Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


馬鹿琴の旅立ち

独り言を綴っています。主にお城や史跡がメイン。時にはお相手して下さい。

3か月でマスターする……

6か月ほど前、テレビをつけると時々、3か月でマスターするアインシュタインという番組をやっているのを見ました。

 

私は文系で、まったく理数系は苦手だった訳ですが、ところどころ楽しく番組を拝見しておりました。

それでもあの相対性理論をマスターできる訳もなく、結局のところE=mc²しか覚えていません(笑)

まったく実生活に使えないという有様です。

しかしあの番組を見る限り、まだまだNHKさんも捨てたもんではないと思いました。

 

その後、3か月でマスターするシリーズは何をやるんかいな、と思っていましたら、9月から始まったのが、3か月でマスターする古代文明という番組。

これがまた面白いのです。

私たちが知っていた四大文明だけではなく、様々な文明があったんですねえ。

 

トルコのギョベックリ・テペ、メソポタミア、ヒッタイト、エジプト、インダス、黄河長江、シルクロードの諸文明、ギリシャ、オセアニア、マヤ、ナスカと取り上げていて、これもまた面白いのです。

 

ギザの3大ピラミッド。

マヤパン遺跡。

 

次が最終回なんですから、少し残念です。

 

良かったら見て下さいね。

でわ。

 

周山城に登ってきました

2025年12月13日周山城に登ってきました。

こんなトコにあります。

もうね、山ん中なんです。とても京都市内とは思えません。

アクセス方法もそれなりに大変です。

私は阪急京都線で四条大宮駅に出て、ここからバスに乗りました。

京都市内バスではなく、JRバス京北線で約1時間弱、バス停数は衝撃の50!!

島原の原城も逃げ出すほど(笑)

バス運賃は1,080円でした~

まずは道の駅ウッディー京北さんで用意を整えますよ。

このウッディー京北がベースキャンプになるのです。近いでしょ?

お城はこんな感じだそうです。

いつか行ってみたかったのです。とうとう今日適うのですよ、楽しみです。

左の図は想像図ですが、本当にこんな規模だったんでしょうか。

ならば凄いなあ。

登山口までの行き方が書いてありましたよ。

しかし11時半ですので、まずは昼ごしらえ。

京北うどんと炊込みご飯で740円、嬉しいお値段です。

昨日ほど寒くはありません、身体も温まったので出発です。

お寺のそばを通ります。くろみつ慈眼寺さん。

創建の年は不明、江戸時代に再建されたそうなんです。

お昼時でしたがチャイムでお呼びして、御城印をいただいちゃいました。

慈眼寺さん、ありがとうございます。

黒塗り明智光秀像もあるということなんですが、何故か見逃してしまいました。無念なり。

少しだけ見ることができます。

では周山城に向かいます。

慈眼寺から歩いて程なく、表示もバッチリです。

周山城の説明。

1579年天正7年丹波を平定した明智光秀が、京都と若狭間の交通の確保を目指して、築城したんだそうです。

1580年には完成したのですが、その後は本能寺の変により、状況は一変、明智光秀も戦に負けて死亡、秀吉の治世になってからは使用されなかった訳です。

ここから登城です。熊に注意です。

石垣っぽいのを横目で見ながら進みます。

序盤はこんな感じ。

本番はここから、1.2キロ、50分ですって。

杉の木、杉の木。花粉はまだなのです(´・ω・`)

倒木!!

いえ倒れていません、曲がっているだけなのです(笑)

しかし行く手を塞ぐ憎い木。

あと800メートル。

前に雪が降った様でして、一部だけ残っていました。

後500メートル。

視界が開けましたが、ご覧の通り京都市内ではあるものの、山の中。

木曽路ならぬ都路の北は山の中、といったところです。

右が険しい登り道、左は緩やかな道、でした。

早くも、登山口から25分で石垣が見えてきました!!

す、凄いです。

しかしまだ序の口。ここはまだ兵糧庫の曲輪でしかないのです。

土嚢で補強しています。

ね、ここは兵糧庫。

登山口に一番近い石垣なのでした。

後300メートルです、見上げるとまだあるなあ(笑)

林を抜けましたが、結構道が細くなり、傾斜がキツいです。

おまけに落葉で道が見えない(´・ω・`)

勘で落葉を踏み踏み歩きます、どうか落ちませんように。

また石垣です!!

城門っぽい感じです。

一番大きな石!!

これは鏡石……?

本丸への大手門なのかもしれません。

登って右を見ると曲輪っぽい、しかし何もなし。

左を見ると、まだまだ本丸への道が続いている様ですよ。

二ノ丸なんです。

その左手に点々と落ちている石垣は……

なるほど、これが登り石垣!?

彦根城、松山城、洲本城にもあったあれです。

しかし悲しいことに、私はまだ登り石垣の何たるかを分かっていない(笑)

ここを登ると……

頂上に着きました、明智光秀築城1579年周山城址!!

ようやく到着です。

登山口から約40分で到着しました。

本丸内の小高い丘に登って辺りを見下ろします。

土塁だったのかもしれません。

木の根元の辺り、四角い穴があります。落葉で隠されてますけれど。

説明書によると、井戸ではなく、降水を溜めた貯水池なんだそうですよ。

私を誘惑する、まるでセイレーンの様な(笑)表示板。

大規模石垣群、見に行ったろうじゃありませんか(*´▽`*)

うわっ、本丸の先を下るのかあ(´・ω・`)

降りて振り返ると、本丸がやけに遠く見えて、心細くなってしまいます。

壮大な石垣①、ということは②以降もあるってことですね。

少しワクワク。

細い道に気をつけて歩きましょう。

苔生した先に石垣があります!

あ、凄い凄い。

よくもこんなところに石垣を設置しましたね。

一部は破却されてしまっています。

本丸を守っているのです。

どこまでも続いている感じです。

さすが壮大な石垣(笑)

これ以上後ろには下がれません、私が斜面を落ちてしまうので( ;∀;)

ここまでしか進めませんね、引き返しましょう。

戻って②以降を探していると、今度は井戸跡を発見、見に行きましょう。

で、でも……

崖下しかないんかーい!!

井戸はどこですか?

ありましたありました。

え、この斜面また下り?( ;∀;)

手すりに掴まって、苦心して苦労して行きますと。

これが井戸です。

キッチリ中まで見ることが出来ました。

さてまた登らなきゃ、よいしょよいしょ。

小性曲輪?

小姓ではなく?

次は壮大な石垣②、探しに行きましょう。

また倒木が私を邪魔します(笑)

身体を屈めて行きますね。

ここを右?

発見しました!!石垣群②です。

大規模な石垣ですわね~

龍が登って行く様な勢いの石垣です、昇竜拳!!

私が乗っているところだって、石垣の上なんですよ。

また西の城、土の城というのがあるんだそうですが……ここまでにしときましょうか。

13時30分、そろそろ戻りましょうかね。

下る途中に、ちょっとだけ外の景色が見えましたよ。

13時54分、無事に下山できました。下りは30分弱!?

気をつけてお帰りください、と言われております。

いつものヤマレコデータが取れてません、このお城こそ欲しかったのに。

悔しぃ―、ちっくしょー( ;∀;)

 

さて、バスの時間は……JRバス京北線が14時7分、いけない、急がないと!!

ウッディー京北から見た周山。

あそこに登って降りてきたのです。周山城、制覇できました。

それではJR京都駅に向かって帰還します、でわ。

 

亀居城に登ってきました

2025年12月12日亀居城に登ってきました。

場所はこんなトコ。

ちょっと調べていたら、比較的【気軽に?】行ける城と知って、急遽登城することにしました。

……とその前に。

お城カード続100名城を拾い集める(失礼)ために、途中幾つか販売所に寄っていくことにしました。

 

滝沢馬鹿琴、西へ。

 

福山駅に降りて、山陽本線に乗って本郷駅へ。

前にもこちらの駅で降りて、お目当てのお城に登城しました。

その新高山城攻略戦はこちら。

続100名城173番新高山城。

続日本100名城スタンプをいただいたのは、本郷生涯学習センターでしたので、行ってみると……

「お城カードはありません、続日本100名城スタンプならありますが」

とのことでした。

調べてもらいますと、私が場所を間違えていました(笑)

本郷町観光協会さんなんですって!!しまった~

慌てて引き返して、本郷駅近くの観光協会さんへお邪魔、無事にお城カードを獲得できました!

あっ、飛行機が映ってる!!

観光協会さんは、平日午前中まで、という条件があり、お城カードを得るのもなかなか厳しい条件があるのですよ(笑)

午後は事務所が閉まってしまいます。

そして新高山城に登りましたかと聞かれましたので。以前登りましたが、今日は予定があって登れません、と答えました。

そしてアンケートにお答えすると……

お手製の新高山城のお城カードをいただいちゃいました!!

そういえば、岡崎城でもお手製のお城カードがありましたねえ。どこかにあるはずなんですか。

新高山城の反対側に高山城があります、旧高山城ですね。こちらを登る様観光協会さんからお薦めされました。

いつか登れたら良いですねえ。

 

電車に乗って、そんなことを考えながら、ウトウト……ZZZ……

はっ、今どこ?

まだ広島ですね、安心安心、ウトウト……ZZZ……

あっ、どこだ、宮島口、そろそろ起きないと。

JR玖波駅、13時9分。

玖波駅全景です。

それにしても、今日は風が吹いてて寒いですねえ、お腹が空いたなあ、どこかでお昼ご飯を……

駅前に適当なお店が見当たらず、もうお城に向かって歩くことにしました。

寒いよぉ、お腹が空きましたよぉ~

 

あ、夢タウンを発見、夢タウンは、中国地方で良く見掛ける大型スーパーと専門店複合施設です!!

君に決めた、夢タウン!

ということで、夢タウンさんで暖かいお食事お蕎麦と親子丼をいただき、エネルギー回復です。

では、改めて亀居城に向かいましょう。

JR山陽線のトンネル、どうもその上が亀居城っぽいのです。

その横の脇道から登れそうです。

亀居城址の石碑ですよ。

ん、この横の石垣は……城址公園整備の時の補修でしょうね。

高速道路もお隣を走っています。

これも公園整備時の時のものかな。

石本美由紀さんという作詞者の方の歌碑もある様ですが、あくまでお城がメイン(笑)

本丸のある西に向かって歩きましょう。

で、その亀居城の説明書きです。

関ケ原で芸備50万石の大大名になった福島正則は、広島城の西の押さえとして亀居城を作ったのです。

隣りにはまだ吉川家の岩国、そして萩には毛利家がいましたからね。

ただし毛利家と福島家って、そんなに仲が悪い様には見えませんが……幕命で仕方なく作ったとか。

 

それにしても、亀居城を作って対抗していた(?)福島家は家康死後に結局転封されて、福島正則は信濃に4万5千石になり、死後はお取り潰しとなります。

亀居城も破却となりました(´・ω・`)

毛利輝元などは萩の地からこれを見て、どう思っていたのでしょうか。

 

12月15日追記。

福島正則は1624年寛永元年7月13日に信濃で64才で亡くなり、毛利輝元は1625年寛永2年4月27日に萩で73才で亡くなっています。

ほぼ同時期に亡くなっているのでした。

毛利輝元は、関ケ原敗戦後、防長2カ国に移る訳ですが、すでに年貢を得ているために、毛利の旧領地に入る大名が年貢の返還を求めたそうですよ。

特に福島正則は、あの性格もあってか、年貢の返還を強く求めたそうなんです。

関ケ原敗戦の時に強く赦免を幕府に対して求めた、というのが福島正則の言い分。この正則は少しいやらしい(笑)

毛利輝元は福島正則の使者に対して、期限の延長を懇願しています。

 

従って、福島正則の改易(1619年元和5年)については、含む思いがあるのではないかと勝手に想像する訳です(笑)

ただし福島正則の改易された信濃の高井野藩取潰しを、毛利輝元が知っていたかどうかは分かりませんでした。すいません( ;∀;)

有の丸という曲輪。やっぱり紅葉の絨毯ができています。

穴のある大きな石です。ごろんと転がっていました。

なしの丸。有の丸に対抗してますね(笑)

語源は分かりませんねえ。

ステキな階段を登りますと……

三の丸です。しかし歌碑以外何もありません。

更に上へ。

色づいてますねえ。

ここは二の丸でした。

来ました、天守台!!

結構立派な天守台ですよ~(失礼)

瀬戸内海が見えます。

歌碑は何と憧れのハワイ航路(笑)

直してあるみたいですね、破却されたお城だから当然か。

石垣から笹百合が咲いています。可憐ですね。

天守台石垣は一周できませんでした。

それでは天守台を登ってみましょう。

あら、良い感じ。

ちゃんと枡形虎口です。右手の紅葉が良いですね。

ここ好きです(ポッ)

私が選ぶ亀居城の一番良い場所です(笑)

登れば本丸の表示。

あれ?金網かな?

わーお、天守台自身には登れません(´;ω;`)

天守台全景です。かつてはそれなりの規模だったんですね。

海を眺めると、コンビナートと周防大島……かな?

視線を左に向けると、厳島。結構高さがありますよね。

14時45分過ぎ、大体見たので降りましょう。

階段を降りて、

また降りて、

どんどこ降りて。

わーん、石垣の刻印、見逃しました(´・ω・`)

紅葉を見て、癒されながら降りていきます。

途中、厳島を更に近くで見ることができました。

河原にいたアオサギちゃん。遠くを見ています。

ヤマレコデータ。

2時間6分で6キロ、標高は88メートルでした。

お昼込みですので、時間も距離も稼いでしまいました(笑)

 

それでは広島に出て帰りましょう、でわ。

 

利神城に登ってきました

2025年12月7日、あの利神城(りかんじょう)に登ってきました。

場所はこんなトコです。

姫路の奥、佐用郡というところにあります。

もちろん初めての登城です。

実はここは立入禁止ですので、現地のガイドさん付きでないと行くことができないのです。

私は事前に申込みをしており、無事に受理された訳です。

もしガイドツアーに申込みをしたい方はこちら。

3,000円の参加費が必要です。現金用意が望ましいでしょう。

上郡駅に8時35分。早起きで辛いです。

今度は智頭急行に乗りますよ。

JRと併設しており、乗換えは非常に楽です。JR分を精算、智頭急行の目的地の平福駅までの切符を買います。

上郡から平福まで630円。

カッコ良い智頭急行のボディです^^

8時50分発ですが結構人が乗っています。みんな、利神城に行くのかしら?

30分ほどで平福駅。

お手洗いに行きたいので駅で頑張るのです。

これが平福駅です。無人でした。

利神城の位置はこんな感じになります。駅の東北にあるんですねえ。

ほら書いてあるでしょ、勝手に登れません。

石垣の保存などお城の整備も大変なのです。

 

10時に反対側にある道の駅宿場町ひらふくに集合。

9時半には道の駅に着きました。小じんまりした道の駅ですよ。

受付がありましたので参加費を支払い、お弁当をいただき、登城チェックシートを確認します。

10時前までぶらぶらして出発を待ちます。楽しみ、楽しみ。

うわ、この上に登るのですね。現物はどうかと言うと……

わーい、てっぺんにお城らしきものが見えますよ。

期待しちゃいますね、これは。

 

おっと招集が掛かりました。総勢20名弱の利神城ツアー開始です。

小学生の男の子とお父さん、カップル数組、お友達同士数組、シングル参加数名って感じでしょうか。

ガイドのはるなさん(おっちゃんです)に率いられて出発です。殿ももう一人ガイドさんがカバーしてくれていますよ。

因幡街道が町の中を南北に走っています。その昔、鳥取と姫路間を結んでいました。

夜は、星が今でもきれいで美しいそうですよ。

江戸時代の代官所跡。大分高台にありますね。

利神城由来記。

やっぱり室町時代、赤松家の一族別所家が利神城を作ります。

嘉吉の乱で一度赤松家は滅びますが、どっこい応仁の乱でやはり赤松家の一族別所家が利神城を回復します。

時は流れて1578年天正6年山中鹿之助が上月城から利神城を攻めて、あっと言う間にこの地を征服します。その後は宇喜多家の所領になるのです。

 

上月城に登った話はこちら。

関ケ原以降は池田輝政が姫路に入り、利神城は甥の池田由之に2万3000石として与えられるのです。

池田由之は5年の月を掛けて三重の天守付きのお城を作ってしまい、それを見に来た池田輝政は焦り(笑)、天守の破却を命じたそうです。

幕府の監視の眼を恐れたのですね、その割に姫路城は立派ですが(´・ω・`)

その後池田家は転封されて、平福には幕府旗本が入り、先ほどの代官屋敷からこの地を治めた訳です。

地面を見れば星の町佐用。五芒星(?)付き。

ガイドさんがこの辺りは景観保全地区ですとか説明をして下さる中、進みます。

川を渡ると絶景があるとのことです。果たして絶景とは?

これこれ。江戸時代の宿場町の跡で、お蕎麦屋さんだったり、旅籠だったりしたそうです。

夏季はライトアップするそうです。

 

約20名、お城に登る手前の広場でラジオ体操をする様に命じられます(笑)

でもこれが意外と新鮮で、鈍っていた身体がピキーンとした気がしますよ。

あれこそが秘密の登城口。常時施錠されていて、後で事件が起きます(´・ω・`)

10時40分、いよいよ登城開始です。

この辺りは結構なガレ場でした。石がごろごろ。

九十九折りで何回か曲がると、利神城の表示も出てきました。

小休止。石切り場なんですって。

石垣もあったりするのです。

わずかな平坦な地形なのに、良く積みました。

この岩、ガイドさんが説明して下さいましたが、子宝に恵まれるそうです。

私には分かりませんでしたが、男性性器が彫られているんですって。(´・ω・`)

ここは大きな堀切、ハシゴ付きです。

神社跡。今は統廃合されて、神社は違う場所にあるとの説明がありました。

後方に不吉な角度の登り道が見えています、(;゚д゚)ゴクリ…

第1の坂、木の根坂。

第2の坂、だんだら坂のやぶ椿。

ますます険しくなりロープ場です、写せていませんけど、大斜面でロープに捕まらないと厳しいです。

平坦なところで小休止、再び。11時28分です。

ガイドさんがお城が見えますよ、と言うのでそちらを見上げますと……

利神城!近い様で遠いです(´・ω・`)

苦心しながら登りますよ、また激坂です。

第3の坂、胸突き八丁男坂。後260mだというのに、苦しいです(´・ω・`)

あっ、上が見えてきましたよ、胸がときめきます(笑)

第4の坂、イロハモミジの女坂。後200m!!

ちなみに、地面はいろは紅葉の小さな赤い絨毯ですよ。足が取られてしまいそう(笑)

ガイドのはるなさんを後ろから盗撮してしまいました、はるなさん、申し訳ありませんです。

ここにも柵があり、動物も不届きな登山者も登れません。

ハシゴを登りました。すると~

三の丸です~

素晴らしい眺めですよ!!

私はうっとりと眺めてしまいました!!

向う側にも曲輪群があるのです、行くことはできませんけれど。

ここが大手口。

修復中でとても登ることはできないのです。

凄いぞ、石垣!!

手前にもいろいろ石垣があるのです。

東側登城口と虎口。

こちらも行けません。

天守です、登りましょうね。

本丸出入口。

ここも自由に行けません、ロープが張ってあり、進入は禁止なのです。

天守丸到着です。12時19分ですから、2時間20分くらいでここまで来れました。

天守丸の礎石と平福の町が見えております。

修復用の足場がありますね。水害のダメージがかなり酷かったんですねえ。

この辺降りたーい、でもNG。

ここもダメなのです、やれやれ。

見えませんが、大阪丸という曲輪があるんですよ。

 

この辺りでガイドさんが号令を掛けてきました。待ちに待ったお昼のお弁当タイムです。

折りたたみ用のイスを20脚出して下さいまして、座って食べることができます。

こちらが梅干しお弁当。紙パルプの箱です^^

 

食べ終わってまったりしていますと、車座になる様に言われます。

利神城クイズ開始!!

 

池田家は何代続いたか、利神城の高さは何メートルか、徳川家康の娘で池田輝政の妻の名前は何か、石垣の総延長の長さはどれくらいか、などなどの問題を答えます。

私も勇気を出して、池田輝政の妻の名前を当てて賞品GETです!

 

ガイドさんお手製の御城印をいただきました。

何、問題はそんなに難しくありません。受付時、事前に配布された資料の中に全部書いてあるのです(笑)

見つけた人の勝ち(´・ω・`)

楽しい時間は長くは続きません。

三の丸に降りて来ましたが14時30分の智頭鉄道に乗らないと、次は16時台になってしまいます。

他の方は車で来られている様で、鎧装着体験などするそうですので、私は先に失礼することにしました。

ガイドさんに断って下山開始、13時30分です。

 

下山がこれまた大変、同じルートを下るだけなのですが、斜度が半端ないのです。

急斜面、足を取られてズズズ、転がりそうになりながら降りていきます。

 

見れば、シングル客のお姉さんが私の前を降りていきますが、カモシカかプロのトレイルランナーかといった具合でスイスイ降りていくんですよ。

 

お姉様、早過ぎ!!

とてもかなわないので、私は自分のペースで降りていくことに切り替えました(笑)

負け惜しみです。

 

大分距離が離されて見えなくなり、私もようやく一番下まで行くと、何とお姉様が待っています。

私を待っていてくれたのかと調子に乗って、

「早いですね~」

とお誉めしますと、お姉様は恥ずかしそうに、

「お手洗いに行きたいのです」

ですって、すいません、余計なことを言いましたね。

 

実は登城口が施錠されているのでした。ガイドさんが降りてこないと外すことができません(´・ω・`)

14時過ぎ、ジリジリして待っていると、ガイドさん2が下山、しかし錠のナンバーを知らないそうです(*´▽`*)

10分ほどしてガイドのはるなさんが無事下山、解錠してもらいました。

 

お姉様は道の駅に買い物とお手洗いに行かれ、私は駅に直接向かいお手洗いを無事に使うことが出来ました┐(´∀`)┌ヤレヤレ

 

今日のヤマレコ。

たった3キロですが4時間も掛けてしまいました。

団体行動、お弁当付きですので、当然でしょうか。

鳥取方面の線路です。

こちらは上郡方面の線路。14時20分ですから後10分もあります。

 

ベンチに座って列車を待っていると、先ほどのお姉様がまたやってこられました。

そこからは、姫路までお城談議、ノンストップでお話を聞かせていただきました。

私たちはキャッキャウフフと盛り上がり、知らないことをたくさん教えていただいたのです。

 

この方、私よりも数多くのお城を制覇されていて、特に大分は豊後の国の

 

長岩城

一ツ戸城

 

などを行く様に薦められました(笑)

帰って検索してみたら……そんな簡単に行けるお城じゃありませんでした( ;∀;)

 

お姉様は爽やかな風と共に去って行かれました。

私も疲れましたので、家に帰ることにします。

 

そうそう、利神城は登山靴、手袋(下りのロープ用)など必須です。

お手洗いも上にはありませんよ。

ガイドさんの言われることに従って、安全に登りましょう。

 

でわ。

 

気比神宮と敦賀城に登ってきました

2025年12月6日気比神宮と敦賀城に登ってきました。

天筒山の麓から歩いて数分で、気比神社に到着しましたよ。

場所はこんなトコ。越前国一之宮だそうです。

コンビニで買い物をして数分、てくてく歩くと気比神宮の東門に到着。

気ではなく氣なんですね。でも気で許して下さい。

中に入ってお参りして行きましょう。

広いんです。

南側に回って、赤い鳥居から入りますよ~

通常の3倍赤いのです。

一瞬人のいない瞬間をパシャリ!

お参りをした後、御朱印をいただきました。

神社回廊に表示されていた気比神社縁起から、かつての社殿図。

昔はもっと広かったようです。

菊のご紋が大きく。

また南門から出ると、福井県の観光協会からアンケートを求められました。

福井は何回目ですか、気比神社が目的ですか、などいろいろ。

最後にご意見を、と言われましたので、敦賀・大阪間がサンダーバードを解決して欲しい、敦賀で乗換えて新幹線に乗るのを改良して欲しいと申し上げます。

アンケートのお姉さんは、それは福井県人の願いでもありますとかおっしゃってました。

 

しかし、例えば金沢から北陸新幹線が伸びて、新大阪まで延伸したとしたら……

福井に泊まらないで、通過だけしちゃう観光客が増えてしまうかもしれませんね(´・ω・`)

大鳥居から外に出ます、西の方角に向かっている感じですよ。

カラフルなマンホールは敦賀港。

今度は敦賀城へ向かいましょう、徒歩やはり数分みたいです。

敦賀城は、羽柴秀吉の天下統一中に蜂屋頼隆が築城したのですが、九州平定後に蜂屋頼隆が死亡、その後は1589年天正17年から大谷刑部吉継が改めて支配するのです。

関ケ原までおよそ10年、穏やかに統治したみたいです。

 

その敦賀城址に行くと……

あれ、敦賀西小学校になっていました。

説明書きがありました(´・ω・`)

かつての敦賀城は三層だったのです。

関ケ原の後は越前は結城秀康の所領となりますが、結局は一国一城令により破却されたという訳なのでした( ゚Д゚)

他にも名残りがありました。

少し離れた真願寺というお寺に石碑と礎石が残されていました。

では敦賀駅に戻りましょうか。14時半と早い時刻ですが、明日も出掛ける予定ですので、今日は退散いたします。

 

金ヶ崎城と天筒山城に登ってきました

2025年12月6日金ヶ崎城と天筒山城(てづつやまじょう)に登ってきました。

こんなトコです。2回目の登城。

金ヶ崎城の隣に天筒山城がありますので、併せて登城します。

丹後若狭シリーズはここら辺で打ち止めですかね、そろそろ雪将軍が迫ってきていますので。

まあ敦賀は厳密には越前なのでしょうが。

JR敦賀駅。今日は遅めの11時15分過ぎ。

思ったより寒くありません(´・ω・`)

観光周遊バスに乗りたいのですが、次のバスが11時40分ですので、昼ご飯をいただきましょう。

JR敦賀駅の駅隣接のオルパーク内にある気比そばあまのさんにしました。

卵天ぷらそば+おにぎり(おかか)で640円。

私のお財布にも優しいお値段でウキウキです。

美味しくいただいた後、外に出るともう35分、急いでバス停に向かいます。

ぐるっと敦賀周遊バスお値段200円に乗ります。

松本零士さんのイラストがラッピングされていますよ^^

著作権で揉めた宇宙戦艦ヤマト+銀河鉄道999。

10分も掛からずに目指す金崎宮へ。

バス停も松本零士さん。

今日目指す金ヶ崎城と天筒山城の説明版です。

金ヶ崎城は南北朝の戦いと戦国期の戦いの2つで有名です。

1度目の南北朝の戦いでは、新田義貞が後醍醐帝の2人の皇子を連れて入城します。

もうその頃には楠木正成も戦死しており、全般的に宮方は劣勢でした。北陸に行った新田軍も苦戦し、何度か足利方に攻められている間に兵糧も尽き、とうとう金ヶ崎城は落城するのです。

また戦国期においては、織田徳川連合軍が朝倉を攻めるため、敦賀から攻め入りますが、妹夫である浅井の裏切りが発覚し、朝倉と浅井の挟み撃ちに遭うのを恐れたため、信長は越前から撤退します。

その時、秀吉がここに残って、追撃してくる朝倉勢を迎撃するために籠城するのです。

一緒に徳川家康も残ったとか、柴田も明智も兵士を融通したとか何とか。

これだけ観光できる場所があるのです(´・ω・`)

私が登る金ヶ崎城と天筒山城の地図です。

金ヶ崎の退き口を宣伝しています。

どうする家康ではなく、麒麟が来るの宣伝かよ!!(笑)

まずは金崎宮へ向かいますが、いきなりの石段群。

こちらは来年の豊臣兄弟の宣伝!(笑)

弟の秀長はこの時、朝倉攻めに参加していたのかな?してたんでしょうね。

大きな鳥居の下を通ります。

こちらのお宮は後醍醐帝の2人の皇子がご祭神です。

第一皇子の尊良親王は金ヶ崎で自刃、恒良親王は足利方に捕らわれてしまい、都に送らてしまいます。ただし翌年に急死してしまいます。

ちなみに第一皇子の尊良親王は、有名(?)な護良親王より年上なんですって。

後醍醐の帝は本当に子だくさん。

柄杓なしのお手水でした。

落葉がハート型になってますよ( ゚Д゚)

あれ、悲劇の尊良親王を祀っているのに、何だかピンク色のお社ですね~

恋の宮とか書いてはる(笑)

 

家に帰って調べたら、分かりました。

尊良親王はまだ大覚寺と持明院の両統が並立していたころ、皇太子を巡る争いに負けてしまい、傷心し引き篭もりがちになります。

何でも源氏物語宇治十帖の橋姫を読みふけり、絵の中に出てくる女性の絵に恋焦がれてしまうのです。

いわゆる二次元コンプレックスの皇子様だったのですね(笑)

その絵にそっくりだったのが御匣殿(みくしげどの)でして、尊良親王は言い寄ります。

ところが御匣殿はつれない態度を取ります。婚約者がいたからなのですが、たくさんの手紙を送る様になると、御匣殿も次第に心を開きます。

一方で、中国は唐の時代の政治を学んでいた尊良親王は、すでに婚約者がいる女性に迫る行為は恥ずべきことと学び、恋文を出すのをやめ、また思い悩む様になります。

御匣殿の婚約者は皇子の苦悩を知り、身を引いてしまいました(!)

そして晴れて尊良親王と御匣殿は結ばれて、仲睦まじい夫婦になるのですが……後醍醐帝の我がままで日本中が大混乱。

笠置山に父と籠ったり、その後土佐に流されてしまった親王を追い掛ける御匣殿ですが、金ヶ崎で亡くなった親王のことを嘆き悲しんで、後を追う様に亡くなるんだそうです。

それだけ仲の良い夫婦と思われているため、お宮で祀っているのでしょう。

 

ところで、実際には御匣殿は最初の鎌倉幕府との戦い前に亡くなっているそうなので、この話の後半はフィクションなんですって( ;∀;)

金崎宮の隣から登城できます。

緩やかな登り口。

敦賀港が見えました。風はなく、寒くはありませんよ。

あ!尊良親王の……お墓?

ここで埋葬されたのかもしれないとのことです、南無。

なるほど幾つか遺物が見つかったそうです。

太平記では金ヶ崎城落城の時、落ち延びることを勧めた新田義貞の息子の義顕に対して、

「後醍醐帝からそなたを股肱の臣とする様に言われている。そなたを失くして、どうして私だけが生きることが出来るものか」

ここで新田義顕は号泣、しかし皇子はこう言うのです。

「私は武家の作法に疎いので、自害の仕方が分からない。どの様にするのかな」

新田義顕は、この様にするのです、と作法を見せて自害。

尊良親王はそれに倣って見事に自害し、新田義顕の身体の上に折り重なったとか。

尊良親王は30才、新田義顕は20才……と言われておりますです。

 

南朝の話は悲しいものばかりです。

それにはめげずに、気を取り直して進みましょう。

月見御殿ですって。

金ヶ崎古戦場の石碑。碑文は全く読めませんでした。

ここには古墳まであるのでした。

しかしまったく古墳には見えず、単なる土塁にしか見えないのです(笑)

ここが御殿。やっぱり痕跡が分かりません。

ふーむ。

眺めの良い展望台感。

青い海と船のドックかしら?新日本海フェリーさんみたいです。

先に進みますよ。

お城の遺跡は、この様な大きな堀切くらいしか気づけませんでしたねえ。

はえー三の木戸。

焼き米出土ですって。

お地蔵さんが見守っているのです。

二の木戸。激戦だったんでしょうね。

く、熊~🐻

早く冬眠して下さい。

また堀切です、登れませんね。

朝倉氏も使用した一の木戸。

この辺、高低がかなりきつかったりしますよ。

この階段も結構厳しいです。

そろそろ天筒山城に移りかけています。

見事なV字谷ですが、ここを歩くのですよ。

休み休み登らないと厳しいのです。

休んでいると、上から仲の良さそうなカップルが登場です(笑)

ここ、ここが一番苦しみました( ;∀;)

ヤマレコによるとアレが天筒山城の頂上ですよ。

広場になっています。あの上に登れそうですので、行ってみますか。

三角点もありましたよ。

螺旋状に回る回る、眼も回りそうになって登ります。

東北方面、越前側の山々。

この間の寒波でいただきが白くなっています。

南西の敦賀港側です。

ここは船の国際便が通行できる様になっているみたいですよ。

真ん中の現在地におります。

後はもう降りる一方です。足が何故か軽くなりました(*´▽`*)

私見ではここが一番紅葉していましたかねえ。

あっという間に降りてきてしまいました。

天筒山の展望台から20分弱です。

金崎宮からは1時間20分でクリアできた感じ。

西から東に横断しました。

ヤマレコデータ。

あらわずか3キロ、1時間17分の旅でした。

まだ13時20分ですので、他にも足を伸ばしてみましょう。

でわ。

 

田辺城に登ってきました

2025年11月29日田辺城に登ってきました。

建部山城に登って食事をしてきた後のお話です。

田辺城はこんなトコにあります。

JR西舞鶴駅にほど近です。

 

田辺城は一色氏を滅ぼして丹後を治めた細川幽斉こと藤孝が、初め宮津に城を築きましたが、新しく田辺にお城を築いたとされています。

本能の変においては、細川幽斉と子の忠興は明智光秀の協力要請を拒み、謹慎します。

また関ケ原においては、忠興は家康の上杉征伐に従って関東方面へ出張中、隠居中の幽斉は田辺城にいましたが、石田三成西軍のうち小野木重勝が15,000人もの大軍を率いて、城を包囲します。1600年7月のことです。

田辺城の軍勢はわずか500名(!)で、風前の灯とも思われましたが、城方は踏ん張って2か月も持ちこたえました。

その後細川幽斉の命を惜しみ、戦死を恐れた(!?)八条宮智仁親王(後陽成帝の弟君)が使者を遣わし、細川幽斉に降伏を促しますが、これを拒否。

細川幽斉は朝廷に遺書を託して、また勝つ見込みのない籠城戦を続けますが、ここでまた朝廷方が公家を数人使者として送り込み、講和を促します。

さすがに勅命を拒めず、細川幽斉はこれに従い、丹波亀山城に退去します。

丹波亀山城に登った話はこちら。

田辺城開城は9月13日、小野木重勝の西軍は何とか勝つことが出来ましたが、肝心の岐阜関ケ原では戦いは9月15日に決着が着いており、小野木たちは間に合うことが出来なかった、ということになります。

細川幽斉は15,000人もの大軍を引きつけて、戦功に準ずる手柄を立て、息子忠興も関ケ原本番で活躍し、めでたく豊前小倉40万石(後に肥後熊本54万石)の大大名になります。

 

ここまでは良く知られた話ですが、気になりませんか?

戦争による武将の戦死は良くある話、なぜ朝廷は細川幽斉の助命に限ってこだわり、数度も使者を送ってその命を救おうとしたのでしょうか。

それは古今伝授のため、と言われております。

 

でも善は急げ、まずはお城に行きましょうか。

マンホールは、舞う鶴と田辺城でした。良い感じです。

自転車で走っていると……

田辺城の門ですよ、しかも舞鶴警察署の真正面なのです。

自転車に乗りながら撮影すると、それこそ逮捕されそうなので(笑)、ちゃんと降りてから撮影するように心掛けました。

門の左側(北側)には、櫓まで設置してありました。

1940年昭和15年という比較的昔に復興された二層櫓。

白亜の壁が美しく眩しくさえあります。

舞鶴公園と銘打ってあります。門へ向かいましょう。

立派な城門ですが、右下に誰かいますねえ。

ゆ、ゆうさいくん?(笑)

ゆうさいさんの自動販売機もあるのです。

城門、美しく整えられております。

ほとんど公園で城門と二階櫓だけなのでした。

天守台跡にまずは行ってみましょう。

石が整列されていますが、これは天守台ではありません。

これが天守台ですね。

城門に近すぎる気がしますが、往年の田辺城はもっと大きくて広かったのでしょう。

天守台に登れました。

上には何もなく桜の木があるだけ。

二層櫓が良く見えました。

降りて櫓の外を歩いてみました。

ここら辺は良く整備されています。昔の積みではないみたいですが。

丁寧に積んだんですねえ、お疲れ様です。

また二層櫓のところまで戻ると井戸を発見。

その脇に階段があって登れるみたいです。アホなので高いところが好きですから、行ってみますね(笑)

あ、二層櫓に行けるんですね、結局。

これだけ見ると、お城の他には人工物はなく、時代劇のシーンで使えそうですよ。

昭和15年という遥か昔に再興された櫓内に入ってみます。

本能寺の変における明智光秀の言い分の手紙です。

内容は……

一。

親子で髪切ったらしいね、それは残念。

聞いた時には腹立てて怒ったけど、今となれば仕方ないや。

ことここに及んだからには、誰か強い武将を派遣して助力してよ。

一。

領地については摂津の国にしようと思って、君たちの上洛を待っていたんだよ。

でも若狭、但馬が良いならそれでも良いよ。

一。

今回の本能寺の変はね、君の息子の忠興君を取り立ててあげようと思ったからなんだよ。

他に付け加えることはないです。

50日か100日したら、近々の国を征服するから、その後は私の長男の十五郎(明智光慶)、そして娘婿である与一郎君(忠興)に任せようと思う。私は引退しよう。

他には何も考えてないよ。

詳細は使者の口から直接聞いてね。

以上。

6月9日 光秀。

 

本能寺の変から1週間後の手紙です。

光秀は協力もせず、信長の死を悼む細川親子に腹を立てているのですね。それが面白い。

それどころか本人じゃなくて良いから、援軍を率いて武将の派遣を要望しています。

領地はどこでも上げるから、助けて~感が滲み出ています。

更に変の原因として、忠興のために、と書いています!

これには幽斉さん、困ったかも。光秀が負けると踏んでいたら、意地でも援軍は遅れないでしょう。

忠興と幼名の与一郎が混在しているのが、光秀の焦りとか感じちゃいました。

出た、古今伝授!!

待って下さい、この掛け軸内の人物、ひょっとして歌聖の柿本人麻呂さんでは?

八条宮智仁親王が1回目に使者を遣わした時に、降伏案を拒否して、しかし宮宛に伝授の手紙を送り、伝授完了の証明書を添付したのですかね。

でも口伝の部分があるから、完了したとは言えない訳です(笑)

あ、それで、2回目の朝廷からの使者派遣になったのかな?

何かねえ、これには裏があるのではないか、と思うんですよ。

 

そもそも古今伝授って何だか分かりませんよね。

知ってる人はともかく、私には何が何だか。

Wikiで調べると……

 

勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。

古今和歌集の解釈は歌学を家職とする公家の二条家の秘事として代々相承されるようになった。

古今伝授は、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたものである。

しかし二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者たち(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった。

二条家の秘伝は二条為世の弟子の頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。

尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。

古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。

1471年文明三年、常縁は美濃国妙見宮において、連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。

三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。

 

長いですけどもう少し続きます。ここからが大事(笑)

 

三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。

ところが1600年慶長5年、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲される。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡して、古今伝授が絶えることを恐れた朝廷は、勅使を派遣し幽斎の身柄を保護して開城させた。

幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。

 

とあります。

まず三条西実枝の子が幼いために、幽斎に仮に伝授して、次代の三条西家に伝えさせようとするのですよ。

三条西実枝さんは1579年天正7年68才で死去、その時息子の公国さんは、え、26才ですよ。

これって幼いのかな?充分大人でしょう。

確かに後に36才で亡くなるのですが、病弱気味だったんでしょうか。

 

三条西実枝さんは、やむなく弟子の細川藤孝に初学一葉(和歌の歌論書)を与え、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を幽斎に行った。

後にこれは現実のものとなり、公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。実条はこの時25才。

 

何か万々歳となっていますが、疑問が浮かぶんですよ。

①三条西家は、幽斎以外に伝えなかったのか。

弟子の幽斎よりも三条西家の親戚筋に伝えて、次代の三条西家嫡流(実条)に継承すれば良かったのに。何なら、公家間で養子を迎えれば良いのです。

そんな風に思ってしまいました。

②幽斎は師匠実枝さんとの約束を破った?

絶対に他人には伝授しないこと、とか言いながら、宮家の八条宮智仁親王、公家の烏丸光広に伝えてます(笑)

まあこれは朝廷たっての希望もあり、致し方ないのかな。

③本当に朝廷から講和の使者が出たのか

これが一番言いたいのです(笑)

 

籠城戦で500対15,000も戦力の差があるから、勝ち目はなさそうやなあ。

このまま城に籠っていても、内府(徳川家康)と治部少(石田三成)の決着が着かないと、どうにもならんし。

せや、儂には古今伝授の資格があるやないか、まだ三条西家にも誰にも伝えていないのや!!

これを主上(帝)に密かに申し出て、勅命で講和させればええんやないの!!

 

ピカーンと閃いた幽斎は、忍びの者を呼んで、遥か遠くの今日の京まで行かせるのです。

三条西家で良いでしょう。幽斎の知らせを聞いた三条西家は慌てふためき、御所にご注進。

まずは天皇陛下弟君の八条宮から降伏の使者が送られますが、幽斎は、

「1回で納得して降伏してもうたら、徳川内府(家康)に疑われるやないかい。格付け上げにもお断りしとこ」

とか考えて(笑)、拒否しながらも、一応親王に免状を送り、2回目の使者を早々によろしく、できれば勅命欲しいんやけど(上目遣いで)と伝えるのです。

かくして朝廷は再度の使者を送り、ここに講和が成り、田辺城は開城、細川幽斉は古今伝授を無事に済ます、そして歌道にも箔が着く、なんてことを妄想してしまいました。

 

多分違ってるでしょう、私ごときが思いつくのですから。

 

櫓二階。普通の眺めでした。

細川幽斉と麝香さんご夫婦。仲良くて私も嬉しい。

櫓を出て城門2階の資料館に向かいます。

二層櫓が綺麗です。

こちらが資料館。

スタッフがあたふたしています。何だか団体客が来るそうですよ(´・ω・`)

ゆっくり見れると思ったんですが。

今のうちに先に入場して、御城印入手です。入場料は200円。

田辺城古図。

この図の右側が方角が西となり、城門があるところになります。

ちょっと陸地から近いかな?

 

ガイドさんから話し掛けられました。

「どこからです?」

「大阪です、先ほど建部山城登って、こちらに来ました」

なんて話をしていると、ドアが開いてやってきました、団体客!!

ざっと30人くらい(笑)

 

私は逃げる様にその場を去り、他の展示を見に行きます。

もうひとつの関ケ原、田辺城。

まっすぐ前を向く幽斎さん、お疲れ様でした。

ジオラマを見ながら田辺城を眺めます。

意外と当時も海が近いのですね。

How To 古今伝授。

柿本人麻呂の像を飾ると書いてますね……ああああああ!!

相伝者(生徒)の年齢が30才以上と書いてます!!

受ける資格は30才以上でないとNGなのか……そうか、三条西公国さんは26才だったからダメだったのですね。

26才だと「幼い」のかぁ、それは厳しい世界、厳しいルールなんですね。

もっとも講和後、伝承者の三条西実条さんは25才、八条宮智仁親王は21才、烏丸光広も21才なんですけどねえ(しつこい)

ちなみに幽斎は39才で古今伝授を受けていました。

 

32日以上の講義期間が必要、というのも手強いルール。

田辺城開城以降、丹波亀山城で行ったのかしら。

この時、幽斎は、

「何や30才以上やでと言うたのに、若造ばかり寄越しおって。八条の宮さんは帝の御弟君やし、師匠の孫である実条はんも宗家やからしゃあないわ。非常時やから構わんやろ。烏丸はんとかしょうもない若造を連れてくるとは思わんかったけれど、寄せ手の小野木はんとかは古今伝授の決まりごととか知らんと違うか、このまま押し切ったろ。やれやれ命拾いしたわ」

とか思ったかもしれません(笑)

香川元太郎さんの描く田辺城籠城戦。
攻めてきた西軍勢の中には、幽斎の歌道の弟子もいたそうで、なかなか戦意も上がらなかったとか何とか。

ガイドさんの説明が一旦終わった隙を見て、場外へ無事脱出。

堀の跡でしょうか。

一応建前上の古今伝授の説明(笑)

いえ、これが本当です、多少の疑問がありますが(しつこい)

いにしへも 今も変わらぬ 世の中に こころの種を残す 言の葉

この階段を登ったところで、親王の使いに秘伝書を渡したらしいです。1回目の話ね。

囲まれています。

石碑、読めませんよぉぉぉぉ

城門の横の石垣。整然と積まれていました。

さてそろそろ東舞鶴駅に向かいましょう。

丹後鉄道さん100周年ですって、おめでとうございます。

クロミちゃんを丹後七姫になぞらえてキャンペーンしています。

誰だよ、七姫って思いましたので、調べました。

丹後七姫は、京都府北部、丹後地方の伝承に登場する代表的な7人の姫君の総称。

乙姫(伊根町)浦島太郎の乙姫。

羽衣天女(京丹後市):羽衣の天女です。静岡の三保の松原と揉めそうです(笑)

静御前(同):源義経の愛妾。丹後出身なんですね。

細川ガラシャ(同):彼女は細川忠興に嫁いで、丹後にお嫁に行った、です。

小野小町(同):この人は伝説が多過ぎて(笑)。晩年深草少将の百夜通いから逃げるためにここまで来たとか、何とか。

間人皇后(同):聖徳太子のご生母。

安寿姫(舞鶴市・宮津市):例の安寿と厨子王の安寿ちゃん。

以上の7姫をさし、それぞれに縁の場所や史跡が伝えられる。

安寿姫のかわりに川上摩須郎女(京丹後市)を含めると、「京丹後七姫」となるんですって。

川上摩須朗女(河上之麻須郎女 ):かわかみますのいらつめ。垂仁天皇に5人の娘を献上した丹波の国主丹波道主命の妻

京丹後鉄道が入線です。

これには乗らず、15分後にやって来る高速バスに乗って関西方面に向かいます。

でわ。

 

検索

引用をストックしました

引用するにはまずログインしてください

引用をストックできませんでした。再度お試しください

限定公開記事のため引用できません。

読者です読者をやめる読者になる読者になる

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp