江戸時代の庶民の間で食された、麦ごはんって大体何割ぐらいだったんでしょうか。。。.先般、質問で家康の麦飯の比率を聞いてみたところ五分突玄米に三割の麦というコトでしたので試してみましたら、んまあ、んまあ食える(麦は押麦を使用)でした。。。庶民のモノはもっとボソボソだったんでしょうか。。。ヽ(´ー`)ノ
~玄米麦飯家康Ver~
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2012/1/15 1:46
江戸時代末期までの地方の麦飯の割合は、麦と米が1対1もしくは麦7に対して米3の割合です。但し、米は白米ではなく玄米です。また麦の他、粟や稗(ひえ)の雑穀を混ぜたり、大量の野菜類を米と一緒に炊き込んだ「かて飯」です。当時の麦飯は押し麦ではなく「挽割麦」を米に混ぜて炊いたものです。麦は粒のままでは煮えにくく、搗いてから一度茹で(うましという)、飯に炊き込みました。西行法師の歌に「かたつき(片搗)麦(麦を水につける、水をふって搗いた麦)があり、一度糠を取り、再び搗いたものを「真搗麦」(まつきむぎ)「もろつき麦」、さらにそれを挽割したものを「挽割麦」といいました。なお火が通りやすいように加工された押し麦は近代に入ってからです。江戸の下級武士の食事もひどいもので、ある狂歌には「表から勝手の見える徒の町(かちのまち、下級武士の居住区) から雑炊に大根二切れ」とあり、おからの雑炊にタクアン二切れというものです。また旗本・御家人の米も古米(品質管理されていないので、黄色く変色したり、粘り気がなく、悪臭が漂っているものもありました)が回ったといいますので、かなりまずい米を食べていたようです。精白米が普及しだすのは承応期(1652~55)で、江戸に玄米を精白する搗き米屋が登場してからで、都市部は武家や富裕層を中心に白米が食べられ、庶民に白米が食べられるようになったのは江戸中期以降です(それ以前は玄米や麦飯)。ただ白米を日常的に食べられるのはあくまで都市部だけで、白米は贅沢品であり、地方では白米を食べるのはハレの日(盆や正月)だけでした(食べていたのは上記のもの)。なお白米が全国で食べられるようになるのは、精白された白米が普及する大正時代に入ってからです。
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明治から大正にかけて、東京近郊の人たちが食べていたのが、米三分に麦かヒエ・アワ・大根などを七分ほど入れたカテメシです。これを五分五分にした家があると「あの家は贅沢だ」と言われました。江戸時代には、吉宗時代の記録に「穀物の姿は見えず葉物ばかり」という粥を食していたという記録があります。コメが余っていたなど、全くの妄説です。詳しく知りたければ、『食生活の歴史』(講談社学術文庫)をご参照ください。
江戸時代中期以降は米が余ることが多々あったそうです。米が余ると米相場で値が下がるので、公儀も各藩も日本酒造りを奨励しました。米が下がりつづけると、給料棒禄を米で支給されている武士は生活水準をさげはければなりません。しかし農家(地主農家)は商品価値の下落のとどまらない米に見切りをつけて、現金化が早くて需要の多い商業作物に切り換える場合も多かったのです。麻、綿、それに野菜と大豆です。このような切り換えは各農家を儲けさせ、藩内の流通も活発化させ、米の相場安定にもつながるので、大名たちも奨励しました。しかし幕府にすれば地方の藩が経済的に潤うのは危険ですので、これにいちいち禁令や文句をつけます。しかしそれだと米は下がりつづけるので、武士個人個人の生活は逼迫するのです。大いに矛盾を抱えた幕府の米政策だったのですが、飢饉や小作農の貧窮はたびたび起こりましたが、庶民の食生活が格段に向上した江戸時代は、決して米は高嶺の花だったわけではないのです。もちろんたまの凶作や、藩の失政で、食うや食わずの小作農が、飢饉にさらされることもありました。しかし千刃こき、備中鍬の発明により室町~戦国の頃より格段に米の生産性が向上したのは事実です。稲作奨励に従った地域では麦との二毛作で経済活性を図った場合もありました。しかし麦も余り気味で価値が下落するため麦めしを奨励せざるを得なかった幕府の作物政策は矛盾だらけだったということです。武士の給料が米ということ、生産性のない武士が経済を担当するという部分とあわせて、時代に合わなくなっていたのです。



















