「選択市場」とはどのようなものかといえば、条件は主に二つある。第一に、買い手は売り手の知らない自分についての情報を持っていること。二つ目は、買い手がどれほど良い顧客になるかに、この情報が影響を与えることだ。たとえば医療保険を売る側からしてみれば、「健康そのもので死ぬまで病気もしない顧客」を相手にしたい。しかし現実的にはそうではなく、健康に不安を抱える人間ほど、医療保険を求めるし、顧客の真の健康情報は(たとえば運動するかどうかとか)、顧客しか知らない
保険会社は顧客が「放っておいても病気一つしない(保険会社からみて)良い顧客」か「普通の人より病気がちで何度も補償を払わされる(保険会社からみて)悪い顧客」かを判別したいが、完全にはいかない。最初から判別を諦めて、保険会社がサービスの値段を不健康な人間がきても採算がとれるように設定すると、ほとんど病気をしない顧客からすると割高の保険になって誰も購入しなくなり、サービス自体が破綻する。これが容易に起こってしまうところに、「選択市場」の難しさがある。
たとえば「離婚保険」のサービスを設計すると考えてみよう。円満離婚なら一銭もかからないが、訴訟費用が高額になることもある。離婚保険に加入した人は、離婚をした場合保険金を受け取れることになる。良さそうに見えるが、実際にこれをやると、申し込んでくるのは「離婚しそうな予兆のあるカップル・夫婦」だけだ。
実際に離婚保険はアメリカでリリースされたことがある。そのときは保険を購入時から4年の月日が絶たないと保険金は支払われないという条約が盛り込まれていたが、この保険を購入するのが圧倒的に「元から仲が悪いカップル」である選好は変わらない。結果として支払いリスクが高いので保険料も高額にならざるを得ず(年間保険料は最初1900ドルだった。4年後の補償は、最高でも1万2500ドル)、一般の利用者が離れていくデス・スパイラルが起こって、離婚保険市場はすぐに崩壊した。離婚保険はどれほどうまく設計しても市場を成立させるのは難しい(あるかもしれないが)。
本書は、保険をはじめとした様々な市場で、選択問題が市場を歪めて、崩壊させてきた歴史と、この厄介な問題に企業や政府はどのような策をうっていけばいいのかについて語っている。保険は身近な存在というのもあるが、保険の価格決定の力学、メカニズムが端的に描かれていて、これがとんでもなくおもしろかった。
本書ではこの選択問題がもたらす歴史上の失敗事例が多数語られているので、ピックアップしてみよう。たとえば、今では年金も保険もある程度成熟しているから、当たり前になったテクニック(ゾルトラークのようなもので、当たり前すぎて認識していない)を使って市場を成立させているがごく初期はそうではなかった。
初期の年金は今とは違ってザルな設計で、おそろしいことに年間の支払額が年齢によって考慮されなかった。そこで投資家は若くて健康な人を探し回って、彼らの健康を維持することに投資した。1500年代の後半にアムステルダムが年金で資金を集めた時、名義人の半数以上が10歳未満で、8割が20歳未満だった。その2世紀後に、フランスも年齢に関係ない終身年金を発行したが、その名義人の大半は健康な両親から生まれた5歳から10歳までの少女だった。少女らは投資家によって空気のきれいなジュネーブに運ばれ健康を維持し、終身年金は投機家を肥やし、国を滅ぼしたという。
1672年にアムステルダムの政府が再度年金にチャレンジした時、過去から学んで若い名義人に支払われる年金の額を引き下げた(当たり前や)。だが、やり手の投資家連合はそれでも諦めなかった。1829年にイングランドで年金が発行され、支払額が高齢の男性に有利になると、投資家は健康な高齢男性を探し始めた。
その時の年金の設定では、名義人が2年生き延びたら、投資家は最初の出資から34%増えた額を、3年生き延びたら倍の金が得られる設計だったというから、投資家は自分の投資対象として、スコットランドのローモンド湖の美しい湖畔まで健康な老人男性を探しにいった。ぱっとみたところ人身売買みたいな恐ろしい話だが、投資対象の老人には生きていてもらわないといけないので専属の医師を派遣し何不自由のない生活が与えられたという。こうした屍の上に、現代の年金は成り立っているわけだ。
生命保険会社は様々な質問をして顧客の情報を集めるが、「生命保険の顧客は、自分たちがどれほど長く生きられるかを保険会社より知っている」ことを示す研究がある。これは経済学者のダイファン・フーによるもので、生命保険の顧客集団と、非顧客集団をみつけ、両集団を経時的に追跡し、いつ誰が死亡したかを確認する。
自分が長生きできないと思っている人ほど生命保険を購入する傾向が強いと思われるので、生命保険の購入者は生命保険を購入しない人よりもはやく死亡するはずだという仮説にもとづいた研究で、50歳以上の人を対象に数十年間にわたり追跡している。調査対象者は調査期間中に生命保険に加入したりしなかったりするわけだが、「保険会社が尋ねるあらゆる属性──喫煙の有無や、糖尿病や、両親の病歴などなど──」をあらかじめ聴取し、「類似する保険購入者と非購入者」を比較した。
その結果、死亡率を追跡していた12年間で亡くなった人々は、生命保険を購入する確率が20%近く高かったのだという。(保険会社からみて)悪い顧客の方が保険を購入し、(保険会社からみて)良い顧客は保険を買わないのだ。それは当然、保険を引き受けるコストに反映されているといえる。
とはいえ世の中にはたくさんの保険商品がありふれているわけだから、こうした問題に対策できないわけではない。たとえば現代では10代や20代の自動車保険料が高いのは当たり前になっているが、1897年の保険は馬力だけで決まり運転手は関係がなかった。1908年にロードアイランド州ではじめて、運転試験に合格した者にだけ免許を発行するようになり、それからまもなく免許も保険の加入条件になった。というわけで「できるだけ顧客の情報を集める」というのが王道の対策手段のひとつだ。
別の手法に、「顧客に自らの正体を明かさせる」ものがある。たとえば、医療保険会社の中には、保険契約と一緒にジムの無料会員権をつけるものがある。そうするとジムにいってくれて健康になって支払いが減る──というのもあるが、それ以上に「ジムの無料券をありがたがる顧客は、そもそも良い顧客である」という要素が大きい。病気がちな人はジムの無料券をありがたいと思わないからだ。
抜本的なものとしては、「全員強制加入」もある。コストの高い顧客が自分にとって利のある保険を「選択」して入ってくることでコストの普通ー低い顧客にとって割に合わない額まで保険料が引き上げられコストの高い顧客しか残らないのが問題の本質なので、全員強制加入させることで、その影響をある程度帳消しにできるのだ。
本書では主にオバマケアやマサチューセッツ州で実施されたロムニーケアといったアメリカの事例が紹介されている(日本は当然国民皆保険で、その成功例のひとつといえる)。ただ、これも万能とはいえない。というのも、「強制」「義務化」するのはいいが、「どこまでの保険」をその範囲に含めるか、そのバランスで合意がとれることがないからで、〈選択市場〉の抜本的な解決策は現状存在しない。
解決策は他にも「保険適用に待機期間(申し込みから2年とか)」を設けるという当たり前のものから、「医療保険について、病気の人に補助金を出すのではなく「健康な人」にあえて補助金を出すことで結果的に病気の人の健康保険が下がる」というテクニカルな手法までいろいろ研究結果も含めて語られている。
金銭の貸し借りや転職市場など、保険以外の分野でも意外と〈選択問題〉は存在しているから、想像以上に応用範囲の広い一冊だ。
id:huyukiitoichiはてなブログPro冬木糸一という名前(ペンネーム)で活動しています。主に書評・ブックガイドを書いております。SFマガジン、本の雑誌で書評を連載中。Amazonのアソシエイトとして、冬木糸一は適格販売により収入を得ています。
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