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豊臣国松
生没 1608(慶長13)-1615(元和元)
生地 摂津国
略伝
豊臣秀頼の長男。
生後すぐ祖母茶々(淀殿)の妹常高院のもとに預けられ、その後、常高院の嫁ぎ先である若狭小浜の砥石屋弥左衛門の養子となる。
1614(慶長19)年の大坂冬の陣の際、秀頼の子ということで幕府の嫌疑を受けぬよう常高院とともに大坂城に入城し、幕府方との和議が整った後も大坂城に残る。翌年5月8日の大坂城落城時には乳母の夫田中六郎左衛門らにより大坂城からの脱出に成功するが、その後、伏見で幕府方に捕縛され、同月23日、京都六条河原で斬首された。
配役
豊臣仙千代丸
生没 1590(天正18)-1595(文禄4)
生地
実母 於和子(日比野下野守女)
略伝
豊臣秀次の長男。
1595(文禄4)年7月に秀次が切腹させられると、翌8月、秀次の側室や他の子らとともに京都三条河原で処刑された。
配役
| 五島義秀 | 春の坂道(1971・NHK) |
| 伊田吉満 | 関ヶ原(2017・東宝) 役名は豊臣千丸 |
豊臣鶴松
生没 1589(天正17)-1591(天正19)
生地 山城国
別称 捨
略伝
豊臣秀吉の次男。
秀吉と茶々の間の最初の子で、捨て子は元気に育つという伝承から、捨(棄)と命名されるが、1591(天正19)年8月に3歳で没した。
配役
豊臣秀勝
生没 1569(永禄12)-1592(文禄元)
生地
別称 羽柴秀勝
略伝
豊臣秀吉の姉ともの次男。
1585(天正13)年、叔父秀吉が養子としていた羽柴秀勝が病没すると、秀吉の養子となって秀勝を名乗り、秀勝の後を受けて丹波亀山城主となる。1587(天正15)年に秀吉の怒りを買って改易されたが、翌年の秀吉による天下統一の後には、甲斐・信濃を与えられ、翌1591(天正19)年には岐阜城主に転じた。
1592(文禄元)年3月からの朝鮮出兵で渡海したが、現地で発病し、同年10月、巨済島に没した。
配役
豊臣秀次
生没 1568(永禄12)-1595(文禄4)
生地 尾張国
別称 三好秀次、羽柴秀次
略伝
豊臣秀吉の姉ともの長男。
秀吉により、はじめ宮部継潤、後に三好康長の養子に出されるが、世継に恵まれない秀吉に次第に目をかけられるようになる。しかし、1584(天正12)年の小牧長久手の戦いでは、戦線が膠着状態に陥ったため、戦局を打開すべく敵将徳川家康の本拠三河を奇襲攻撃しようとするが、岳父池田勝入(恒興)らを失う大敗を喫したことから、秀吉の激しい怒りを買った。
翌1585(天正13)年、総大将として出陣した四国侵攻の後に近江八幡で43万石を与えられる。1590(天正18)年に秀吉の手により天下統一が成ると、尾張一国など織田信雄の旧領100万石を与えられて尾張清洲城を本拠とし、翌1591(天正19)年には秀吉の嫡男鶴松の病没により、秀吉の養子となって関白職を継承した。
しかし、1593(文禄2)年に秀吉に秀頼が誕生すると、次第に秀吉と不和となって乱行が目立つようになり、世に「殺生関白」と揶揄されるに至って秀吉との関係はますます険悪化し、1595(文禄4)年7月、秀吉の命によりより高野山に追放された上、切腹させられた。
配役
豊臣秀長
生没 1540(天文9)-1591(天正19)
生地 尾張国
別称 小竹、小一郎、羽柴秀長、大和大納言
略伝
豊臣秀吉の弟。
兄秀吉に従って各地を転戦し、秀吉の出世を支える。
1582(天正10)年の織田信長の横死後、秀吉が信長後継の地位を確立すると、播磨・但馬の2か国を与えられて播磨姫路城主となる。1585(天正13)年の紀伊平定の後には所領を紀伊・和泉の2か国に移され、同年には四国に出兵してこれを平定。その戦功により大和を加増され、大和郡山城に入る。1587(天正15)年の九州攻めの際にも先鋒として出陣し、日向根白坂に島津勢を撃破する戦功を立て、戦後には大納言に任ぜられて「大和大納言」と称された。
「内向きのことは(千)利休、外向きのことは秀長」と称されたように、秀吉に信頼を置かれ、その人望もまた非常に厚かったといわれるが、1591(天正19)年1月、郡山城に没した。その死は秀吉だけでなく、諸大名をも落胆させたという。
配役
豊臣秀保
生没 1579(天正7)-1595(文禄4)
生地
別称 羽柴秀保
略伝
豊臣秀吉の姉ともの三男。
叔父豊臣秀長の養子となり、1591(天正19)年の秀長の死後、大和郡山城主となった。
配役
中越 司(16) 廣 貴久 | おんな太閤記(1981・NHK) |
| 三津谷亮(28) | 真田丸(2016・NHK) |
豊臣秀吉
生没 1537(天文6)-1598(慶長3)
生地 尾張国
別称 日吉、木下藤吉郎、羽柴秀吉、羽柴筑前守
略伝
弥右衛門の子。
はじめ松下嘉兵衛に仕えたが後に出奔。その後、織田信長に仕え、その草履取りや薪奉行を務めながら、石垣修築などで成果をあげて次第に頭角を表したという。
1566(永禄9)年ごろには信長の美濃攻略に当たって墨俣にいわゆる一夜城を築造(後世の創作とも)するなどし、信長の美濃征服に大きく貢献。その後も各地を転戦して戦功を挙げ、1573(天正元)年の浅井家滅亡後に浅井家の本拠近江小谷城を与えられた(ほどなくして琵琶湖岸の今浜[やがて長浜と改称]に築城してそこに移転)。
その後、信長より中国地方攻略の命を受け、播磨姫路城を拠点として播磨・但馬を平定。山陽と山陰で毛利輝元と直接対峙することとなり、山陰では1581(天正9)年に鳥取城を落城させ、山陽では1582(天正10)年5月に備中高松城を包囲し、空前絶後の水攻めを実行するなど輝元への圧力を強める。しかし、同年6月2日の京都本能寺での信長の横死を知り、急きょ輝元と和睦して東上。同月13日には信長を討った明智光秀を摂津山崎に破り、その後、織田家重臣が一堂に会して信長後継を論じた清洲会議で信長の嫡孫三法師の擁立に成功し、信長後継の地位を確実なものとする。翌1583(天正11)年には、対立を深めていた柴田勝家とその後ろ盾を受けていた信長の三男信孝を滅ぼし、滝川一益も降伏させて織田家臣団をほぼ手中に収めた。
1584(天正12)年には信長の次男信雄が徳川家康と結んで挙兵し、これと対戦するも信雄と和睦(小牧長久手の戦い)。翌年には紀伊・四国を平定し、この年、完成した大坂城に移り、関白・太政大臣に就任する。翌1586(天正14)年には家康を臣従させることに成功し、1587(天正15)年には九州に侵攻して島津義久らを降伏させ、東海より西を平定。1590(天正18)年には関東へ出兵し、7月5日に北条氏政・氏直父子の拠る相模小田原城を開城させて関東を平定し、その後、小田原に参陣した奥羽の諸将の領土仕置を定めてここに天下統一を成し遂げ、応仁の乱以来120年以上も続いた戦国時代に終止符を打った。
翌1591(天正19)年、関白職を甥の秀次に譲って太閤を称する。その後、明国の征服を画策し、2度の朝鮮出兵を試みるがいずれも失敗。その間、秀次を自害に追い込むなどして側室茶々との間に生まれた秀頼の後継を確立させようとした。
晩年は病床に伏すことが多くなり、五大老五奉行制を確立してこれに政務を分担させ、1598(慶長3)年8月、朝鮮の戦況や秀頼の行く末を案じつつ、伏見城に没した。
配役
豊臣秀頼
生没 1593(文禄2)-1615(元和元)
生地 山城国
別称 拾
略伝
豊臣秀吉の三男。
1595(文禄4)年、秀吉が、その養子としていた豊臣秀次を自害に追い込んだ後、正式に秀吉の世継となる。
1598(慶長3)年の秀吉の死により6歳で天下人の地位を継承。しかし、1600(慶長5)年9月の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が天下の大勢を掌握したため、摂津など65万石の大坂城主という一大名となり、1603(慶長8)年に家康が江戸に幕府を開くに至ってその没落は決定的となった。
内大臣、右大臣と位階累進する中、家康の孫娘千を正室に迎えるなど幕府方との関係強化も試みた一方で、母茶々の強い影響力の下、幕府による再三の江戸参勤命令を拒否。次第に幕府との対立が深まるが、1611(慶長16)年、家康と京都二条城で会見し、関係は好転するかにみえた。
しかし、1614(慶長19)年、京都方広寺の鐘銘をめぐって幕府方との間に軋轢を生じ、同年冬には大坂城を幕府に囲まれ、幕府方の激しい攻撃にさらされる。いったんは和睦するものの、城内の主導権をとることができぬまま浪人放逐など和睦条件を果たせず、翌年4月に再び幕府の攻撃を受け、5月8日、大坂城の落城とともに自害した。これにより豊臣家は滅亡した。
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