僕も2025年の3月に刊行されて少ししてから読んでいたのだが、久々に衝撃を受けたと言うか、うーんと考え込んでしまうようなSFで、どう紹介しようか、と考えあぐねているうちにだいぶ時間が経ってしまった。僕はSFを読みすぎたこともあってかだいたい元ネタや潮流がわかって、半ば予想&身構えながら読んでしまう。
だが、本作はそうしたSF的な下敷きを感じさせず、この現代社会から直接生み出されたような生々しい思考実験的な世界で、読み終えてかなりの衝撃を受けた。それなのに本作について記事を書けずに終わるのも嫌なので、今年が終わる前に紹介しておきたかった次第である。胸糞が悪くなる小説だが、傑作なのは疑いようもない。
物語の舞台はおそらく近未来の日本で、如月空子という女性が小さい子ども時代からはじまって、40代へと成長していくまでの人生が描き出されている。彼女はクリーン・タウンと呼ばれる新しく作られた町で、駄菓子屋も裏道もない、清潔な街で暮らしている。父親は単身赴任で、母親もいて、表向きは一般的な家庭にみえる。
が、空子自身はかなり変わったところのある少女だ。「自分」を持たず、新しい人物やコミュニティに属すると相手や場に「呼応」そして「トレース」して、その場に最適な自分のキャラクターを作り上げて生きている。そのため、コミュニティによってはケラケラと笑う姫になったり、人によっては真面目ないい子だったりする。しかしそれは結局、周囲や場をみて「呼応」しているだけだ。
白藤さんに「呼応」することで、私はどんどんいたいけな少女になっていく。
こういうことには慣れていた。というより、私はいつもこういう感覚の中にいるのだった。私という人間を、私ではなく、周りの人間が作り上げていて、中にはなにもない。みんなそうなのだろうと思っていたが、それぞれ、いかにも「本当の自分」があるように振る舞うのでよくわからない。
この考えに共感する人は多いだろう。人間は多かれ少なかれ所属するコミュニティによってキャラを変える。学生時代・学校の友だちと、家庭内と、会社やバイト先では、それぞれ微妙に喋り方が変わるのが自然だ。空子はその極端な形といえる。
で、そうやって「呼応」と「トレース」を繰り返し日々を過ごし空子ちゃんだが、空っぽで社会的な流れに迎合する特性のせいで、社会の差別的な指向をそのまま引き継いでしまっている側面もある。たとえば、彼女は自分の「お母さん」を、家の中で一番下の存在だと幼少期から感じている。父親が母親を無料の家政婦のように扱うので、彼女自身もそれに習い、母親を無料の家政婦だと感じ、実際にそう扱っている。
母は無料の家政婦で、常に私と父の世話をしなければならず、自分の意見を言っても却下されるのでほとんど口にしなかった。私たちが何をやらせても、母は曖昧な微笑を浮かべて父と私に従う。そういう便利な存在だった。
といった紹介だけ読んでいると「ただの現代小説じゃね?」と思うかも知れないが、本作には主に二点、SF的な設定が存在する。その一つは「ピョコルン」という動物の存在で、アルパカやウサギといった可愛らしい動物の遺伝子が組み合わさった愛玩動物として最初は登場するのだが、時代が進むごとにその役割は変化していく。
具体的には、ピョコルンには膣や子宮が搭載され、性欲処理の道具になっていく。また、人間のような手が生えており、簡単なものなら家事労働もこなせるようになる。ようは、今はまだ女性の方が多く負わされる労働や、最終的には生殖の機能さえも負わされるようになる。男女で覆し難い差である「出産」をピョコルンにアウトソースできるのだから、女性はある意味楽になる。その時、男性と女性の関係はどうなるのか? 女性は、ピョコルンにどのように接するのか? 女性も男性もピョコルンで性欲を発散するようになったら、性欲は社会でどのような意味を持つのか? といった、思考実験的な部分の追求が、特に下巻ではなされていくことになる。
もう一つのSF要素はラロロリン人の存在で、これはたとえばどこかの国からやってきた人という意味ではなく、自然発生的なものだ。親がそうでなくても、ラロロリンDNAを持った子どもが産まれることがあり、彼らは能力が通常の人間より高い。遺伝子操作された優秀な人間のようなものであり、実際に『世界99』世界でも重宝され高給をもらっているが、そうであるがゆえに激しい差別の対象となっている。
ピョコルンとラロロリン人の存在は一見したところ無関係なようでありながら、下巻を少し読み進めると、意外な形でこの両者が結びつき、この社会をディストピアと表現するしかない苦しい世界へと変質させていく。
話を戻すと、自己を持たず、母親を無料の家政婦扱いする語り手とくると、さぞや要領よく頭も良いのだろう、と(根拠もなく)思ってしまったのだが、本作のおもしろいところは、空子が「自分は頭が悪い」と自認しているところにある。実際に頭は良くないようで、学校の成績も悪く、物事への理解力も低い。下巻ではSF的な設定がたくさん出てくるが、空子はそうした社会の仕組みがあまり理解できない。
たとえば、母親を無料の家政婦として扱っているのだが、自分は頭が悪いから似たような境遇になることは避けられないとどこか諦めている。大学生になった時の空子はすでに20人もの恋人を経てきているが、現在の恋人からは性欲処理の道具として便利に使われており、会社から道具として使われる父親や母親と同じだ、と独白するシーンがある。頭が悪く、いろいろなことが理解できないから、彼女は自分が恵まれた環境にいることはできないと、半ば最初から受け入れてしまっている。
僕にはこの「頭が悪い」と自認する主人公の造形が非常におもしろく感じられた。基本的にSF作品って、普通以上に頭の良い人間が主人公なんだよね。なぜならある程度以上は頭がよくないと作中に出てくる小難しい設定や理屈が理解できなくて、「え、どういうことですか?」と聞き続けることになるから。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の主人公が小学生だったら、物語は始まることさえできない。
ディストピアSFはそこまで頭の良い主人公を要求するわけではない。ディストピアは「こうはなりたくない」未来を描き出すもので、主人公は「社会」そのものともいえるから。しかし、基本的に主人公はそれを読む読者の代弁者たる存在として、暗い社会に批判的な視点を持ち、現代社会が間違っている理屈を悟り、反逆もしくは社会からの脱出を目指すのが普通だから、ある程度「頭が良い」必要はある。
しかし、空子は実際に頭が悪い主人公だ。暗い社会を間違っているといえるなら、社会に対抗することもできる。だが、空子にはそれは難しく、世界をそのままに受け止めてしまう。空子は目の前の知人に対応していくだけで、社会や政治は前景化することさえない。本作は、愚かで浅はかな人間〝だからこそ〟の視点から、ディストピア世界を描き出している。下記は、読んでいて本当に残酷で美しいと思った語りだ。
向かいのオフィスビルの上に、ピョコルンと子供が草原で遊んでいる可愛らしいイラストの看板があり、「よりよい社会へ」という言葉が書いてある。「社会」という単語を久しぶりに見た。私は、いつも目の前のコミュニティや個人の空気の動きや顔の筋肉の反応に対応しているだけで、その向こうにある「社会」は、「恵まれた人」が私たちのために頑張って運営をしている、透明な城だった。私はそこに行く必要はなかったし、考える必要もなかった。
救いといえるのかどうかはわからないが、物語の終盤、空子が「賢い人は馬鹿を簡単に操作できてしまう」と語りながら、『でも、馬鹿で愚かな側は、いくら馬鹿で愚かでも、やっぱりそのことに気がつくものだと思うよ』と語る場面がある。空子は社会に食い殺されていくが、それでも──と思わせてくれるのだ。*1
中盤以降、空子は陰謀論にハマりやすく遵法精神が希薄な世界①、快楽的な世界②、人権意識が高く政治的な正しさを重視する世界③とそれぞれに異なる思想傾向のコミュニティに属し社会が分断していく様を描き出したり、ラロロリン人への差別が表向き終わる展開であったり、転生や死後の生、同性婚や友情婚といった、無数のテーマが表出してくるので、ここまでの紹介で興味を持った人はぜひ読んでもらいたい。
*1:僕もSF界隈や出版界隈にいて人と付き合うと自分はなんて馬鹿で愚かなのだろうかと嘆息することが多くその意味でも本作には共感するところが多かった。
id:huyukiitoichiはてなブログPro冬木糸一という名前(ペンネーム)で活動しています。主に書評・ブックガイドを書いております。SFマガジン、本の雑誌で書評を連載中。Amazonのアソシエイトとして、冬木糸一は適格販売により収入を得ています。
その他、web、雑誌、文庫解説など寄稿多数。ご依頼・ご感想は→huyukiitoichi@gmail
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