これはね、ポエムです。ポエムなんです。ポエムなんだったら。ポエムなんだから。
コスプレ界隈では(特に大きめの)撮影イベントが開催されるたびに「あのカメラマンのあの行動が気持ち悪かった」「こういう行動はやめてほしい」といった個人の思いを表明する投稿が日常的に見られます。界隈にいる人ならよく分かると思います。
そして、同じように定期的に「避けるべきカメラマンはこういう人」など様々な "これを避ければ良い" という「答え」のようなものに関する議論が発生しますよね。
こうした発信は、一見すると「みんなのため」「この界隈をより良くするため」という善意から生まれているように見えます。しかし、このような発信とそれに続く現象が、深刻な構造的問題を孕んでいることに思い至る人は少ないのではないでしょうか。
いや、もしかしたら多くの人が「何か変だ」とは思いつつも日々の生活に忙殺され、もやもやした気持ちを抱えたまま過ごしているのかもしれません。
僕もそんな中の一人だったので、この機会にこういったコスプレ界隈における「お気持ち表明」や、いわゆる「学級会」と呼ばれる現象と、その根底にある思考パターンについて考えを整理してみました。
「お気持ち表明」とは、個人が経験した不快な出来事をSNSで発信する行為を指します。典型的なものとしては以下のような感じ。
こういった投稿にわりと共通的に見られるのは、個人的な不快体験を「注意喚起」や「問題提起」のような形式で発信している点です。
もちろん全てがそう簡単にカテゴライズできるわけではありません。また重要なエクキューズとして本当に実害を受けていて、それを共有したいという正当な動機を持つ人もいるはずです。そういう場合はSNSでの会話で解決するのは難しく余計に拗れるかもなので、然るべきルートので解決を試みてください。
さて、話を戻すと。
発信者本人は「自分だけじゃなくて他の人も困ってるかもしれないから」という善意のもとで発信していると考えているものと思われます。
しかし、この「お気持ち表明」には重大な問題があります。
それは、個人の主観的な快不快を、あたかも客観的な問題であるかのように提示することで、発信者が意図しない(あるいは半ば意図した)攻撃の起点となることです。
特に大きな(まあ程度問題ではあるんですが)問題に発展しがちなのは、集団の中である程度の認知度を持つ人物による「お気持ち表明」です。これはいわゆる「犬笛(dog whistle)」として機能してしまいます。
犬笛とは、表面上は問題にならないような表現を使いながら、特定の集団に対して攻撃を促すメッセージを送る手法を指します。コスプレ界隈では、ある人物が「〇〇なカメラマンに困ってる」といった曖昧な投稿をすることで、その周辺の人間やフォロワーが「自分が代わりに戦ってあげよう」と動き出したり、あるいは過剰に共感して自分の怒りや悲しみを過度に攻撃的な表現でポストする現象が頻繁に観測されます。
最初の発信者は直接的な攻撃をしていない。ただ「困っている」と表明しただけかもしれません。しかし、その投稿を見た友人やフォロワーが、直接的に絡んでいったり、エアリプや捨て垢を使って対象者を攻撃し始めます。
「わかる、私も前にそういうカメラマンに遭遇した」
「ライダーベルトつけてイベントに来る人って何考えてるの?」
「〇〇さん(発信者)が困ってるのに、まだ界隈にいるのおかしい」
発信者は「私は攻撃してない、ただ自分の経験を話しただけ」と言い逃れできるが、実際には集団による私刑の引き金を引いています。これが「お気持ち表明」の持つ暴力性です。
こうした「お気持ち表明」という犬笛を起点として、不特定多数の界隈の人間が特定のカメラマンやレイヤー、ときには別の界隈の人間を攻撃する現象が発生します。これがコスプレ界隈における、いわゆる「学級会」というやつです。
学級会の特徴としては以下のようなものが挙げられます。
まず、対象となった人物やイベントには弁明の機会が事実上存在しない。SNSで一方的に批判が拡散され、何を言っても「言い訳」として処理されて、仮に冤罪だったとしてもそれを証明する手段がありません。
次に、実際のハラスメント行為(撮影時に体を触る、つきまといなど)と個人の趣味嗜好の問題が同列に扱われている。「ライダーベルトをしている」「フケが出ている」といった個人の趣味や外見と、明確な加害行為が同じ「避けるべき」というカテゴリーで処理されてしまいます。
そして一度拡散された情報は半永久的に残り、対象となった人物は界隈での活動が事実上不可能になる。これはSNSやインターネットにとどまらない、明らかな「私刑(リンチ)」です。
学級会と並行して、「避けるべきカメコの特徴」といったリスト化や一般化も頻繁に行われます。
このようなリストは、一見すると「みんなのため」の情報共有に見えますよね。でも、ここにも同じような問題があります。
まず、先にも書いた通り明確なハラスメント行為と個人の趣味嗜好が混在している。「体を触る」は明確な加害行為だが、「ライダーベルトをしている」は単なる趣味の問題です。しかし、同じリストに並べられることで、両者が同じレベルの「問題」として扱われてしまっています。
さらに、「距離感が近い」などといった曖昧な基準は、個人によって感じ方が大きく異なります。ある人にとっては適切な距離でも、別の人には近すぎると感じられる。しかし、リスト化されることで、あたかも客観的な基準が存在するかのように扱われています。
お気持ち表明の最大の問題は、個人の主観的な快不快が「客観的な問題」として流通してしまうことです。
「私は〇〇さんの行動が不快だった」という主観的事実は、それ自体は何の問題もありません。人は誰でも様々なことに不快を感じます。それは生き物として当然です。
しかし、それをSNSで「注意喚起」として発信した瞬間、その性質が変わります。
「私が不快だった」という個人の感情が、「これは一般的に問題のある行動だ」という規範的な主張として受け取られるのです。明確に意識してそう受け取らなくても、無意識にそういう判断をしてしまうある種のバイアスとも言えます。
特に、ある程度認知されたアカウントからの発信は権威性を帯びたりもします。「〇〇さんが言ってるなら本当に問題なんだ」という認識が広がり、検証されないまま「事実」として扱われがちです。
そして、その発信を見た周辺の人間が発信者を守るため、あるいは同じ価値観を持つ仲間として対象者への攻撃を開始する。発信者本人は直接手を下していないため「私は攻撃していない」と主張できてしまいますが、実際には集団リンチの引き金を引いた形です。
この構造において、発信者たちは自身の攻撃性に無自覚です。
「私はただ困っていることを共有しただけ」や「みんなのため」という認識のもと、実際には特定の個人や集団を社会的に抹殺する行為に加担していることになります。
また、コスプレ界隈では「〇〇な人は避けるべき」「こういう行動はNG」といった「ルール」を作ろうとする、作って貰おうとする、あるいは気に入らないことを”ルールで縛ってやりたい”という志向がかなり強いように見えます。
しかし、こうした「ルール」には決定的な欠陥があります。
誰が違反を判断するのか。誰が違反者を罰するのか。その人にその権利があるのか。明文化された根拠は何か。根拠は論理的に正しく表現されているのか。冤罪を防ぐ仕組みはあるのか。被疑者に弁明の機会はあるのか。
これらの問いに対する答えは当然存在しません。
通常、ルールには以下の要素が必要です。
これらが明文化され、コミュニティ全体で合意されて、更にそれを過不足無く運用する者がいる必要があります。
しかし、コスプレ界隈の「ルール」にはこれらが一切ありません。結果として、これらの「ルール」は狭いコミュニティ内で気に入らない人を私刑にする口実となっています。
ルールを装った排除のシステムが、「みんなのため」という大義名分のもとで機能しているのです。
そしてこれらから繋がる「学級会」という現象の本質は、コミュニティからの排除です。
対象となった人物には以下のような状況が待っています。
SNSで名前が拡散され「要注意人物」として認識され、イベントでの撮影ができなくなる。既存の撮影予定がキャンセルされる。何を言っても「言い訳」として処理される。弁明の機会がない。名誉回復の手段がない。
そしてこの排除は検証なしに行われます。対象者が本当に問題のある行動をしたのか、それとも単に誰かが不快に感じただけなのか、確認されることはありません。
なぜなら排除する側は常にみんなのための「正義」だからです。「問題のある人を排除するのは当然」「被害者を守るため」という大義名分があるため、排除に加担する人々は罪悪感を持たない。むしろ、正しいことをしていると信じています。
しかし、客観的にはそれは紛れもない私刑であり、魔女裁判です。
第三書による検証もなく、ただ誰かが「あの人は問題だ」と言えば、その人は排除される危険がいつでも隣にあるのです。
あ、ここから複数の視点で原因を考えていくんですが、どれか一つが正解というわけではなく、これらが複雑に絡み合っているというのは先に断らせてくださいね。
さて、先に僕の結論を言ってしまうと、この問題の根底には無意識レベルに内面化された「他責思考」があると考えています(ここの論理展開に若干飛躍があるのでもう少し深く考えていきたいではある)。
「自分が不快に感じたのは相手のせい」という思考パターンが、すべての出発点となっているように見えます。
本来、不快感という感情は自分の内側で生じるものであり、それをどう処理するかは自分の責任です。
同じ出来事に対してある人は不快に感じ、別の人は何とも思わないことは日常的に起こります。しかし、その責任を外部(相手やルール)に転嫁することで、被害者意識が生まれる。「私が不快に感じたのは相手が悪いことをしたからだ」という論理です。
より広い視座で見れば、これは自分の感情の責任を引き受ける覚悟の欠如とも言えるもので、さらに言えば生きることに伴う様々な責任を背負う覚悟ができていないことの現れですらあります。
他者とコミュニケーションする以上、自分の感情や行動をどうコントロールするかは当人にしか引き受けられない責任です。社会、家族、趣味の世界、どこであろうと人と関わる以上、自分の内側を律するのは自分しかいない。この普遍的な責任から逃れることはできません。
次に他責思考を基盤として、「快不快を道徳に欺瞞」する思考のフレームワークが形作られます。
このフレームワークにおいては、個人の主観的な快不快を、あたかも客観的な道徳的基準であるかのように偽装する行為が行われます。これは自分の感情に権威を与え、他者を裁く正当性を得ようとする欺瞞です。
本来は
のように区別がつけられるべきです。
しかし、当事者たちにはこれらの区別がついていないか、防衛機制のように反射的にそうしてのです。
このような欺瞞の構造としては、単に「私が不快だ」と言うだけでは主観的な感情に過ぎず、相手を変える力を持たないが「それは道徳的に悪いことだ」と言えば、相手を批判し、変えることが正当化されるというものです。
つまり、自分の主観的な感情を客観的な道徳に偽装することで、他者を支配する権力を得ることができるのです。
そしてこの「快不快の道徳への欺瞞」がもっとも顕著に現れているのが、相手に無限の配慮を求める精神性です。
これらの要求は一見すると合理的に見えます。しかし、その背後には「私の感情的快適さを維持する責任は相手にある」という前提があります。
さらにこの要求は無限に拡大していきます。
このように、個々の主観的な不快感に配慮しようとすると、配慮すべき事項が際限なく増えていき、そして配慮が足りないと感じた人は「被害者」となり、相手を攻撃する正当性を得る。
この構造において、配慮を要求する側は成功体験を積んでいくことになります。SNSで「〇〇が不快」と発信すると、賛同が集まり、相手が謝罪したり、排除されたりする。この成功体験が「自分の言うことは正しい」という確信を強化し、さらなる配慮要求へと繋がる。
これは「entitled behavior(特権意識的行動)」に近いものがあります。自分の感情的快適さが最優先されるべきだという暗黙の前提があり、それが満たされないと不当な扱いを受けたと感じます。
さて、少し視点を変えてみると、多くの人は、自身の攻撃性の高さに気づいていないとしか言えない現象が見えてきます。
「お気持ち表明」をする人は、自分が攻撃をしているとは思っていない。ただ「困っていることを共有している」だけだと考えている。学級会に参加する人も、「問題のある人を批判している」だけで、攻撃をしているとは思っていない。
しかし、実際には特定の個人を社会的に抹殺する行為に加担している。
これは形のない、しかし極めて暴力的な攻撃です。
同時に、過剰な感受性という問題もありそうです。ちょっとした言動に対して強い不快感を覚え、それを「相手に怒らされた」と感じる。ここでもまた他責思考が現れます。
「相手の言動が私を怒らせた」という無意識の認識は、自分の感情の責任を相手になすりつけるものです。本来、怒るかどうかは自分で選べることです。しかし、その選択権を放棄し、相手に責任を転嫁することで、被害者としての立場を得る。
この構造において、攻撃性と被害者性は表裏一体です。自分の攻撃性には無自覚でありながら、相手の些細な言動には過剰に反応し、被害者として振る舞います。
これらの構造をさらに増幅させているのが、SNSによるエコーチェンバーです。
コスプレ界隈は比較的閉じたコミュニティであり、SNSでの発信が活動の中心となっています。個人の「不快だった」という発信に同意が集まり、個人の主観が集団の共感を得ることで「規範」として扱われるようになる。立ち止まって考える機会がないまま、言った者勝ちでこれらの価値観が強化される。
特にSNSの構造は、自分の感情を外に出せば誰かが共感してくれて、誰かが代わりに戦ってくれるという期待を生みやすい。「わかる」「私も」という共感が集まると、自分の主観的な感情が「みんなが感じてること」「客観的な事実」のように錯覚します。
しかし実際には、似たような感情を持つ人たちが集まっているだけで、普遍的な真理になったわけではありません。
この構造の本質は、責任の外在化です。自分の内面の問題(不快感を処理する責任)を外部の問題(相手が悪い、みんなで注意喚起すべき)として扱うことで、感情の責任を共感してくれた集団に分散させているのです。
当人たちは無自覚にこれを行っており、むしろ「正しいことをしてる」「みんなのために警告してる」と思い込んでいます。
現代のSNS文化において、「被害を訴える立場」は自動的に正当性を帯びます。
快不快を「被害」として表明することで批判を封じて、相手を一方的に攻撃でき、それが「正義」として機能する。「でもそれって主観では?」という指摘すらできなくなる。これは「被害者性の権力化」と言えるものです。
例えば一つの例として、一般的には「撮られる側のレイヤー(特に女性)は脆弱な立場」と認識されるかもしれませんが、コミュニティの権力構造においては実態が異なります。
レイヤー側がカメラマンを品定めする側にいて、誰に撮影してもらうか、個撮に呼ぶかを選べる。SNSで発信すればカメラマンの評判を左右でき「このカメラマンはNG」という発信で界隈から排除できる。
つまり、身体的脆弱性を理由にした「被害者性」が、コミュニティ内での実質的な権力として機能しているように見えます。しかもこの権力は「弱者を守る」という正義の旗印のもとで行使されるため、批判が困難なのです。
もちろんレイヤーだけでなく、ある程度のフォロワーがいたりするカメラマンにも権力性が帯びるのは言うまでもありませんが。
一般的な人間の知性として、快不快と善悪の区別がつかない傾向は確かにあるというのは肌感覚として多くの人が感じていることでしょう。しかし、コスプレ界隈では特にその傾向が強いように見えます。
コスプレ界隈は比較的閉じたコミュニティです。参加者の多くが同じようなイベントに参加し、同じようなSNSプラットフォームを使い、似たような価値観を共有しています。
この閉鎖性が内輪での価値観の共有を強化します。そして外部からの異なる視点や意見が入りにくく、一度形成された価値観が疑われることなく強化されていくのでしょう。
この強化された価値観で、別の全く異なる価値観で動くコミュニティに殴りかかっていくとどうなるかは、まあほら、みなさんが見ている通りです。
コスプレという活動自体が、主観的な楽しみ方を中心としています。どのキャラクターが好きか、どんな写真が良いか、どんな表現をしたいか、すべて個人の感性に基づきます。
この主観性の強さが、客観性を考える習慣をつきにくくしている可能性はあるかもしれません。「私がこう感じる」ことが活動の中心であるため、「それは私の主観に過ぎない」という認識を持ちにくいというのは一定の説得力があるような気がします。
コスプレ界隈は、インターネットカルチャーと密接に結びついています。SNSでの発信が活動の一部であり、イベント以外ではオンラインでのコミュニケーションが中心となっています。
インターネット、特にSNSは、感情をそのまま発信しやすい環境です。思ったことをすぐに投稿でき、すぐに反応が返ってくる。この即時性が、立ち止まって考える機会を奪っているというのもあるでしょう。
コスプレ界隈には様々な背景を持つ人が参加しています。年齢も職業も経験も異なる人々が、「コスプレが好き」という一点で繋がっています。
この多様性は本来豊かさをもたらすはずなんですが、実際には摩擦を生みやすいようです。異なる価値観を持つ人々が密接に関わることで、「自分の常識が通じない」という経験が頻発する。そして、多くの人がこの多様性を受け入れるのではなく、「正しい」価値観を確立しようとする。その結果、「ルール」作りや「学級会」という形で、価値観の統一を図ろうとする。
これらの要因が複合的に作用することで、快不快と道徳の混同、他責思考、被害者性の権力化といった問題が、他のコミュニティよりも顕著に現れているのではないかと考えられます。
では、この問題に対して僕たちには何ができるでしょうか。
とかしゃちほこばって言ってはみたものの、実は確実にこうしろみたいな答えはまだ出せてないんですよね。なので解決策というより「こういう態度で向き合っていくしかないよね」という提案として読んでください。
個人レベルでの処世術としては、「威張らない・愚痴らない・ご機嫌でいる」みたいなやつを守った上で、理不尽は理不尽として指摘するというスタンスで良さそうに思います。
これは他責思考の対極にある自責的なスタンスで、自分の感情は自分で管理するという姿勢です。
主観的な感情は自分でコントロールしつつ、客観的に問題のあることについては声を上げていくのが良さそうです。
そもそもこういった問題を解決するためには、相手との客観と論理に基づいた対話が必要です。
まず、自分の感情と客観的な事実を区別する。「私は不快に感じた」という主観的事実と、「相手の行動は客観的に問題がある」という判断を分けて考える。
次に、論理的な根拠を示す。「〇〇だから問題だ」という主張をする際には、その根拠を明確にする。感情ではなく、論理で説明できるようにする。
そして、相手の視点を理解しようとする。自分の感じ方が絶対ではないことを認識し、相手がなぜそのように行動したのかを考える。
このような対話を通じて、主観と客観、感情と論理を区別する習慣を身につけると良いのではないでしょうか。
より広い視点では、構造的な問題に対する介入が必要かもしれません。
草の根運動的に対話の中で問題意識を滲ませつつ、適切なタイミングで構造的な問題を指摘するなど、感情的な告発ではなく冷静な分析として提示することで、立ち止まって考える人を増やす。
もちろん、冷静な分析の提示を攻撃と受け取る人もいるでしょう。しかし、それでも諦めずに、丁寧に説明を続けることが大切です。
構造的問題への対処として重要なのは、問題を「人 vs 人」という対立構造として捉えないことです。
これはSNSコミュニティにおける私刑構造、被害者性の権力化、快不快と道徳の混同という、より広範な問題です。特定の個人が悪いのではなく、構造が問題を生み出していると考えましょう。
この認識を持つことで、感情的な対立ではなく、構造的な問題解決に向けた議論ができるようになる。なってくれ。
そして最後に最も重要なのは、ここまで考えてきたような「私刑の論理」に加担しないことです。
誰かが「お気持ち表明」をしたとき、それに安易に賛同しない。「わかる」「私も」と言う前に、立ち止まって考える。それは本当に客観的な問題なのか、それとも個人の主観的な不快感なのか。
誰かが批判されているとき、その批判に根拠があるのかを確認する。検証されていない情報は無視するでいいと思います。
そして、自分自身が不快に感じたとき、それを「注意喚起」として発信する前に考える。それは本当にみんなが知るべき問題なのか、それとも単に自分が不快に感じただけなのか。
とまあ、ここまで僕なりに考えたことをある程度整理して書いてきましたが、合っているかはわかりません。分かりませんが、大きくは外してないか、ある側面では合っているという感覚があります。
とはいえ自分の感情の責任を引き受けるのは一朝一夕では難しいようにも思います。なぜならそれは、生きることの根本的な責任を引き受けるということであり、それには勇気と覚悟が必要です。決して簡単なことではありません。一人だけでは難しいかもしれません。
しかし、だからこそ、地道な対話と構造的な分析の提示が重要だと思っています。
一人ひとりが立ち止まって考える機会を作ること。快不快と善悪を区別すること。自分の感情の責任は自分で引き受けること。客観と論理に基づいた対話をすること。
これらの当たり前のことを、当たり前にできる健全なコミュニティを目指していきたいものです。
ではまた。
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