この項目では、ウクライナの都市について説明しています。
この記事の
項目名 には以下のような表記揺れがあります。
キーウ (ウクライナ語 :Київ ,発音 [ˈkɪjiu̯] (音声ファイル ) )/キエフ (ロシア語 :Киев [ˈkʲi(j)ɪf] (音声ファイル ) )は、ウクライナ の首都 [ 8] 。ウクライナ憲法 でセヴァストポリ と共に特別市 と規定されており、州 に属さず独立した自治権を有する。
同国最大の都市 でウクライナの政治・経済・文化の中心地である[ 9] 。市街はドニエプル川 の中流右岸の高台に発達している。人口はキーウ市内の人口は約295万人、キーウ首都圏の人口は約350万人であり、ヨーロッパ 有数の大都市である[ 10] 。週末になると、歩行者天国 になる市の中心部を通るフレシチャーティク 通りや独立広場 などが人々で賑わう。別名「緑の都」とも呼ばれ、市内には広大な植物園がある他、緑豊かな公園が点在し、ライラック やカシュタン(栗の一種)の花が咲き乱れる春、街路樹が紅や黄に染まる秋など、四季折々にさまざまな姿を見せる[ 11] 。
5世紀後半から6世紀前半の建設と伝えられ、9世紀末にキエフ・ルーシ の成立に伴いその首都となり12世紀まで繁栄した[ 12] 。13世紀にモンゴル の襲来を受け荒廃、14世紀以降リトアニア、ポーランド、17世紀にはモスクワへの従属に甘んじた。20世紀にはウクライナ民族主義の拠点都市として[ 9] ウクライナ人民共和国 やウクライナ国 の首都となり、1991年、ソビエト連邦解体 に続いて独立 したウクライナの首都となった。
キエフ・ルーシ時代の聖ソフィア大聖堂 とキーウ・ペチェールシク大修道院 は世界遺産 に登録されている[ 13] 。ほかにも同時期の建築物が多数残されているが、戦火や共産党政権などによって破壊されたものも多く、黄金の門 のように復元されたものも存在する。
キーウという名称は「キーイの都市」を意味し、キーウを創建した伝説上の人物であるキーイ (ウクライナ語 :Кий )の名前に由来する[ 14] [ 15] 。英語 を初めとするラテン文字 を使用する言語ではウクライナ語の発音に基づく「Kyiv 」(キーウ)の他に、ロシア語の発音に基づく「Kiev 」(キエフ)がよく使われていた。「Kyiv」はウクライナ独立後の1995年に公式のラテン文字表記として定められた比較的新しい綴り方である[ 16] 。2006年10月19日、アメリカ地名委員会 がウクライナの首都の公式表記をKyivに変更する決定を発表[ 17] したが、一方で、文脈上の必然性によってはKiev表記を排除しないとする公式見解を示した[ 18] 。
2014年のウクライナ紛争 以降、英語圏 では旧ソ連時代を想起させる「Kiev」表記が避けられるようになった。2018年10月にウクライナ外務省 は「KyivNotKiev 」キャンペーンを開始[ 19] し、2019年6月11日、米内務省 のアメリカ地名委員会 がKyiv表記の標準化を決定した[ 20] 。同委員会は米国連邦政府の作成文書内で使用される地名を統一するために設立されたものだが[ 20] [ 21] 、同委員会が運営する地名のデータベースは国際航空運送協会 (IATA)など民間団体も利用しており[ 注 5] 、IATA加盟航空会社の運航先表記にも影響を及ぼすため、この決定は米連邦政府内文書や米国内だけにとどまらず国際的な波及をもたらすこととなった[ 22] 。また文脈によって「キエフ」と記する必要がある場合は、「キエフ」表記を禁止するわけではないことも米国務省 から後日言及された[ 21] 。2022年現在は「Kyiv」表記が定着している[ 23] [ 24] [ 25] 。
日本ではロシア語に由来するキエフ 表記が浸透していた[ 26] 。2009年3月1日、かねてよりウクライナ言語・文化研究会の論文でキーウ表記を用いていた言語学者中澤英彦 [ 27] が同日出版の著書で普及を提唱[ 28] 。2018年9月頃よりウクライナの国営通信社ウクルインフォルム が日本語版においてキーウ表記または「キーウ(キエフ)」とした併記を始めた[ 29] [ 30] 。
2019年7月17日に駐日ウクライナ大使館 の公開書簡 によって日本語表記についての問題提起がなされ、その時点では同大使館は翻字 ・字訳方式に基づく「クィイヴ」の片仮名 表記を提唱していた[ 31] 。同年9月に開かれた岡部芳彦 を座長とする「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」では「ウクライナの地名のカタカナ 表記に関してはできる限りウクライナ語に近づけることを目指す[ 32] 」との結論が示されたものの、「Київ 」においてはクィとヴは義務教育では使用しないため表記の際には避けるのが好ましいという一般の意見や、日本人が実際に発音した時のこと、ウクライナ長期滞在邦人 がウクライナ語の固有名詞 を長音 なしで発音することが多いことを考慮して、発音表記 ・音声表記のクィーイウからキーイウ、キーイウを日本人が発音した場合にはキーウ となるという結論に至った[ 32] 。また、キーウ以外にもキイフ、キエフの3例の併用を可とすることも全会一致で合意した[ 32] 。
同年11月頃よりBBC ニュースが日本語版において「キーウ(キエフ)」とした併記を始めた[ 33] 。以降は歴史・地理を扱う新書等の一般的な刊行物において、ウクライナ語に基づく独自表記とした上でキーウに言及する例が散見されるようになった[ 34] 。しかし「キーウ」表記が一般に広まることはなく、日本政府による表記も変更されなかった。
2022年、ロシアのウクライナ侵攻 に伴い、英語圏と同様の理由で日本国内の報道機関や国会 の与野党議員も積極的に「キエフ」表記を「キーウ」に改める動きを見せるようになり[ 35] [ 36] 、同年3月31日には日本政府も日本語表記を「キーウ 」へ変更することを正式発表した[ 37] [ 38] 。これに倣い、マスメディア もキーウ表記への変更を行った[ 38] 。他にキイフ、キーフ、キーイフとも表記される[ 32] [ 39] [ 40] 。
キーウ市の航空写真。街の中心をドニプロ川が流れ、西岸には旧市街が、東岸には新市街が広がる。 キーウはウクライナの北部に位置し、ドニプロ川 (ドニプエル川)を挟んで広がっているが、旧市街はドニプロ川右岸の小高い丘の上にある。それに対し低地である東岸側は高層建築物 の目立つ新市街となっている。川の中州にはかつてドイツ軍 に破壊された村の跡に娯楽施設ヒドロパールク (ウクライナ語版 、英語版 ) がつくられている[ 41] 。
市西部にはコチュビンスケ というキーウ州ブチャ地区 の飛び地 が存在する。ウクライナ鉄道 南西鉄道 (ウクライナ語版 ) キーウ=コーベリ 線はこの飛び地をまたいでいる。
ソフィア広場、キーウの中心地 市の北方約20キロメートルには、ドニプエル川をせき止めてつくられたキーウ貯水池 (ウクライナ語版 、英語版 ) がある。貯水池は長さ110キロメートルにわたる広大なもので、その向こうはベラルーシ である[ 12] 。
ベラルーシとの国境近くにはチェルノブイリ原子力発電所 がある。1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故 では、ソビエト連邦 上層部によって全住民350万人の疎開が検討されたが、風向きの関係で健康への影響はないと判断され、疎開は中止された。2011年からはキーウを起点としたチェルノブイリの観光ツアーが催行されるようになり、事故を起こした4号炉を間近に見ることや発電所周辺の遊覧飛行も可能であったが[ 42] [ 43] 、ロシアのウクライナ侵攻 の兆候が迫った2022年2月20日には「専門的理由」から当局によって観光ツアーは中止されている[ 44] 。
北緯50度25分に位置し、樺太 北部、ドイツのフランクフルト 、カナダのウィニペグ とほぼ同緯度にある[ 11] 。
大陸性気候 であり、ケッペンの気候区分 では湿潤大陸性気候 (Dfb) に属し、日本の旭川市 (北海道 )や仙北市 (秋田県 )、軽井沢町 (長野県 )などとほぼ同じ気候である。最も暑い7月の平均気温は20.5°Cで、30°Cを超えることも少なくない。最も寒い1月の平均気温は−3.5°Cで急速に平年値は上昇したものの、近年は寒冬 になることも多く、時に零下20度を下回ることも珍しくない。過去最高気温は1936年7月31日観測された39.4°C、過去最低気温は1929年2月7日と9日に観測された−32.2 °Cである。年間降雪量は355cmと欧州の大都市の中ではかなり多い方である。
キーウの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録°C (°F ) 11.1 (52) 17.3 (63.1) 22.4 (72.3) 30.2 (86.4) 33.6 (92.5) 35.0 (95) 39.4 (102.9) 39.9 (103.8) 33.8 (92.8) 27.9 (82.2) 23.2 (73.8) 14.7 (58.5) 39.9 (103.8) 平均最高気温°C (°F ) −0.9 (30.4) 0.0 (32) 5.6 (42.1) 14.0 (57.2) 20.7 (69.3) 23.5 (74.3) 25.6 (78.1) 24.9 (76.8) 19.0 (66.2) 12.5 (54.5) 4.9 (40.8) 0.0 (32) 12.5 (54.5) 日平均気温°C (°F ) −3.5 (25.7) −3 (27) 1.8 (35.2) 9.3 (48.7) 15.5 (59.9) 18.5 (65.3) 20.5 (68.9) 19.7 (67.5) 14.2 (57.6) 8.4 (47.1) 1.9 (35.4) −2.3 (27.9) 8.4 (47.1) 平均最低気温°C (°F ) −5.8 (21.6) −5.7 (21.7) −1.4 (29.5) 5.1 (41.2) 10.8 (51.4) 14.2 (57.6) 16.1 (61) 15.2 (59.4) 10.2 (50.4) 4.9 (40.8) 0.0 (32) −4.6 (23.7) 4.9 (40.8) 最低気温記録°C (°F ) −31.1 (−24) −32.2 (−26) −24.9 (−12.8) −10.4 (13.3) −2.4 (27.7) 2.4 (36.3) 5.8 (42.4) 3.3 (37.9) −2.9 (26.8) −17.8 (0) −21.9 (−7.4) −30.0 (−22) −32.2 (−26) 降水量 mm (inch)36 (1.42) 39 (1.54) 36 (1.42) 46 (1.81) 57 (2.24) 82 (3.23) 72 (2.83) 61 (2.4) 58 (2.28) 40 (1.57) 48 (1.89) 44 (1.73) 619 (24.37) 平均降水日数 8 7 9 13 14 15 14 11 14 12 12 9 138 % 湿度 83 80 74 64 62 67 68 67 74 77 85 86 74 平均月間日照時間 31.0 56.5 124.0 180.0 279.0 270.0 310.0 248.0 210.0 155.0 60.0 31.0 1,954.5 出典1:Pogoda.ru.net[ 45] 出典2:BBC weather (sun values).[ 46]
中世期のキーウの象徴。聖ミハイール黄金ドーム修道院 ウクライナ最古の記録『ルーシ年代記 』の伝説によれば、キーウはポリャーネ族 の公爵 キーイ 、ならびに彼の兄弟シュテーク (シチェク)、ホリーウ (ホリフ)とリービジ によって創建されたという[ 47] 。しかし、年代記には創建の年代は記載されていない。考古学の資料によると、キーウは5世紀 末から6世紀 初頭に形成した集落として発展してきたという[ 47] 。当時の集落の中心地はドニプロ川 の右岸に位置する城山 にあったとされる[ 47] 。6世紀から7世紀 にかけて集落は城山から周りの丘陵への拡大したのである[ 47] 。キーウはドニプロ川の貿易ルート、森林 と草原 が接する地帯、そして多民族が交わる境界地に位置していたため、ドニプロ川の中流における政治・経済・文化的拠点として成長した[ 47] 。6世紀のゴート人 の歴史家ヨルダネス は、「ドニプロ川の町」という意味のダナピルスタディル (Danapirstadir) という名で記録している。
8世紀 末にキーウは、「ルーシの地 」と呼ばれる南方の東スラヴ人 の共同体の中核的都市であった[ 47] 。882年に北欧 のヴァリャーグ (ヴァイキング )がその都市を征服すると、キーウは「キエフ・ルーシ 」国家の首都 、いわゆる「ルーシの都市の母」[ 注 6] となった[ 47] 。8世紀から9世紀 にかけてキーウでは、古キエフ山 にある山の手 (古キエフ )と山麓にある下町 (ポジール )というの2つの区域が形成された。前者では貴族 と聖職者 、後者では庶民 が暮らしていた[ 47] 。当時のキーウは、東ローマ帝国 、北欧 、西欧 、イスラム 系諸国と貿易をし、国際都市として発展した。10世紀 前半にキーウでは初めてのキリスト教 の聖堂 が建立された[ 47] 。
ヴォロディーミル聖公 の代(980年–1015年)には、キーウの山の手の範囲が拡大され、防衛が強化された。研究史では改善された山の手は「ヴォロディーミルの町」と呼ぶ[ 47] [ 48] 。山の手は高い土塁 によって囲まれて、土塁には3つの大門が設けられた。正門であるソフィア門は町の南方に置かれた[ 48] 。988年にルーシがキリスト教を国教 にすると、キーウはコンスタンディヌーポリ総主教庁 のキエフ府主教区 の中心となった。キーウの最大の教会は、「像の市 」と呼ばれる市場と大公の宮殿の隣に建立された什一聖堂 であった[ 48] 。ヴォロディーミル聖公の子息、ヤロスラーウ賢公 (1019年–1054年)は、さらに山の手をおよそ80ヘクタール まで拡大させ、いわゆる「ヤロスラーウの町」を建設した[ 48] 。本城を囲む土の城壁の長さは3.5キロメートまで達した[ 48] 。これによってキーウは東欧の最大の都市となった[ 48] 。ヤロスラーウ賢公はキエフの正門を黄金の門 に改め、キエフ府主教の座として聖ソフィア大聖堂 を建立した。ヤロスラーウ賢公の子孫イジャスラーウ (1054年–1068年, 1069年–1073年)とスヴャトポールク (1093年–1113年)は新たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町」を建設した。この町における中心的な建造物になったのは聖ミハイール黄金ドーム大聖堂 であった[ 48] 。
キーウの最大の地区は下町ポジールであった。12世紀から13世紀前半にかけてポジールの面積は約200ヘクタールに及んでおり、土塁と柵によって囲まれていた[ 48] 。ポジールの中央にはキーウ最大の市場「市の場」(トルホーヴィシュチェ)が位置しており、その周りにピロゴシチャ聖母聖堂 (ウクライナ語版 、英語版 ) 、ボリス・フリブ聖堂、ミハイール聖堂などが並んでいた[ 48] 。古キエフの西部ではコープィル隅という地区があり、スヴャトスラーウ2世 の代(1073年–1076年)にはそこで聖シメオン修道院 が建立された[ 48] 。キーウ郊外ではキリーロ修道院 、クローウ修道院 、洞窟修道院 (1598年以降はキエフ洞窟大修道院 )、ヴィードゥビチ修道院 などの正教会 の修道院が置かれた[ 48] 。キーウの周りにプレドスラーヴィネ 村、ベレストーヴェ 村、公爵と貴族の別荘、ドロホジチ谷 とハンガリー谷 があった[ 48] 。
12世紀 半ばにキーウは約5万人の人口 、400の教会 と8つの市場 を有していた。キーウの総合面積はおよそ400ヘクタールであった[ 48] 。
12世紀後半以降、キーウはルーシの聖地の役割を保ちながら、政治的な中心として衰退した。ムスチスラーウ大公 (1125年–1132年)の後、キーウを治める有能な統治者がなく、ルーシを構成していた諸公国は独立しはじめた[ 49] 。1169年にウラジーミル・スーズダリ公国 の公爵アンドレイ は武力でキーウを占領して掠奪し、キーウ大公に即位せず帰国した。さらに、1203年にチェルニーヒウ公国 の公爵リューリク2世 はキーウを攻略して同様な掠奪を行った。このような事件によってキーウ大公の地位と威厳は大きく損なわれた。また、1223年にキーウの軍勢はカルカ河畔の戦い でモンゴル軍に敗北し、1235年にチェルニーヒウの公爵ミハイール2世 はキプチャク を連れてキーウを陥落させた。1239年にハリーチ公国 の公爵ダニーロ はキーウを獲得し、最後のキエフ大公 となった。
1240年のキエフの戦い において、モンゴル帝国 の軍勢はキーウを包囲し破壊させた。決定的な打撃を受けた古キエフは全滅となり、キエフ・ルーシという国は名実共に亡国となった。キーウの中心地は下町ポジールへ移った。
支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ大公国 から非スラヴ系国家のリトアニア大公国 に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国 とルブリン合同 を結んでポーランド・リトアニア共和国 を形成すると、ウクライナ貴族はシュラフタ として共和国のうちのポーランド王国への帰属移動を求め、キエフ県 としてポーランド王国に加盟した。その後、ドニプロ川の中流に興ったザポロージャ・コサック の統治地域に加わった。コサックたちはポーランド・リトアニア共和国の中央政界(セイム )との対立を深め、1648年には県全体がヘーチマン国家 (コサック国家)の一部としてポーランド・リトアニア共和国からの自治権を得た。キーウはヘーチマン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック 文化が養われた。
コサックの頭領 によって復元されたキエフ洞窟大修道院における至聖三者大門教会 1654年、ヘーチマン国家はモスクワ大公国 ・ロシア帝国 に対する政治的な闘争に敗れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キーウを含むヘーチマン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。
その後、キーウは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。そのため、モスクワ政府はキーウを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義 」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。
キーウにおけるウクライナ人民共和国の士官 1917年のロシア革命 後の同年秋、キーウのウクライナ中央ラーダ がウクライナ人民共和国 の事実上の独立宣言をするとロシアのボリシェヴィキ はウクライナに侵攻を始め、ソビエト・ウクライナ戦争 が開始された。共和国の首都となったキーウは赤軍 による攻撃を受けた。1918年1月29日、ウクライナ人民共和国軍 はキーウ郊外のクルトィ駅の戦い で赤軍に敗れ、ウクライナ勢力の劣勢が決定的になった。その後、1918年2月8日にロシアの占領軍によってキーウの住民の虐殺が行われた。
この戦闘で、ウクライナの古都キーウはウクライナ民族主義 の拠点となった。一方、赤軍に協力するウクライナ人民共和国 (ウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人 やユダヤ人 の多いハルキウ に置かれた。
1918年4月29日にはドイツ帝国 の軍事力と農民 層の支持を後ろ盾とするヘーチマンの政変 がキーウ・サーカス場 にて発生し、キーウを首都とするウクライナ国 が建設された。だが、12月にはドイツ軍の撤退により同国はディレクトーリヤ に倒され、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を再建した。
1918年にウクライナからの要請によって始められたポーランド・ソビエト戦争 でも、キーウは主戦場の一つとなった。1920年には、ポーランド軍 と合同したディレクトーリヤ軍によるキエフ攻勢 が奏功し一時はキーウを奪還したが、最終的には赤軍に敗れた。
結局、ウクライナの独立各派は相互の協力に失敗し、またイギリス やフランス 、そしてポーランド などのような外国勢力も非協力的であったことからソビエト 政府に対して敗北を喫し、ウクライナの独立は潰えた。それに伴い、ソ連 時代初期のウクライナ社会主義ソビエト共和国 の首都は民族主義熱の高かったキーウを避け、1934年6月24日にキーウに戻るまでハルキウに置かれた[ 50] 。1937年、国号は「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」に改称されたが、キーウはその主都であり続けた。
第二次世界大戦 中の1941年6月22日、ナチス・ドイツ はソビエト連邦に対して宣戦布告 。直後、キーウにドイツ空軍 機が飛来してキーウに対して爆撃を行った[ 51] 。9月19日には侵攻して来たドイツ軍がバルバロッサ作戦 の一環としてキーウを占領した。同年の9月29日と30日に、キーウ近郊のバビ・ヤール で、ナチス親衛隊 の特別殺戮部隊が、33771人のユダヤ人 を虐殺した。キーウ市は1943年11月6日に赤軍によって奪還されるまでドイツの占領下にあった。市街や郊外はドイツ軍による激しい破壊を受けたが、戦後復興に力が入れられ、比較的早い時期に復興を果たした。1941年の激しい戦いを記念し、戦後の1965年にキーウは「英雄都市 」の称号を贈られた[ 52] [ 53] 。
1991年 8月24日、ウクライナは独立を宣言し、キーウは新たな独立ウクライナの首都となった。
21世紀に入ると、キーウはたびたび抗議活動の舞台となった。2000年末から2001年初頭にかけて、キーウは「クチマ のいないウクライナ」という抗議活動の中心地となった。2004年11月から2005年1月にかけては、2004年ウクライナ大統領選挙 に不正があったとする大規模な抗議活動であるオレンジ革命 が起こった。さらに2013年11月から2014年2月にかけ、キーウの独立広場 はマイダン革命 の中心地となり、特殊部隊と市民との衝突で100人以上の抗議参加者が死亡し、数百人が重傷を負う事件も起こった。
2016年3月11日、脱共産主義化法 (ウクライナ語版 ) の施行の一環として、キーウ市内の79の大通り、通り、広場、路地に新しい名前が付けられた。
2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻 において戦闘の舞台となった(キーウの戦い )。
ロシア帝国支配、ソ連時代のロシア語優遇政策の影響と地方各地から様々な人が流入してきた結果、ロシア語が共通語としての地位を築いてきた。これは、ウクライナ語は農村部の言語、ロシア語は都市部の言語としての住みわけが行われていたためである。そのため、住民の多くがロシア語もしくはロシア語とウクライナ語(スルジク )を併用しており、ウクライナ語のみの住民は少数といわれる。民族的にはロシア人は約13%でウクライナ人が80%強を占めている[ 9] 。住民にとってはロシア語、ウクライナ語を区別して使い分けるというよりは混合して使ってるのが現状でありスルジク が主流ともいえ母語調査の選択では政治状況によって大きく左右される。
2003年の調査によると、日常生活でロシア語を主に使う人が52%、ロシア語とウクライナ語の両方が32%、主にウクライナ語が14%、大半がウクライナ語は4.3%に過ぎず、ウクライナ語のみで生活している人はむしろ圧倒的に少数派である[ 54] 。
独立後はそれまでのロシア語 優遇政策が改められ、市内の表記も広告等ふくめ全てウクライナ語 に制限されるようになった。テレビ放送は放送法により、外国語の放映に関してはウクライナ語字幕をかぶせなければならなくなった。そのためロシアで製作されたロシア語番組はウクライナ語字幕つきロシア語放送となっていたが、マイダン革命 以降は全面放送禁止となっている。地下鉄もウクライナ語のみのアナウンスとなっている。それでもなお多くの市民は独立から30年を経過してもなお学校や公的機関以外では日常的にロシア語で生活してるのが現状であり、ウクライナ語使用率の比較的高いウクライナ中部地方にあってはロシア語圏の飛び地もといえる。マイダン革命以降は強力なウクライナ語化政策が進められており、ロシア語使用率が低下している。
学校教育で使われる教授言語 はソ連時代の1991年 はロシア語が69.1%、ウクライナ語が30.9%と圧倒的にロシア語が主流を占めていたが、2012年 にはウクライナ語が97.1%と大半を占めるまでになりロシア語は2.9%にまで低下した。マイダン革命以降はロシア語での教育は禁止となった。この事はキーウのウクライナ語化に大きく影響を与えており、中高年世代がロシア語でも若者世代がウクライナ語へと使用言語が変わりつつある。それでもなお日常的な言語として家族や友人との会話、SNS等ではロシア語をメインとして使用する若者は非常に多くみられ一般的である。
ロシアのウクライナ侵攻 後の2023年に行われたアメリカ合衆国連邦政府 の非営利組織 のIRI の調査によると家庭で話される言語のうち、ウクライナ語が59%、ロシア語が38%となっており、以前に比べるとウクライナ語の割合が大幅に増加している[ 55] 。
10の区(ラヨン )に分割される。
区 面積(km2 [ 56] ) 人口(2021年[ 56] ) ドニプロ川 の右岸(西部): Правий берег ホロシーイウ区 Голосіївський район 156 254,014 オボローニ区 Оболонський район 110 318,137 ペチェールシク区 Печерський район 20 163,672 ポジル区 (ウクライナ語版 ) Подільський район 34 209,133 スヴィアトシン(スヴィアトシンスキー)区 (ウクライナ語版 ) Святошинський район 103 341,886 ソロムヤンシク区 Солом'янський район 40 384,616 シェウチェンコ区 Шевченківський район 27 215,924 ドニプロ川 の左岸(東部): Лівий берег ダルニツヤ区 (ウクライナ語版 ) Дарницький район 134 348,401 デスナ区 (ウクライナ語版 ) Деснянський район 148 368,461 ドニプロ区 (ウクライナ語版 ) Дніпровський район 67 357,936
人口値は2021年1月1日推計、民族構成は2001年ウクライナ国勢調査 による。
現在人口 :7006296218000000000♠ 2,962,180人[ 57] 都市人口 :7006296218000000000♠ 2,962,180人(100%[ 57] )常住人口 :7006292087300000000♠ 2,920,873人[ 58] 男性人口:7006134714900000000♠ 1,347,149人[ 58] 女性人口:7006157372400000000♠ 1,573,724人[ 58] キーウ地下鉄 インターシティ用の電車 キーウ河川港 ボルィースピリ国際空港 公共機関としてキーウ地下鉄 、キーウ市電 、キーウ・ライトレール のほか、トロリーバス と路線バス がある。
キーウ地下鉄は3路線あり、現在も建設中で路線数と総延長共に拡大する予定である。旧市街と新市街にそれぞれキーウ市電が、また旧市街と南西の郊外を結ぶキーウ・ライトレールが運行されている。また、1905年に開業したキーウ・ケーブルカー (ウクライナ語版 、英語版 ) が、ヴォロディミール丘の斜面に設置されている[ 60] 。
これらに加え、半公共交通機関といえる営業免許制のマルシュルートカ (ワゴン車・マイクロバス 等を利用した個人経営のバス・乗り合いタクシー)が無数に運行されている。これは、料金は乗車距離に応じた運賃制度で公共交通機関よりかなり割高であるとは言え、低速の路線バスなどに比べ所要時間や運用本数・路線数で大きなメリットがあり、やはり市民にとっては欠かせない交通手段である。
地下鉄車両や路面電車、バスやトロリーバスには、ソ連時代に製造されたソ連製やチェコスロヴァキア 製、ハンガリー 製の車両の他、新型のウクライナ製やドイツ 製のものも多く見られる。
郊外に向かって運行される交通機関には、キーウ旅客駅 などから発着するウクライナ鉄道 がある。鉄道には近距離の「エレクトルィーチュカ」と長距離の「ポーイズド」があり、夜行列車や国際列車も運行されている。この他、鉄道のない地域を補うための長距離バスが地下鉄スヴャトーシン駅 (ウクライナ語版 ) 前ターミナルなどから発着している。
キーウはドニプロ川の水運で発展した街と言っても過言ではなく、川岸の船着場、キーウ河川港 は鉄道や道路が整備される以前はキーウの玄関口であった。現在では水上交通の重要性は低下したものの、貨物船の航行は行われており、観光用の遊覧船 も発着する。
ボルィースピリ国際空港 が街の東28kmに位置する。東隣のボルィースピリ市 に所在するが、通常「キーウ空港」と呼ばれる。主に国際線が乗り入れる国際空港である。長らく鉄道や地下鉄のアクセスがなく、バスやタクシーが必要になるなどキーウ市内からのアクセスは不便であったが、近年はキーウ旅客駅から定期的にシャトルバスが運行されて利便性が向上した。所要時間は1時間ほど。また2018年11月にキーウ旅客駅との間を結ぶ空港連絡鉄道が開業した。こちらの所要時間は40分ほどで、深夜帯も運行されている。
市内にあるキーウ・ジュリャーヌィ国際空港 は、かつてはウクライナの空の玄関口として機能した空港であるが、現在では主に国内線と近距離の国際線が乗り入れている。この他、個人の所有するビジネスジェットなども数多くこの空港を利用している。これについては、空港の私物化との批判がある。この他、空港にはウクライナ空軍 の使用機等を展示する国立航空博物館 (ウクライナ語版 ) も併設されている。この空港は、市内にあり利用の便は非常によいが、安全面と土地の問題から本格的な国際空港への拡張は困難である。
スヴィアトシン(スヴィアトシンスキー)区 (ウクライナ語版 ) に所在するスヴィアトシン飛行場 (ウクライナ語版 、英語版 ) は、ウクライナの航空産業初期から存在する空港であるが規模が小さく、また町に隣接しているため拡張できない。現在では、O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体 やアントノフ連続生産工場 (ウクライナ語版 、英語版 ) の使用する小規模な飛行場 となっている。
キーウ市外に隣接するキーウ・チャイカ空港 は、民間のスポーツ用の小規模な空港である。
ホストーメリ空港 もキーウ市に所在する空港ではなく、近郊のホストメリ に所在する。小規模な空港で、別名アントーノフ空港と呼ばれるとおり、アントーノフの機体の試験や貨物用空港として使用されている[ 61] 。
キーウ大学
キーウ・モヒーラ・アカデミー国立大学
キーウ工科大学
キーウ教育大学
キーウではサッカー が最も重要なスポーツ であり、ウクライナ・プレミアリーグ に所属する名門クラブのFCディナモ・キーウ が存在している。同リーグでは最多優勝を誇り、ウクライナ・カップ やウクライナ・スーパーカップ でも最多優勝を飾っている。ディナモ・キーウはウクライナ最大のスタジアムである、オリンピスキ・スタジアム を本拠地 としている。同地はUEFA EURO 2012決勝 が行われた場所でもある。なお、2部リーグ にはFCアルセナル・キーウ も存在する。
外務省
キーウ芸術学校
聖母マリア教会
キエフ大公オーリハ像
※出典[ 71]
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