僕もずっと、具体的には50歳くらいまで、「せっかく買ったゲームをイージーモードで遊ぶのは、そのゲームを十分堪能したことにならない」と思っていた。
20歳前くらいまでは、アクションゲームの「コンティニュー機能」も邪道だ、とみなして、『魔界村』のステージ2くらいで延々とやられ続けてきた。
『ゲームセンターCX』で有野課長のプレイをみて、ようやく、「これは、コンティニューしたり裏技を使ったりしないと、一般的なゲーマーにはクリアできないようになっているのだ」と理解したのだ。
とはいえ、『イージーモード』はないよな、という意識はあって、KOEIなどのシミュレーションゲームでは敵は圧倒的に有利な状況でもこちらにちょっかいを出してこないし、RPGならプレイヤーはほとんどやられることがない、なんていうのは、ゲームとしての「やりがい」をどぶに捨てているようなものだ、とみなしていた。
しかしながら、最近プレイした『Clair Obscur: Expedition 33』と『メタファー:リファンタジオ』は、結局、イージーモードでクリアすることになった。
前者は序盤の戦闘があまりにも難しく(僕が「パリィ」という言葉を検索しなければならないほど最近のゲームに疎くなっていたのも原因ではあるのだけれど)、Xboxのゲームパスでプレイしていたこともあって、けっこうあっさりと「イージーモード」にしてしまった。
あらためて考えてみると、このゲームは独特の退廃的で甘美な雰囲気を持っている傑作なのだが、ノーマルモードにこだわっていたらたぶん僕には難しすぎてクリアできなかった、というか、前半で挫折していただろう。
『メタファー:リファンタジオ』は、終盤になって、このままではどうやっても期限内に「トゥルーエンド」に辿り着けないと判断して、イージーモードに変更してレベルアップしまくり、なんとか真エンドに到達した(ちなみに攻略サイトを見ました)。
たぶん、ノーマルエンドなら、そのまま続けていても見ることができたと思うのだが、「ものすごく面白いゲームだけれど、これをもう一度やるのはきつい、もう一度で真エンドまでいってしまいたい、と思ったのだ。
最近、僕は残りの人生で、何ができるだろうか、と考えてしまうことが多い。
50年以上、何もできていないのだから、今さら何かができるはずもないだろう、というのと、まだ時間がないわけではない、というのと。
本を何冊読めるだろうか、ゲームをいくつクリアできるだろうか、子供たちと何回遊びに行けるだろうか。
10代の頃は、いまほどゲームが安くもなく、簡単に買うこともできなかったので、「1本のゲームで長く遊ぶ」ことが大事だった。コンティニューしないのは、それをやったら、すぐクリアして、そのゲームが「終わり」になってしまうのではないか、と危惧していたのだ。
実際は、コンティニューしたって、そう簡単にクリアできるようなものじゃなかったんだけど。
今は「死ぬまで、ゲームができなくなるまでに、1つでも多く、面白いゲームを遊びたい、クリアしたい、だから、あまりひとつひとつに時間をかけたくない」と考えてしまう。
イージーモードでクリアするというのは、本来のゲームバランスを楽しむのとは異なる体験なのかもしれないけれど、僕は基本的に、どんなに好きなもの、気に入ったものでも、同じコンテンツの2回目より、新しいものを観てみたいのだ。
これは昔からそうで、「これはいい」と思った作品ほど、2回目は怖くて触れなくなることが多い。
そういえば、人間関係でも、「この人との関係は大事にしたい」と思うほど、失望したりさせたりするのではないかと不安になって、かえって疎遠になることが少なからずあった。
年を重ねてきて、試行錯誤して問題を解決する、ということが面倒になってきた。
新しい体験よりも、「お決まりのハッピーエンド」のほうが心地よくもなっている。
子どもの頃、なぜ父親は毎回同じような話の『水戸黄門』を毎週飽きずに観ているのか疑問だったのだが、今はその気持ちも少し理解できる。あれは「同じような話」だから視ていて疲れないし、「定点」を確認して安心するための儀式みたいなものだったのだろう。
「変わらない」ことに苛立つのは若さの特権で、「変わらない」ことに安心してしまうのは年寄りの特性だ。
今の自分は、ゲームにしても、ブログにしても、「残りの時間で自分にできること」ばかり考えてしまって、「終活」みたいな感じになってしまっている。
実際に「終わり」が近づいてきているし、ゲームくらい、イージーモードで「クリアした喜び」を味わっても良いのではないか、と自分には言い聞かせている。
しかし、人間というのはめんどくさい生き物であって、「お金があれば人生イージーモード」のように考える人もいるかもしれないが、「お金に困ったことがないのがコンプレックス」「ずっと親にサポートしてもらって、自分の力で生きていない」なんて悩み始めて学生運動をはじめてしまったり、オウム真理教に入信してしまったりする。
親は親で、「社会を知るために、閉鎖的な私立のエリート校に行かせるよりも、いろんな子どもがいる公立の学校に行かせるべきだ」という「理念」はあっても、いざ自分の子どものこととなると、「やっぱり、周りの子どもも勉強するのが正しいと思っている環境のほうがこれからの人生でプラスになるんじゃないか」と日和って(あるいは、節を曲げて)しまう。
偉い人の子どもが「徴兵逃れ」をしたという話に僕は若い頃は憤っていたのだが、子どもが死ぬ確率が下がる方法があるのなら、公共の正義よりも身内の生存を求めるのもまた人間の性質なのだ。
もっといろんなことを、イージーモードに設定できることはして、やっておけばよかったな、とも思う。
イージーモードでもノーマルでもハードでも、結局のところ、それでクリアして満足できるかどうかは、自分自身の感覚・感情の問題なのだ。
イージーモードでいいや、と割り切れていたら、僕の人生はもっと気楽で生きやすかったかもしれない。
いやまあ、「お金に困らない」というモードを保つだけでも、大人にとっては大変なことではあるんだけれども。
「幸せになりたい」と言いつつも、「幸せ」を自分なりに定義できていない人間が、「幸せ」になれるはずがない。
YouTubeなどのゲームプレイ動画視聴勢も「観る将(棋)」も、すでに「体験」になってきている。
僕にとっては、『サイレントヒルf』を自分でプレイするよりも、加藤小夏さんがプレイしている動画を観るほうがずっと面白い。もはや、ゲームは「他人のプレイの視聴」も「体験すること」に含まれている。
それは、ゲームをつくっている企業にとっては、拡散の機会になったり、買って遊んでくれるプレイヤーの減少につながったりしていて、産業としては難しいところではあるけれど。
SNSとかYouTubeを観ていると、もはや「人生」だって、自分自身がプレイヤーになるよりも「視聴者」であるほうがいい、と意識的、あるいは無意識に感じている人が増えているような気もする。
死ぬまでに、あといくつ面白いゲームで遊べるだろうか、とか言いつつも、これから、人間は、テレビゲームはどうなっていくんだろうな、みんながよりいっそう「観客化」していくのだろうか、と「この先」を知りたくもあるのだ。
未練だな、と思う。こうして書いているのも、未練だよな。
もはや、AIが書いていたとしても、ほとんどの人は判別できないのに。
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