| ジェームス三木 | |
|---|---|
| 誕生 | 山下 清泉 1934年6月10日 |
| 死没 | (2025-06-14)2025年6月14日(91歳没) |
| 職業 | 作家・脚本家・演出家・元歌手 |
| 言語 | 日本語 |
| 国籍 | |
| 最終学歴 | 大阪府立市岡高校中退 |
| ジャンル | ドラマ脚本 小説 エッセイ |
| デビュー作 | 『装飾音符』(ジャック天野名義) |
| 配偶者 | 山下直子 |
| 子供 | 山下規介(長男) |
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ジェームス三木(ジェームス みき、本名:山下 清泉(やました きよもと)[1]、1934年〈昭和9年〉6月10日 -2025年〈令和7年〉6月14日)は、日本の脚本家、作家、演出家、元歌手。
1934年、満洲国奉天省奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)生まれ[2][3]。小学生の時に大阪府茨木市に引き揚げる。
中学2年の時、父が心臓病で急死。父の死後、医師である叔父の勧めで医学部を受験する予定だったが、大阪府立市岡高校に入学後は演劇や恋愛に熱中していた。
高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を突破して合格。1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、第5期生として俳優座養成所に入所。
しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、大阪弁が抜けなかったことによるコンプレックスも災いし第6期に落ち、市原悦子らと同期になる。さらに仲代達矢の後塵を拝していたこともあって養成所を2年で中退。
その後テイチクレコードの新人歌手コンクールに応募したところ、200倍の競争率を突破して合格。月給6,800円でテイチクの専属歌手となり、ディック・ミネや三波春夫の前座を務め、また石原裕次郎『錆びたナイフ』のテスト録音を行っている。
テイチクからはフランク永井(ビクター)の対抗馬として売り出すためにジェームス三木と名乗ったが人気が出ず[4]、地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。その間、大学入学資格検定に合格する。
1960年3月1日、山下典子と結婚。生活のため横浜のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる(この時の後輩に無名時代の青江三奈がいた)。
30歳を過ぎて人気が落ち始めた頃、新聞広告を見て文芸同人誌に小説『装飾音符』を発表。この作品が『新潮』に転載される(ジャック天野名義)。これを機に文芸志望へ転じ、シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ・センター)に研究生として入所。
1967年に「月刊シナリオ」コンクールに入選[1]。この作品が映画監督・野村芳太郎の目にとまり、ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら野村に師事[1]。1969年、34歳のときに映画『夕月』で脚本家としてデビュー[5]。
1983年には脳腫瘍で入院したが生還し、仕事復帰。
1985年、連続テレビ小説『澪つくし』(NHK総合)が視聴率55.3%を記録し[1]、純愛ブームが巻き起こる。1986年、本作で日本文芸大賞脚本賞受賞。
1987年、大河ドラマ『独眼竜政宗』(NHK総合)を大ヒットさせ、大河史上1位の視聴率を獲得[1]。執筆前に大量の史料を読み込んだという[6]。
1997年、『存在の深き眠り』『憲法はまだか』で第23回放送文化基金賞脚本賞受賞。
1999年、第50回NHK放送文化賞受賞。同年、山下直子と再婚する。
2006年、四国や瀬戸内圏の歴史や伝統文化、偉人を題材にした舞台作品を愛媛から全国へ発信する文化特使を目指し、設立された「坊っちゃん劇場」の名誉館長に就任[8][9]。
舞台演出、小説、随筆なども手がけていた。
2025年6月14日、肺炎のため、死去した[1]。91歳没。訃報は同月18日に明らかになった[10]。