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hikariwomotome’s archive

ひかりのアーカイブ

A therapist for the soul

ある夢、すぐ諦めてしまったこと

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,
courage to change the things which should be changed,
and the Wisdom to distinguish the one from the other."

ラインホールド・ニーバー

神よ、私にお与えください――
変えられないものを受け入れる平静を、
変えられるものを変える勇気を、
そして、その違いを見分ける知恵を。

 

子どものころ、よく聞かれた質問は「大人になったら何になりたいの?」だった。夢は数え切れないほどあり、両手の指では足りないくらいだったけれど、高校に入る前まで抱いていた一番は、ピアニストだった。

 

生まれたときから、我が家のリビングにはドイツ製の木製ピアノが置かれていた。
それは私にとって、おもちゃのような存在だった。祖母はその前でオペラを歌い、父はピアノを奏でていた。小さな私は、そんな二人の姿を見ながら、レコードから流れてくるルチアーノ・パヴァロッティの歌声に耳を傾けていた。あったこともないのに、「この人と結婚する!」と本気で思ったのは、きっとあの光景と声が、あまりにも美しく、心に深く響いていたからだ。彼のふくよかな風貌を見るまでは思い続けたけど…

 

私がピアノを懸命に練習していると、母はいつも笑顔でそばにいてくれた。
母にあまり好かれない性格をしていた私は、そんな時間だけは心が安らいだ。

ピアノを教えてくれたのは、独身で少し短気な20代後半の訪問講師だった。彼女は手首から膝ほどの長さがある細い指揮棒のようなものをいつも持っていて、それでピアノの鍵盤や私の手の甲を軽くたたくことがあった。作曲家の名前のついたコンクールに出場するたびに、ミスをすれば厳しく叱られた。その叱責を止める人はいなかった。その先生は長い間、私の家に通ってピアノを教え続けてくれた。

 

ピアノのある壁には、指揮者カラヤンが真剣な表情でオーケストラを率いる大きな写真が掛けられていた。音楽家だった祖母や父にとって、私が芸術の道に進むことは自然な願いだったのだと思う。ピアニストの夢を追いかけていた中で唯一よかったのは、年に一度か二度、きれいなドレスを仕立ててもらい、大きなホールでグランドピアノを弾く瞬間だった。演奏が終わって母から花束を受け取る、その一瞬だけが、まるで夢のように幸せだった。それ以外の毎日の練習や手首と指の痛み、そして先生の厳しいまなざしは、子ども心に重くのしかかっていた。

 

私はそのとき、親がどれだけ費用と時間をかけてくれていたかも知らずに「ピアニストは向いていない、やめる」と言い、突然「外交官になる」と宣言した。外国語が好きだったし、「音楽は私の体質には合わない」と理由をつけた。

母はどこかほっとしたような顔をし、父は静かに失望した様子だった。
祖母は「そんなにすぐ諦めていいの? まだ始めて10年にもならないじゃない」と静かにたしなめた。

あのときはまだ知らなかった。
ピアノを弾くことの大変さなど、大人になってからのプレッシャーに比べればほんの入口にすぎなかったことを。先生がもっと穏やかで、さまざまな人生の話をしてくれるような人だったらと言い訳をした。後から知ったことだが、その先生は祖母が勤務していた音大の助教授で、私を育てることが彼女自身の評価に直結していたようだった。
私にもっと辛抱強さと才能があったなら、みんなをもっと喜ばせることができたのに、そんな思いが、いまも心に残っている

 

大学に入ってからは15年計画を立てた。大学卒業後に進む大学院、その後の進路、開きたい事務所の場所、結婚や出産の時期までを手書きで大きな紙に書き、デスクの前に貼った。その後、叶った夢もあれば、叶わなかった夢もある。


たびたび世界を巡りながら演奏しているピアニストの知人のポストを見ると、なぜか涙が出そうになる。初恋の記憶はあいまいだけど、ピアノとの初恋は、あのときの母の微笑みに似ていてはっきり覚えている。ガラスのショーケース越しに、ライトに照らされて輝くグランドピアノを見ると、子どもの頃のまばゆい夢が胸に蘇る。どんな宝石やドレスよりも、私の心の中でいちばん輝いているのは、ピアノだ。

 

夫や子どもたちは、私のピアノ演奏が好きだと言ってくれる。「才能があるね」「天才かも」と、笑いながらほめてくれる。世界を舞台にするピアニストにはなれなかったけれど、家族という舞台でスターになっているのならそれもまた、ひとつの夢が叶ったと言ってもいいのかもしれない。

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