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永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

わかりやすい聖書ガイドヨハネの黙示録発売中。肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

落とし穴を掘る人の末路 箴言26:27

『26:27 穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石を転がす者は、自分の上にそれを転がす。 箴言26:27新改訳2017』

「墓穴を掘る」という表現があります。

自分の言葉や行動が、命懸けの災いに直結するというと少々オーバーかも知れませんね。

でも、「自らが掘った穴に、自分が落ちる事がないように」という警告です。

旧約聖書のエステル記7-8章には、王妃エステルの保護者であるモルデカイに手柄を奪われたと思い込み恨みを持ったハマンという大臣が、謀略を巡らすという記述があります。王に取り入って、モルデカイをはり付けにしようと、高い柱を用意したのですが、その謀略を王妃エステルから王にバラされ、結局の所、ハマンがその高い柱に架けられることになりました。

また、ダニエル書6章には、ダニエルを陥れようとした大臣たちが、ダニエルをライオンの穴に入れる計略を立てて、ダニエルを入れましたが、【主】の守りによって不発に終わり、その計略を知った王が、その首謀者たちをライオンの穴に入れるという記述があります。

これらは、相手を貶めるために、謀ったことが、結局は、謀略を巡らした当人たちに下ってきたという流れです。

人間の浅はかな計略を【主】はお見通しなのです。

しかし、その計略を見過ごされる事もあったのです。

預言者たちや使徒達をはじめ、殉教した人々もいます。【主】に選ばれし人たちです。

私は、聖書の背骨ととらえている一例を記したいと思います。

それは、新約聖書に記されているイエス・キリストの十字架による死です。

ユダヤ教というと、なんと言ってもパリサイ派です。加えて力を持っていたのは、サドカイ派です。

イスラエルの70人議会(サンヘドリン)を構成していたのは、この人たちで、金と権力を牛耳っていたのです。

そこに、イエスの先駆者として、バプテスマのヨハネが登場し、その後にイエス・キリストが登場したのです。

パウロは、パリサイ派のガマリエルによる英才教育を受けていました。一方、イエスはベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで大工ヨセフのもとで育ったという認識しか持たれなったのです。

あえて、それは、伏せられていたのでしょう。母マリヤも養父ヨセフも、正真正銘のダビデ王の血筋だったのです。そして、人間100%であり、神100%ですから、律法のことも、【主】である御父の御心も間違いなくご存じだったのです。

でも、人間は癒やしの御業には、感動するのですが、その本質には意識が向かないのです。

イエスが行った奇跡は、神性の証明だったのです。しかし、人々は癒やされた事に意識を向けられたのです。

権力者にとっては、自分たちが立場を奪われる事に最大限の恐怖を抱き、イエスを亡き者にしようと謀略を企てたのです。しかし、死刑の権利を持たなかったユダヤ人達は、ローマ帝国の力を借りて、十字架刑へと追いやったのです。【主】は、それを良しとされました。

迫害者たちがもたらした「ユダヤ人の王イエス・キリストの死」は、葬られて、三日目に復活するという史実に繋がります。

この流れは、迫害者が裁かれるという話しではありません。

これが、聖書のムズカシイ要素なのです。

イエス・キリストが十字架で流した血は、本当の過越の祭りで屠られた唯一の犠牲になったのです。

これにより、神殿の聖所と至聖所の手巾ほどの幕は、上から下まで裂かれたのです。

ユダヤ人の民衆は、煽動されて、イエスを死刑にしました。

でも、それによって、【主】が定めていた全人類救済計画が完成する事になりました。

その範囲は、その福音の三要素(イエスは十字架で罪を贖い為に死なれた事。葬られたこと。三日目に復活された事。)を信じるすべて人に及びます。

これは、驚くべき事に迫害していた人も、その対象なのです。

それは、復活のイエスの光に打たれたサウロ(パウロ)が身を持って証明することになりました。

これこそ、「創造主である神【主】の愛」と理解し、受け入れるしかない要素です。

人間的には、不可解で理解できない流れですね。

やがて来る清算の時にわかる内容です。

これを知った人は、その先取りが可能です。

私は、それをオススメしています。

しかし、選択するのは、この情報を見たお一人お一人です。より良い選択をなさいますように。

『15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 1コリント15:3-4新改訳2017』

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笑われても自分の歌を歌う大切さ 岡本太郎

『他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ。 岡本太郎「強く生きる言葉」(イーストプレス)』

芸術は爆発だ」や「太陽の塔」で有名な岡本太郎氏のフレーズです。

自らの中から湧き出てくるエネルギーを表現する独特の芸術家として活躍されました。

独特の表現は、芸術だけではなく、テレビでも人気者になり、大活躍されました。

その活動を支えていた一つの言葉がこれです。

「他人が笑っても、自分の歌を歌え」

歌を歌う人でなくても、これを聞くと、背中を押されたような気になります。

ここぞというときに、思い出したい言葉だと思い、取り上げました。

とは言っても、周囲への配慮は大切にしたいですね。

いきなり電車の中とかで、周囲の人が耳を塞ぎたくなるような振る舞いはマナーとして控えたいものです。

今は、カラオケでも、一人カラオケがあります。また、都市部でないなら、隣家との距離がある程度あり、迷惑にならないという環境もあります。

自己表現の場というものは、実にあちらこちらにあるものです。

社会的なマナーを守りながら、できることに取り組んで行きたいですね。

学ぶは、マネるという事の発展形だそうです。

その先に、自分で受け入れて、理解して、アウトプットするという過程も大切にしたいステップです。

自分が、理解したものを自己表現できるというのは、非常に学習効果が高いものです。

今は、様々なセルフエディケーション(自己学習)ができる時代です。

自分が取り組めそうなことに、チャレンジをするのも良いですね。


岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家・作家。血液型はO型[2]。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
太陽の塔
→詳細は「太陽の塔」および「明日の神話」を参照
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。
この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。
同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される[9]。

ja.wikipedia.org

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ヴィクトール・フランクルからの問いかけ05

『 ……もっとも、人間は孤独でなければなりません。孤独であってはじめて、一人ではないこと、ずっと一人ではなかったことに気づくことができるのです。人間は孤独でなければなりません。孤独になってはじめて、自分との対話が相手との対話であることに、ずっとそうであったことに気づくことができるのです。
 人間が自分との対話において、そして最終的には彼との対話において話しかけるものが「無」であるように思われるのは、それが、存在者の中にある存在者ではなく、あらゆる存在者の根拠であり、存在そのものであるからです。存在そのものはどれほど無に似ていることでしょうか。
「見よ、たとえ彼が私のそばを通り過ぎても、私には何も見えない。また、たとえ彼が漂い過ぎても、私は少しも彼に気づかない」(ヨブ記、第9章第11節)。
 いわゆる実証主義が本当は偽装されたニヒリズムであることは、どれほど簡単に証明できることでしょうか。また、自称ニヒリズムが結局のところ首尾一貫しない神学であり、「否定」神学であることもどれほど簡単に証明できることでしょうか。
 ニヒリズム自身はまだそのことに気づくまでには至っていません。むしろ、ニヒリズム実存主義については、レオ・ガブリエルが述べたことがまだあてはまります。すなわち、ニヒリズム実存主義は、最後の叫び声ではあるが、究極の言葉ではない、ということです。けれども、実存哲学もいずれはヴェルラムのベーコンの箴言の正しさを証明することになるでしょう。「人間は、少し哲学すると神から離れるが、多く哲学すると神に戻る」。

 「予感することなく」、「何も予感せずに」、つまり無を予感しながら、人間は神をあらかじめ立てているのです。
 この無は、まさに存在の陰画、存在の裏面にすぎないのです。「汝が見ているのは私の背中である。が、私の顔を見ることはできない」(出エジプト記、第33章第23節)。p196~197』

 

一人時間をどのように過ごすかによって、人生の質が変わります。
「孤独であってはじめて、一人ではないこと、ずっと一人ではなかったことに気づくことができる」という指摘は、正にそれです。人生には気づきが大切です。

自分の存在と、その立ち位置を確認する環境と時間を大切にしたいものです。

「孤独になってはじめて、自分との対話が相手との対話であることに、ずっとそうであったことに気づく」目の前にいる他人と話をしていたのは、実はもう一人の自分との対話だったという話を共有する事があります。これは、ミステリーでも何でも無く、事実なのです。

自分自身との向き合い方の本質が、正にコレなのです。つまり、もう一人の自分との対話と和解です。それにつながるヒントをフランクルは記していると私は考えています。

「存在そのものはどれほど無に似ている」存在感は、その人が、実際にそこにいる実感を示しますが、それが薄い空気みたいな人も、いるものです。むしろ、空気と思ってもらった方が気楽と考えている人もいます。

でも、これは、使い分けが大切です。自分の存在感を示したり、忍者のように忍んだりすることが可能なのです。

「人間は、少し哲学すると神から離れるが、多く哲学すると神に戻る」これは、名言です。ギリシャ哲学は、創造主である神【主】を受け入れないという傾向があります。人間の意志をどの様に行使するのかを主体としているので、ギリシャ神話に登場する神々の方が、都合が良いようです。でも、非礼を畏れた彼らは、「知られざる神に」という祭壇を設けていたことは、あまりにも有名です。

創造主である神【主】がいないことを立証しようとして、聖書を調べはじめた人は、やがて信仰者になったと聞きました。どのような動機でも、興味を持つことからスタートです。大切なのは、自己吟味と自己決断です。

人間の本質は「無を予感しながら、人間は神をあらかじめ立てている」と言うのです。人間の養育環境や生活環境、社会生活における関わり、人間関係などからの影響はかなり大きいと感じて居る人が多いです。周囲の配慮しすぎるあまり、自分の中にある「本質」を閉じ込めてしまいがちな現実もあります。

創造主である神【主】から魂を授かって生かされているのは、周囲の権力者ではなく、自分自身なのです。その存在責任が問われているのです。

「この無は、まさに存在の陰画、存在の裏面にすぎない」
人間が生きた証は、余程の爪痕を残さない限り、話題にも上がりません。存在は「無」と聞くと寂しいニュアンスを感じますが、それは、「存在の裏面」と聞くと、少し、ホッとしますね。

参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩 す る 人 間 V·E· フ ラ ン ク ル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』

 

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ベレアでの働き(パウロ) 使徒の働き17:10-15

『17:10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。
17:11 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
17:12 それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。
17:13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちが、ベレアでもパウロによって神のことばが伝えられていることを知り、そこにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。
17:14 そこで兄弟たちは、すぐにパウロを送り出して海岸まで行かせたが、シラスとテモテはベレアにとどまった。
17:15パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そして、できるだけ早く彼のところに来るようにという、シラスとテモテに対する指示を受けて、その人たちは帰途についた。 使徒の働き17:10-15新改訳2017』

パウロが去った後でも、テサロニケの教会は、「試練の中で成長する教会」として、健全に成長し続けました。

「兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。」

パウロが夜のうちに町を出るのは、使徒の働き9:24~25(ダマスコでの出来事)以来これが2度目です。

パウロとシラスは、イグナチオ街道を通ってベレアに向いました。このベレアは、テサロニケからアテネに向う途中にある町で、南西に約80キロの道のりです。ベレアは、マケドニアの古い町で、多くのユダヤ人が住んでいました。

迫害を受けたパウロは落胆するどころか、ますます伝道の意欲に燃えていました。

パウロの伝道は、まず会堂(シナゴーグ)に行きユダヤ人に語りかけ、その次に異邦人に語りかけるパターンでした。使徒の働きを筆記しているルカは省略していますが、テサロニケと同じことが繰り返されています。パウロは、巡回ラビとして奨励を依頼され、旧約聖書からメシア預言を取り上げ、それを解説しつつ、福音の三要素を提示し、イエスこそメシアであることを旧約聖書から論証したのです。

それを聞いたベレアのユダヤ人たちは、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、(新改訳2017)」妬みによって行動しませんでした。聖書に対して心が開かれていて、聖書を体系的に調べる能力があったようです。そして、偏見を持たずパウロの主張を吟味する心の準備が出来ていて、毎日聖書を調べたのです。

そして、その結果、多くのユダヤ人たちが信仰に入りましたソパテロもその一人でした。

さらに、多くの神を恐れる異邦人たちが信仰に入りました。それは、ギリシア人の貴婦人たちや貴族階級と思われる男性たちでした。

ここでも、ユダヤ人の暴動が起きます。このベレアでの伝道を妨害したのは、テサロニケのユダヤ人たちでした。彼らは、パウロがベレアでも伝道しているということを聞き、代表団を召集し、約80キロも旅をして、ベレアにやって来て、ここでも群衆を扇動して騒ぎを起したのです。

パウロの主張を受け取って吟味したベレアのユダヤ人たちとは対照的です。テサロニケのユダヤ人たちこそが、「世界中を騒がせてきた者たち」と呼ぶのにふさわしいでしょう。

この騒動を見て、パウロは、ただちにベレアを去りました。でも、シラスとテモテは、ベレアに残ったのです。

パウロのゆくえには、2つの可能性があり、「①ベレアから海路でアテネまで行った。」のか、「②海路で行くと見せかけて、陸路で行った。」のかです。ここで、パウロによるマケドニアでの伝道が終了し、次にアカヤでの伝道が始まるのです。

ベレアの信者たちは、パウロアテネまで約310キロ同行し、案内しました。その間シラスとテモテは、ベレアに残って弟子訓練の働きを継続していたのです。パウロは、案内してくれたベレアの信者たちにシラスとテモテが一刻も早く自分に合流するようにと伝言を託したのです。

ふたりを待つ間に、パウロは単独でアテネでの伝道を行いました。

シラスとテモテは、アテネパウロに合流し、その後、パウロはふたりをマケドニアに派遣します。テモテをテサロニケに(1テサ3:2)、シラスを恐らくベレアに派遣したようです。パウロは、自分で行くことが出来なかったからです。シラスとテモテは、コリントでパウロと合流する事になる(使徒の働き18:5)のです。

迫害の中でも、テサロニケ教会が成長した理由は「①みことばを伝えることによって、信者を獲得する。」「②信者に聖書を教える。」「③他の人に福音を伝えるように教える。」が挙げられます。

迫害が起こり、その町で活動が困難になったときには、次の町へ進むのは、聖書的だと理解しています。それは、マタイ伝10:23に示されているイエスが十二弟子に教えた原則です。ここには、普遍的な適用があり、「耕された土地を見つけ、そこに種を蒔く。」というものなのです。

試練と慰めのサイクルについて考えてみましょう。

試練が来るのは、神の国と悪魔の国が葛藤しているからです。この箇所では、パウロとシラスは、神の国メッセンジャーで、テサロニケのユダヤ人たちは、悪魔の国のメッセンジャーです。

ベレアのユダヤ人たちは、パウロにとっては大いなる慰めになる存在でした。

ベレアのユダヤ人から学ぶ教訓は、パウロの語ることを「非常に熱心にみことばを受け入れ」(新改訳2017)とあります。また、パウロの語ることが聖書と一致しているかどうか調べたとあります。さらに、毎日聖書を調べたとも記されています。

悪魔との戦いに勝利する秘訣は、シンプルな聖書研究です。

もし、新しい教えに接したら、まず、聖書と一致しているかどうか吟味する必要があります。聖書観の崩壊は、キリスト教信仰の崩壊につながります。悪魔(サタン)は、シンプルな聖書研究を最も恐れているのです。

 

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動画 ママが帰ってくる前に…

Mom is coming home 😫https://t.co/Vk0mgNjF1Upic.twitter.com/1KgVmFTTDJ

— _ebbyal (@_coconutts)2025年10月26日

地震、雷、火事、親父」などと、コワいものの代名詞を羅列したものですが、その中に出てこないけど、絶対な存在をイメージすると震え上がる人も多いのではないでしょうか?

それは、「ママ」、「おかん」です。

特に、息子にとっては、一番、愛されたいし、嫌われたくない存在なのではないでしょうか?

「怒り」という言葉が、ピッタリ当てはまるのが、「母親」なのかも知れません。

「女」の「又(また)」の「心」を組み合わせて「怒」という漢字は構成されています。

『奴は力をこめて働く女の奴隷のこと。「怒」は「心+音符・奴」で強く心を緊張させること。』
https://asia-allinone.blogspot.com/2021/02/p499.html

一説によれば、このような説明もあります。

別の節によると、「手をつけられた女性の怒り」を表現しているという解釈もあります。

何れにしても、臨界点に達した女性の怒りは、凄まじいエネルギーに満ちています。

家庭内の平和を保つためには、そこまでいかないうちに何とか、剣を収めて欲しいという所です。

この動画では、「もうすぐママが帰ってくる」というテーマで、家にいる男性3人が、体裁を整えようと必死に動いている状況を収めています。

少し、パルクールの要素もあり、かなり、撮影に時間がかかっていそうな気がしないでもないです。

でも、散らかっている状況から、ある程度のカタチに収めるための連携した行動が収録されています。

結構見応えがあると感じました。

でも、帰宅したママの反応やコメントも見たかったなあと思いました。

楽しく過ごすために、そして、より良いコミュニケーションのために大切な要素ですね。

 

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想像力の大切さ アインシュタイン

『想像力は、知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。 アインシュタインアインシュタイン150の言葉』 (ディスカヴァー・トゥエンティワン)』

「知識には限界がある」というのは、思わず、「その通り」と言いたくなります。

アインシュタインと言えば、舌を出した写真で有名な人です。

ただ、それだけではない業績を残したと伝えられています。

有名なのは、相対性理論です。

ただ、21世紀に生きている人間たちは、天体がどのようなメカニズムかに仮説を立てて検証し続けていると表現した方が良いような状態に見えます。

歴史を見れば、「天動説」「地動説」など、政治体制、統治体制を維持するために、研究している学者を殺したり、脅したりなどという時代もありました。

今でも、主流派、非主流派などの応酬はあるのだと推察します。

このテーマは、確かめる術が限られていますから、当然と言えば、当然ですよね。

特に、研究者にとっては、「想像力」が求められています。

「仮説を立てて立証」を繰り返していくのです。

私は、創造主である神【主】を信じる一信仰者として、将来、【主】に合うときに、正解を教えてもらおうと考えています。

基本的に、様々な研究や学説を批判せずに、受けとめるというスタンスです。

聖書のヨブ記に、スバル座やオリオン座に言及している【主】の言葉が記されています。でも、そこは、問いかけであり、正解は書いてありません。

将来、正解を知る、その時を楽しみにしています。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1](ドイツ語: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者。
特殊相対性理論一般相対性理論、相対論的宇宙論ブラウン運動に関する揺動散逸定理、光量子仮説、アインシュタイン模型、零点エネルギーの導入、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮等多数の業績で知られる。
それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最大の物理学者」とも評される。(中略)
光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、「量子は確率論的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」[注釈 4]と懐疑的な立場をとった。局所実在論を支持していたアインシュタイン量子力学の矛盾点の一つとしてアインシュタインポドルスキー=ローゼンのパラドックスを提示したが、のちにベルの不等式の破れが実証されると局所実在論は破綻し、EPR相関として知られるようになった。
そのほか、ブラウン運動を説明する理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域にわたり多大な業績を残した。(以下略)

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ヴィクトール・フランクルからの問いかけ04

『つまるところ人間とは何であるのか。私たちは、おそらくこれまでのあらゆる世代以上に、人間を知っています。私たちは、強制収容所で人間を知りました。強制収容所では、あらゆる非本質的なものが人間から溶け去りました。人間が持つすべてのもの――金、権力、名声、幸福———— が抜け落ちたところ、人間が「持つ」ことができず「ある」ことしかできないものだけが残ったところ、そこで残ったものは、人間自身だったのです。苦痛に燃やされ苦悩に焼かれて、人間は人間の中にある本質的なもの、人間的なものへと溶かし込まれたのです。
 つまるところ人間とは何であるのか。もう一度そう問いましょう。人間とは、自分がどのような存在であるかをつねに決断する存在者です。動物のレベルにまで落ち込む可能性と同じほど、 聖人的な生にまで高揚する可能性をも秘めた存在者です。人間は、なにしろガス室を発明した存在者です。しかし同時に、まさにそのガス室へと、毅然とした態度で、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら歩み入った存在者でもあるのです。
 これが要するに人間なのです。いまや、最初に提出した「私たちが偲ぶ人間とは何であるか」 という問いに対する答えも明らかでしょう。「人間は葦である」とバスカルは言いました。「しかし考える葦である」、と。この思索、この意識、この責任存在こそ、人間の尊厳の本質、個々の人間の尊厳の本質をなしています。そして、この尊厳を踏みにじるか、それともそれを保つかは、つねにもっぱら個々の人間だけにかかっているのです。一方はその人個人の功績となり、他方はその人個人の罪責となります。そもそも、罪責には個人的な罪責しかありません。集団的罪責ということは考えられないでしょう。もちろん、「何もせず」多くのことを怠った人、自分のことを心配し、大切な人の身を気づかって、多くのことを怠った人、そのような人にもその人個人の罪責があります。しかしながら、そのような人を「病者だ」と非難しようとする人は、非難する前に、同じような状況にあって自ら英雄であったことをわが身で立証したのでなければならないでしょう。
 やはり、他の人たちをあまり激しく非難しない方がよいのではないでしょうか。ポール・ヴァレリはかつて次のように言いました。「断罪し告発するなら、根底にはまだ到達していない (Si nous jugeons et accusons, le fond n'est pas atteint)」非難し告発する限り、私たちはまだ根底には達していないのです。ですから、死せる人々のことを偲ぶだけではなく、生きている人々を赦しましょう。あらゆる死を乗り越えて、死せる人々に手を差し伸べるのと同じように、あらゆる憎しみを乗り越えて、生きている人々にも手を差し伸べたいと思います。そして、死者に名誉あれ、 という言葉に、さらにこう付け加えたいと思います善意あるすべての生者に平和あれ。p158~159』

強制収容所では、あらゆる非本質的なものが人間から溶け去りました。人間が持つすべてのもの――金、権力、名声、幸福———— が抜け落ちたところ、人間が「持つ」ことができず「ある」ことしかできないものだけが残ったところ、そこで残ったものは、人間自身だった」これは、フランクル強制収容所の中で、味わった事の考察です。すべての所有を奪われた人間がどうなったか、という究極的な観察です。それは、「ある」という存在であり、「人間自身」が残されていたというのです。

あえて、「人間とは何であるのか」と問いかけています。「人間とは、自分がどのような存在であるかをつねに決断する存在者」とまとめています。つねに決断するというのは、意識下ではハードな事だと推察しますが、実際には、無意識下で行われているものも多くあるのではないでしょうか?でも、結果的に自ら決断しているのです。

ガス室へと、毅然とした態度で、主の祈りやユダヤの死の祈りを唱えながら歩み入った存在者でもある」これは、実に生々しい証言です。そこに、入ることが肉体的死であると理解しながら、自ら決断し、歩を進めていたのです。私がその場にいたのなら、どのような悪態をついていたでしょう。

「この思索、この意識、この責任存在こそ、人間の尊厳の本質、個々の人間の尊厳の本質をなしています」それぞれに、考えていることには開きがありますが、個々の責任存在によって、動かされているのが事実だと記しています。それが、人間の尊厳の本質であると言うのです。

「この尊厳を踏みにじるか、それともそれを保つかは、つねにもっぱら個々の人間だけにかかっている」とあり、やはり、責任存在をどのように用いていくのか? その問いに個々の人間が応答する事が求められているのです。

歴史的に繰り返されてきた紛争、または、民族浄化というタイトルがつけられる迫害や虐殺は、煽動者が集団を煽り自らの手を汚さずに目的を遂げてきた一面があります。それは、実に理不尽で残虐な行為です。それでも、その集団としての罪責感など無いようです。フランクルは「罪責には個人的な罪責しかありません」と続けます。自らも被害者ならば、怒りを持った感情の吐露があるのかと思いましたが、これを記しているときには、冷静すぎるほど冷静に書いています。

そして、「他の人たちをあまり激しく非難しない方がよい」と述べています。合理的に考えれば、避難は復讐を呼ぶのですから、そちらの道へは進まない方が懸命なのです。

むしろ、「死せる人々のことを偲ぶだけではなく、生きている人々を赦しましょう」とまで、記しています。さらに、「死せる人々に手を差し伸べるのと同じように、あらゆる憎しみを乗り越えて、生きている人々にも手を差し伸べたい」という、超前向きな表現までもしているのです。

紛争の解決、問題の決着、そして、課題の切り分け、さらに、自分自身の課題に向き合うことを順序立てて意識をしていきたいと考えさせられます。

そして、「善意あるすべての生者に平和あれ」という言葉で締めくくっています。

「平和」とは、実現されるには、平和な心を持つ人が増えなければ実現しないのです。まず、自分が平和な人として存在する所から、平和がはじまるのでしょうね。

参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩する人間 V·E·フランクル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』

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