若い人たちはしらないかもしれない。昭和の長いあいだ、馬券の券種には単勝、複勝、枠連しかなかった。もしも、ものすごく面白そうな大穴の馬を見つけたとしても、同じ枠に人気の馬が入っていたら、単勝と複勝に賭けるしかなかったのだ。
ようやく、中央競馬に馬連が導入されたのが1991年のことだ。これにより、いっそう大穴の馬を買うという行為が実行できるようになった。その後、ワイド、馬単、三連複、三連単と券種は拡大され、自分の予想をストレートに馬券に反映させることができるようになっていった。
政治はどうか?
なんと、いまだに単勝式しかない。一人の候補にしか投票できない。これでいいのかと言いたい。二人の候補で迷うに迷って、仕方ないから名前を書きやすい方にする、とかいう状況である。本当に自分の気持ちが五分五分であるならば、投票行為にも五分五分が反映されたほうが、より正確に民意というものを汲み取れるのではないか。
(今回の選挙でも比例区で立憲民主党と国民民主党が同じ「民主党」の略称を用いている。そのていどのことも調整できないのはおろかな話だ。しかし、この世の中に立憲民主党と国民民主党をまったくの五分五分で支持している人にとっては「民主党」とあえて書く意義はあるだろう。按分されるので本当に五分五分といえるのかどうかはしらないが、当人にとっては五分五分だろう)
そういう意味で、選挙の投票にも馬連を導入してもいいのではないか。三つの候補者が競り合っている。どうしても一人だけ投票したくないやつがいる。だが、情勢調査的にも、残りの二人のどちらに入れたら、そのどうしても落としたいやつを落とせるかわからない。
そんなときに、馬連があればいい。候補者名を二人書けばいい。0.5票ずつ入る。悪くない。
だったら、ワイドも導入していいのではないか。三人名前を書ける。どうしても落としたいやつに対する抗議になるかもしれない。0.3票だ。残りの0.1票は天使の分け前だ。
単勝式一本よりも、ワイドも三連単もある。そのほうが自分の意見がより正確に反映される。なんなら、10,000ポイントの持ち分を配分して投票する方式でもいいだろう。
いずれにせよ、人間の考えや感情は自分の中で一本化できるとは限らない。それが人間だ。6:4で迷いがあるなら、6:4のままに意思表示できたほうがより自然だ。選挙制度のために人間がいるのではなく、人間のために選挙制度がある。
(10,000ポイント配分となると、今の「紙の投票用紙に鉛筆で手書き」を変える必要が出てくるが、鉛筆手書きが民主主義の根幹であるはずもない。技術の進歩に応じて投票の形もアップグレードしてよいはずである。究極的には全ての議案に対する国民投票、直接民主制になるのかもしれない)
……だったら、マイナス票というものがあった方が簡単だという話もあるだろう。文字通り、その候補の票を一票減らせる。マイナス一万票とかになったら、追放するのもいいだろう。オストラキスモス。
……などと、選挙のときはへんなことを考えてしまう。
ただ、現状の選挙制度が改良の余地がないほど完全なものなのかどうか疑ってみるのはいいと思う。むろん、ここに書かれたように、だいたいはろくでもなくしょうもない話になるに決まっている。しかし、ろくでもなくしょうもない話でも、政治の枠組み自体に対して、より広い、外側の想像力を持つことは、決して悪いことではない。そういうことを考えるなかで、なにかよくない方向に選挙を変えようとしているやつを見つけることができるかもしれない。
そんな話だ。
もちろん、くじ引きだって考えるのは自由だ。
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