具体的には、誰がいつ移植を受けるかの発言権を有し、移植者の診断などを行い、術後のリカバリー管理、プログラム運営の責任も担うなど、移植の外科的な手術以外の多くの側面を担う専門家といったところだろうか。上記の説明に加えて解説の仲野徹いわく、『肺移植適応の可能性がある患者を、移植前から移植後まで一貫してケアし「生涯にわたる深い絆を築く」のが移植医、著者の職業だ。』ということになる。
本書はまず、米国の移植医療をめぐる状況を綴ったノンフィクションとして興味深い。脳死移植のドナー数は日本は年間100人程度とごく少数なのに対して、米国では一万人以上ととシンプルに数が多い。それだけ移植に臨む件数も多いのだが、それはそれでいろいろな問題が発生する。たとえば、複数人が待機リストに入っている時、優先順位をどうやってつけるのか? 本書では、医師らが「選択ミーティング」を通して、誰の優先順位をあげるべきかを議論する過程がまざまざと描き出されている。癇癪を起こし人をいらだたせるような厄介な患者は、優先順位は下げられてしまう。
また、仮に移植の優先順位の上に位置させてもらえたとしても、運ばれてくる臓器が状態がいいものとは限らない。たとえばタバコをスパスパと吸い続けた後に死んだ人物の肺を移植すべきか否か? 遠く離れた場所にある肺を輸送して移植すべきか否か? 距離的にも状態的にも問題がなかったとしても、いざ移植手術を開始したら予想外の出血が発生して、それに対処しているうちに移植用の肺の状態が著しく悪化していて移植してもどうしようもないといったことも、当然起こり得る。
不確実性をすべて排除し最高の肺と環境だけを追求すれば、助かるはずだった患者は死んでしまうかも知れない。米国の臓器移植の状況は難しい状況にあるといえる。本書にはそうした判断の難しさや、その失敗例(中には左の肺をとってドナーの肺とつけかえようとしたらドナーの肺は右肺でそのまま死んだトンデモケースなどもある)が赤裸々に描かれている。同時に移植は劇的に患者の容態を改善させる奇跡の一手でもあり──と、数々の苦悩と、光の部分が、同時に紹介されていくのだ。
そうした「移植」にまつわるエピソードと共に、本書で魅力的だったのは、著者の回顧録としての側面だ。通常、回顧録というのは、自分で何を書くべきかは全部コントロールできるから、その主人公たる自分は良い人として描かれがちである。わざわざ自分の嫌なところ、本当につらい失敗は開示しなくても良いのだ。
しかし──本書には、著者の嫌な側面がこれでもかというぐらい出ている。何度も同僚の外科医から苦言を呈される描写があるし、患者を救うために、絶えず周囲にプレッシャーを与え、自分自身をも追い込み続ける。外科医が明確にノーという状態の悪い肺であっても、移植をしようと発破をかけた。生きるのを諦めようとしている移植患者に向かって怒りながら挑発し、その行為に看護師が動揺して上層部に通報しますとまでいう描写が普通にある。嫌なことを言ってきた相手に向かって「昔だったら手に持ったダンベルを振り上げて、頭蓋骨にたたきつけようと考えていただろう」と書いたりと、言動が激しく選択肢に暴力が頭に浮かぶような、暴力的な人間なのだ。
そのうえ、先に臓器移植の優先順位を決定する「選択ミーティング」の話を書いたが、自分がプロジェクトにいる際に父親の移植の優先順位をあげさせたりと、職業倫理的な問題も抱えている。これは著者自身もこんなことをしていいのかという葛藤を抱えていたことを告白しているが、とにかく「こんなやつが同僚だったら嫌だな」と思わせられる行動と言動が多いのだ。それは、著者が20年以上前の経験を書いているパートが多いからというのもあるが、そうした自分の嫌な部分、嫌われまくってきたことを、正直に回顧録で書いているところがまずとんでもなくおもしろい。
かつて作家のアンドレ・デビュース三世は、回顧録は「何が起こったか」ではなく「一体全体何が起こったか」について語るものだと言ったらしい。私はその言葉に共感した。私はこれを肝に銘じて、実際に起ったことを、慎重かつ正直に述べようとしてきた。p.295
そして──父の死などを通して最終的に著者は、一種の燃え尽き症候群、あるいはたくさんの死を見すぎた結果のPTSDのような状態となり、スタンフォード大学での移植医としての職を辞することになる。その時、自分のこれまでのやり方を悔い、生や死をコントロールすることなどできないのだと悟り、信仰の旅を始めることになる。
ただ、これは決して「嫌なやつが良いやつになる過程」を描いた回顧録ではない。嫌なやつと書いたが、一方で彼が患者を思いその時間をすべて注ぎ込んできた──外科医が嫌がる悪い肺を移植したがる癖も、周囲に強烈なプレッシャーを掛け続けるのも、結局は患者を助けたいという気持ちからのものだ──面もあり、単純に区分できるわけではないのだ。人の生死に積極的に関与し、コントロールをしようとした果てに、諦め、「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という手塚治虫のブラック・ジャックのような境地にたどりつくまでの、複雑な人間の陰影と、その変化を描き出した回顧録なのである。
終盤、若い父親がプールサイドで携帯電話を見てばかりいて子どもがこっちにきてと語りかけてもにろくに気にかけない様子をみて、その姿はかつての自分なのだと著者は悲しみとともに思う。それと同時に、プールから出て、その父親の手から電話をたたき貶したいと考える場面など、思わず涙が出てきた。最悪と最高の部分が同居している人間性なのであり、そして、その複雑さがたまらなく愛おしく感じるのだ。
本書には様々な論点があると思うが、個人的にもっとも印象に残ったのは「選択ミーティング」について語ったパートだった。大きな会議テーブルで30人ほどが参加するその会議は、一部は医療、一部は演劇、一部はポーカーゲームの要素を含んでいるという。著者は自分が担当する移植を受けさせたい患者の症例についてプレゼンするのだが、そこでは同僚を説得するための「テクニック」を使うのだという。
具体的には、患者の愛らしさや家族のサポートといった「良い点」を強調し、不利な点──知的障害など──は、あっさりと流す。そうすると、守旧派の医師が「知的発達が遅れているというか、彼のような人に移植すべきなのだろうか? 肺は潤沢にあるわけではないのだし」と〝意見〟を述べる──。これは、衝撃的なミーティングであり、現在も米国ではこうした選択ミーティングが存在するようだ。『残念なことに、私たちは、移植医として日常的に命の価値を決めている。そして、命を救うか救わないかを選択する権力を行使する。全員を救うことはできないからだ。』p.62
幸いというか日本では日本臓器移植ネットワークが仲介し、その優先順位は肺の大きさや血液型などに加えて「待機時間の長い者を優先する」から、選択ミーティングのような露骨な医師の采配は発生しないようにみえる。しかし、臓器という現状限りある素材を扱う以上、「選択」の概念はどうしても避けられない以上、他人事とはいえないだろう。
医療ミスやそうした選択ミーティングの内実などを赤裸々に語る移植医ノンフィクションとして、またひとりの医師が燃え尽きてその職を一度辞するまでのノンフィクションとして、一粒で二度おいしい傑作だ。とはいえ、著者が好きになれなければ、本書を肯定的に評価するのは難しいだろう。その部分は、人によるといったところだ。
id:huyukiitoichiはてなブログPro冬木糸一という名前(ペンネーム)で活動しています。主に書評・ブックガイドを書いております。SFマガジン、本の雑誌で書評を連載中。Amazonのアソシエイトとして、冬木糸一は適格販売により収入を得ています。
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