イタリア戦争におけるイタリアの領土変更 イタリア戦争 (イタリアせんそう、イタリア語 :Guerre d'Italia 、フランス語 :Guerres d'Italie )は、16世紀 に主にハプスブルク家 (神聖ローマ帝国 ・スペイン )とヴァロワ家 (フランス )がイタリア を巡って繰り広げた戦争である[ 1] 。教皇領 、イタリアの都市国家 (英語版 ) 、ヴェネツィア共和国 、西ヨーロッパ のほとんどの国(イングランド 、スコットランド 、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年 から1559年 としてはいるが、実際には戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。
日本ではイタリア戦争 の訳が定着している。イタリアではイタリア大戦争 (イタリアだいせんそう、イタリア語 :Grandi Guerre d'Italia )とも呼ばれる。
また、ハプスブルク=ヴァロワ戦争 (英 :Habsburg–Valois Wars )、ルネサンス戦争 (英 :Renaissance Wars )とも呼ばれる。
ヴェネツィア共和国 とミラノ公国 の間のロンバルディア戦争 (英語版 ) が1454年に終結した後、フィレンツェ共和国 のコジモ・デ・メディチ とロレンツォ・デ・メディチ の時代は1482年から1484年までのフェラーラ戦争 (英語版 ) を除き、平和な時期が続いた。
フランス王シャルル8世 は第一次イタリア戦争 に先立って、1493年に神聖ローマ帝国とサンリス条約 (英語版 ) を、アラゴン連合王国 とバルセロナ条約 (英語版 ) を、イングランド王国とエタプルの和約 (英語版 ) をそれぞれ締結し、イタリア以外のヨーロッパ諸国との関係を改善した[ 2] [ 3] 。
第一次イタリア戦争(1494年 - 1498年)[ 編集 ] 1494年、フランス王シャルル8世 が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程でメディチ家 がフィレンツェ から追放された。翌年ナポリ を占領するが、教皇 アレクサンデル6世 、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟 を結び対抗したため、撤退する。
1499年、フランス王ルイ12世 が「父オルレアン公 からミラノを継承した」と主張し、ミラノ出身のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ を最高司令官とするフランス軍が侵攻(オルレアン公はヴィスコンティ家 の血を引いていた)。1500年 にノヴァーラの裏切り (ドイツ語版 、英語版 ) で、スフォルツァ家 のイル・モーロ を幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。1503年、スペインのコルドバ 将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。1504年、ブロア条約 により休戦。フランスがナポリを放棄。
カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)[ 編集 ] 1511年、教皇ユリウス2世 がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと神聖同盟 を結び、フランスに対抗。1513年 2月にボスコリ事件 でニッコロ・マキャヴェッリ が失脚、3月にメディチ家 から新教皇レオ10世 (在位:1513年 -1521年 )が誕生、6月6日 にミラノからフランス軍が追放される(ノヴァーラの戦い )。スフォルツァ家 が一時復帰。1515年、フランス王フランソワ1世 がミラノに侵攻(マリニャーノの戦い (イタリア語版 、フランス語版 、ドイツ語版 、英語版 ) )。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
カンブレー同盟戦争でフランスとヴェネツィアが教皇に勝利したのに乗じて、前年に破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ は教皇から公国を奪還する画策をはじめた。
1517年のはじめ、フランチェスコ・マリーア1世はウルビーノ でコンドッティエーレ のフランチェスコ・デル・モンテ 率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。
教皇レオ10世 はあわてて1万の軍勢を雇い、ロレンツォ2世・デ・メディチ 、レンツォ・ダ・チェーリ (英語版 ) 、ジュリオ・ヴィテッリ (英語版 ) 、グイド・ランゴーニ (イタリア語版 ) などのコンドッティエーレ をウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日のモンドルフォ 包囲戦で銃傷を負いトスカーナ へ戻ってしまい、代役のビッビエーナ枢機卿 (英語版 ) は無能で統率がうまくいかずポッジボンシ で大敗、ペーザロ まで撤退した。
形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗してヴェローナ で雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナやウンブリア での戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。
1517年 にレオ10世がサン・ピエトロ大聖堂 建設資金の為にドイツでの贖宥状 販売を認めると、ルター は95ヶ条の論題 でこれに抗議した。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争い、1519年 にカルロス1世がカール5世 として神聖ローマ皇帝 に即位してスペイン王を兼ねた。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。
異教徒であるオスマン帝国 の存在や、折から始まった宗教改革 もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反してしばしば対立して、一致して対抗することなくハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアはルネサンス 文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。
第三次イタリア戦争(1521年 - 1526年)[ 編集 ] 1521年 以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った。1521年 、教皇レオ10世 (メディチ家 出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。
1522年 のロドス包囲戦 でロドス島 の聖ヨハネ騎士団 とヴェネツィア共和国 の連合軍がオスマン帝国 に敗北する。
ドイツ農民戦争 (1524年 -1525年 )。
1525年 2月24日 、パヴィアの戦い でフランス王フランソワ1世は捕虜となり、マドリード に幽閉 される。1526年、捕虜となっていたフランソワ1世はカール5世とマドリード条約 を締結することを余儀なくされ[ 4] 、釈放される代わりにイタリア、フランドル 、ブルゴーニュ への請求を全て取り下げた。
コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)[ 編集 ] 1526年5月22日、教皇クレメンス7世 は神聖ローマ帝国の勢力の増大を憂慮し、コニャック同盟 を結成する[ 4] 。同盟の成員は教皇領 、フランス王国[ 5] 、イングランド王国、ヴェネツィア共和国 、フィレンツェ共和国 、ミラノ公国 だった。1527年 、コニャック同盟に報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める(ローマ略奪 )。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。1529年 、ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。オスマン帝国のスレイマン1世 による第一次ウィーン包囲 (9月 - 10月)。「貴婦人の和約 」でフランスは賠償金を支払い、イタリアを放棄(10月)。
1530年 、教皇クレメンス7世がカール5世に戴冠式を行う。フィレンツェが皇帝軍に包囲され、凄惨な戦闘の末に敗北。メディチ家が復帰する。メディチ家はハプスブルク家との結びつきを深め、フィレンツェの支配体制を確立する。こうしてイタリアにおけるハプスブルク家の優位が確定する。これ以降もフランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった。フランソワ1世はカール5世に対抗するため、カトリックであるにもかかわらずドイツのルター派 プロテスタント 諸侯を支援し、異教徒のオスマン帝国 皇帝スレイマン1世 ともひそかに同盟を結ぶ。1532年 、フランスがシュマルカルデン同盟 と同盟。
第四次イタリア戦争(1536年 - 1538年)[ 編集 ] 1535年、ミラノ公 フランチェスコ2世・スフォルツァ が死去した。フランチェスコ2世に跡継ぎはなく、カール5世がミラノ公妃クリスティーヌ・ド・ダヌマルク の母の兄にあたるためミラノ公を継いだ。当時は民衆もイタリア諸国も反対しなかったが、カール5世の子フェリペ が公国を継承すると、フランソワ1世はイタリアに侵攻した。
フランスの大将フィリップ・ド・シャボー (英語版 ) は1536年3月にピエモンテ へ進軍、翌月トリノ を落城させたが、ミラノの包囲は失敗した。カールは反撃してプロヴァンス に侵攻、エクス=アン=プロヴァンス まで軍を進めて1536年8月に占領したが、フランス軍がマルセイユ への道を塞いだため進軍が止まってしまった。その後、防御を整えたアヴィニョン を攻めずスペインへ撤退した。
一方、イタリアにおいてフランソワ1世の軍勢はピエモンテで補給してジェノヴァへ進軍していた。また1536年、ジャン・ド・ラ・フォレ (英語版 ) の外交努力でオスマン帝国との同盟を結び[ 6] 、年末にはマルセイユ でフランス=オスマン連合艦隊が集結し、ジェノヴァ を脅かしていた。艦隊がジェノヴァを砲撃する一方フランス陸軍がジェノヴァを包囲する、という作戦案も定められたが[ 6] 、フランスとオスマン帝国にとっては不幸なことに、1536年8月に連合軍がジェノヴァに到着する頃にはジェノヴァの守備が大幅に強化されていた。その代わり、連合軍はピエモンテで荒らしまわり、多くの城を占領した[ 7] 。1537年、バルバロス・ハイレッディン がイタリア海岸で海賊行為を繰り返したのちコルフ を包囲したが、あまりフランスの助けにはならなかった[ 7] 。
カール5世は緒戦で不利だった上、フランスとオスマンとの二正面作戦 の危険もあるため、結局折れて1538年6月18日にフランソワ1世とニースの和約で戦争を終結させた[ 7] 。
第五次イタリア戦争(1542年 - 1546年)[ 編集 ] 1543年、フランス=オスマン連合艦隊によるニース包囲戦 (英語版 ) フランス王フランソワ1世は再びオスマン帝国 のスレイマン1世 と同盟を締結、1542年7月12日に神聖ローマ帝国に宣戦布告し[ 8] 、ミラノはまたしても戦争の口実となった[ 5] 。フランソワ1世は自身の最後となるイタリア侵攻において、まずはペルピニャン包囲戦 (英語版 ) に取り掛かった。1543年8月22日、バルバロス・ハイレッディン 率いるフランス・オスマン連合艦隊はニース包囲戦 (英語版 ) に勝利してニースの町を占領[ 8] 、続いて城塞を包囲した。城塞の軍は1か月内に救出されたが、キリスト教とイスラム教の軍勢が共同してキリスト教徒の町を攻撃することは当時において考えられないことだった。したがって、フランソワ1世としてもオスマン軍の役割を軽く扱う必要があった[ 9] 。しかし、彼はその政策をさらに進め、トゥーロン をオスマン艦隊の冬営用にバルバロスに貸し出した[ 9] 。
アンギャン伯 フランソワ 率いるフランス軍は1544年4月14日のチェレゾーレの戦い (英語版 ) で勝利した[ 9] が、ロンバルディアへさらに深く進軍することはできなかった。同年6月4日、セラヴァッレの戦い (英語版 ) で第6代ペスカーラ侯爵アルフォンソ・ダヴァロス (英語版 ) 率いる帝国軍がフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことでイタリアにおける戦いが終わった[ 10] 。
フランス本土ではイングランド王 ヘンリー8世 が1544年7月14日にカレーに渡り[ 11] 、すでに進軍していたイングランド軍と合流、そのままブローニュ=シュル=メール包囲戦 (英語版 ) は7月19日に始まった。
このころ、カールは資金不足に悩まされ、さらに宗教問題にも対処しなければならなかった。カールとフランソワの代表は1544年9月18日にクレピー (英語版 ) でクレピーの和約に署名した[ 12] 。
1545年9月までに戦争が完全なステイルメイトとなった。どの国も兵員と資金の不足になやまされ、ドイツのプロテスタント諸侯に支援を乞うたが失敗した[ 13] 。結局、最後まで粘ったヘンリー8世も折れ、1546年6月7日、アルドレス (英語版 ) の和約がフランス代表とイングランド代表の間で署名された[ 14] 。
第六次イタリア戦争(1551年 - 1559年)[ 編集 ] 1547年3月31日、フランソワ1世が死去し、息子のアンリ2世 が即位する[ 5] 。1551年、アンリ2世はカール5世に宣戦布告、イタリアを再征服し、ヨーロッパでの覇権をハプスブルク家から取り戻そうとした。フランスはまずロレーヌ に侵攻、ある程度の成功を収めたが、続くフィレンツェ公国 への侵攻は1553年に止められた。フランスは1554年8月2日にマルチャーノの戦い (英語版 ) で大敗するが、フランス語話者が主流なメス 、トゥール 、ヴェルダン は併合に成功した[ 15] 。
戦争の最中の1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝からもスペイン王からも退位した。神聖ローマ皇帝はカール5世の弟フェルディナント1世 が継承、スペイン王位はカール5世の息子フェリペ2世 が継承した。すなわち、カール5世の退位はフランスを包囲したハプスブルク帝国を分割させた。これ以降、神聖ローマ帝国とスペインの結束はカール5世の同君連合時代の緊密さからだんだんと緩くなっていく。
この時点で戦場はイタリアからフランドル へと移り、フェリペ2世はサヴォイア公 エマヌエーレ・フィリベルト とともに1557年8月10日のサン=カンタンの戦い (英語版 ) を戦い、フランスに大勝した[ 16] 。しかしフランスはサン=カンタンでの敗北の後に元気を取り戻し、戦闘を再開した。1557年にイングランドが帝国側で参戦すると、フランスは1558年1月にカレーを包囲 、陥落させた[ 17] 。さらに、フランスはネーデルラント におけるスペイン軍を撃破した。
戦争はもうしばらく続くかと思われたが、その終わりは突如訪れた。1557年、スペインとフランスは相次いで破産を宣言した。さらにフランスはユグノー にも対処しなければならなかった[ 18] 。アンリ2世は1559年4月3日のカトー・カンブレジ条約 受諾を余儀なくされた。条約により、アンリ2世はイタリアへの請求を全て取り下げる[ 19] 。これによってイタリア戦争は完全に終結する。
フランス王アンリ2世 は1559年7月10日に平和を祝って行われた馬上槍試合 で致命傷を負い、15歳の息子フランソワ2世 が王位を継ぐが、フランソワ2世も1560年12月5日に死去する。フランスは混乱に陥り、1562年にユグノー戦争 が勃発したこともそれに拍車をかけた。イタリア諸国は二等国にされ、ミラノとナポリはスペイン・ハプスブルク家 の支配下に置かれた。
イタリア戦争はレオナルド・ダ・ヴィンチ の作品にも影響を与えた。彼は1495年にグラン・カヴァッロ (英語版 ) (Gran Cavallo 、巨大な馬)と呼ばれる銅像を制作する計画を立てたが、この騎馬像制作のために用意された17tのブロンズは、フランス王シャルル8世 のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月に大砲の製作材料に流用されてしまった[ 20] 。1515年のマリニャーノの戦い (英語版 ) の後、ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城 近くのクルーの館 が邸宅として与えられ、1519年に死去するまでフランスで過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクード [ 21] にのぼっている[ 22] 。
イタリア戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩が見られ、歴史家の一部にはイタリア戦争を中世と近世の分け目と見る者もいる[ 23] 。
イタリア半島は大部分が「外国による支配の時代」と呼ばれる境遇に陥ってしまう。ルネサンス時代には先進国であったが、政治・社会的には立ち遅れた状態になってしまう。
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