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雑草のような雑念と雑考

中国の不思議な役人:不正による立身出世

 興味深い記事があったので、得手勝手な解釈してみました。

 それは大学時代に論文で「不正」した人は官公庁に入りやすく、また、組織での栄達も早いというビッグデータサイエンスの論文の紹介です。

 

news.yahoo.co.jp

 

「不正」は別の中立的な用語に置き換えてみたい。「模倣」と「効率」です。

ある種の組織はそのメンバーの能力に独自性とか新規性が必要とされない可能性があります。また、そうした組織における業務活動、たとえば社内文書&報告書作成のたぐいにも独自性や新規性は重要視されないでしょう。

 「模倣」によってその社内文書&報告書も効率的に作成することができます。上意下達の組織にあってはその方が合理的かもしれませんね。業務活動を省力化して人脈づくりのようなヒューマンコミュニケーションに割くほうが出世には有利になるでしょう。

 官僚組織の特性には「模倣」と「効率」が合うような気がしませんか?

 

 


www.youtube.com

 

日本のポスドク問題とSFアニメから「博士」が失われる予兆

日本のSFアニメから「博士」が失われてから10年以上経過してから、ポスドク問題が

次第に切実なものとなっていくようです。

 今では「理研の雇い止め」問題のように「高学歴の非正規雇用」が常態化してしまいました。頭脳の使い捨て、基礎研究力の低下は余り望ましいとはいえませんね。

 

  • 1990年代: 政府は「科学技術創造立国」を目指し、若手研究者(博士)を増やすための政策を推進しました。この一環として、多くの大学で大学院(特に博士課程)が新設・拡充される「大学院重点化」が進められました。
  • 1997年頃: 大学院生の増加自体が話題となり始めました。
  • 2000年代初頭: 博士課程修了者の数が増加した一方で、大学や公的研究機関の常勤職(パーマネント職)のポストの増加が追いつかず、博士号取得者が安定した職に就けないという「ポスドク問題」が深刻な社会問題として認識され始めました。
  • 2001年頃: ポスドクの過剰問題が具体的に指摘されるようになりました。

 

分岐点となったのは、1980年代中頃、特にリアルロボットアニメの台頭以降です。この頃から、巨大組織の中で翻弄される一人のパイロットや、現場レベルでの人間関係、政治的な駆け引きなどが重視されるようになり、主人公自身が状況を打開していく「現場主導」の物語が増えました。博士の役割は、裏方での技術開発やサポート、あるいは狂言回し的な存在へと変化していきました。

 

日本のSFアニメにおいて、博士がリーダーであった頃

 Geminiに「日本のSFアニメの歴史において、博士がリーダーになるアニメとそうではなくて現場主導のアニメになるものとに分けてください。その分岐はいつ頃発生しましたか?」と問いかけました。

 

その回答は下記ですが、『宇宙戦艦ヤマト』の沖田艦長は完全なミスであることをのぞき、素人の突っ込みを

 

日本のSFアニメの歴史において、物語の中心となるリーダーシップの形態は時代とともに変化してきました。大まかに分けると、1970年代から1980年代初頭にかけて「博士がリーダー」の作品が多く見られ、1980年代中頃から「現場主導(パイロットや若い指揮官)」のアニメが主流になっていったと言えます。 
 
博士がリーダーになるアニメ(黎明期・初期)
この時期の作品では、敵の脅威に対して科学の力で立ち向かう構図が多く、その科学技術の権威として博士(またはそれに準ずる科学者)がチームや組織のリーダーを務め、主人公たちはその指示を受けて戦う役割でした。
 
現場主導のアニメ(変革期・現代)
分岐点となったのは、1980年代中頃、特にリアルロボットアニメの台頭以降です。この頃から、巨大組織の中で翻弄される一人のパイロットや、現場レベルでの人間関係、政治的な駆け引きなどが重視されるようになり、主人公自身が状況を打開していく「現場主導」の物語が増えました。博士の役割は、裏方での技術開発やサポート、あるいは狂言回し的な存在へと変化していきました。 
この変化は、アニメの視聴者層の広がりや、物語のテーマが「勧善懲悪」から「等身大のキャラクターの成長」や「社会の複雑さ」へと多様化していったことを反映していると考えられます。
 
 
 
 
 

GeminiProとCopilotの人文科学系の教養欠落

 自分の世代においては大河小説とは第一に長大な小説であり、多彩な人物が時の大河のなかに浮かんでは消える文学的なジャンルであったし、そうであるべきだろうと考える。それを前提にして最近流行りのAIに助言を求めてみよう。

 CopilotとGeminiに本日リサーチをしてもらった結果を示す。

 

はじめにCopilotに「大河小説をあげてください」と要求してみる。

 

海外の代表作

 最初の三作は大河小説にマッチしている。しかし、百年の孤独』は単行本で1冊ものである。百年という時間の経過は扱うことによるCopilotの誤解であろう。

日本の代表的な大河小説

  • 北杜夫『楡家の人びと』
    東京青山の大病院を舞台に、一族の年代記を描いた作品。日本大河小説の代表格。
  • 山崎豊子作品群
    白い巨塔』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』など。社会の大きな流れと個人の生を重ね合わせた骨太な作品群。
  • 三浦綾子『泥流地帯』『天北原野』
    北海道を舞台に、自然災害や開拓の歴史を背景に人々の生き方を描く。
  • 住井すゑ橋のない川
    部落差別をテーマに、世代を超えて人間の尊厳を問い続ける大作。
  • 宮本輝『流転の海』シリーズ
    戦後日本を背景に、主人公の成長と社会の変化を長期的に描いたライフワーク的作品。
  • 船山馨『石狩平野』『茜いろの坂』
    北海道の開拓と人々の生活を描いた大河的作品。
  • 白井喬二『富士に立つ影』
    富士山を背景に、武士の生涯と時代の流れを描いた長編。

豊富なリストといえよう。だが、芹沢光治良五味川純平の書目がない。

とくに芹沢の『人間の運命』がないのは文学的におかしいと思う。

 

 Geminiの方はどうであろうか?

「日本の大河小説をあげてください」と尋ねると下のように「歴史小説」しか出さない。『峠』や『国盗り物語』は文庫で2巻か4巻しかないので長編小説でしかない。『夜明け前』以外は大衆小説系ばかりだ(宮本輝は中間かもしれない)

文学的香りはかろうじて藤村のものがあるので微香がある程度だ。

これらの作品は、日本の歴史や文化に深く根ざしたテーマを扱い、多くの読者を魅了し続けている名作ばかりです。

 

 結論としては、日本の近代文学における「大河小説」の評価に欠落がある。個人的な感想であるけれど大衆向けの書目に偏っている。これは学習データのセレクトに偏向があるためと推定される。すなわち標準的な「日本文学史」を基盤にしていない可能性がある。

 

 

 

 

AIの品質劣化に関するメモ

2026年問題(AI)とは?インターネット上のデータが2026年に枯渇するって本当?(スマホライフPLUS) - Yahoo!ニュース

AI研究の権威であるスチュアート・ラッセル教授は、2023年のITU(国際電気通信連合)のAI for Goodグローバルサミットで「大規模言語モデルをさらに大きくしようにも、学習させるテキストが世界中で文字通り底をつき始めている」と警鐘を鳴らしました。ある研究では、現在のペースでAI開発が進むと、高品質なテキストデータは2026年までに、質の低いデータを含めても2030~2050年頃までには使い尽くされると予測されています。画像データも2030~2060年には枯渇する可能性があるとされています。

 というような記事がこれまでも報じられている。問題の本質はなんなのだろう?

安直にGemini君に尋ねてみよう。

 

 AIの品質劣化問題の原因を教えてください、とね。すると

AI生成データで訓練されたAIモデルの性能が劣化する主な理由は以下の通りです。
  • 多様性の喪失:
    • 人間が生成したオリジナルのデータセットには、多様なスタイル、ニュアンス、エラー、例外などが含まれています。
    • AIモデルは学習時に入力データの最も一般的なパターンを捉える傾向があるため、生成されるデータはオリジナルよりも「平均的」で「多様性に乏しく」なります [1]。
  • バイアスの増幅:
    • AI生成データには、元の学習データに含まれていたバイアスが反映されています。
    • このデータを使って次の世代のAIを訓練すると、そのバイアスがさらに強調され、誤った情報や偏見が連鎖的に増幅されていきます [1]。
  • エラーの蓄積:
    • AIが生成するデータには、たとえわずかであっても不正確な点やエラーが含まれることがあります。
    • この不完全なデータを新たな訓練データとして使用すると、エラーが世代を経るごとに蓄積され、モデルの全体的な精度と信頼性が低下します [1, 2]。
  • 創造性・ニュアンスの低下:
    • データセットがAI生成コンテンツで飽和すると、人間の独自の視点、創造性、微妙な表現が失われ、結果として生成されるコンテンツが陳腐化したり、人間にとって魅力のないものになったりする可能性があります [2]。 
この懸念はAI研究者によって指摘されており、将来的に高品質な人間生成データが不足した場合、AIの能力向上が停滞する「AIの近親交配」または「AIのインブリード」と呼ばれる状況に陥るリスクが懸念されています [2, 1]。 
 これは割とマジで的をえた回答であると思う。
 これは「Model collapse」と呼ばれる一般的な現象であるらしく、LLMも例外ではないと指摘がある。
 画像生成の拡散モデルも大規模言語モデル(LLM)も学習データから、確率モデルのパラメータを自動生成する。
 LLMはある単語から次の単語の遷移確率を全体の文脈を鑑みながら計算している。画像生成も画素の遷移を目標イメージに接近するための遷移確率を学習データから推定している。
 それゆえに、エラーの蓄積やら多様性の喪失は「生成データ」の繰り返し利用により起こりそうなはなしではないか。
 
 であるなら、未知の質問や問題に対して適切な応答をする 「汎化能力」はどこからやってくるのかという質問はなかなか難しい問題提起である。でも、「未知」がどこまで「未知」か「新規」かによるのではないかと程度の問題であるのかもしれない。
 
 
 モデル崩壊に関するGemini君の回答

AIが生成したデータを次のAIモデルの学習データとして使用することによって生じる問題、特に**「モデル崩壊(Model Collapse)」**に関する権威ある論文として、最も広く参照されている研究は、ケンブリッジ大学とライス大学の研究者らによる論文です。 


主要な論文
論文名: "Model collapse" (モデル崩壊) という概念を扱った研究として知られています。
発表媒体: この研究は、権威ある科学雑誌「Nature」に掲載された論文によって明らかにされました。
主な執筆者: ジョー・フェリス(Joe Gibbs Politz)、スチュアート・ラッセル(Stuart Russell)らが含まれます(Nature掲載論文の完全な著者リストは複雑な場合がありますが、主要な研究者として名前が挙がっています)。 
論文で扱われている主な問題
この論文や関連研究では、主に以下のような問題が指摘されています。
モデル崩壊(Model Collapse):
AI生成データのみ、あるいはAI生成データが大部分を占めるデータセットで次世代のAIモデルを学習させると、モデルの品質と多様性が徐々に劣化していき、最終的には支離滅裂な、無意味な出力を生成するようになる現象です。
元の(人間が作成した)コンテンツが、数世代のうちに関連性のない無意味なものに置き換わってしまう可能性が示されています。
データの汚染(Data Contamination):
合成データが学習パイプラインに混入することでフィードバックループが生じ、モデルが現実世界の人工的な表現から学習するようになり、データセット全体の信頼性が損なわれます。
バイアス(偏見)の増幅:
元のデータセットに含まれていた限定的なバイアスや誤りが、AIによる生成と再学習のプロセスを通じて増幅され、固定化されるリスクがあります。 


他の権威ある報告書
学術論文以外では、政策提言の観点から以下の報告書も権威あるものと見なされています。
国連大学United Nations University)の報告書:
"Recommendations on the Use of Synthetic Data to Train AI Models"(AIモデルのトレーニングへの合成データ使用に関する提言)という報告書が発表されており、合成データの利用に伴う機会とリスク、政策ガイドラインについて論じています。 
これらの論文や報告書は、AI開発における信頼性の高い実データ(オーセンティックデータ)の重要性を示し、合成データの利用には慎重な評価が必要であることを強調しています。 

 

 

テックライトの主張で思うこと

 NHKの番組でアメリカの急進保守派の存在を知った。トランスヒューマニズムと反民主主義みたいなイデオロギーを唱えているみたい。その主張はアメリカのビックテックの経営者などに影響を及ぼしているという。技術革新は善であり制約されるべきではないと唱えているようだ。

 それはそれで吟味する必要があるのだけれど、アメリカの歪みとか分断の一因は情報通信技術の偏りがあるのはないかという疑念が離れない。

 その起点は第二次世界大戦の兵器に関わる技術革新がある。

 二つの鬼子である核爆弾と電子計算機だ。電子計算機の主要な用途はアメリカのマンハッタン計画で核爆発における圧縮流体シミュレーション。それにイギリスではエニグマという暗号解読。

 そこから、核エネルギーという人類が制御困難な技術と電子計算機というコミュニケーションを具象化する計算パワー。後者はそれ自体、悪さは含まれていない。でも、使い方によっては「格差」と「社会不安定」をもたらすし、現実にもたらしているようだ。

 テックライト思想家たちはこれら以外のイノベーションが抑圧されたと感じている。そこに自分は共感するところはある。不老長寿医療や洋上都市、超小型原子炉とか空飛ぶクルマとかだ。けれども彼らの「新君主論」は停滞する民主主義への処方箋かどうかは極めて疑わしい。事実として、20世紀の独裁者たちは失敗政治のショーケースだからだ。新技術は核エネルギーが典型であったが、制御とリサイクルが困難であるのが通例であるし、彼らの主張は過去事例からすると根拠に乏しい。

 一例:技術偏重のマルクスレーニン主義にゴリゴリだったソ連が重工業を発展させた

のは有名。20世紀の最初の四半世紀までは世界の注目を浴びた。でも、イケイケドンドンの開発はあちこち問題を残した。トラクタで乱開発しまくってアラル海とその周辺は荒地になっている。

 現在の技術革新のポートフォリオは歪んでいるし、使い方が一部おかしいのは彼らの意見に共感できる部分もあるかもしれません。ですけれど、それが際限なしの技術革新の加速であるならば「歴史への蒙昧」と揶揄されていいでしょうねえ。

 

【参考資料】

 とても貴重なドキュメント。「いま、ここに生きる」感でいっぱいかも。

 

 上記の本ではカーティス・ヤーヴィンについては触れられていない。NHKのインタビューがある。

アメリカ トランプ政権で台頭「テックライトの教祖」ヤービン氏 テスラ イーロン・マスク氏 バンス副大統領 | NHKニュース

 

芥川龍之介の自殺の原因についてGemini君に推察させる

 青空文庫にある芥川龍之介の晩年の作品と遺書、及び菊池寛追想をもとに彼を自殺に追い立てた原因について探る試みです。

まずは侏儒の言葉』『或阿呆の一生』『歯車』『遺書』をGemini君に読み込ませます。

Wikiの「芥川龍之介」情報も念のために読み込ませます。

 そのうえでいくつか質問してみましょう。

芥川龍之介の書き残したものより彼の自殺の理由を推測せよ。その根拠となる文章を引用せよ。

 

  芥川龍之介が自殺に至った理由について、提供された資料に基づき、彼が書き残した文章や遺書の内容から推測される要因を整理して回答します。

なお、提供された資料のうち、遺書や書簡の原文と思われるテキスト(NEW SOURCEの後半部分)は文字化けしており判読不能であるため、主にWikipediaの記述にある引用や解説を根拠として構成します。

### 1. 将来に対する「ぼんやりした不安」
芥川龍之介の自殺の理由として最も直接的に語られているのは、遺書『或旧友へ送る手記』にある言葉です。

*   **根拠となる文章**
    「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」

この「ぼんやりした不安」という言葉は、特定の悩み(借金や病気など)だけを指すのではなく、彼の心身の衰弱や生きることそのものへの漠然とした、しかし拭い去れない恐怖や疲弊を表していると推測されます。手記の中で彼は自身の不安を解剖し、動機や手段について具体的に記しており、「僕のしみじみとした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である」と、死を肯定する哲学への傾倒も示唆しています。

### 2. 心身の衰弱と神経の病(幻覚・不眠)
晩年の芥川は、神経衰弱、腸カタル、胃潰瘍不眠症などを患い、心身ともに極限状態にありました。特に遺作となった『歯車』などの作品には、彼の精神状態が色濃く反映されています。

*   **推測される状態**
   不眠症に対処するために大量の睡眠薬(ベロナールやジャール)を服用しており、死の数日前に会った内田百閒によれば、すでに薬で意識が朦朧としている状態でした。
    また、『歯車』の内容から、自分の分身(ドッペルゲンガー)を見る幻覚や、偏頭痛の前兆である閃輝暗点(視界に歯車のような光が見える症状)に苦しめられていたことが推測されます。

### 3. 世俗的な苦悩(親族のトラブルと経済的重圧)
「ぼんやりした不安」という抽象的な言葉の裏には、逃れられない現実的な重圧も存在しました。

*   **具体的な背景**
    自殺の年(1927年)、義兄(姉の夫)である西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて自殺しました。芥川はこの事件により、義兄が残した借金や、その家族の面倒を見る責任を負わなければなりませんでした。

### 4. 芸術家としての行き詰まりと「神」への欲望
文学的にも、プロレタリア文学の台頭により自身の作風(ブルジョア作家)が攻撃されるなど、時代の変化に直面していました。彼は自身の芸術と生活を切り離すことを理想としていましたが、晩年は死を意識した告白的な作品が増えています。

*   **根拠となる文章**
    『或旧友へ送る手記』の末尾において、エンペドクレスに言及し、「みずからを神としたい欲望」について記しています。

また、死の直前の心境は「末期の目(まつごのめ)」という言葉で表現され、これは死を前にして世界が透明に、あるいは美しく見える境地を示唆しているとも考えられます。

### 結論
芥川龍之介の自殺は、単一の原因によるものではなく、**「心身の病による衰弱」「親族のトラブルによる社会的・経済的重圧」「文学的苦悩」が複合的に絡み合い、それらが統合されて「将来に対するぼんやりした不安」という言葉に集約された**と推測されます。

最後に、この状況を比喩で例えるならば、
**「器に満たされ続けた『苦悩』という水が、最後の一滴(将来への不安)によって表面張力の限界を超え、一気に溢れ出してしまった状態」**

と言えるかもしれません。

 

 

これは精度が低いと言っている。Wikiしか参照していないためです。

 

こちらのQの方が精度は上がるはずだ。

彼の書き残した文章より彼の自殺にいたる心理を分析して、精神科医としてまとめなさい

 

精神科医の視点から、芥川龍之介が書き残した作品群(特に『歯車』『侏儒の言葉』)および遺書等の資料に基づき、彼が自死に至った心理的・精神医学的背景を分析し、臨床的な所見としてまとめます。

彼の自死は、遺書にある「ぼんやりした不安」という言葉で総称されますが、資料を詳細に分析すると、そこには**「統合失調的症状(幻覚・妄想)の悪化」「重度の身体表現性障害と薬物依存」「認知の歪みと哲学的ニヒリズム」**という三つの病理的要因が絡み合っていたことが読み取れます。

1.精神病理学的所見:幻覚、妄想、解離

晩年の芥川、特に遺作『歯車』に記述された体験は、単なる神経症(ノイローゼ)の域を超え、精神病的な領域(psychosis)に踏み込んでいた可能性が高いと判断されます。

  • 視覚性幻覚(閃輝暗点と幻視) 彼は視野の中に半透明の「歯車」が回転する幻覚を頻繁に体験していました。これは偏頭痛の前兆(閃輝暗点)とも解釈できますが、彼自身はこれを不吉な徴候として過剰に意味づけし、恐怖していました。「僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった」。また、現実には存在しない「銀色の翼」を網膜上に認めるなど、視覚的な病理が現れています。
  • 聴覚性幻覚と被毒感 「Le diable est mort(悪魔は死んだ)」や「All right」といった声が聞こえる幻聴や、何者かが自分を狙っているという迫害念慮が認められます,,。
  • 関係妄想(Delusion of Reference) 偶然の出来事を自分に関連する不吉なメッセージとして受け取る「関係妄想」が顕著です。例えば、黄色のタクシーを不吉なものと感じたり、偶然手にした本の一節が自分への当てつけだと感じたりしています,。これらは統合失調症の前駆期や重度のうつ病に伴う精神病症状によく見られる特徴です。
  • ドッペルゲンガー現象 彼は「第二の僕」すなわちドッペルゲンガーの存在を意識しており、自己像の解離が見られます,。これは自我の境界が脆弱化していたことを示唆します。

2. 身体的要因と薬物依存

彼の精神崩壊の基盤には、極度の身体的衰弱と、それに対処しようとした薬物乱用がありました。

  • 身体表現性障害と不眠 彼は激しい頭痛、胃痛、不眠症に苛まれていました。『歯車』では「坐浴より外に瘉すことの出来ない痛み(痔)」や胃の痛みを訴え、ウイスキーで紛らわせようとしています,。
  • 睡眠薬への依存 不眠に対処するため、ベロナールなどの睡眠薬を多用しており、耐性が形成されていたと考えられます。「ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル」といった多種類の薬物を服用していた記述があり、死の直前には致死量に近い薬物を服用して意識が混濁していたとの報告もあります。この薬物中毒状態が、さらに幻覚や妄想を悪化させる悪循環(薬原性精神病の可能性)に陥っていたと推察されます。

3. 認知的枠組み:ニヒリズムと「死」の正当化

彼の知性は、自己の苦悩を解決する方向ではなく、苦悩を固定化し、死を論理的に正当化する方向に作用してしまいました。

  • 良心の欠如と神経の優位 彼は『侏儒の言葉』において、「わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである」と記しています。これは、道徳的・社会的な価値観が崩壊し、過敏な神経(感覚)のみが肥大化した苦痛の状態を表しています。
  • 死への哲学的傾倒(タナトス 彼はマインレンデル(シュヴァルツヴァルト派の悲観主義哲学者)の影響を受け、死を「救済」として捉える認知構造を完成させていました。「死にたければいつでも死ねる」「マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述している」といった記述からは、自殺が衝動的なものではなく、理性の帰結として選択されたことが伺えます。遺書でも「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を動機としつつ、マインレンデルを読んだことに触れています。
  • 人生への絶望 「人生は地獄よりも地獄的である」、「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」といった言葉は、彼が生育歴や家族関係(発狂した実母への恐怖など)に対して抱いていた根源的な絶望を示しています。

4. 環境要因:社会的重圧と罪悪感

内的な崩壊に加え、外的なストレッサーが彼の許容量を超えていました。

  • 親族のトラブル 義兄が放火と保険金詐欺の疑いで自殺し、その借金や家族の面倒を見る責任を負ったことは、彼にとって決定的な打撃となりました,。『歯車』の中で、レエン・コオト(レインコート)を着た幽霊を見る描写は、この義兄の死のイメージがフラッシュバックとして現れていた可能性があります,。
  • 過去の罪悪感 遺書には、かつて「秀夫人」と不倫関係にあったことへの言及があり、良心の呵責はないとしつつも、生存に不利を生じたことへの後悔が記されています。これは彼の対人関係における孤立感や、自己処罰的な感情を強めた可能性があります。

結論(精神科医としてのまとめ)

芥川龍之介の自殺は、単なる「文学的な悩み」によるものではありません。 医学的には、**「重度のうつ病、および身体衰弱と睡眠薬依存を背景とした精神病性障害(幻覚・妄想状態)」**の合併と考えられます。

彼は、遺伝的な精神疾患への恐怖(実母の発狂)を抱きながら、義兄の自殺というトラウマ的出来事に直面し、そのストレス反応として解離症状や幻覚が悪化しました。そして、彼の持ち前の高度な知性が、この崩壊していく自己と世界を「地獄」と定義し、そこからの唯一の論理的な脱出方法として「死」を選択(合理化)したと言えます。

「ぼんやりした不安」とは、言語化できないほどに自我の境界が崩れ、世界全体が不吉な予兆(妄想的気分)に覆われてしまった、精神崩壊の極致における主観的体験の記述であったと診断します。

 

さいごに下記を質問してみた。

死についての記述を選び出してください

 

提供された資料(『侏儒の言葉』『或阿呆の一生』『歯車』『遺書』およびWikipedia)から、芥川龍之介が書き残した「死」に関する記述を選び出し、いくつかのカテゴリーに分類して提示します。

1. 死への哲学的・アフォリズム的な洞察

侏儒の言葉』において、彼は死を客観的、あるいは逆説的に捉えようとする短い警句を多く残しています。特にマインレンデル(フィリップ・マインレンデル)への言及は、彼の死生観を理解する上で重要です。

  • 死の魅力について 「マインレンデルは頗すこぶる正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである」
  • 神と自殺 「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである」 「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」
  • 自殺の可能性 「自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである」 「死にたければいつでも死ねるからね。/ではためしにやって見給え」
  • 人生と自殺 「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。(中略)自殺も亦確かに一便法である」
  • 眠りと死 「眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい」
  • 情熱と死 「あらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(勿論死に対する情熱は例外である。)」

2. 自身の自殺動機と遺書における記述

遺書や手記では、死に至る直接的な心理や、家族へのメッセージとして死が語られています。

  • 自殺の理由 「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである」
  • 生への苦痛 「僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である」
  • 最後のわがまま 「今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない」
  • 子供たちへの言葉 「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」 「若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ」
  • ぼんやりした不安と計画 「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」 「僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(バルビツール酸系ヴェロナールおよびジャール/dial)を手に入れようとした」

3. 作品・回想録における死の体験とイメージ

晩年の作品(『或阿呆の一生』『歯車』)では、死が幻覚や強迫観念として、あるいは安らぎとして描かれています。

  • 死への接近と安らぎ 「彼はひとり籐椅子に坐り、椎しひの若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた」
  • 行き詰まり 「彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐おもむろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した」
  • 首吊りの未遂体験 「帯に頸くびを入れて見ると、俄にはかに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那せつなの苦しみの為に恐れたのではなかつた。(中略)そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた」
  • 死の連想と幻覚 「モオルと云う言葉だけは妙に気になってならなかった。『モオル――Mole……』モオルは※(「鼬」の「由」に代えて「晏」)鼠もぐらもちと云う英語だった。(中略)が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした」
  • 極限の苦しみ 「こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」
  • 死体の美と醜 「腐敗した杏あんずの匂に近い死体の臭気は不快だつた」 「死骸の重なり重かさなつた池の前に立つて見ると、『酸鼻さんび』と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した」 「誰も彼も死んでしまへば善いい」

4. 辞世の句

死の直前に残したとされる句です。

  • 「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」
  • 「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」(河童に関する作)

 

 

 

 

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