014年2月には2代目エブリイワゴン/5代目エブリイ/12代目キャリイを2代目タウンボックス 及び7代目ミニキャブバン/ミニキャブトラック としてそれぞれOEM供給が行われている。
マツダ には1989年5月から軽自動車 及び軽商用車のOEM 供給を行っている。1989年10月にはスズキが乗用車用基幹部品(エンジン等)の供給を開始し、1998年10月の新規格軽乗用車の発売以降は、スズキがマツダの軽自動車全モデルをOEM供給している[ 33] 。
トヨタ自動車 とは歴史的に縁が深く[ 34] 2017年には次世代のエコカーや自動運転車の技術など幅広い分野で業務提携を結ぶことで基本合意している[ 35] 。2019年にはトヨタは約960億円でスズキの株式の約4.9%を取得し、スズキも480億円相当のトヨタの株式を持つ資本提携に合意[ 36] 。スズキがバレーノ とビターラブレッツァ を供給しトヨタがインド及びアフリカ市場向けに「グランザ」「スターレット」及び「アーバンクルーザー」の車名で販売する一方で、トヨタからはRAV4 PHV とカローラツーリングスポーツ(日本名・カローラツーリング )の供給を受け、スズキが欧州市場向けに「アクロス」及び「スウェイス」の車名で販売する。日本ではミニバンのノア (4代目)のOEM供給を受け、2022年からランディとして販売されている。
米GMとの提携 1981年8月にはゼネラルモーターズ (GM)と提携を開始した。スズキの鈴木修会長は記者会見において、GMに吸収されるのではないかとの懸念について、「GMは鯨、スズキは蚊。鯨に飲み込まれずに高く舞い上がれる」とコメントし話題となった[ 37] 。カルタス やエスクード を北米ではシボレー やジオ ブランドでOEM供給していた。1988年から1993年までは日本においてシボレーやポンティアック の輸入を行った。2003年から2006年には再びシボレー車の輸入を行っていた。 スズキは同じGMグループの富士重工業 (当時、現・SUBARU )やいすゞ自動車 と部品の共通化などをすすめていたが、GMは2005年に富士重工株、2006年にいすゞ株をトヨタ自動車 に売却した。 財務体質が悪化したGMは2006年に保有していたスズキ株式20%のうち17%を売却し、それをスズキが自己資金で買い戻した。さらにGMの急激な業績悪化と世界金融危機 による資金繰りの悪化により、2008年11月17日付けで保有していた残り3%(1,641万株)のスズキ株を223億円でスズキに売却した。これによって日本からGMの資本はすべて引き上げられ、GMグループに属する自動車製造会社はなくなった。 スズキはGMとの提携関係を継続するとして今後の新型車に搭載するハイブリッドエンジンを共同開発する方針を示していたが、2009年12月にはカナダ の生産拠点であるCAMIオートモーティブ の全株式をGMに売却するなど[ 38] 、提携解消に向けた動きが順次進められている。スズキ会長兼社長の鈴木修 は同年12月16日 に行われた新型アルト の発表会の席上で「GMには28年間本当にお世話になった。小学校を卒業して中学校に入る際に先生が変わった、そんな気持ちだ」と関係を表現している[ 39] 。 独VWとの提携 2009年 12月にはフォルクスワーゲン (以下『VW』)との包括的提携を発表した[ 40] 。VW側はスズキの発行済株式の19.89%を24億ドルで取得する一方で[ 41] 、スズキ側もVW株を「VWがスズキ株式の取得に投じた金額の2分の1を限度として」取得するほか、ハイブリッド車等の開発でも提携するとしていた[ 42] 。2011年3月に発表されたVWの年次決算報告書の中でVWはスズキを「財務・経営面で重大な影響を及ぼせる会社」にあげた。スズキの鈴木修会長兼社長は提携時に両社は対等な関係を維持することを約束したはずだとしてVWに対して不快感をしめした[ 43] 。 6月にスズキがフィアットからディーゼルエンジンの供給を受けることが発表されると、VWは提携合意に違反するとして抗議を行った。 スズキは、技術的支援が受けられなかったことや、VWがスズキを「財務的、経営方針上、重大な影響を与えることができる」会社とみなしたことを理由として、2011年9月12日にVWとの提携を解消すると発表した[ 44] 。互いに購入した株式については売却を求めるとした。VWは2011年10月27日発表の決算報告書ではスズキを持ち分法適用会社から除外した[ 45] 。スズキは提携の解消を求め国際仲裁裁判所 に調停を依頼した[ 46] 。 2015年 8月30日 、国際仲裁裁判所が、VW保有のスズキ株を売却すべきだという判断(判決)を示し、VWが保有するスズキの全株式(19.9%)を手放すことになり、正式に提携解消となった[ 26] [ 27] 。スズキ会長兼CEOの鈴木修は同日の記者会見で、記者から「VWとは別の分野での協力することはあるか」との質問に対し、「離婚した人とまた再婚することはないだろう」と述べた[ 47] 。また、正式な提携解消後も審議が継続されていたVWが主張した契約違反に基づく損害については、2016年2月10日にVWが損害賠償請求を取り下げ、スズキがVWに対して本件の和解金として一定額を支払うことで和解 が成立し、一連の仲裁が終結された[ 48] 。 「人と同じ事はやらない。やるなら世界一を目指すのがスズキ」の企業風土がある[ 49] [ 50] 。
小少軽短美(小さく少なく軽く短く美しく)スズキの生産品及び生産設備に求められる指標である[ 51] [ 52] 。
二輪車の分野では1980年代 に爆発的な人気となったレーサーレプリカ の第1号としてRG250ガンマ (2ストローク)を発売した。
50ccのレーサーミニとしてGAG (4ストローク)を発売した(ジョーク・バイクとして発売されたGAGの後追いとして他社から出たものは、完全な「レーサーミニレプリカ」として発売されたため、レーサーミニの第1号であるGAGは短命に終わる)。
今日、特に欧州で人気の400ccや650ccのビッグスクーター の第一号もスズキによって発売された。それ以前にも250ccのスクーターはホンダ などにより既に発売されていたが、それはあくまで(高速道路も走る事ができる、50ccや125ccの標準的な排気量のスクーターから見れば)「巨大化したスクーター」としてのみ認知されていた。それをスクーターとしては異例な400ccの大排気量エンジンを搭載し、さらに巨大な650cc[ 注釈 5] というエンジンを載せてビッグスクーター=プレミアム・スクーター[ 注釈 6] という図式を作り上げた。これによりビッグ・スクーターは上記の1980年代のレーサーレプリカと同じように人気となる。
馬力競争にも積極的に参加し、スズキの車種の出力が後の業界自主規制 値の発端となった例も多い。例として、二輪車250ccクラスの45馬力(RG250ガンマ)、同400ccクラスの59馬力(GSX-R )、軽自動車の64馬力(アルト ワークス )、欧州のバイクにおけるスピードリミッター装備とスピードメーターの300km/h目盛自粛(ハヤブサ )が挙げられる。
日本で初めてFF方式を採用したのは1955年に登場したスズライトSSである[ 53] 。
その一方でジムニー やキャリイ の各2ストロークエンジンを1980年代中半頃まで使用し続けたり、Kei は登場から11年間程発売され、ジムニー は登場から10年程(3代目は20年程)経過した車種でありながら改良を重ねつつ生産・発売し続けたり、ソリオ (旧・ワゴンR+ → ワゴンRソリオ)は2010年にフルモデルチェンジされるまで11年間も生産・販売し、ワゴンR とスイフト はキープコンセプトであるなど、4輪に関しては保守的な面もある。しかし、初代ワゴンRの「居住性を確保するために背を高くした軽乗用車」というコンセプトは発売当時は非常に革新的で、軽トールワゴン という新たなジャンルを開拓した。またスズキの四輪車は、トヨタ・ノア のOEM 供給車であるランディ を除き、全て寒冷地仕様 となっている。
また、現代において多くの車種で採用されている電動パワーステアリング (EPS)を搭載した量産車を世界で初めて、実用化・量産化している(88年式セルボ に初搭載)[ 54] 。
浜松工場(静岡県浜松市 )(スクーターから大型バイク全般・二輪車エンジン製造) 台鈴工業股份有限公司(台湾 )- アドレスV125シリーズなど 常州豪爵鈴木摩托車有限公司(中国 )- GSR250など 済南軽騎鈴木摩托車有限公司(中国 )- アドレス125など タイスズキモーター社(タイ)- バーグマン200など P.T.スズキ・インドモービル・モーター社(インドネシア )- アドレス110・GSX-S125など スズキ・モーターサイクル・インディア社(インド )- ジクサーなど スズキ・マニュファクチャリング・オブ・アメリカ(アメリカ ) カンボジアスズキモーター社(カンボジア ) スズキフィリピン社(フィリピン ) 湖西工場(静岡県湖西市) タイスズキモーター社(タイ) スズキ・マニュファクチャリング・オブ・アメリカ(アメリカ) 竜洋コース(静岡県 磐田市 )スズキのメインテストコース。周回路の他モトクロス用ダートや各種試験設備を備える。 下川コース(北海道 上川郡 下川町 )冬季の寒冷地試験コース。 相良コース(静岡県牧之原市 )ここの周回試験路の内側にスズキ相良工場と、スズキ納整センター相良納整センター[ 注釈 7] がある。 浜松市天竜区青谷地区に二輪テストコースを建設予定。 四輪自動車 日本国内の自動車の販売網は「スズキ店 」と、小型車をメインに扱う「スズキアリーナ店 」(2000年 4月より発足)の2ディーラー体制であり、更にその下に「副代理店」「業販店」というサブディーラーが存在している。副代理店・業販店は、町の自動車整備工場や中古車販売店が大部分を占めている。
日本国内のサブディーラーは各地域ごとの「スズキ自販」会社が統括しており、日本に5万店ある「業販店」の中でも販売実績の多い店を「副代理店」としている。スズキでは、それらサブディーラーの販売比率が7割以上を占めている。各地域ごとの「スズキ自販」会社は、一般顧客向けの販売と同時にサブディーラーへの卸会社としての機能も持っている。
メーカー出資の子会社ディーラーは「スズキ自販○○」(○○には都道府県名が入る。例:スズキ自販東京)という社名になっているケースがほとんどである。
2021年 12月から始まったテレマティクス サービス「スズキコネクト」においては、システム搭載車からの車両状態データを共有しサービス対応ができる「スズキコネクト店」を新設する。一定条件を満たした、スズキ店・スズキアリーナ店・副代理店が対象になる。
インド市場においては、マルチ・スズキ・インディア主導により、2015年 より上級車チャネル「NEXA(ネクサ)」が立ち上げられ、既存のマルチ・スズキディーラーよりも上質感と高級感を訴求し、高価格帯車種を中心に取り扱っている。
二輪バイク 他ブランドとの併売店舗の「SBS」(スズキバイクショップ)と、スズキ車専売店舗の「スズキワールド 」の2つに分かれている。
また、大阪府 の自動車部品商社SPKが一部海外販売車種の逆輸入・販売を行い「モトマップ」の名称で全国販売網を統括していたが、2020年12月で業務を終了した。販売車種の保証業務はスズキ二輪 に引き継がれた。
以下は一例である。
オートリメッサ -カー&バイク用品店 スズキハウス - 住宅事業 ハンガリー製トカイワイン の輸入も行っている。 スズキファイナンス - 製品販売に関するクレジット ・リース 等の金融業務を行う。 静岡エフエム放送 - スズキが筆頭株主。SkyDrive - 次世代技術eVTOL(空飛ぶクルマ)の技術開発にむけ、出資。 Applied Electric Vehicles(オーストラリア) - 次世代モビリティ用ソフトウェア開発の強化にむけ、出資[ 55] 。 スズキ本社の正門前に2009年に開館したスズキ歴史館 がある。入場無料だが、電話、ファックス、公式サイトのいずれかで予約が必要。
ワールドラリーカーのSX4 WRC トランスシベリア・ラリーのグランドヴィターラ 80〜90年代から2000年代まで、田嶋伸博 や彼のチームを支援する形で、前輪駆動 車でラリー へワークス参戦していた。APRC(アジアパシフィックラリー選手権 )からJWRC(ジュニア世界ラリー選手権)へステップアップし、後者で3度のタイトルを獲得した。2007後半〜2008年は四輪駆動 のワールドラリーカー で世界ラリー選手権 (WRC)に参戦したが、リーマン・ショック に端を発した世界的な経済不況によりわずか1年半で撤退。その後スズキ四輪部門のワークス・チーム としてモータースポーツ活動を統括していたスズキスポーツ の株式を売却。スズキスポーツは2011年に社名をアイアールディー と改め独立系チームとなり、2015年に創業者の田嶋が社長を務める株式会社タジマモーターコーポレーションに吸収合併された[ 56] 。
オンロードのレースへの参戦例は少ないが、過去にはスズキスポーツ主催のワンメイクレース としてフォーミュラ・スズキ隼 /フォーミュラ・スズキKei を主催していたことがある。
1990年代初頭にはレイトンハウス (マーチ・エンジニアリング )とのジョイントでフォーミュラ1 (F1世界選手権)への参戦も密かに検討され、エンジンの試作まで行われたが、バブル景気 崩壊の影響で計画が中止されている。
また現在でも海外ではスズキの現地法人によるラリー系競技への参戦が各地で行われている。
MotoGPのGSX-RR(2017年) モトクロスのRM-Z(2015年) オートバイ自動車用部品の開発販売を行っているチューナー・レーシングチームであるヨシムラ がスズキとの関係が深い。鈴鹿8時間耐久ロードレース や全日本ロードレース選手権 などの耐久レースや日本国内のレースにおいては、ヨシムラの後方支援を行う形での参戦が多い。
スズキのバイクでMotoGP (ロードレース世界選手権、旧WGP)の最高峰クラスのシリーズチャンピオンを獲得した例は以下の通り。
特に1970年代はプライベーターへの大量のマシン供給が可能だったため、スズキがグリッドの大半を埋め尽くしていたことがあった。1976〜82年のマニュファクチャラーズタイトル7連覇は、歴代最多連覇記録である。幾度かの休止を挟みつつも長らく参戦を続けてきたが、2022年 を最後に撤退している。
市販のスーパースポーツを用いるスーパーバイク世界選手権 や世界耐久選手権 でも多数のタイトルを獲得している。特に耐久はフランス・スズキが母体のSERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)により、タイトル争いの常連となっている。ただし現在は双方でファクトリーとしては参戦しておらず、耐久ではヨシムラ SERTがプライベーターとして活動を継続している。
1970〜1980年代はモトクロス世界選手権 でも一時代を築き、1975〜1984年の125ccクラスで前人未到の10連覇を達成した。その間の1978年に渡辺明 も日本人唯一の同選手権王者となっている。ただし2017年限りで世界選手権と全日本モトクロス選手権 、2020年限りでAMAモトクロス のワークス参戦からそれぞれ撤退している[ 57] 。
など
鈴木道雄(創業者) 鈴木俊三(初代会長) 鈴木修(中興の祖) 小野浩孝(当初後継者として通商産業省からスズキに転じたものの病により夭折した) 原山保人(小野浩孝亡き後のスズキの経営体制を支えるべく入社。また独フォルクスワーゲンによる敵対的買収を阻止するべく尽力した。小野浩孝と同期の通商産業省出身である) 田嶋伸博(モータースポーツ四輪部門のスズキスポーツ創設に関わる) 吉村秀雄(スズキとの関係の深いオートバイパーツの開発及びレース参戦を行うヨシムラを創設) 小野定良(スズキの看板車種の1つであるスズキジムニーの前身であるホープスターON360の開発やオート3輪で名を馳せたホープ自動車を創業) ※2023年4月現在。
☆印は一社提供。
60秒以上提供
30秒提供
日本テレビ系列 ※2020年10月からはカラー表記。
テレビ朝日系列 フジテレビ系列 ※2025年1月20日 - 提供なしめざましテレビ (隔日7:54頃)※別枠で日産も提供(2020年度 - )。土曜プレミアム (隔週で前半・後半入れ替え。)※一時期は同業のホンダも提供だった。別枠でダイハツも提供(2012年度 - )。テレビ
日本テレビ系列 テレビ朝日系列 TBS系列 フジテレビ系列 その他 ラジオ
提供番組でアナウンスされるキャッチフレーズ は1987年 9月までは「価値ある製品づくりをめざす 鈴木自動車」だったが、1987年10月以降から1998年 9月まで「もっと個性的に、もっとあなたらしく Personal BestのSUZUKI」となり、1998年10月以降から現在まで「小さなクルマ、大きな未来。SUZUKI」が使用されている。 2009年の一時期、提供読み を「おかげさまで発売30周年のアルト のSUZUKI」として紹介された。ちなみに福山雅治のTALKING F.M.では通常は福山本人が提供読みをするが、その時はTOKYO FMのアナウンサーが担当した。 TBSテレビでのレギュラー番組でのスポンサーは、2009年9月まで提供していた「水曜劇場 」が最後になっている。また、同年に駅伝の車両スポンサーも撤退したが、2012年夏以降にSUZUKIのCMが再開した。同年8月2日の「ロンドンオリンピック 中継[ 注釈 15] 」(17:25 - 21:00テレビ埼玉 でも同時ネット)では久々の同局での1分提供を務めた。同大会終了以降はPT扱いで「はなまるマーケット 」などで流れていた。現在は「日本レコード大賞 」などの年末年始番組でPT扱いでCMを流している。 フジテレビでのレギュラー番組は、2012年3月の「ザ・ベストハウス123」までは1分提供があったが、2012年4月からは30秒提供に分離して「VS嵐」「土曜プレミアム」の提供となり、同局の1分提供は、同年7月21日の「FNS27時間テレビ 」(18:30 - 20:45のパート)まで待つことになる。 日本テレビでは、レギュラー番組でのスポンサーについて、「土曜ドラマ」では日産自動車から提供枠を引き継いでから2021年9月までは、1分提供を続けてきた。なお、同年10月に30秒へ縮小したことにより、レギュラー番組において1分以上で提供している番組は姿を消した。 民放 5局のBS放送 においてもスポットCM や提供クレジットのPT 扱いとして頻繁にCMが放送されている。2012年、名古屋国税局 の税務調査で2011年3月期までの2年間で約12億2,000万円の申告漏れを指摘された。スズキはアジア のバイク販売代理店数社に支払った販売促進費を11年3月期に計上したが、国税局は実際に支払った時期より前倒しして計上したことで利益が圧縮され、法人税の支払いが減ったと判断した[ 61] 。
また2016年には、名古屋国税局の税務調査で2015年3月期までの2年間で計約12億円の申告漏れを指摘された。スズキは余ったレース用のオートバイ部品について、仕入れ費用を経費に計上して利益を圧縮し、約3億円の所得を隠していたとされる[ 62] 。
2016年(平成28年)5月に三菱自動車 の燃費偽装にともなう調査で、スズキもマツダ へのOEMを含む26モデル(販売台数214万台)の測定を、国の定める「惰行法」で行っていなかったことが判明した。スズキが走行抵抗 データを取得する相良テストコースは海(遠州灘 )の近くの丘の上にあり、風の影響を受けやすく、データの取得が天候に左右され、試験が困難になるケースがあった。そのためスズキの担当者は車両開発のため風洞 試験室で測定した空気抵抗やタイヤの転がり抵抗など、要素ごとの抵抗値を積み上げて車両全体の走行抵抗データとして公式に活用していた。そして国に提出する書類には惰行法で測定した測定日、大気圧、天候、気温などの虚偽情報を記入し、かつデータを正規な方法で取得したように惰行時間を偽装していた[ 63] 。また、本来ならカーライン、エンジン設計部、法規認証部が立ち会いのもとで走行抵抗データを決定しなければならないが、法規認証部は走行抵抗データの取得に関与していなかったという[ 64] 。
これにより鈴木修会長兼CEOはCEO職を辞任し、技術担当の本田副社長も辞任となった[ 65] 。なおこの事件についてTwitter では、『スズキの不正計測では規定重量の3倍になる180kgの荷物を載せて行っていた模様。社長「車は1人だけでなく家族で乗るものだから実は三人で計測してた」』というツイートが拡散されネットメディアも報道、各所でスズキを賞賛する声が上がったが、実際にはデマであったことが判明している[ 66] 。なお、国土交通省に再提出された正しい測定方法(惰行法)で取得した燃費は、全ての車種で、不正を行っていた時期の届出値より向上した[ 67] 。
問題発覚の際、5月下旬のテレビCMについては一部番組を除きPT 扱いに格下げ、6月はテレビCMはすべて自粛し見合わせ[ 注釈 16] てACジャパン などのテレビCMに差し替えられて放送されていたが、7月以降はテレビCMの放映を再開した。
日産自動車 やSUBARU の完成車検査や排ガスにおける不正が発覚する中、2018年8月9日にスズキはマツダ ・ヤマハ発動機 とともに会見を開き、排ガスの抜き取り検査で、有害物質量の測定に失敗しながら、やり直しをせず有効として処理する不正を行っていたと認めた。対象は2012年6月~18年7月に対象12,819台の自動車のうち49%に当たる6,401台で、うち7割を湖西工場が占めていた[ 68] 。
また9月にはスズキ単独で会見を開き、同検査でデータ書き換えもあったことを認めた。実際に書き換えがあったのは湖西、相良、磐田の3工場で2009年5月~今年7月に検査をして測定データが残っていた自動車18,733台のうち、全体の14.6%に当たる合計2,737台[ 69] 。
一連の不正を受けて2019年4月18日には1回あたりの台数として国内では過去最多となる約202万1,500台のリコールを国土交通省に届け出た。この中には三菱自動車工業、日産自動車、マツダの車種も含まれる。対象車は29車種[ 70] 。
2022年 (令和4年)8月23日 - 本社食堂厨房において、食堂従業員が一酸化炭素中毒 によるとみられる体調不良が発生した[ 71] [ 72] 。
本社南側にあるJR 東海道本線 の踏切 は「鈴木踏切」という正式名称がついている。
スズキ本社南側の踏切 ウィキメディア・コモンズには、
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