先日resilienceという英語を初めて知った。文字から意味を類推できなかったので語源を調べたりして遊んでいると、ふと理不尽なことに出会ったとき、それを乗り越える力をresilience力というのかなと思った。
reはbackの意味で、silienceはラテン語salire由来でjumpという意味のようだ。
人生の復元力は何で決まるのだろう。価値の相対化、執着から離れること、だと思う。それはつまり視界の外側から内側を見ること、意識の外側から内側を意識することである。
どうやってそれをするか。
1 社会にインストールされたもの お祭り、寺社の境内。
2 個人に関わるもの 禅、瞑想、や臨死体験などの超常体験。抽象化力を養ってメタ認知力をつけるのも一つだと思う。
現代ではお祭りも境内も管理された社会の内側にある。多くの場合、日常を外側から見る機会を与えない。現代では社会にインストールされたものが役立たなくなっているので、受動的に外側を意識するのが難しくなった。
能動的に外側を意識するなら、日常より僅かでも死ぬ危険の高いことをするのが手っ取り早い。登山でも、外国旅行でも良い。トライアスロンやマラソンに挑戦するのも良いかもしれない。
物理的外側は人生の復元力を得る為だけでなく、ワクワクするためにもある。ワクワクは生きる力の根源である。
思索による外側の探求は禅や瞑想の如く穏やかな世界を獲得できる。
しかし外側に行き続ければ、そこが内側になる。よって外側を意識できなくなり、価値の相対化力が弱くなり、人生の復元力が弱くなる。
だとすれば、たまに行くか、より過激なことをするかだろう。
作品が書かれた1910年は、幸徳秋水が巻き込まれた大逆事件や韓国併合があり、翌1911年には清で辛亥革命が起こり、翌1912年アジアで最初の共和国、中華民国が生まれている。
作品の大まかなあらすじは、
なるだけ世間との関りを持たないようにして生きている主人公の宗助と妻の御米の日常に、宗助の弟の小六や家の裏に住む家主の坂井が関わりながら毎日が過ぎる。親友の安井の妻を奪って結婚した宗助は親友を傷つけたことに耐えられず、仕事を休んで、禅寺の門を叩き、10日ほどの参禅体験をして何も得られず家に帰る。
夫婦の日常を丁寧に描いた前半から、宗助が裏の大家の坂井の家で、かつての親友であり、またその妻を奪った安井の話を偶然に聞いて以降、物語は急展開する。その苦しみから逃れるために禅寺に参禅し、その時の気持ちが詳しく語られる。唐突に始まる禅寺行きは前半と何の脈略もないように私には感じる。前半の丁寧な夫婦のやり取りの描写がほとんど生きてこない。禅体験も通り一遍で深みの無い体験で、しかもその体験が物語に深みを与えていないと思う。
漱石の小説には、「それから」でも、親友の妻三千代と気脈を通じて以降、物語が急展開して、ついて行けなさを感じたが、「門」ではその展開があまりにも突飛な印象を受ける。
「こころ」も二分割されているので、もともと異質なものを並べるのが好きな作者なのかもしれないが、「門」は禅体験で表現された内容が前半と断絶しているように思う。両者をまとめて抽象化することが私にはできない。禅体験であっても、もう少し違う終わらせ方があったと思う。
季節、天候の表現は相変わらず上手である。
追記
これまで私が読んできた後期三部作や「それから」と較べると、本作は夫婦の関係がより対等である。それまでの作品は家父長的で、女は男の付属物のような扱いであった。
宗助は家族と絶縁され、家父長系のピラミッドから放擲されたが故に、自分を庇護してくれる家父長的実態がないので、家庭内にその価値を作れなかったのかも知れない。もしくは頼れる者がおらず二人で力を合わせて生きていくしかなかったので、関係が対等に近づいたのかも知れない。
意外なところに解放区が出現して、私には目新しかった。
知らなかったが漱石の前期三部作というのがあって、この作品はそのひとつである。
あらすじは、大学卒業以来働らかない30歳の主人公代助と大学以来の友人平岡とその妻三千代や、代助の父と兄、兄嫁らとの日々のやり取りである。
詳しいあらすじは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89
この作品の主題は、したいことをするのか、それとも社会からの要求に応えるのか、ということだと思う。
したいことをするとは、自分の心に誠実に向き合うことである。
社会からの要求に応えるとは、したいことを我慢して、食べるために仕事をし、さらには不本位なことにも従うことである。もっと言えば、社会からの要求に誠実に答えるということである。
作品の時代の前提は、
封建社会の江戸時代では、忠孝が説かれた。お上に忠誠を誓い、親に孝行を励むことが大事とされた。江戸時代が終わり、西洋の学問が入ってくるにつれ、そして西洋の圧倒的軍事的優位が認識され、西洋に追いつくためには西洋の学問を取り入れ、近代化する必要があることが意識された。つまり忠孝より自律、近代的市民が重要視されるようになっていた。
さて、
作品の書かれた1909年は明治維新からすでに40年がたっている。この作品を見ると、伝統的価値が解体していき、人々がいまだ右往左往しているのが見える。人々は社会の変化に従って、自分を変えていった。つまり誠実、道義よりも豊かな暮らしを求めようとしたのである。
したいことをする、とは、社会の価値よりも自分の欲求を大切にするということである。つまり近代的自我を獲得し、実行するということだ。代助は自分の欲求に誠実であろうとした。食うためには働かず、最後には既婚者に愛を告げ、そしてその夫にも理性的に接しようとする。そしてその夫も理性的に対応したのである。
好きな男が出来たから今の夫と離婚する、という三千代の決断は、当時はタブーだったろう。自分に誠実に生きようとした代助と三千代は社会的タブーを犯すまで突き進まざるを得なかった。
漱石の言いたかったことは以下だと思う。
自分の欲求を大切にし、それを全うしようとすると、反社会的になる。近代的自我の獲得は、既存社会を毀損する可能性がある。それとどうやって折り合いをつけますか。
であるから、二人の関係の結末は重要ではなかったので描かれず、主人公の覚悟を描いただけで目的が達成されたのだと思う。
私の感想
漱石は既婚女性との恋愛を理性的に押し進められることを描いて、自律することの一例を示したと思う。
現代でも、恋愛は親離れという自立の大きな契機である。
こころを大切にしたら、つまり自分の心に誠実になれば、他人に対しても誠実で道義的になる、と言うのがこの小説の前提にある。が、現代ではこのような前提は成り立たないと思う。自分の心に誠実に行動したら、損得勘定に走るだろう、と考えるのが現代の世情だろう。
自分の心に誠実である、つまり利他が、自分の欲望に誠実である、つまり利己、と現代では読み替え可能になった。
ということを考えれば、当時はまだ漠然と性善説が信じられていたのだと思う。
たかだかこの百年の間に、表層的な心のふるまいは変わってしまった。
自分に誠実であるとは2通り 考えられる。
1 自分の欲求に誠実。文中繰り返し書かれたように、「したいことが目的になる」態度である。主人公代助の意識していることだ。
2 自分の価値に誠実。たとえ自分が損をしても決断する態度。
代助は大学卒業後30歳になっても働かず、本を読んで思索活動に勤しんでいる。また愛した女性を友人から奪っている。現代の私から見ると、どちらも価値にではなく欲求に誠実であるように見える。
もしかすると漱石は欲求に誠実であることが価値であると考えていたのかもしれない。だとしたら当時は欲求に誠実であることが難しかったということかもしれない。
もしくは漱石は両者を区別していなかったのかも知れない。
追記
・江戸時代のGDP成長率はおよそ0.1〜0.3%と言われている。作品が書かれたころは3%あたりである。江戸時代と比べて、目に見えて日々の豊かさの変化を実感できたと思う。しかも身分制が無くなったので、誰でも商売に参加できるようになった。才覚のある人は金持ちになれたのである。一部の人たちは目の色を変えて投資に参入しただろう。この作品では代助の父と兄がその片鱗を見せている。他の人たちは、身近な人たちの投資家マインド、つまり道義より“生活”重視を見下しただろうし、そのお金に嫉妬しただろう。それは江戸時代にはなかった状況である。
投資の新参者は好景気もあれば不景気もあるということを実感していなかっただろう。好景気のときに投資を始めた人は、こんなボロい商売はない、とヘッジも掛けずに有り金すべてを投資し、突然の株式暴落にすべてを失った人も珍しくなかっただろう。
・無職の代助と失業中の平岡が、代助が働かないことで、何度も世間話を交えて話をしている。そのやり取りは今から見ると、たとえ親友であっても言わないような辛辣な内容である。そんな会話が日常的に交わされている。当時は今よりも本音で普通に話すことが出来たのだな、と思う。本音を語らないと言う現代のこの傾向は増々進むだろう。
・漱石の他の作品にも出てくるが、引っ越しが容易く決定される。ぶらぶら散歩をして気に入った部屋を見つけると、その場で口約束?をして翌日引っ越しである。身分証明や保証人は必要なかったのだろうか、それとも事後に提出したのだろうか。今日の形態に至るまでに、狡い人たちによって多くの人たちが痛い目にあって制度が整ってきたのだろう。
・作品中にこんな一文がある。
「梅雨は漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となった」
自分への三千代の気持ちを確認したあとに見上げた空の描写である。
詩的で、とても美しい表現だと思う。私もこんな表現を作り出してみたい。
高校の時、テレビの深夜映画でこの作品の映画化されたものを観た。場面が飛んで訳が分からなかったが、その後長く印象に残った。数年前に元の小説の存在を知り、今回読んでみた。
著者は1944年にアメリカ陸軍に徴集され12月に西部戦線でドイツ軍の捕虜となり、2月13日の連合軍によるドレスデンの無差別空爆を捕虜として経験する。
あらすじは、
読むにしくは無いが、大雑把に言えば、トマルファマド星人に誘拐されることによって時空を移動できることになったビリーは自分の人生の始まりから終わりまでをザッピングしながら順不同で経験をする。そしてすべての時間が同時進行しているという確信に至る。経験する時間の中心は捕虜として遭遇した連合軍が実施したドレスデンへの無差別爆撃である。
ビリーは外界に翻弄され続ける。非常に限られた選択肢の中からベストと思われることを選択し、選択肢が無ければそれに従う。その繰り返しの人生である。悲劇的な状況がユーモアを持って描かれている。
すべての瞬間が同時に永遠に継続することを知り、生きている瞬間は永遠に生き続けると信じ、死の瞬間も同じように捉える。
そして以下のように思うのだ。
「この瞬間、あの瞬間を訪ねながら永遠を過ごすことが許されるとしたら、私はその多くが楽しい瞬間であることに感謝するだろう」
作者は主人公ビリーを通して、生きることの理不尽さを表現していると思う。人生は自分ではどうしようもないことだらけである。それが滑稽に表現されている。そしてその理不尽さにどう対処するかも描かれてる。それを私は感動的だと思う。
付記
トマルファマド星に連行され、動物園に入れられた時、番わす為に地球から誘拐してきた若い女の首にかかっていたペンダントに書かれていた言葉は、以下のようである。
God grants me the serenity to accept the things I cannot change,thecourage to change the things I can,and wisdom always to tell the difference.
(神よ、変えれないことを受け入れる威厳と、変えれることを変える勇気と、両者を常に区別できる知恵を私に与えたまえ)
追記
私は知らなかったが、第二次大戦下、ドイツの大都市への無差別爆撃は日常的であった。私はてっきりアジア人差別で、連合軍の都市への無差別爆撃は日本だけに行われたと思っていた。その唯一の例外がドレスデンだと思っていた。
東京が舞台の、出演者も全員日本人で、日本語で撮影された作品である。この作品で役所広司はカンヌ映画祭の最優秀男優賞に選ばれている。
監督は茂木健一郎氏が英語で出版した「ikigai」(生き甲斐)を読んだ可能性がある。
あらすじは、一生懸命に仕事をするトイレ清掃作業員の何の変哲もない毎日を淡々と描いている。規則正しい生活の中にも、毎日小さなことを楽しみにして生きている。
この映画を観ているときは、日本びいきの外国人が自分のイメージする日本を美化しただけの作品だな、と思っていた。
まあそれはその通りなのだけれど、観終わった後、別の感慨も湧いてきた。
平凡な日常を生きるとは、こういうことなのだろう。人に煩わされないで、毎日淡々と暮らそうと思っていても、不可避に外部からの刺激があり、それに翻弄されながら生きていくしかないのである。そこに人生の避けようのない価値があると思う。
主人公の生活は、毎日の暮らしを大切にし、つまり、目の前のことに一生懸命に対応し、かつ自由な心を持って日々の瞬間に感動する。
非常に好感の持てる生き方である。
映画はクライマックスもどんでん返しも勿論ない。
追記
家出をしたある娘が主人公の元にやって来る。その娘の母親を、ウィキペディアでは、主人公の妹と書いてあったが、そして作品中でも、その女は「兄さん」と主人公を呼んでいたが、別れ間際にハグをしていた。日本では兄妹でハグはしない。元カップルだと思う。だとしたら家出娘は主人公の娘の可能性が高い。
だとしたら、それの暗示するところは、今は淡々と生きている主人公も、かつては波乱の時間があったのだ、ということだと思う。
初期作品スマイリー三部作で有名なスパイものを得意とする作者の中期の作品である。
これまで処女作「寒い国から帰って来たスパイ」、スマイリー三部作の一つ「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」そして晩期の「ナイロビの蜂」を読んできた。
あらすじは、
イギリスの諜報員に弱みを握られた、パナマで仕立て屋を営んでいるイギリス人が、地元の仲間を裏切りたくないために、適当な作り話をでっち上げて報告した結果、アメリカと共同作戦を取ることになったイギリス政府がそれを信用し、アメリカは仕立て屋が作り上げた情報を基にパナマを侵攻する、
というお話である。
晩期の「ナイロビの蜂」と同じく、ハラハラドキドキも、大どんでん返しもない。あとがきで著者が話しているように、ホラ吹きの情報提供者を偉大なるグレイトブリティンが信用してしまう物語を書きたかったようだ。
また、ヒーローのいない「カサブランカ」に例えている。この作品がそうなっているとは私は思わないが。
何れにしても細部に妙に詳しく、興に乗らなければ読み進めるのが難しいと思う。
私はパナマに2週間ほど旅行したので、それぞれの地域の特徴やランドマーク的な建物を興味深く読んだが、そうでなければ途中でやめたかもしれない。
付記
この小説の前提になっているのは、1999年にパナマ運河の租借、管理運営権をアメリカがパナマに返還することになっていることである。イギリスが香港を中国に返還したように、契約の期限が来たのである。
その時のアメリカの心配は、腐敗したパナマ政府が、どこかの金持ち国に買収されて、アメリカに不利な運河通行契約を結ばされることであった。さらに言えば、アメリカの意に沿わない政府が生まれることであった。
パナマはそもそもアメリカがコロンビアを脅して無理やり国土を割譲させ、1903年にパナマという傀儡国を作り、自腹を切ってパナマ運河を作った経緯がある。パナマの通貨はドルで、しかもパナマは中央銀行を持たない。アメリカの「植民地」として存在してきたのである。
2025年2月現在、トランプ大統領がパナマに圧力をかけて、パナマ運河の入口にある中国企業が運営する2つの港湾施設を排除し、またパナマ運河への投資からも中国を撤退させるように約束させた。
かつアメリカ側はアメリカ艦船は運河の無料通行権を得たと発表したが、パナマ側は否定している。
少し遡れば1989年から1990年にかけてパパブッシュ大統領の時代に、意に沿わないパナマ政府に侵攻し、事実上の支配者ノリエガ将軍を拘束しアメリカに連れ帰って、裁判にかけている。
まあ、強いので何でもありである。
アメリカ合州国が内戦に陥った映画である。観終わったあとにウィキペディアであらすじを確認すると見落としだらけであった。
あらすじはこちら
「ザ ディプロマット」を書いたアレックス・ガーランドとは思えないほど単純な筋のストーリーである。
内戦を通して素人ジャーナリストが生きる喜びを見つける映画である。
毎日の暮らしの中に生きる価値を見いだせなかった23歳のジェシーが無法地帯や戦場で生身の人間の活き活きした姿を見つける。日常生活の抑圧された感情を解放させた人々はビビドに生きていた。彼らの写真を撮ることによって自らもビビド感を手に入れ生きることの実感を得る。
一方ベテランジャーナリストのリーは国が二分して戦闘状態になっていることに絶望していく。映画終末にジェシーを庇って自ら被弾したのは故意のように私には見えた。ジェシーとは反対に、生きる価値をこの世に見れなくなったのだ。
2020年1月6日トランプ派の議会占拠後の、2024年の大統領選挙でトランプ候補が敗北した場合、トランプ派が武装蜂起するのではないか、と言われる中での日本での映画公開であった。
故に映画内の内戦に焦点が当てられ、反戦映画であるとか、戦争肯定映画であるとか言われていたようだが、私から見ると、戦争は舞台装置に過ぎず、主題はビビド感のない日常生活に、生きる実感を持てなくなった若者が非日常に接してその実感を手に入れていくことである。
つまり作者の問題意識は、つまらない日常をどうやって楽しくするのか、である。日常がつまらなすぎると、刺激を求めた若者は戦争することさえ辞さなくなりますよ、だと思う。
それをさらに拡大すると、今のアメリカの、世界の二分化は、ビビドを感じられなくなった人々が刺激を求めた結果なのではないですか、と言っているようにも見える。
追記
・後半の戦闘シーンが長過ぎた。意図するところが分からない。そのシーンの中に埋め込まれた意図を私が見落としているのかもしれない。
・命が掛かれば掛かる程、人はビビド感を感じてしまう。死ぬ可能性が高ければ高いほど、ドーパミンが放出されて興奮するのである。難易度の高い登山はもとより、戦闘行為はその最たるものである。その後の弛緩状態も快感である。
日常生活とは別のところで、たとえ僅かであっても命の危険を感じる非日常を用意しておくのは悪くないことだと思う。実際に死ぬ可能性は0.1%以下だが、外国旅行でも、登山でも、ダイビングでも良い。
漱石後期3部作の一つである。登場人物がそれぞれ語り部となって物語を回していき、読み終わったとき、壮大な物語を読んだ気分に私はなった。物語の最初の語り部が敬太郎で、最後の語り部である松本の話しかける相手が敬太郎だったので、一周回った感じがしたからだろう。
凡そのあらすじは、
まず大学を卒業したばかりの敬太郎の視点で物語が始まり、痛快に、ロマンチックに生きたいと思うが、及び腰であることが語られる。
次に敬太郎の大学の友達である市蔵の長い語りが始まる。自分の出生の悩み、そして千代子との生まれて以来の関係が語られる。
最後に市蔵の伯父である松本が見た市蔵のことが敬太郎に語られる。
私の感想
松本の語りの中に、上滑りでなければ神経衰弱になるしかない、という言葉がある。西洋文化に触れた日本の知識人は自分で考えることを大学で教えられ、結果として自分の価値を持ち、それは周囲と違っているが故に孤立し、理解されず神経衰弱にならざるを得ない、という意味だと思う。
自立、自我は後期3部作の重要なテーマではあるが、「彼岸過迄」はもっと雑多なものが混じっているように思う。青年期特有の自意識の強さやその裏返しの劣等感、感情と理性の相克などである。
読み物としては面白いが、一つの主題を中心に展開するのではなく、主題という点から見ると他の2作と較べてつかみどころの無い作品になっていると思う。多分読者を楽しませようという思いが前面に出たのだと思う。
以下は私の仮説である。
漱石には大衆を領導していこうという前衛意識があったと思う。帝国大学を卒業し、当時の覇権国イギリスに留学した。イギリスの市民を見てその彼我の違いに愕然としたと思う。当時は戦争に負ければ植民地になるのが当たり前であった。1000年以上日本のお手本だった中国が列強に国土をむしり取られていくのを目の当たりにした日本の指導者層の切迫感は大変なものだっただろう。
漱石は日本の大衆が一刻も早く自分の頭で考える市民になることが大切だと考えたはずだ。そして自分の立場を利用してそれを実践しようとしただろう。それが則ち前衛意識である。
が、漱石の小説には前衛意識を持った人物が登場しない。「彼岸過迄」も登場人物は“高等遊民”である。高等教育を受けた知識階級ではあるが、国家の危機意識を共有していない。
何故前衛意識を持った人物を登場させなかったのだろう。ひとつには、読者のほとんどがそのようなものを共有していなかっただろう。つまり読まれない可能性があった。もうひとつは、漱石が読んで欲しかった読者は、中間知識階級の人たちだったからだと思う。つまり指導者層と大衆の間にいる教員や大学生のような人々である。その人たちが学校などで大衆を教育することが大切だと考えたのである。しかし中間知識階級の人々は西欧の知識を得て自分の価値を持ったが故に世間から孤立して、自信を失っていた。しかしそういう自分の姿をメタ認知を使って少し上から見るのはまだ難しかったのだろう。そこで漱石は知識人が置かれている疎外感を少しデフォルメして分かり易くこの作品で提示して見せたのだと思う。
若者よ、君たちがバドっている(こじらせている)のは、外から見ればこんなふうに見えているんですよ、と。
そしてそれを乗り越えて市民になっていきましょう、後に続く市民を量産していきましょう、と。
付記
・とはいうものの、ウィキペディアで漱石の生涯を見ると、当然だが世間に翻弄されたようである。漱石自身がそれ(疎外感)を乗り越えられたのかどうか不明である。
・私は市蔵の千代子に対するぐだぐだした気持ちの告白を読んで、カズオイシグロの「日の名残り」の、貴族である主人に対するぐだぐだした正当化を執事が語ることをうんざりしながら読んだことを思い出した。読み終わった後、執事はそれ以外自分ではどうしようもなかったのだ、ということに気付いたが、読書中はうんざりした。
・銭湯には三助がいて、体を洗ってくれたようである。今でもトルコには似たサービスがあるが、小さなことにも仕事を作って、多くの人が仕事にありつけるように、共同扶助的な仕組みがあった。
市蔵の家の下女は、彼の母親(隠居)が旅行から帰って来た時、玄関で母親の足を洗っている。
敬太郎の下宿屋の下女は、下宿人が外出するとき、下駄箱から靴を出していた。十代の娘が親元を離れて見下されて暮らすのはさぞかし辛かったろうと思う。
・敬太郎が痛快さを求めた時、身近な大人が、南洋へ行け、と勧めた。第一次大戦後、ドイツの支配地域だった南太平洋諸島を戦勝国として受け継いだが、この作品が書かれたのは大戦前である。にもかかわらずすでに南洋は野心家の仕事先になっていたのだろうか。もしそうだとしたら、今の日本人よりよほど視野が広いと思う。
もしくは南洋と言っても実は日清戦争で割譲させた台湾のことなのだろうか。
・敬太郎が下宿していた家は木造3階建であった。私は木造3階建の民家を愛知県の知多半島で一軒しか見たことがない。かつては江戸や東京には普通にあったのだろうか。私が見たその3階建は、立派には見えたが、古く、不安定そうだった。
・新宿区の市蔵の家の庭の木の根元にサギソウが咲き乱れている描写がある。サギソウは世田谷区の区の花である。が、その世田谷区でさえ既に自生地は失われている。明治末にはまだ都心でも庭にではあるがサギソウが見られたのだ。まだまだ自然も残っていただろう。その頃の東京に行って谷やら尾根やら藪の斜面を見てみたい。
一人の人間が一定時間の労働で生み出せる価値はおおよそ誰もが同じだろう。何倍も違うということは実感としてはないだろう。だとしたら収入もおおよそ同じになるに違いない。
江戸時代、庄屋は小作人を使って多くの米を収穫し米俵を米倉に保管した。庄屋一人でこの価値を作り出したのではもちろんない。また貧農に高利で金を貸して稼いだ。いつまでも貧しい農民は庄屋との暮らしの違いを較べて、自分の利益をかすめ取られたと理解した。故に打ちこわしはまず庄屋が狙われたのである。
工場制機械工業が導入されたとき、劣悪な労働条件で働いていた工場労働者つまり農家の娘は、金回りの良い工場主を見て、搾取されたと感じただろう。
現代、町工場で働いている労働者も、工場の社長が外車に乗っていればそう感じるかもしれない。
これらの判断はすべて、一人の人間が作り出す価値はおおよそ同じだろう、という実感に基づいている。
さて、アマゾンの集配倉庫で働いている労働者は、ジェフ・ベゾスの資産を知ったとき、ベゾスに搾取されたと感じるのだろうか。
テスラやスターリンク、スペースXで働く労働者は、イーロン・マスクの資産を知ったとき、マスクに搾取されたと感じるのだろうか。
問題は2つあると思う。
1 企業が大きくなって、労働者から役員の暮らしが見えにくくなっていること。トヨタの組み立て工場で働くアルバイトは取締役がどんな暮らしをしているか見当もつかないだろう。これでは搾取感も持てない。
2 こちらがより重大だと思うが、製造業で作り出す価値と金融・投資で作り出す価値は全く別物である。ビットコインは10年程前は1ビットコインが1万円ほどであった。乱高下しているが今は1500万円である。この暗号通貨はそれだけの価値を作り出しているのだろうか。
問題は製造業のお金と金融のお金が同じ価値として流通していることにある。金融のお金が増大して、製造業の生み出す価値を相対的に小さくしている。
テスラやスペースXは金融業ではないが、マスクがかかわる優良な投資先として見られて高い株価を維持している。マスクの巨額の資産はこの株価に関係している。故にテスラの労働者は株によって富豪になったマスクに搾取されている感を抱きにくいと思う。
以上のことから私は以下のように考える。
このような社会では、搾取された感を抱きにくく、故に階級闘争が起こりにくい。
例えば自由主義を推し進めた小泉純一郎首相(当時)を下層の人たちが応援したのは、一つの理由にこれがあると思う。
日本に限らず先進国では相対的に貧しい人が増えているが、彼らが反富裕層ではなく、極右や愛国主義や面白いことを言う独裁的な指導者を支持する理由の一つにこれ、つまり搾取感の喪失があると思う。
このような状況になっている最も大きな理由は、孤立した個人が鬱憤晴らしに威勢の良い言説を支持してしまう、ことだけれど。
前提とは、言うまでもない、と思っていること、さらには、意識さえしていないこと、である。
同じ出来事を見ても人によって受け止め方はそれぞれ違う。同じ出来事について話していても話が噛み合わないことがある。先日妹と話をしていて、全くかみ合わないので驚いた。
何故そのようなことが起こるのかについて考えてみた。
ある出来事を経験した時、未来に目的を持っていて、その出来事が未来にどのように影響するかを見通そうとする人は、未来の視点を持たない人とはその出来事の捉え方は違うだろう。ここでは未来の視点を除外し、過去の視点でのみ考える。
・事実の多少
ある出来事が起こったとき、最初からその出来事に関わった当事者と、途中からその場に居合わせた人とでは、ある出来事を構成する事実の量が違う。人は自分の知っている範囲を前提として出来事を認識するので、事実の量が違えば当然前提も違ってくる。故に話が噛み合わないことがしばしば起こる。
・事実の因果関係
出来事の部分である事実の集まりを因果関係として見ている人と、偶然に起こった事実の集まりのように見ている人とでは、当然出来事に対する前提は違ってくる。
・プレーヤーの意図
出来事の中に人が関係していると、人はある意図を持って行為するので、その人が親切心で行為してくれていると受け取る場合と、悪意があって行為していると受け取るのとでは出来事を評価する前提は違ってくる。プレーヤーの言動をどう評価して、その意図を読み取るかは、かなり複雑な回路を通過するので、その結果としての意図の読み取りにも差が出やすい。結果、前提の差に影響を与えやすい。
・過去の経験
過去の経験はものの見方に無意識に影響を与える。犬に噛まれて大けがをした人は犬を見た時それ以外の人とは違った反応をするだろう。
・所属の違い
どこに所属しているかによって見え方は違ってくる。所属の変更が難しければ難しいほど、前提は強固になる。富裕層と貧困層が前提にしている世界観は容易に折り合わない。男と女もそうであろう。
以上が日常で起こる目の前の人との話の噛み合わなさの原因だと思う。
さらに過去の文学作品や映像作品で起こる話の噛み合わなさ、ならぬ解釈の勘違いがある。
・時代の常識
ある時代を生きている文学や映像の作者は当然その時代の常識を前提にして思考している。パワハラが当たり前だったと思われる飛鳥時代に生きた聖徳太子がその時代の問題意識をもってもし小説を書き、それを現代の私たちが読めば、聖徳太子が意図していなかった読み方をする可能性がある。また明治時代の常識はもちろん令和の常識とは違う。当時は当たり前だった下男や下女のような人間の扱い方を現代は許さないだろう。
以上が私の結論だけれど、特に気を付けなければならないと思うのは、事実の集まりを偶然の連なりと見るか、相関関係があるとみるか、因果関係があるとみるかは大切である。
またプレーヤーの意図もあまり大きく外してしまうと実人生をそのものを害することにもなる。
当たり前のことであるが、話が噛み合わないのは困ったことではあるけれど、そのことによって前提の違いがあぶり出され、世界をより深く知るきっかけにもなりうる。
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