こんにちは。EbamoWorld改め、EbeamoWorldです。
今回は、皆様に大切なお知らせがあります。
私の名前の由来に関してなのですが、実はタイプミスなのです。Ebeamoとは、ヤマハでのちに"vocaloid"と命名されるソフトウェアの開発段階において、候補に挙がっていた名前なのです。
ネーミングの過程で出てきた中に「Ebeamo(エビーモ)」と言う名前がありました。研究部門のある静岡県磐田郡豊岡村の名産である海老芋(エビイモ)という里芋科の野菜にあやかって名付けたものでした。当時の常務取締役だった和智正忠も気に入っており、社内でも少し盛り上がったものの、結局はボツとなりました。
しかし、アカウントのスペルミスに気付いた時には時すでに遅し、たくさんのボカロリスナーたちがEbamoWorldのアドレスで私の記事を共有してくれました。ここで名前を変えてしまうとリンク切れの原因になり、記事を探す上で支障をきたすと考えました。そこで、このアカウントのスペルミスは訂正せずに、今後はもっぱらnoteの方の”正しいスペル”のアカウントで活動することになりました。これからもよろしくお願いします。
前置きが長くなってすみません。「ボーカロイド文化における天使の表象」の現時点での進捗として、記事の一部を公開します。
「SCP財団」というシェアワールド創作界隈に「SCP-1139-jp」という題名のショートショートが存在する。
SCP財団に関して、Wikipediaでは、「SCP財団は、「自然法則を逸脱した異常な生物・物品・現象・場所(これらはSCP-173のように識別子で呼称される)の捕捉・研究を世界政府より委任された秘密組織」という設定である。財団はアノマリーが一般市民の目に触れれば彼らの日常生活や正常な感覚を揺るがすだけでなく、場合によっては人類の生存そのものを脅かしかねないと考えており、そのため財団は集団パニックや予想される混乱を避け、人類の文明を正常に機能させるためアノマリーを秘密裏に保管し、また一部のアノマリーについては、将来の脅威に対処するための知識を求めて研究を行っている、という設定になっている。」と説明されている。(注 説明内の「アノマリー」という語は「自然法則を逸脱した異常な生物・物品・現象・場所」を指す語である。)
筆者注 説明に関し、出典は完全版ではwikipediaから変更になる可能性あり
本題の「SCP-1139-jp」では、SCP財団の職員が音楽に関わる異常現象と対峙する様が報告書の体で描写される。その現象とは、ネット上にアップロードされた楽曲の歌声が録音時とは全くの別人のものになる、というものだ。そして、歌声が変化した楽曲に対し、聴衆は、ある特定人物(サイト上では黒塗りで読めない)が歌う曲だと認識するのだ。
この現象の背後には「春鳥」という姓を持つ闘病中の女性歌手の存在があった、そして彼女の余命は幾ばくも無い。この事実を受けた(恐らくコンピューターエンジニアだろう)常盤氏は春鳥氏を永遠の歌姫とするべく何か細工をしたのだろうか。彼女はネット上で「黒塗りされたある特定人物」として復活し、永遠の歌姫となったのだろう。しかし、これ以上のことは分からない。私の憶測だ。
しかし、この話で重要なのが、「声の持ち主」の「春鳥」が死後もコンピュータプログラムとしてネット上で生き続けられた、という風に解釈できる点である。
同じように、青島もうじきの短編小説「うたうきかい」では余命いくばくもない祖母の声をUTAUというボカロソフトにしようと奮闘する主人公の姿が描かれる。このような逸話は現実でも存在し、例えば、「とりちゃん」というUTAUソフトは亡き妻の声を基にしている。(柴、2014)また、同じくUTAUソフトである「アリオ」は2015年に急逝した椎名もたさんの声を基にしており(鮎川、2022)、本人の意図ではないが結果的に「声の保存」が達成されることとなった。(ただし、「うたうきかい」の参考文献に(柴、2014)、(鮎川、2022)の両著作がリストアップされていたため「とりちゃん」「アリオ」の先例を青島が確認していた可能性がある。)このように、ボーカロイドは機械として不死である以上、死者となった中の人の声を保存する機能を持つ。
実は、このような「声の保存」への夢想はボーカロイド文化以前にも登場していた。(新島2017)において、死者の声を合成音声で復元する『ロクス・ソルス』が紹介されていた。この作品では、天才科学者カントレルが人々に自らの奇妙な発明品を人々に紹介する。その中で、亡くなった家族の声を機械で再現することで遺族の心を癒す話がある。そこで遺族は亡くなった「子供の声を人工的に作り出すことで死、つまり母とつながり、自らの誕生を確認する。」(ページ数が分からなかったので後で入れます)のだと新島は指摘した。同様に、秋吉(2017)はレコードによる声の保存を指摘していた。
ジョンソンがエジソンに代わって言うには、フォノグラフがもたらすであろう最大の驚異は、未来に向けて声を保存できることにあるという。フォノグラフが発明される以前、あらゆる人物の声は死とともに永遠に失われてしまう定めにあった。故人の声は残されたひとびとの記憶のなかにしか存在しないものだった。ところが、フォノグラフが発明されるやいなや、ひとの声はその主がたとえ亡くなってしまっても、生き生きとした響きを持って保存されるようになる。そうすれば、未来のひとびとは彼らの声を「まるでわたしたちがそこにいるかのように」聞くことになるだろう。ジョンソンいわく、フォノグラフの発明によって声は死を超越し、「不滅」になるのだ。(p.40)
ちなみに、鮎川(2022)もスターン『聞こえてくる過去』の論旨を参照しつつ、秋吉(2017)と類似した議論を立ち上げていた。そのうえで、こう続けた。
英語圏の研究者のスターンはしなかった指摘をしましょう。録音物をかけることを、英語ではプレイと言いますが、日本語ではなんと言ったでしょうか。そう、「再生」と言いますよね。これは録音という営為の本質を撃ち抜くような言葉です。「あ、その動画再生して」とか、この言葉を当たり前の現代日本語として使うようになって長く経ちますが、改めて考えると、とんでもない言葉を日常的に使っていると思いませんか?
「再生」を英語訳するならリインカーネイションでしょう。一度死んだものに再び性を与えることです。かつて現在だったけれども、すでに失われた時間。それが過去です。一度死んだ時間を現代に蘇らせる。我々は一度死んだ時間に取り囲まれていて、それを組成するという儀式を、あまりにカジュアルに、日常的に執り行っているわけです。(蘇らせる、には上に点。p.428)
いずれの3人も、音楽、そして声を保存できるようになったことで、過去、そして死者をある意味で永遠に生かすことができるようになったと主張している。では、録音技術を進化させ、過去に収録した声から無限の歌を出力できるようになったボーカロイドは、決して死ぬことのない「天使」なのだろうか。
出典
新島進「人工の歌声をめぐる幻想-初音ミク、ルーセル、ヴェルヌ」塚本昌則, 鈴木雅雄『声と文学 : 拡張する身体の誘惑』平凡社, 2017.3
柴那典 『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』太田出版, 2014年
鮎川ぱて 『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』文藝春秋, 2022年
青島もうじき「うたうきかい」『スピン/spin 第9号』 河出書房新社 2024年 p.2
秋吉康晴「サイボーグの歌声――デジタル音楽をめぐる試論」 2017年
SCP-1139-JP – SCP財団
http://scp-jp.wikidot.com/scp-1139-jp
SCP財団 -Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/SCP%E8%B2%A1%E5%9B%A3
いずれも2025年11月21日に最終アクセス
今回は、「ボーカロイド文化における天使の表象」という記事のうち、参考文献用に集めた論文のレビュー一覧を先行公開する。ここで紹介した論文のほとんどはネット上で無料で読めるため、ボカロを題材に論文、レポートを書きたい方にとって非常に有用なものになるだろう。(注意!本記事は制作途上のため論文の執筆時期や内容が順番に反映されていません。ご了承ください。)
松浦優 著. 二次元・戦闘・セクシュアリティ?『〈戦い〉と〈トラウマ〉のアニメ表象史』, 2024
2024年3月3日に上智大学で行われた発表のスライド資料。おたく文化とジェンダーの問題から、キャラクターという存在がいかに性を超克するかという話題、さらには再生産的未来主義の倫理的問題点まで広く扱われる。DECO*27とピノキオピーの対談にも注目。「ボカロは死なないから。」
川﨑悠圭 著. 舞台上に降り立つVOCALOID:―「女優」としての初音ミクは存在しうるか―, 2015
ボーカロイドと演劇、特に、『THE END』という渋谷慶一郎による初音ミクオペラを考察した論文。初音ミクは根源的には空虚な存在である。だからこそ我々はミクに共感する。そして、ボーカロイドという「人ならざる存在」を演劇に登場させることは、人間とは何か示唆が与えられる契機にもなる。人工知能の専門家らが口々に、「AIを研究することは人間を研究することだ。」と言うように。
秋吉康晴 著.サイボーグの歌声:デジタル音楽をめぐる試論, 2017
フォノグラフやレコードといった、「音楽や声の記録」技術の進歩からボーカロイド文化を分析した論文。前者の録音装置は「不滅の声」を発明し、後者のボーカロイド、オートチューン技術は「声の変質、サイボーグ化」を実現した。作者によれば、ボーカロイドを含むデジタルな声の表現とは「「かつて - あった」者たちのようでありながら、しかし実のとこ ろ「かつて - あった」誰でもない何者かを召喚してしまう」ものなのだ。これは鮎川(2022)における、「存在しなかった過去への小径」(p.433)としてのボーカロイドの歌声にも通じる。そして、サイバネティクスに代表される「人間と機械の融合」を目指す思想が録音装置、ボーカロイド双方に通底する。私個人として気になることは「可不」の様な極めて人間らしい声のボカロキャラはどう評価されるのだろうか、ということだ。highland「ボカロ音楽の「透明性」と、歌唱の「人間らしさ」の関係について」(「ボーカロイド文化の現在地」収録)(2023)も参照したい。
伊藤高史 著. 音楽産業における初音ミクの革新性に関する社会システム論的考察, 2024
https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/2000729
現代の音楽、メディア文化において初音ミクがどのように創作を変えたのかを社会システム論を用いて考察した論文。「初音ミク現象」の原因には、インターネットや動画サイトの普及による、「消費システムが消費システムそのものの作動を反省的に観察し, そこに有意な情報を見出だして次のコミュニケーションの連鎖に接続し,創作システム を機能分化させていく能力を飛躍的に高めた」ことがあると筆者は主張する。
土井隆義 著. AKB48の操.初音ミクの鬱:~コミュ力至上主義の光と影, 2014
初音ミクとAKB48、この2つの「アイドル現象」を分析した論文。AKB48には「推す」というアイドルとファンがフラットな関係性を保ちながら行われるアイドル消費が存在する。このような年齢的上下関係を解消しつつあるフラットな関係性は、人間関係の構築を自由化する半面、自己責任を押し付けることにより、不安を高めるという負の側面もある。これは新自由主義が日本に浸透したことと関係している。まさに、「人間関係の規制緩和」の代償を若者は払わされているのだ。この生きづらさをボーカロイドは歌う。人間関係の自由化はボカロPとリスナーの関係をもフラット化した結果、ボカロ曲には当事者の「生きづらさ」が反映されやすい。偽善者P「偽善正義」のように。そして、人間関係を構築する難しさを歌う「ハーゲンダッツ以下の殺風景」(背脂部)。そして、自分はかけがえのない存在ではなく、誰かに代替されてしまう危うさを歌い上げた「東京テディベア」(neru/押し入れP)。ボカロは人間ではないからこそ、過激でキレの良い言葉を届けることができる。2014年時点での「歌い手論」も必見。
黒田誠 著. 仮構世界とフィギュアと自己同一性 初音ミク、惣流/式波・アスカ・ラングレー、戦場ヶ原ひたぎ、ブラック★ロックシューターの人格特性, 2012
https://researchmap.jp/antifantasy/misc/13416168
現代人の主体性をキャラクターとしての初音ミクおよびフィギュアから考察した論文。
初音ミクにはツインテールや腕の数字といった「初音ミクを示す記号」が存在し、これらが「初音ミク」の同一性を支える。そのうえで、筆者は様々な初音ミクおよび他作品のキャラのフィギュアを比較しながら、キャラクターの属性は「変数」のように捉られ、「ネギが持ち物」のように新しい属性が追加されたり、他の属性と組み合わせられ、交換されたりすることも可能なことを喝破する。そして筆者はこう結論づける。「キャラクターはその本性上“一個の他と分断し得る独立した存在”である以上に、“相互浸透し合う重ね合わせ可能な相矛盾する要素の集積体”として理解すべき概念なのであるかもしれない。」村上裕一「ゴーストの条件」(2011)も一緒に読みたい。
田島充士・r-906・山本登志哉 著. 正解主義に抗うボーカロイドアート:ボカロ P・r − 906 と考える多文化共生を拓く対話の可能性, 2025
https://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics/journals/2024ics28/12.%20tajima_articles_v2.pdf
東京外国語大学で行われたボカロPのr906氏へのインタビューとボーカロイド文化への考察をまとめた論文。相手の独自の視点を軽視する排他的な対応 「正解主義」に陥らず、互いの解釈をまとめてより良い合意を目指すために、「ボーカロイドアート」に筆者は注目した。ボーカロイドアートはその特性から多様な解釈を許容する。 r-906 氏は「どの見方が正解といえるような証拠も、私は提供していません。リスナーがどんな解釈をしてもかまわないし、逆に作家が、どの解釈を公式に裏書きすることもない。そんな解釈の自由を楽しめる作品づくりを意識しています。」と本論文でコメントした。そして、彼は「三日月ステップ」「ボイドロイド」「ノウナイディスコ」を自ら解題する。リスナーによる曲の解釈のずれを歓迎し、解釈について対話を促すことが多文化共生にとって重要になる。
しかし、表象文化論の観点からボカロ評論に取り組むukiyojingu氏はtwitterにてこのような主張をしている。
触れるべきと思いつつ書くべき原稿を先に書いてるが、例の東京外大ボカロ論についてはまた触れます。
— ukiyojingu@6/9『(re)flection』公開 (@ukiyojingu)2025年3月3日
話題の表面だけ見た感想は、ボカロは自由な解釈が面白いのは分かるが、いまこの社会でその「自由さ」を振りかざすことの倫理的責任は誰がとるの?ということです。もうずっと同じこと言ってるな…。
自由な解釈にも責任がつきものなのかもしれない。
HERNANDEZ ALVARO DAVID
Activities and Participation in the Aesthetic-Rhetoric Field of the Japanese ‘Subculture’; Focusing on the Interinstitutional System of the Japanese Animation Contents Industry, the Dōjin Culture, the Cosplay Practices and theVocaloid Scene
日本「サブカルチャー」の美的-レトリック的なフィールドにおける活動と参加―日本アニメコンテンツ産業、同人文化、コスプレ実践とボーカロイドシーンの間制度的システムを中心に― 2015.12
英語論文ではあるが、多くの学びがある論文。Chapter Six. The Voices from theVocaloid Scene: Activities and Participation in the Aesthetic-Rhetoric Fieldだけでも読んでみるとよいだろう。かつて市場と無縁だった「遊び場」でボーカロイドは独自の発展を遂げた。
田中吉史,越田恵斗 著. 人はどのようにボカロに「ハマる」のか:非専門家による文化的活動への関わりとその深化,2023
https://researchmap.jp/read0048515/published_papers/4328461
ボカロにハマるきっかけを当事者(ボカロリスナー)調査から分析した論文。ボカロ文化にハマるきっかけとして、「初めからボカロ文化そのものが好き」ではなく、自分の興味、嗜好というような「ハマりの軸」から派生してボカロ文化が好きになったという事例にも注目したい。
濱野智史 著.アーキテクチャで閉塞した日本社会を打破する!―いままでにない情報社会論のアプローチ, 2012
2012年に慶應義塾大学で行われた講演会とそのスライド。濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008)でニコニコ動画を「疑似同期イベント」と称したことで知られる。本スライドでは、ニコニコ動画=疑似同期イベント論を基に初音ミクの特性が語られる。キーワードは「仮想の主体/表現者」「N次創作」だ。
剣持秀紀 著. 歌声合成について :―「初音ミク」を支える技術―, 2011
ヤマハでボーカロイド開発に携わった剣持秀紀による論文。初期ボーカロイドに用いられた音声合成の仕組みをわかりやすく学べる。「ボーカロイド技術論: 歌声合成の基礎とその仕組み」(2014)が直ぐに入手できない方はこちらもどうぞ。
広瀬正浩 著.初音ミクとの接触 “電子の歌姫”の身体と声の現前, 2012
ボーカロイドの音楽的消費からインターネット時代の我々の身体を考察した論文。初音ミクの曲をネット上で聴取するとき、リスナーもネット上に主体を分裂させることで初音ミクと同じ次元にいるころができる。そして、リアルとネット上で身体を分裂させる営みは電話やラジオの時代から存在したのだ。
小野貴史 著.ポストモダンの終焉とネオ・アヴァンギャルドの時代:-表現者としての戸川純から見る日本ポピュラー音楽受容構造の転換-, 2017
戸川純の顕著なリバイバルを通して、ゼロ年代、それ以降の日本におけるポピュラー音楽受容構造の変遷を考察した論文。戸川純はボーカロイド的表現の先駆者であった。
千田洋幸 著.ポップカルチャーは児童生徒の言語/物語環境をどう変えるのか, 2018
2010年代時点での若者のコンテンツ消費の特徴を分析した論文。リオタール的「大きな物語の終焉」は人々にアイデンティティ危機をもたらした。だから我々はアニメや漫画、小説や音楽といった虚構に救いを求める。そして論点は「セカイ系」「体験型コンテンツ」「ライトノベル」「ボーカロイド」「ラブライブ!」へ広がっていく。著者曰く、「ユーザーにとってのミクは現実世界と電脳世界の境界に位置する「巫女」なのであり、あの不自然な音声がその境界性を保証しているのである。」
定和哉 著. データベース音楽消費論:キャラクター音楽の作り方, 2012
https://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron28-7.pdf
東浩紀「動物化するポストモダン」(2001)を補助線に音楽消費を分析した論文。元来うたごえ=ヴォーカルは歌い手に固有のものでパーカッションやピアノのように他人と交換することはできなかった。しかし初音ミクの歌声は、誰が打ち込んでも似たようなあの声を出力することができる点で歌声を代替可能なものにした。果たしてこれを憂うべきか、喜ぶべきか。
冨澤信道 著.ボーカロイド・初⾳ミクのキャラクター性はどの様にして獲得した物なのか, 2024
東京経済大学の⼭⽥ゼミで発表された、初音ミクのキャラクター性を論じた論文。初音ミクには最初期のロボット、機械としてのキャラクター、「メルト」以降の少女としてのキャラクター、ボカロPの代弁者のキャラクターが存在する。
藤井翔子 著.「人形」としてのボーカロイド:――ボーカロイド作品の諸類型と変化――, 2018
https://www.hmt.u-toyama.ac.jp/socio/lab/sotsuron/17/fujii.pdf
ボカロ曲を「消失系」「大罪系」「カゲプロ系」の3つに分類し分析した論文。ボカロは機械だからボカロPの意思を直接伝えることができる。この点でボカロは「人形」である。では、この「人形劇」としてのボカロ曲はどのような特徴を持つのだろうか。「初音ミクはなぜ楽器でキャラなのか メジャー化の夢から信頼の実験室へ 」(2020)(「メディア・コンテンツ・スタディーズー分析・考察・創造のための方法論」収録)や才華「MVキャラはどこから来たのか、何者か、どこへ行くのか——2020年代前半までのボカロMVについて—— 」(2023)(「ボーカロイド文化の現在地」収録)も併せて読みたい。
木村直弘 著.初音ミクは浮遊する:―神話装置としての冨田勲《イーハトーヴ交響曲》―, 2015
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/records/10824
冨田勲が初音ミクを用いて制作した作品「イーハトーヴ交響曲」を考察した論文。初音ミクの存在性は賢治作品の登場人物と似通った側面がある。また、冨田勲と宮沢賢治がともにベートーヴェンに注目していたこともこの論文では取り上げられる。遠藤薫「廃墟で歌う天使 :ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読み直す」(2013)と共に読みたい。
小澤京子 著. フィクションにおけるテクノロジーの表象とジェンダー, 2018
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/30/6/30_308/_pdf
テクノロジーがジェンダー論の分野においてどのような問題を引き起こしているのかを文学や大衆文化におけるガイノイド(女性型アンドロイド)像から考察した論文。しかし、このような、男性の欲望を引き受ける存在としての「初音ミク」像はそこまでメジャー化といわれると、個人的には疑問に思う。
萱間暁 著.初音ミクは存在するか?:─非存在主義の観点から─, 2014
分析哲学の立場から初音ミクの存在論に挑んだ稀有な論文。筆者は「初音ミクが現実に存在していると感じられるのは、私たちが想像世界と現実世界を取り違えるからである。」と結論付けたが、「取り違え」ではない形で初音ミクの実在性を感じる論者も多い。
根村直美 著. デジタル・パフォーマンスと初音ミクの接続:身体解釈の新たな系譜を探る, 2015
この論文は閲覧が極めて厳しい。なぜなら、私が大学図書館にこの論文の取り寄せを申し込んだところ、どの図書館にも蔵書が存在しなかったため筆者に直接交渉して入手することになったからである。内容としては、マース・カニングハムのダンスや初音ミクの存在性から、身体の束縛から解放された主体を夢想する。もし閲覧が叶ったのなら太田充胤「踊るのは新しい体」(2025)と共に読みたい。
追記 2025年9月21日時点でインターネット公開が確認されたため、リンクを下に掲載する。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ssiproceedings/2015/0/2015_24/_pdf/-char/ja
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