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数学の定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました。たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題なのかなと思うのです。この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

補足

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況のアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。

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回答(10件)

そもそも定義というのは前提であって、そこに解釈が入る余地があったら、そこから先へは一歩も進めません

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数学はできるだけ厳密に考えていこうという姿勢はありますが、限界はあるようです。例えばAの定義を「BにおいてCであるDのこと」と定義し、B、C、Dも同様に定義していくと、定義を循環させないかぎりはどこかでこれ以上は説明できない言葉が出てきます。wikipediaを読んでみたところ、直線は厳密には定義されておらず、こういう性質を持つといういくつかの公理で構成されているようです。数学の主張はできるだけ証明するものですが、証明に使う事実をさらに証明して……を繰り返していくと、これ以上は証明できない「公理」に行きつきます。公理は、誰もが正しいと認める(はずだ)から、証明なしで正しいとして扱う主張(仮定)です。どうしてもこの証明不能な公理は潰しきれません。このように、数学の証明も定義も、これ以上証明や定義がしきれない果て(公理)は存在します。そして問題なのが、この誰もが正しいと認めるはずの公理が、絶対に正しいと保証されているわけではない、ということですね。公理が間違っていた、とまでは言わないまでも、公理とされていたことが成り立たないと仮定してもきちんと理論が成り立ってしまうという前例があったようです。なので数学の公理や定義も、常に発展途上ということですね。研究の過程で、この定義や公理は不適切だということになれば、修正される可能性はあると思います。数学の定義や公理や定理が修正されることは、ほかの科学的事実に比べれば少ないとは思いますが、「間違いや問題があったらそれがわかった時点で正す」という姿勢は、科学にも共通する大切な姿勢でしょう。この世に絶対に正しいと言い切れることは何もないので、自分の扱っているものが間違っている可能性を常に想定するのは、知識を追求する人にとっては必要不可欠なものだと思います。でないと、地球が動いていると主張する人を有罪とするようなことがまた起きかねません。ちなみに、数学で使う用語の定義が間違っていたから根本から修正するという例は聞いたことがないですが、定義を拡張するということはわりとよくやってるみたいです。(xのn乗のnを自然数→実数→複素数と拡張する、など)なので、定義が変わること自体はそう珍しいことではありません。

あなたの疑問は、あなたが受けた義務教育の中で解決済みではないかと思うのですが?「言葉とは共通の認識を持つ者同士でのみ有効な情報伝達手段である」だから我々は他者と最低限の共通認識を持つべく最低でも9年間の教育を受けるわけです。直線の話は「概念上の話」と「現実に描いたときの話」を混同するから起こるジレンマです。方向については「方向の表し方」の定義に則って考えれば混乱する理由がなくなります。数学は「この世の理」でありその意味を考える必要はなく「それが正しい」と証明されて以降は疑問を挟む余地すらないものゆえ自然言語で表すより専用の言語で書き表したほうがシンプルになります。だから人類は数式という記述方法を編み出しました。

「方向の表し方の定義」ってなんですか?聞いたことないんですが。

この言い分だと、あなたには「1」をはじめとする「数」の定義すら無理ですね。自然言語はすでにして高度に抽象的です。言語の感覚的受容のフェーズしか考えず、知識体系としての整理のフェーズに思い至らないと、こーゆーことになります。基本的なモデルのはずなんですがね。

まあ人にはそれぞれできることできないことがあるんでいいんじゃないでしょうか。あなたはあなたでこの書き込みにしても言葉に棘があって、人付き合いが苦手そうですし。

数学の定義は、いろんな定義があり、必ずしも一意なものではありません。これは、歴史的に数の範囲を拡大してきたことでもわかります。はじめに、直感的な自然数の定義から始まり、ゼロとマイナスを追加した整数の定義に拡張され、分数を追加した有理数を定義し、さらに、無理数を追加した実数の定義をしました。さらには、虚数を追加した複素数を定義しました。もちろん、現代では、ゼロを空集合として定義して、自然数を再構築したりしていますが、これとて自然数の定義の一例にすぎません。あと、数学の概念を説明するのにわかりやすい定義から、命題を証明するのに簡潔な定義まで、さまざまな定義があります。たとえば、ガロア理論では、直感的にわかりやすい、有理係数の方程式の最小分解体を正規拡大体と定義します。でも、有理係数体の拡大次数が拡大体のガロア群の位数に等しい拡大体を正規拡大体と定義することもできます。後者の定義は、証明が簡潔になるために採用されるのですね。ちなみに、後者の定義は、有理係数以外の方程式にも適用可能な定義です。このように、さまざまな数や概念の定義は、それぞれの数の範囲に限定すれば、いまも正しい定義です。したがって、ユークリッド幾何学の公理の範囲では、いままでの命題は正しいことになりますよね。ただ、これらの定義や概念そのものが間違っている場合があります。それが「ラッセルの背理(パラドックス)」です。これは集合の集合を定義できないことがあり、族(family)の概念を定義するきっかけになりました。でも、建前は、矛盾(パラドックス)が見つからないかぎり、数学は自由に定義や概念を作ってよいことになっていますので、もっと気楽に考えてはどうでしょうか。

ユークリッド幾何学の公理では、2点を通る直線は1本しか引けません。したがって、他人と直線のイメージが異なっていても、2点を通る直線が1本しか引けないという公理を守るかぎりは、問題はありません。よく似た話として、自分と他人が考えている神や仏が実は違っているのではないかという疑問や心配があります。これも、それぞれの宗教の教義に従っているかぎりは問題はありません。偶像崇拝を禁じた西洋の神と、仏像芸術の発達した東洋の仏の違いかもしれませんが、西洋では神を抽象的なものとして考え、神の属性(教義)を持つ限り同じ神と考えているようです。仏像芸術の発達した東洋では、仏は目の前にある仏像のイメージにとらわれ、他人は別の仏像のイメージで信奉していると疑心暗鬼になりがちです。

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