てづかおさむ
二次創作やパロディ作品については、遺族の手塚るみ子氏の意向により、「手塚治虫が生前に描いたものではないという証として自分のサインや印を入れること」が推奨される(参考)。
兵庫県宝塚出身(出生は大阪府豊中市)の漫画家・アニメーション作家(1928年11月3日 -1989年2月9日)。没年齢は満60歳であるが、生前の手塚は年齢を2歳上に偽っており、死去時にこの事実が公に知られることとなった。
戦後直後の1946年 - 死去直前の1988年まで、40年以上の長きに渡って旺盛な執筆活動を続けた。人呼んで「漫画の神様」。ガンで亡くなる直前まで仕事をし続け、今際の際にもペンを握る動作をするという「死ぬ程の漫画好き」。比喩表現でなく、文字通りに命を懸けて漫画を描き続けた人物である。
彼が生涯に描いた漫画は約700タイトル・15万ページといわれ、彼に関する研究書も1,000冊を超え、いずれも日本の漫画家では1番の量を誇る。それまで舞台劇視点の演出で、笑い・滑稽さという喜劇的要素が主体であった従来のマンガに悲劇を伴う物語性のエッセンスと映画におけるカット割りを導入した「演出」という概念を持ち込み、「ストーリー漫画」の開祖として戦後の日本の漫画に決定的な影響を与えた(※注1)。また、日本のテレビアニメを事業として成立させた人物でもあり、漫画のみならず、アニメ分野でも大きな足跡を残している(後述)。
トレードマークはベレー帽、黒縁眼鏡、団子鼻。「治虫(おさむ)」という名前は甲虫の「オサムシ」になぞらえて付けたもの。最初の読みは「オサムシ」であったが、ペンネームの後に「氏」を付けると「オサムシシ」となるため、「オサム」に変更した模様。本名は「治(おさむ)」。
代表作は『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『ブッダ』『リボンの騎士』、『ジャングル大帝』等に代表されるヒューマンドラマが特に高い評価を受け、知名度が高い。その一方で『MW(ムウ)』の様な人間の醜さ・業を描いた作品や『アラバスター』『バンパイヤ』等、悪の妖しい魅力に溢れたグロテスクな作品を好んで描いたことも知られている。『きりひと讃歌』『鳥人大系』『人間昆虫記』等、人間の心の闇を描いた救いがない程暗い作品も多い。
良く知らない人からは「堅い」「高尚」といったイメージを持たれていることがあり、確かに『火の鳥』等、その様な傾向のある作品もなくはないが、実際の手塚作品は娯楽性を重視した作品が多数である。
住友グループに勤める裕福なサラリーマンの長男として大阪府に誕生。昭和初期としては大変恵まれた家庭環境の下、当時新興住宅地であった兵庫県宝塚で育つ。手塚家の遠祖は木曽義仲の重臣・光盛で、江戸時代は代々医者をしていた家であった。曾祖父・良庵(良仙)は蘭学を修めた幕末 -明治の医師。父方祖父・太郎は裁判官、母方祖父・服部英男は軍人(旧陸軍中将)であった。
両親共に漫画好きで治虫の漫画趣味に理解があり、田河水泡『のらくろ』シリーズを始め、200冊以上の漫画本が揃っていた。当時としては珍しく家に映写機があり、チャップリンの喜劇やディズニーやフライシャー兄弟等のアニメ作品を好きなだけ見ることが出来た。また、ジョージ・マクマナス、ミルト・グロス等の米国の漫画作品、松本かつぢの少女漫画等にも親しんでおり、デビュー初期の手塚の絵柄は戦前の少女漫画と米国のコミック・アニメーション文化(特に松本かつぢ・ディズニー)の影響が極めて強い。さらに、育った家には世界文学全集があり、ゲーテやドストエフスキー等、海外文学作品を読むことも出来た。
この様に映画やアニメーションに東西の漫画文化や外国文学まで吸収出来るという文化的にとても恵まれた環境が、漫画家として手塚を羽ばたかせるのに果たした役割は大きかった。
また、手塚家には宝塚の少女歌劇団のスターが出入りしていた。彼女達の姿は手塚の女性キャラ像に大きく影響を与えた他、「変身」の面白さを彼に教えることとなり、後に『リボンの騎士』を生む下地となった。
さらに、当時新興住宅地であった宝塚周辺は野山や田畑が多く、少年期の手塚は昆虫採集を始めとする昆虫観察に夢中となり、自ら昆虫の専門冊子を作った程であった(後に書籍化されている)。「治虫」のペンネームも昆虫、特にオサムシを始めとする甲虫が好きであったため。
小学生時代の治は体が弱く、重度の近眼で天然パーマ。また、両親が東京出身のため、関西弁を話さなかったことから、クラスで浮いた存在としていじめられていたが、彼の描いた漫画が評判となると虐めはなくなり、クラスメートは勿論、教師からも一目置かれる程となった。しかし、中学生になると太平洋戦争が生活に影を落とすこととなる。
工場での勤労奉仕中に漫画を描いているのを発見されて殴られ、作品を破られたり、大阪空襲に遭遇して九死に一生を得る等の体験が後の反戦思想に影響した。この体験以降、手塚は工場に行くのを辞め、家に籠ってひたすら漫画を描く様になる。また、工場での栄養不足の食事と不潔な環境が原因で両腕が重度の白癬菌症に侵され、一時は壊死により切断寸前の危機に陥ったが、医師の粘り強い治療により完治する、という経験をする。この時の感動が、手塚が後に医師を目指すキッカケとなった。終戦直前に高校受験をしたが、漫画にしか興味を持たなかったため、失敗。
その後、勉強をし直し、大阪帝国大学附属医学専門部に合格、医学生となる。この医学専門部は戦時体制で作られた軍医の養成所の様なもので、大学と異なり、(旧制)中卒でも受験することが出来た(手塚が卒業した年に廃止されている)。
医学生時代の1946年、4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でプロデビューを果たし、間もなく関西の新聞に4コマ作品を複数連載する様になった。翌年、坂井七馬原作で書き下ろした『新宝島』が赤本ブームを起こし、戦後関西に彗星の如く現れた若き漫画家として多忙を極めるようになった。この頃は大阪出版社からの描き下ろし漫画がメインであった。漫画執筆が忙しくなると医学専門部の単位取得が難しくなったため、母に相談。「医学より漫画が好きなら漫画家となりなさい」という一言で漫画家に専念することを決定したという。ただし、医学専門部は1年留年して卒業、医師免許も取得している。もっとも、余りに漫画執筆に熱中したことから医師としての見込みはないと学内でも見做され、医学専門部は「絶対に医師として働かない」という条件付で卒業させて貰ったという逸話もある。医学専門部同期のとある医師は「解剖スケッチで手塚は毎回高得点を出すのでよく写させてもらっており、一方頻繁に授業を休んでいた手塚の代返を引き受けていた」と証言している(休む理由を尋ねてもはぐらかされたそうであるが、恐らく執筆のためであろう)。卒業後数年経って開かれた同窓会に手塚は多忙で不参加であったが、代わりに会費数十人分の寄付をしてくれたため、盛大な会を開くことが出来たそうである。
同校卒業直前から「ジャングル大帝」で雑誌連載に重点を移し、東京に転居、少女漫画、青年漫画、大人漫画などジャンルを問わない活躍をみせた。しかし東京ではスポ根漫画家の福井英一との猛烈な競争に苦しみ(手塚はこうした熱血・根性系の作品を苦手としていた)、さらには桑田次郎、武内つなよし、横山光輝など後輩の売れっ子漫画家が次々と出現したことで、一時ノイローゼに陥った。
1959年に結婚。眞(1961年生まれ)を始め、3人の子に恵まれた。1962年に「虫プロダクション」を設立し、日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』の放映を成功させる。
1968年頃から劇画流行で「時代遅れの作家」というレッテルを貼られ、一時不振に陥った。白土三平や水木しげる、永井豪らのライバルを意識して作風を変え、時代に追随しようと格闘するが、この時期は虫プロダクションの経営問題などアニメ分野での苦難も重なってとりわけ暗い作風が目立ち、『どろろ』などの打ち切り作も多い。遂に虫プロは1973年に倒産、手塚自身も1億5,000万円(当時)の借金を負うこととなってしまう。しかし、同年から少年チャンピオン側の「これで最後」という厚意で連載したとされる『ブラック・ジャック』で久々の大ヒットを飛ばす。続く少年マガジンの『三つ目がとおる』もヒット、ライフワークの『火の鳥』連載も再開。フェニックス(火の鳥)の如く完全復活を遂げる。1977年から『手塚治虫漫画全集』の刊行も始まり(この際、旧作を「現在の読者」に受入れて貰いたいとの思いから手塚自身で描き換えを行い物議を醸した)、「漫画の神様」という評価を確固たるものとした。
以降は『アドルフに告ぐ』等、青年・成人向け作品に活動の重点を移して行くが、『ユニコ』等の幼年向け作品、『七色いんこ』や『ブッキラによろしく!』等の少年漫画も晩年まで描き続けた。秋田書店の編集者であった壁村耐三によれば「子供まんがの手塚治虫」が口癖であり、終生少年誌にこだわりを持っていたという。
手塚は「命を懸けてマンガを描く」というのを比喩表現ではなく、本当に実践してしまった人である。彼は癌に倒れた病床でも漫画を描き続け、凄まじい最期を遂げた。
手塚は担当医のいうことも聞かずに描き続けた。手が動かなくなっても痛み止めのモルヒネを打って描き続けた。奥さんは「もう良いんです」と手塚を静止しようとするが、彼はそれでも漫画を描こうとした。骨と皮だけの様な状態となってもなおベッドの上で漫画を描くのを止めようとしなかった。
死因はスキルス性胃癌。癌の中でも比較的悪性度の高いものの1つで、通常の癌よりも発見が困難且つ進行が早いといわれ、当時の技術では救命は困難であった。なお、手塚の死後、一般的な胃癌に関してはピロリ菌の感染が主因と判明しているが、スキルス性胃癌に関しては明確な原因は今もって不明であり、ピロリ菌の他、睡眠不足、ストレスや食生活(後述の通り、このいずれも手塚の生活に該当する)が原因といわれる。正確な病名の告知はされていなかったが、医学博士でもある手塚は癌に対する知識を持っていた。
連載中の作品の登場人物を癌で死なせたり、日記の節々にそれらしい記述が見られたり等、自分が癌と悟っていた節も窺える。子息の手塚眞も「恐らく知っていたでしょう」と語っている。その飽く事無き漫画に対する執念がどこから来ていたのかは誰にも分からない…。
マネージャーが聞いた彼の最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ…」であった。
仕事は能力の限界かそれ以上を常に引受け、また、大御所であるのに仕事の依頼が入りやすいよう原稿料は低く抑えていた。編集者時代の鈴木敏夫が手塚と仕事をした際には「原稿料は幾らでもいい。僕のは単行本になれば売れるから」といわれたという。
殺人的な仕事量を(月産300ページ以上+アニメ+講演+審査員)こなしながら仕事に対して異常なまでの完璧主義で、一切の妥協を許さなかった。休暇はなく、移動中にも漫画を描き続け、ゆれる車内でもほぼ問題なく作業できるほどの技量を持っていたが、その完璧主義とあまりに多い仕事量から、締め切り破り・逃亡の常習犯として編集者から恐れられていた。それを表すエピソードの一部として「中国で無断発行された海賊版を目にするも、著作権侵害されたことではなく下手な絵に描き直されていることに怒り、訂正させるためにタダ働きした」といった出来事が語られている。
また最新テクノロジーや、学会で話題を呼んだ学説を漫画に反映する事も多く、『ジャングル大帝』では大陸移動説、『火の鳥』では騎馬民族征服王朝説、『アドルフに告ぐ』ではヒトラーユダヤ人説などを題材にし(大陸移動説はのちに定説となったが、騎馬民族征服王朝説とヒトラーユダヤ人説はその後の研究で否定されている)、寺沢武一は「色々教えてもらったけど、あの忙しさの中でどうやってそんなに最新の情報を取得できるのか、そのアンテナを手に入れる方法だけは学べなかった」と述懐している。
向上心も人一倍で、新人賞の審査を任された際には「本当は審査員ではなく、応募する側になりたい」と言い、晩年、大物と呼ばれるようになっても出版社に原稿を持ち込んで逆に出版社に恐縮されることもあったという。
手塚はたとえ極端なデフォルメを施されたキャラクターでも基本的なリアリティにこだわりを持っており、『ジャングル大帝』のアニメ制作の現場でダチョウの足指の数(2本指)を間違えたアニメーターを厳しく叱責したという逸話がある。
晩年のインタビューで、「めげそうになるたびにね、主流というようなものに敵愾心を抱いてね、コンチクショウと思ってやってきたですね。たとえばね、水木さんの『ゲゲゲの鬼太郎』が受けたとなると、すぐそれを負かそうと『どろろ』を描いてみたりね。(『スコラ』1985年5月23日号)」と語ったように競争心・敵愾心は高く、新たな作品を生み出す原動力にもなっていた。
漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らねばならぬことがある。
それは、基本的人権だ。
どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。
それは、
一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。
一、特定の職業を見くだすようなこと。
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。
この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人とを問わずである。
これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。
―― 『マンガの描き方――似顔絵から長編まで』 (1977)より
手塚の睡眠時間は一日2~3時間であり、NHKがテレビ取材に来た時には3日間ほぼ全く寝ないで仕事をし続け、取材班が驚愕したというエピソードがある。その光景は全国放送された。松本零士は学生時代に手塚の仕事を1週間手伝った時に、手塚が1週間全く寝る姿を見ずに終わり驚愕した。1年を通して完全な休日というべきものはほぼなく、ちょっとした移動中でも仮眠をとらずに原稿を描いていることも多かった。手塚は食事も漫画を書きながら片手で済ませてしまい、こうした生活が命を縮める原因になったという可能性は否めない(ちなみに、もともと歯並びが悪かったのだが、甘味を好み、歯を食いしばって力みながら仕事をするため、歯がボロボロで早い時期から総入れ歯状態であった)。もっと健康に気を配っていれば長期的に見てもっとたくさん漫画を描けたかも知れない。
長寿だった水木しげるに対して、手塚は60歳という早くに亡くなっていることがよく比較される(水木も睡眠の重要性について描いた漫画で手塚を登場させている)が、一方で宮崎駿は「彼は猛烈に活動的な人だったから、普通の人の3倍くらいやってきたと思う。60歳だけど180歳分生きたんですよ。天寿を全うされたと思います」と手塚の人生を評している。
多忙な生活にもかかわらず、交友関係の広さは有名だった。駆け出しの漫画家にも対等に接し、作品に目を通していた。漫画家のみならず各界を代表する文化人との親交もあり、芸能人や落語家、演劇関係者、テレビ業界人、小説家、現代美術家などに多くの友人がいた。
良くも悪くも子供っぽいところがあり、松本零士にチョコレートが入ったうどんを食わせたと言う逸話がある。ただし、松本零士本人は漫画家仲間であるちばてつやにパンツに生えたキノコを食べさせるというもっとお茶目なことをしている。
さらに、「家のトイレのスリッパの上にティッシュで来るんだカリン糖を置く」という悪戯もしていたことがあり、カリン糖がなくなるとまた新しいのを置いて、飽きるまでやっていたと次女・千以子は語っている。
朗らかな人柄で、ファンがサインを求めて来た時にはどんなに忙しくても全力でサインを描くのが日常であった。ファンレターの返信にも熱心で、多忙にもかかわらず、時には直筆で返事を書くことすらあった。手塚と手紙のやり取りをした人物は藤子不二雄・石ノ森章太郎・矢口高雄・富野由悠季・芦田豊雄・眉村卓等著名人にも数多い。
手塚はアシスタントに給料を渡す際には余分に1,000円出し、「必ず映画を見るんだよ」と微笑んだ等、面倒見の良さが多く伝えられている(当時の1,000円は映画を見た後で食事が出来る程の価値があった)。虫プロを辞め演劇の世界に身を投じた制作進行は、食える様になるまで毎月仕送りを貰い、劇団広告を出して貰い、泣いて感謝した、というエピソードもある。
彼が小学生の頃、黒板に完璧な円が描け、それはコンパスを使った先生が描いた円より完全な円であった。プロとなってからも正確な円や正方形をフリーハンドで描けたという。
また、当時手塚は大好きな昆虫図鑑を自作しており、そこには写真と見紛うばかりの精緻な絵が残されている。戦争の影響で絵の具が手に入り辛く、赤色がなかった時には自分の血で代用したことがあり、それも確認出来る。
速読能力が高く、500ページある本も20分程で読めた。上述の情報収集でもその力を大いに活用していた。
趣味はピアノ演奏で超多忙な中でも時折、気分転換も兼ねてひいていたという。この趣味を反映してか音楽や音楽家を題材にした作品も手掛けており、70年代には19世紀のワルシャワ中央音楽院(ショパンの出身校として有名)を舞台にした少女漫画『虹のプレリュード』を描いており、晩年の作品『ルードウィヒ・B』(死去のため未完)では音楽家でピアノ演奏家でもあった若き日のベートーヴェンが主人公であった。
4コマ - 大長編漫画まで、子供 - 大人向けまで、ギャグ漫画からシリアスな社会派漫画まで幅広い。[ペーター・キュルテンの記録』の様なドロドロとしたものも描くが、『ドン・ドラキュラ』や『アトムキャット』の様なほのぼのとした作品も描く。彼の遺作『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』はいずれも作風を変えており、『ルードウィヒ・B』は少年向け、『グリンゴ』は大人向け、『ネオ・ファウスト』は青年向け作品である。
そうした様々な作風の手塚漫画の中でも、概ね共通している特徴は、何よりも「ストーリーの面白さ」を最重要視したことにある。現在の一般的な漫画は「キャラを魅力的に描くこと」を何より重視し、ストーリーも絵柄も「キャラをいかに立たせるか」ということに焦点を当てたものが多い。これに対し、手塚作品は「ストーリーをどう語るか」ということに焦点があてられており、キャラクターはストーリーの面白さを読者に伝える「役者」として造形されている。
初期に単行本で作品を発表していた時期は、『来るべき世界』に代表される様な緻密に構成されたストーリーも特徴であった。しかし、手塚も雑誌連載が主となってからは多忙もあり、設定や構成を細かく準備せずにスタートし、読者の反応を見ながら展開を考えて行くことが多くなった。例えば、『ブラックジャック』は連載長期化に伴って過去の出来事などが後付けで考え出されたことや、『キャプテンken』は重要な謎が連載中に読者から当てられてしまったため、途中で変更されたことはファンの間で有名である。『陽だまりの樹』、『W3』等、物語の根幹に関わる設定がラストで唐突に明かされることも多い。
自身のストーリー漫画の画期性を「悲劇性導入」と主張したことからも分かる通り、ストーリーのの終盤で登場人物が死ぬなど悲劇的なラストに終わることも多い。手塚自身が「私は、他の人と比較にならないほどペシミストなんです」と話しているとおり、カタストロフィー(破滅)や悪人を描くことをとりわけ好んだ。ただし、子供向け作品でもしばしば容赦ない鬱展開を描いたのは賛否が分かれるところである(宮崎駿が「安直なペシミズム」として批判している)。
歴史や科学技術を題材にした作品であっても漫画的なハッタリを大切にしており、それは専門の医学も例外ではない。『ブラック・ジャック』後書きで東大医学部学生から「そんなデタラメを書くのなら漫画家をやめちまえ」と怒鳴られたことがあったと明かされているが、これに手塚は「デタラメなことがかけない漫画なんて、この世にあるものでしょうか」とコメントしている。
手塚は存命中から「ヒューマニスト」「平和主義者」の文化人として賞賛されることが多かったが、手塚自身はヒューマニストの代表として見られることをことさら嫌っていたことで知られる。かつて渋谷陽一は手塚にインタビューした際、「俺についてヒューマニズムというな、とにかく、俺はもういっちゃ悪いけど、そこら辺にいるニヒリズムを持った奴よりも世ほど深い絶望を抱えてやってるんだ」「ここでハッキリ断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切辞める」とシリアスな顔で怒られたという。
手塚には露悪趣味の一面があり、「『正義の味方』や『良い子』的な善のキャラよりも悪の魅力を存分に振りまいて暴れ回る悪役キャラの方が魅力を感じる」と自著で述べていたり、代表作『ブッダ』について、「終わりの方なんか早くやめたくてこんなもの何故書き出したのだろうと思うくらい嫌悪感がありましたね」などと語っていたりしたことさえある。
一方で、彼の発言には平和主義者・ヒューマニストとしての信条も確かに垣間見える。『マンガの描き方』(1977年)で述べた「漫画を描く上での原則」(後述)や、平和や人権等に対する考え方は間違いなくヒューマニズムと平和主義に根差したものである。晩年のエッセイ『ガラスの地球を救え』(1989年)ではが人間が有する醜い一面を列記しつつ「それでもなお、僕は人間が愛おしい」と書き記している。
こうしたことから、上記の発言も「道徳的な作家扱いされることに戸惑った手塚が照れ隠しで語ったもの」という風に解釈されることが多い。
基本的な絵柄はデフォルメ色の極めて強いアニメ的なものだとされるが、初期はディズニーの影響が強いバタ臭い絵柄であり、1960年代後期以降は劇画の影響を受けた絵柄に変わっている(手塚は初期の作品を再版する際自分で絵に手を入れており、現在広く知られているのはこの後期の絵柄である)。また作品によっては、一見手塚作品には見えない程作風を変えていることもある。
1960年代に連載した『人間ども集まれ!』や『上を下へのジレッタ』等は小島功ら大人漫画の作風を意識しており、内容も他の手塚作品とは大きく異なる。同年代末の劇画流行時にはそれまでの丸っこい描線を捨てて直線的な描線に切り替え、水木しげる風の点描や写実的な背景を取り入れたり、晩年にはフランスの漫画家・メビウスのタッチを「メビウス雲」「メビウス線」として自作に取入れる等、時代流行に合わせた絵柄変化には積極的であった。
手塚漫画における絵は「ストーリーを語るための手段」としての意味が大きく、手塚は1コマの絵画的完成度を高めるために時間を使うよりも、作品を多く描きたいというタイプであった。ある時、少年マガジンの編集者が「先生は見開きの中で、特に重要視しているコマというものはありますか?」と手塚に質問したところ、「ありません!」との即答だったという(『虫ん坊 2010年9月号』より)。(※注2)
手塚は先輩漫画家に師事した経験などはなく、本格的な絵画教育を受けていないことには負い目があったらしく、大友克洋の絵についての文章の中で「特にぼくはデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。」と語ったこともある。また「アドルフに告ぐ」の単行本を出版するにあたって、「自分の絵が表紙では子供っぽい」との理由でリアルな画風のイラストレーター・横山明に表紙の絵を依頼することになったという。つのだじろうは女性の絵を手塚にほめられたことがあり、「君は島田啓三先生に厳しくしごかれただろう。島田先生は本式の絵画だけど、僕のは丸に手足をつけた図形だからな」と言われたと語っている。
コマ割りの実験の元祖と目されるだけあり、非常に凝ったコマ割りが豊富。コマからハミ出す表現は当然の事、外側から内側に向かって渦を巻いて集束していく、という実験的なコマ割りや、大胆に斜めにカットしたコマを視線誘導でつなぐ、などの斬新な手法が『ブラック・ジャック』など、一部の(主に対象年齢の高い)作品で見受けられる。また、時にはキャラクターが枠線をぶち破ったり引き千切って武器にしたりするなど、コマ割りをギャグとしても使用している。
手塚は「形の定まらないもの、変化・変身するものに強くエロス(ここでは生命力と言う意味と性的な魅力双方の意味)を感じる」、と常から発言しており、幼少期から昆虫に魅かれていたのも、アニメーションに夢中になったのも、大本はそこに理由がある。また、今でいう「ケモナー」的な趣味があり、ボッコ隊長など色気のある擬人化動物を描いた。さらに、人間が動物(特に犬)に変身するというモチーフは「バンパイヤ」「きりひと賛歌」「火の鳥 太陽編」など、度々登場する。2014年には机の引出しから未公開・ボツ原稿の他、ケモエロを含む沢山の落書きが発見されており、そちらの方でも先駆者であったことが窺い知れる。
幼少時より故郷・宝塚で宝塚歌劇団の男装スターに親しんでいたことや昆虫の雌雄嵌合体を目にした影響等より、曖昧模糊とした性別的要素を持ったキャラを好んで創作していた。例として、男と女の2ハートによって揺れ動く『リボンの騎士』のサファイア、ボタン1つで性別が変化する『メトロポリス』のミッチイなどが挙げられる。
また、あのアトムも原型は少女であり、長い睫毛等に女性的な部分を残している(ちなみに、実現はしなかったが、1970年代にはアトムを女性が演じる形で実写化が企画されていたこともある)。特に「男と思ったら女であった」という男装ネタは非常に多く、手塚作品に登場した男装キャラは数え切れない。
手塚は自身が考案したキャラを複数の作品に登場させることを用いたことでも有名であるが、これは友人や友人の関係者を毎回登場させていたことが始まり。手塚スターシステム第1号キャラは友人の祖父をモデルとした「ヒゲオヤジ(伴俊作)」である。また、友人をモデルとした「アセチレンランプ」もデビュー前に誕生している。その他、馬場のぼるを始めとする漫画家仲間もモブキャラとして頻繁に登場。彼らは手塚漫画最初期 - 晩年まで活躍し続けた。
なお、手塚漫画にしばしば登場する「ヒョウタンツギ」「ママー」「スパイダー」といったキャラは治虫の妹・美奈子氏が子供時代に考えたキャラであり、兄妹の間では漫画のキャラを共有して良い決まりであった。これらはラブシーンやシリアスな展開を描いてしまった際、手塚が照れ隠しで登場させることが多い。
手塚はディズニー狂いを自称する程ディズニーに傾倒しており、アニメ作りにも人一倍強い情熱を燃やしていた。1961年、アニメスタジオとして虫プロダクション(通称「虫プロ」)を設立。
『鉄腕アトム』が日本初の30分テレビアニメとして制作される際、手塚は制作費を格安に設定し、関連商品の著作権収入で資本を回収するというビジネスモデルを選んだとされる。これは制作費を破格に安くしたのはテレビアニメを普及させやすいのと、他の企業と差を付けるためであったと語る(しかし、これは当時のスタッフによれば実際は異なり、テレビ局は虫プロに対して多額の額を支払っていたという証言もある)。
当初は毎週の30分アニメ制作は無謀なものといわれたが、止め絵やバンク多用による作画枚数の節約を演出の妙で克服し、『鉄腕アトム』は見事成功。日本でもテレビアニメが成立することを初めて示した。一方でこれはスタッフの過酷な重労働と手塚が漫画によって蓄えた資金によって初めて実現したものであり、常に破綻の危機をはらんだものであった。しかし、鉄腕アトムは4年間放送が続き、他のテレビ局も30分アニメを製作する様になる。アトムは海外で40ヶ国で放送される等大ヒット、玩具と海外からのロイヤリティーだけでも制作出来る様になった。手塚も「アニメ鉄腕アトムは後半は黒字」と語っている(※注3)。
さらに手塚自身、アニメーターを軽んじていたわけでは決してなく、虫プロは寧ろアニメーターを絶対的に尊重し、作家性を重んじる社風であったと、富野由悠季らが証言している。
手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいと雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している。
また、杉井ギサブローは手塚治虫が低予算のリミテッドアニメの手法を日本アニメ向けに確立させなかったら、日本は間違いなく世界一のアニメ大国となることはなかったであろうとも語っている。彼は東映アニメーション(東映動画)や海外受注を積極的に行った第一動画などもその過失があることを強く批判している。
実際の待遇はどうあれアニメーターの酷使は自他ともに認める事実であり、彼の評価が死語にいささか低下した主な原因である。
| 赤塚不二夫 |
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| 石ノ森章太郎 |
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| 荒木飛呂彦 |
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| さいとう・たかを |
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| 鳥山明 |
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| 福井英一 |
|---|
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| 藤子不二雄(藤子・F・不二雄・藤子不二雄Ⓐ) |
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| 永井豪 |
|---|
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| 松本零士 |
|---|
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| 水木しげる |
|---|
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| やなせたかし |
|---|
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| 横山光輝 |
|---|
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批評眼にも優れていたらしく、前述の通り、
等々、「彼の作品は残る」といわれた漫画家は大抵実際に後世まで作品が残っている。
その他、漫画・アニメ関係者に限らず手塚作品から影響を受けたクリエイターは数多く『グイン・サーガ』で知られる小説家、栗本薫は耽美小説でも有名だが、手塚の『新撰組』の丘十郎と大作の関係に妖しさを覚え、その道に目覚めた、と語っている。また、魔夜峰央は代表作となった『パタリロ!』において、革新的な作風・手法を編み出すべくあらゆる要素を詰め込み、実験的な作品に挑戦し続けたが、結局BLからストーリー4コマまで、すべて手塚治虫に先んじられていたことを知って愕然としたと告白している。
手塚治虫の話題にはネット上では誤解も非常に多い。
| ”手塚はある出版社パーティーの席で全く面識のなかった水木に話しかけ、「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放ったという。水木はその場では全く反論せず、のちにこの体験をもとにして「自分が世界で一番で無ければ気がすまない棺桶職人」を主人公にした短編『一番病』を描いた。” |
このエピソードは手塚と水木の関わりを述べる際にはほぼ必ずと言っていいほど持ち出されるくらいによく知られており、明らかな事実として紹介されることもあるが信憑性には疑問があり、ガセ情報の疑いがある。
(※注1) 昭和の戦前に宍戸左行、松本かつぢらはストーリー漫画の要素とされた「映画的演出」を取入れた漫画を発表しており、特に松本かつぢの作品にはストーリー漫画のもう一つの特徴とされた「悲劇性」も盛り込まれている。このことから「手塚治虫=ストーリー漫画の開祖」という見方には異論が出され、現在では「ストーリー漫画=手塚の影響下にある戦後日本の漫画」という同語反復的な定義に落ち着いている。
(※注2)1950年代初期の作品は丁寧なタッチで描かれており、特に人物が細かく描き分けられた群衆シーン等、1コマ1コマに手間を掛けてでも絵の魅力を重視していた時期もある。
(※注3) 『鉄腕アトム』も前半は大赤字で、手塚が私財を投じて穴埋めしていた。
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