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討論の自由が守られる重要性

昨年の8月、アメリカをはじめとして様々な国で問題になっている「キャンセル・カルチャー」という現象について取り上げた記事を本サイトに寄稿した。その記事では、とくに大学やアカデミアで起こっているキャンセル・カルチャーの問題を指摘しながら、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの文章を引用した。

ミルが1859年に著した古典『自由論』の第二章「思想と討論の自由」では、個々人の思想の自由が認められて活発な議論が行われることの価値が説かれている。しかし現代はミルが求める状況とは異なっているように見える。

J・S・ミルの肖像〔PHOTO〕WikimediaCommons
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SNSやブログが普及したことによって専門家や知識人だけでなく一般の人も意見を発表しやすくなった一方で、自分たちのイデオロギーとは異なる意見を集団的に否定して封殺しようとする動きが目立つようにもなっている。さらに、昨今のアカデミアの一部には、議論の場が「不均衡」であることを強調したり、意見に含まれる「暴力性」を危惧したりすることで、結果的に思想や討論の自由を制限することを肯定する風潮が存在しているのだ。

このような状況であるからこそ、改めてミルの『自由論』を参照しながら、思想と討論の自由はなぜ重要であるかということを再確認することが必要だと筆者は考える。この記事では、まず「思想の自由市場」論の概要を解説したのちに、それに対する現代的な反対意見を紹介しよう。

そのうえで、ネットが普及したことにより大学の外でも議論が活発に行われるようになっている現代でこそ、思想の討論の自由が守られることが重要である理由を論じよう。さしあたり以下では、「アカデミアの内部」という場においてそうした自由が守られることの重要性を考える。

多数派が正しいとは限らない

「思想の自由市場」論の考え方を簡単にまとめると、以下のようになる:ある物事についての事実とはなにかを知ったり、なんらかの論点についての妥当な解答とはどういうものであるかを理解したりするためには、どんな意見でも発表できて、異なる意見を持つ者同士が議論できる場所が不可欠である。

わたしたちが真理にたどり着くためには、対立する意見をぶつかり合わせることで、より真理に近い意見はどちらかということを判断する必要がある。したがって、どんな意見を持つ人であっても、議論の場から排除することはできない。そうすればするほど、わたしたちは真理から遠ざかってしまうためである。

ある人が持つ意見や少数派の意見を多数派が「間違っているはずだ」と判断して、議論の俎上に載せもせずに排除することには、様々な危険が含まれる。そもそも、多数派の判断のほうが誤りであって、少数派の意見のほうが真理であるかもしれない。とすれば、少数派の意見を排除してしまうと、わたしたちは永遠に真理にたどり着くことはできなくなってしまう。

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また、実際の議論においては、「片方の意見は完全に正解であり、もう片方の意見は完全に間違っている」という状況のほうが珍しい。多数派の意見はおおむね正しいが一部の誤りを含んでおり、少数派の意見は基本的には間違っているが一部の真実を含んでいる、という状況も多々あるのだ。このような場合には、意見をぶつかり合わせることで、多数派の意見のどこがどう間違っていて、どのように修正すればいいかが明確になる。

逆に言えば、一見すると完全に間違っているような意見であっても、それを取り上げることが認められない状況では、一見すると正しいように思える意見に含まれる一部の誤りにわたしたちは気付くことができないままになってしまうのである。

「正しさ」を理解し、信頼するために

そして、現時点で世間に受け入れられている意見が誤りを含まない真理であったとしても、議論が存在しない場では、わたしたちはその真理が「なぜ正しいのか」を示す根拠を知ることができない。

ある意見の「正しさ」を知るための最善の手段とは、反論をぶつけて、反論に対して矛盾なく解答されるかどうかを判断することである。議論を経ることなく、「この意見は正しい」と言い張られているだけでは、わたしたちはその意見の正しさを理解することも信頼することもできない。

「正しいと言われているのだから正しいのだ」と無批判に受け入れてしまうか、「正しいと言われているが、ほんとうに正しいのか?」という不安を抱いたままになってしまうことになるだろう。

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上述した理由から、思想や言論の自由は保証されるべきである、とミルは主張する。

「思想の自由市場」論は、現代のアカデミアやメディアでは前提ともなっている。多くの人は学校の授業などで「思想や言論の自由は大切である」と聞かされるはずだし、それに対して反発することもないだろう。自由は良いものであり、守られるにこしたことはない、と大半の人は考えているはずだ。

だが、「思想の自由市場」は無条件に存在できるわけではない。言論の自由とはこれまでの歴史を通じて厳しい圧力を受け続けてきたのであり、人々が積極的に守ろうとしなければ、たやすく失われかねないものだ。

日本で起こった学術会議任命拒否問題、アメリカで前大統領のトランプ政権が温暖化対策に関する研究費を打ち切ったこと(それに抗議した科学者は「マーチ・フォー・サイエンス」デモを起こした)、そして中国では共産党政権により言論の自由が慢性的に抑圧されていることなど、近年でも数多くの国で問題が発生している。

意見の「暴力性」が懸念されているが…

国家権力という「上」からの圧力によって自由が制限される事態は注目を集めやすい。しかし、昨今では、大衆によるキャンセル・カルチャーという「下」からの圧力が加えられることもある。

学問の世界で起こっている状況は、とりわけ特殊である。この世界では「上」でも「下」でもなく「横」からの圧力によって言論の自由が制限されることがある。つまり、大学教師や大学院生などのアカデミシャンたちが徒党を組んで、同じ立場にいるほかのアカデミシャンの意見を封じようとしたり、異なる意見を言っている人を学問の場から排除しようとしたりする動きが生じることがあるのだ。

実は、ミルが唱えたような「思想の自由市場」論は、とくに海外の人文系や社会学系の学者のあいだで否定されることも多い。彼らは、議論の場における「不均衡」と、意見に含まれる「暴力性」を強調する。そのような問題意識に基づくと、思想の自由市場論とは現実の事情を無視した理想論であるとしか見なされないのである。

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思想の自由市場は、誰もが対等な立場で議論に参加できて、自分の言いたいことを他の人に邪魔されることなく主張できて、主張への賛否に関わらず敬意をもって接せられる、という状況を前提にしている。議論を行う人の属性は注目されず、あくまで主張の内容だけが取り上げられる、フラットな世界を想定していると言えるだろう。

しかし、現実における議論の場は必ずしもフラットではない、ということはよく指摘される。女性や性的マイノリティ、人種的マイノリティの人々の主張は、マジョリティの主張に比べて軽んじられることが多い。また、たとえば周りの人がみんな男性という状況では、女性は自分が言いたいことを毅然と主張することが難しい場合があるだろう。

さらに、マイノリティの人が多数派とは異なる意見を言って目立ったときには、マジョリティからの揶揄や誹謗の対象となりやすい。このように、議論の場には属性による不均衡が存在しており、マジョリティとマイノリティの立場は非対称である、ということが問題視されているのだ。

こんな批判が行われてきた

そして、意見の内容そのものに「暴力性」が含まれており、マイノリティに対する加害につながる可能性も危惧されるようになった。

有名な事例では、人種間に生来的な知能の差がある可能性を指摘したチャールズ・マレーとリチャード・バーンスタイン、科学や理工系分野の研究者に女性が少ない理由の一因は男女の生来的な興味と関心の差である可能性を示唆したローレンス・サマーズ、性暴力の原因は社会的なものと限らず生物学的な要素もあると論じたクレイグ・パーマーとランディ・ソーンヒルなどの学者たちが、厳しい批判を受けた。

最近の事例では、トランスジェンダーについて性科学の研究に基づく議論を行ったデボラ・ソーが批判された。また、生命倫理学者のなかには障害を持つ胎児や新生児の殺害は許容されると主張する人たちがいるが、そのような主張をすること自体が現に障害を持って生まれて成長してきた人たちに対する暴力であると見なされて、問題視され続けている。

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「思想の自由市場」論に基づけば、暴力性が含まれる意見も議論の場に持ち出し、批判や反論の対象として、そのような意見が間違っていることを示すべきだ、ということになるかもしれない。しかし、「自分の能力が劣っていると言われている」「自分の存在が否定されている」と思われかねない意見に対して、マイノリティ本人が冷静に反論を行うことは精神的負担が大きいだろう。そのような意見を言われる可能性のないマジョリティに比べると、ここでも、マイノリティは議論の場において不利な立場にいるのだ。

「議論の場が不均衡である」という認識から、その場に参加するマイノリティの数を意図的に増やすアファーマティブ・アクションなど、議論の場の外側から対応することで場をフラットにしようとする対応が行われるようになった。そして、「意見のなかにはマイノリティに対する暴力性が含まれるものがある」という認識は、そのような意見を議論の場で取り上げないことや、暴力性を含む意見を持つ人を議論の場から排除するという対応を正当化したのである。

このような事情が、昨年の夏にスティーブン・ピンカーが対象になったものをはじめとして、欧米のアカデミアで実践されるキャンセル・カルチャーの背景にある

ネット時代だからこそ重要

それでは、議論の場の不均衡さと意見に含まれる暴力性が認識されるようになった現代では、ミルが唱えたような「思想の自由市場」論はもはや時代遅れであるのだろうか?

そうではない。むしろ、現代では「思想の自由市場」の必要性が過去よりもさらに増している、と筆者は考える。

ブログやSNSが発達した現代では、過去にはアカデミアのなかでのみ行われていたような議論が、大学や学界の「外」にあるネット空間でも行われるようになっている。したがって、暴力性を含むという理由である意見を排除しても、ネット空間が受け皿となって、その意見を主張する人はほぼ必ず残り続ける。つまり、どんな意見であっても、もはや根絶することはできなくなっているのである。

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排除された意見は、ある程度以上の正しさを含む場合もあれば、ほとんど間違っている場合もあるだろう。だが、どちらにせよ、「意見を排除する」という行為が及ぼす影響は深刻だ。

前者の場合(意見がある程度の正しさを含む場合)には、排除された意見の一部の正しさがアマチュアの言論人によって説得的に示されることで、アカデミアに対する信頼性が失われる。アカデミシャンとは正しさを含む意見であっても排除してしまうような人たちである見なされれば、ほかの論点においても、彼らの主張を信頼する根拠がなくなってしまうからだ。

そして、間違った意見であっても、それがキャンセル・カルチャーによって排除されることは、その意見に逆説的に説得力を与えてしまう。議論の俎上に載せられて公平に取り上げられたうえで間違いや欠点を示されたのではなく、そもそも議論の対象にもならずに排除されたとすれば、わたしたちはその意見のどこがどのように間違っているかを理解できず、その意見が間違っているということについての確信も抱けない。そして、「この意見は学者たちにとっての“不都合な真実”だから排除されたのであり、実際には正しいのだ」と主張する人が、ネット空間からあらわれることになるだろう。

さらに、アカデミアにおけるキャンセル・カルチャーは、問題があるとされる意見を言っている人をSNSで集団的に攻撃したうえで、その人のアカデミアにおける地位を問題視するオープン・レターが学者たちの連名で提出される、という流れをたどることが多い。

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このような様子は、アカデミアの外部からは、個人の意見を集団が数の力によって封殺しているようにしか見えないことがある。そのため、批判されている個人に同情が集まって、彼の意見の説得力がむしろ増してしまう可能性もあるのだ。

結局のところ、問題があるとされる意見であっても、その意見を主張する場を封じたり意見を言う人を排除したりすることは、意図せぬ結果を招いてしまうのである。だからこそ、「思想の自由市場」の理念を捨ててはならないのだ。マジョリティやマイノリティかに関わらず、どんな意見を持つ人であっても公平に接せられて、問題がある意見は正面から論駁される環境を保つ努力をすることが、アカデミアの内にとっても外にとっても最善であるだろう。

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