序文・道成寺
堀口尚次
安珍・清姫伝説とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。そしてこの男女は因縁のまま輪廻転生するが、道成寺の住持の読経の供養により成仏するという仏教説話である。
安珍・清姫伝説は、主人公らの悲恋と情念をテーマとした、紀伊国〈和歌山県〉道成寺ゆかりの伝説である。
伝説のあらましは、おおむね次のようなものである。
『奥州白河〈現在の福島県白河市〉から安珍という僧〈山伏〉が熊野に参詣に来た。この僧は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡〈現在の和歌山県田辺市中辺路、熊野街道沿い〉真砂の庄司清治・清次の娘清姫は宿を借りた安珍を見て一目惚れし、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は僧の身ゆえに当惑し、必ず帰りには立ち寄ると口約束だけをしてそのまま去っていった。欺(あざむ)かれたと知った清姫は怒って追跡をはじめるが、安珍は神仏〈熊野権現・観音〉を念じて逃げのびる。安珍は日高川を渡るが、清姫も河川に身を投じて追いかける。蛇体となりかわり日高川を泳ぎ渡った清姫は、日高郡の道成寺に逃げ込んだ安珍に迫る。安珍は梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、安珍は鐘の中で焼き殺されてしまう。安珍を滅ぼした後、本望を遂げた清姫はもとの方へ帰っていき、道成寺と八幡山の間の入江のあるあたりで入水自殺したといわれる。畜生道に落ち蛇に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。』
京都市妙満寺の梵鐘は、紀伊国の道成寺が安珍・清姫伝説の際に初代の梵鐘が焼けてしまったために、2代目として作ったものである。しかし、近隣に災厄が続いたために埋められてしまった。その後、天正13年の羽柴秀吉による紀州征伐の際、武将の千石秀久が掘り返して京都に持ち帰り、当寺に奉納した。また、鐘が重かったために途中で放棄し、近くの住民の手によって当寺に奉納されたともいわれる。

序文・太皇太后
堀口尚次
藤原宮子〈684年前後? - 天平勝宝6年〉は、文武天皇の夫人で第45代聖武天皇生母。第46代孝謙天皇〈第48代称徳天皇〉祖母。藤原不比等の長女で、母は賀茂比売。聖武天皇の皇后である異母妹・光明子〈光明皇后〉とは、義理の親子関係にも当たる。史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもあり、皇后でも皇太后でもなかったが、史上初の太皇太后となった。
梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。
もともとこの伝説は、室町時代に初演された能『鐘巻』で最初に記録されている。紀州の海女が海から小さな観音像を拾い上げ、その御利益で光り輝く美人となり雲居に召され、その両親への恩返しのために紀州に道成寺を建てたとされたが、『鐘巻』に宮子の名は登場しない。江戸時代になると、宮子と文武天皇の物語として道成寺等が流布するようになった。近年の発掘調査で、道成寺が観世音寺式伽藍の寺であることが確認され、福岡県の太宰府観世音寺や宮城県の多賀城観音寺で行われたような、日本の東西南北の鎮護を祈る儀礼が道成寺でも行われた可能性が示された。藤原宮子と道成寺を関連させて語る伝説は、道成寺での観世音寺式儀礼を目立たない形で語り継ぐ手段だったと解釈されている。
道成寺に伝わる伝承によれば宮子は九海士の里〈現在の和歌山県御坊市湯川町下富安〉で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として『宮子姫髪長譚』〈宮子姫物語〉が伝えられている。和歌山県御坊市、道成寺および『道成寺絵とき本』にて現在紹介されている伝承の大筋は下記のとおりである。『応神天皇の時代、9人の兵士に日高の浦が下賜された。9人は漁を生業としたため、周辺地域は「九(く)海士(あま)の里」とよばれるようになった。九海士の里に住む夫婦である早鷹と海女の渚は、子宝に恵まれないことから氏神の八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かった。そこで名前を八幡宮にちなんで「宮」と名づけた。ところが、成長しても宮には髪の毛が生えてこなかったため両親は悲嘆にくれていた。ある年、九海士の里は不漁に見舞われる。その原因は海底から差す不思議な光であった。宮の母である渚は、「娘に髪の毛が生えないのは前世の報い」と考え、里の人々を救おうと罪滅ぼしのために自ら海に飛び込んだ。海中深く潜っていると、光輝くものがあった。それは黄金色の小さな観音像であった。渚は持ち帰った観音像を大切に祀った。光の消えた海は大漁続きとなったため里人たちは渚のことを尊敬したが、彼女は謙虚に祈りを続けた。ある夜、渚の夢に観音が現れる。夢の中で髪の生えない娘のことを訴えると、にわかに宮の髪が生えはじめた。年頃になると髪も伸び、宮は「髪長姫」と呼ばれるようになった。ある日、宮が黒くて艶のある髪をすいていると、雀が飛んできてその髪を一本くわえ、飛び去った。その雀は、奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒に巣をつくった。巣から垂れ下がる長く美しい黒髪を見つけた不比等は髪の主である宮を探しだし、養女に迎え入れた。不比等の養女となった宮は「宮子」という名を授けられ、やがて文武天皇に見初められ后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となった。
宮子は奈良に行っても故郷の九海士の里が忘れられず、特に残してきた観音のことが気になっていた。その悩みは文武天皇に届き、「宮子に黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りする寺を造立せよ」と紀道成に勅命を出した。その寺があの道成寺だという。』

序文・分不相応
堀口尚次
「顔じゃない」とは、大相撲の隠語で「分不相応」という意味、いわゆる身分や能力などを考えてふさわしくないということをいう。また、非礼や不作法などを叱る場合にも使われる。
第68代元横綱・朝青龍明徳〈現実業家・タレント〉は、2008年7月場所から三場所連続休場と不振が続き、2009年1月場所直前に入ると当時のマスコミからは「進退を掛ける場所」「引退危機」と騒がれ続けていた。その最中、横綱朝青龍は出羽海部屋で稽古していたが、その光景を取材していたNHK大相撲解説者でタレントの舞の海秀平〈元小結〉は、部屋の稽古帰りに「横綱、まだ引退しないで下さいね」と声を掛けた。その直後、朝青龍は舞の海に向かって「顔じゃないよ!」と不機嫌そうに一喝し、そのまま車に乗り込んだ。この事件にマスコミは「朝青龍、今度は大先輩に対して大暴言」等と報道し物議を醸した。翌日朝青龍は横綱審議委員会の稽古総見で舞の海とバッタリ会い、「おう、秀平」と呼び捨てにした。この対応に舞の海は「横綱に下の名前を覚えてもらって光栄です」と記者に答えた。
2024年4月に元大関・霧島の陸奥が65歳の停年を迎え、霧島が経営した陸奥部屋の後継者選びで、陸奥部屋付きの元前頭・敷島の浦風が、部屋の継承に際し、「自分は顔じゃない〈分不相応〉」と断わったという。結局、2024年4月に霧島は65歳の停年を迎え、後継者不在のまま陸奥部屋は閉鎖され、所属力士などは一門の音羽山部屋などに移籍となった。
12月13日のネットニュースで『雅子さまのコメントに新大関・安青錦が相撲界の隠語で反応、謙虚な姿勢に上がる好感度』なる見出しがあった。雅子さまは文書の中で、激動の国際情勢に触れられたあと「九州場所で安青錦関が初優勝し、祖国ウクライナの戦乱を逃れて日本にやってきた高校生が、一心に稽古を重ね、日本の伝統である大相撲で大関まで昇進したことに感銘を受けました」とコメント。これを受けて安青錦はこの雅子さまからのお言葉に対し、「びっくりしました。全然顔じゃないのに〈そのように言ってもらえて〉うれしかった。これからも頑張りたい」と「顔じゃない」=「分不相応」と、相撲界の“隠語”を使ってコメントした。

序文・祖国分断の悲劇
堀口尚次
日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年前後にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江〈リムジン江〉で分断された朝鮮半島についての曲で、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないか、誰が祖国を分断したかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。
デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として、アマチュア時代から歌う「イムジン河」を1968年2月21日に東芝音楽工業から発売する予定であった。東芝の高嶋弘之ディレクターは、フォーク・クルセダーズを「帰って来たヨッパライ」でデビューを説得していた頃はすでに、「第二弾は『イムジン河』で行ける。『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考え、東芝関係者らはその算段で臨んで発売前にラジオで数回放送した。
「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日で発売予定前日の1968年2月20日にレコード会社は「政治的配慮」から発売中止を唐突に決定し、出荷済み13万枚のうち3万枚が未回収となり、以後放送自粛の風潮が広がるも京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオで放送を続けた。
本楽曲は北朝鮮の曲で、松山やメンバーらが思い描いていた「作詞・作曲者不明の朝鮮民謡」ではなく、朴世永の作詞、高宗漢の作曲による楽曲であった。原曲は『主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、1番は臨津江の流れになぜ南の故郷へ帰れないかを嘆き、2番は臨津江の流れに荒れ果てた“南”の地へ花の咲く“北”の様子を伝えてほしい』と、北の優位を誇示している。松山は交流した朝鮮学校の生徒から曲の1番のみしか受け取っていなかったため、1番は辞典をたよりに翻訳し、それを基にしたものの、2番は自身が南北の分断を唱う歌詞で作曲したという。さらに、独自に3番も作詞している。のちに4番の歌詞をきたやまおさむが作詞した。
発売中止は、レコード倫理審査会の国際親善事項に抵触することに加えて、通説として朝鮮総連が内容が南側に偏向していると抗議したことなどが要因と喧伝される。実際には、1968年2月19日に朝鮮総連は東芝音楽工業に対し、これが「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めた、レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇して発売を自粛したともいう。当時の新聞に「朝鮮総連が謝罪広告を出すことと原詞に忠実に訳すことを求めた」の記事が散見されるが、高嶋弘之ディレクターの記憶に該当する証言はない。一方、NHKの『アナザー・ストーリーズ』では、朝鮮総連の音楽部長リ・チョルウが、彼自身が作詞作曲者の名がないことについて朝鮮を途上国として軽んじているためではないかと疑い、「作詞作曲者名を明記すること」と「原詞に忠実に訳すこと」を求めたと語っている。これについて、リ自身も本心は発売を望んでいて、当時の自身の行為を「若気の至り」と語っている〈まさか、そのまま発売が止まるとは彼自身も思っていなかったようである〉。
東芝音楽工業の親会社である東芝が、韓国内で家電製品のシェア拡大に悪影響することを恐れたため圧力をかけたという説、国内の反政府運動を助長すると韓国政府から抗議があった説、ほかに内閣情報調査室から上下黒色背広の者が捜索に来たと証言する東芝関係者もいるが、森達也は国際問題が関係していてもありえないし上下黒色背広の証言も漫画チックであると否定している。
発売自粛となった本楽曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして「悲しくてやりきれない」が発売され、2002年に発売されたシングルCD「イムジン河」のカップリングにも収録されている。同曲は「イムジン河」のコードを反対からつなげて作ったという話も残っているが、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。
1998年10月26日放送のNHK『スタジオパークからこんにちは』にて加藤は「某出版社〈パシフィック音楽出版 現・フジパシフィックミュージック〉の会長室に3時間限定で缶詰にされた。最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」と証言している。
2003年9月11日に行われた島敏光との対談でも、加藤は同様の証言をしている。但しこちらでは「一時間くらいで曲が出来て…」となっている。


序文・清水次郎長の兄弟分
堀口尚次
吉良の仁吉(にきち)〈二吉とも書く。本名:太田 仁吉、天保10年 - 慶応2年〉は、清水次郎長の兄弟分として幕末期に活躍した侠客。
三州吉良横須賀〈現・愛知県西尾市吉良町〉に没落武士の子として生まれた。無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上での喧嘩で侠客の親分の寺津の間之助に匿(かくま)われたのがきっかけとなり、18歳から3年間を次郎長の下で過ごした。次郎長と兄弟の盃まで交わす仲となった後、吉良に帰り吉良一家を興した。
侠客の穴太(あのう)の徳次郎が、次郎長一家が世話をした伊勢の吉五郎の縄張りであった伊勢荒神山を奪ったため、徳次郎の手下や岡っ引らの仲介をも断って、世に言う「荒神山の喧嘩〈血闘〉」に乗り込んだ。喧嘩で吉五郎側は勝利を収めたが、仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡した。享年28。
義理に厚く若くして義理に斃(たお)れた仁吉は後世、人情物の講談や浪花節〈浪曲〉、演劇や数々の映画、歌謡曲などの題材として よく取り上げられる存在となった。荒神山の喧嘩に吉五郎側として参加した一人で後に旅講釈師となった松廼家太琉が、講談師の三代目神田伯山にネタとして当時の様子を伝え、更に伯山の講談を浪曲師の二代目広沢虎造が節付けして浪花節としたことで広く知られるに至った。このため史実と作り話が混在して伝えられており、芝居や映画では仁吉は徳次郎の妹・お菊を妻に娶ったものの、吉五郎の助太刀のためにお菊を離縁したとされるが、仁吉には結婚歴はないため、後に創作されたものと言われる。
墓はその一周忌に次郎長が太田家の遺族と共に建立したものが、今も生誕地の吉良町にある 源徳寺〈真宗大谷派〉に残っている。。現在、吉良町では吉良三人衆〈他に尾崎士郎、吉良義央〉の一人として、毎年6月に墓前祭を兼ねた「仁吉まつり」が行われている。
【私見】過日筆者は、愛知県西尾市吉良町の源徳寺を訪れ、仁吉の墓参を兼ねて本堂脇の仁吉遺品展示を見てきました。その後、すぐ近くの福泉寺を訪れ人生劇場の作家・尾崎士郎の墓参を兼ねて、寺近くの尾崎士郎生誕地も見てきました。これまた近隣にある華厳寺の吉良義央〈上野介〉の墓参は以前に済ませているので、これで吉良三人衆の墓参を完遂することができました。

序文・浅井三姉妹
堀口尚次
常高院(じょうこういん)〈永禄13年 -寛永10年〉は、戦国時代から江戸時代前期の人物。若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。本名は浅井初で、一般に「初」の呼び名で知られる。浅井三姉妹の一人。父は近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・市〈織田信長の末妹〉。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々〈淀殿〉、妹は徳川秀忠正室〈継室〉の江〈崇源院〉。兄に万福丸、異母弟に万菊丸、同母弟または異母弟に浅井井頼。高次との間に子はなく、妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫〈興安院〉や氏家行広の娘・古奈〈母は高次の妹〉らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高〈母は山田氏〉や高政〈母は小倉氏〉、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされる。後に養女の初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。
近江国小谷城に生まれる。天正元年、父の長政は伯父・織田信長と交戦し、小谷城は父・長政と祖父・久政の自害により落城。母の市と三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後伯父の織田信包の下で庇護を受けたとも、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれている。
天正2年9月29日に織田信次が戦死した後に、織田信長の岐阜城に転居することになる。天正10年、6月2日の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれた為、6月27日の織田家後継者を決める清洲会議によって、母・市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄城へ移る。天正11年、清洲会議がきっかけで羽柴秀吉と対立した勝家は賤ヶ岳の戦いで争うも敗北。北ノ庄城の落城の際に市は勝家と共に自害したため、三姉妹は秀吉の庇護を受ける。また北ノ庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている。天正15年、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたる京極家の当主であり従兄でもあった京極高次と結婚する。慶長14年、夫・高次と死別すると剃髪・出家して常高院と号す。この頃から甥・豊臣秀頼〈姉の茶々〔淀殿〕が豊臣家の実権を掌握とも〉と徳川家康〈妹・江の舅〉の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走した。

序文・輪廻転生した多生と前世の他生
堀口尚次
袖振り合うも他生の縁は、仏教からのことわざ。他生は多生と表記することもある。多少とするのは誤り。
道を行くときに、見知らぬ人と袖が振り合う程度の関係であっても、それは前世からの因縁であるということである。このことからこの言葉の意味は、どのような小さなことや、少しだけの人との関わりであっても、それは偶然に起こっているのではなく、全て深い宿縁によって起こっているということである。
仏教においては、今の人間が生まれるまでにも、幾たびもの生まれ変わりを繰り返してきたと説かれ、これは過去世や前世といわれる。このように人間は何度も生まれ変わりを繰り返してきたために多生という。多生の縁というのは今の人間に生まれ変わってくるまでに何度も会っては分かれてを繰り返してきて、今生でもまた会うことができたということになる。そして多生の縁というのは過去から生まれ変わってきて現在までのみではなく来世のことまでも含まれているため、過去から永遠の未来にわたるまでの限りなく長い関係となるということである。仏教においては人間の生命というのは長くて100年くらいの一生ほどではないとのことである。今の人間に生まれてくる前に数え切れないほどの様々な生物や世界に生まれてきては死にを繰り返してきたほどのことであり、このことが多生であり、これほどの多生から繋がりや関係があるというのが袖触れあうも多生の縁ということである。
【私見】筆者は20歳代前半に「多少の縁」だと思い「ちょっとした事も縁なんだから大切にしなくてはいけない」と思っていた。その頃に仕事の赴任先で一人暮らしとなり、仏教関連の書籍を読みまくっていたが、その時に「他生=前世」と知り驚愕し恥じ入った次第でした。「因縁(いんねん)果報(かほう)」は仏教の大切な教えで、『物事は、因(いん)〈直接原因〉と縁(えん)〈間接要因〉によって起こり、果(か)〈原因から起きる結果〉と報(ほう)〈結果として受ける報い〉を受ける』と勉強した記憶がある。その頃は、仏教に関するテレビ番組〈NHK〉もよく観ており、千日回峰行を二度満行した天台宗の酒井雄哉阿闍梨に会いに比叡山までいったこともありました。酒井氏は「人間は決して一人では生きていけないのだから、まわりの人に生かされていることを考え、自分勝手なことは慎むように」と説かれています。「情けは人の為ならず」は、まさしく「因縁果報」に基づくのでせう。

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