日本の戦国時代の後期は、西欧に負けないぐらいの鉄砲を持っていたのでしょうか?火縄銃が伝わった頃は、ちょうど日本が戦国時代であっという間に広がって、国内でも盛んに製造されるようになったそうです。その数は、西欧にも負けないほどのものだったのですか?ポルトガル、スペインが日本を植民地にしなかった、出来なかったのは、ひとつは遠いという理由があると思いますが、いまひとつは、その軍事力のためでしょうか?とてもではないが植民地には出来ないと。何十万と言う軍団を送らないと、戦にはならない。ということでしょうか?当時の航海技術、兵站では無理だったのですか。

日本史・4,498閲覧

ベストアンサー

たとえば西暦1600年の時点での、日本と欧州各国の軍事力の比較は興味をそそるものですね。一時期にこの手の話題で取り上げられたノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫刊)が有名です。しかし、この著者はあまり良くない史料を扱う非歴史家で、1600年前後の日本の鉄砲の総保有数を何十万などと誇張したり、これが珍しい日本史の英著であったため他の欧米歴史家に引用されまくっちゃったりと、まあ困った事態になりました。実際に当時の比較は難しく、誠実な検証が必要となります。(1)人口日本: 1200~2200万人スペイン: 1,000万人欧州全体: 10,500万人 (2)日本の軍制1600年の前段の豊臣政権では、かなり過酷な軍役が課されていて「本役」と呼ばれた標準軍役が「1万石につき500人」でした。つまり、全国を2000万石とすると(慶長検地時は1800万石)、100万人が動員可能でした。1615年の幕府によるとチョット軍役が軽くなり「1万石につき250人」となりました。その兵種の内訳は、・ 鉄砲20丁・ 弓10張・ 槍50本・ 馬上14騎・ その他(=兵站兵156人)豊臣の五人役が破壊的な軍役でしたので、この徳川幕府軍役は落ち着いた感があります。それでも、・ 全国で軍勢50万人・ 全国で鉄砲4万丁が動員可能でした。兵站を除く純戦闘兵では、20万人といった所でしょう。(3)欧州の軍制1600年当時の欧州では軍需産業や軍制が成熟しつつあり、軍隊編成の中の鉄砲兵の割合も「1:1」や「1.2:1」など槍パイク兵らを上回る勢いでした。しかし、動員兵に関しては日本が分があるようです。オランダ独立戦争や三十年戦争の兵力を見ても、単独国の純戦闘兵力が2万を超える戦役はほとんど見られません。軍勢にしても鉄砲数にしても、日本は欧州各国を圧倒する程ではなくてもトップか上位の軍事力だったと推測します。(4)遠さ何せ日本の火縄銃は1543年のポルトガル船がもたらした兵器で、欧州で最新の兵器・戦術に日本が追従できなかったとしても、それは酷でしょう。欧州自身も、隣国からの絶え間ない技術・戦術輸入によって軍事大国化したので、日本のように一国内の内戦だけで精鋭化したのは珍しい例でした。またその「遠さ」は逆に、日本を欧州各国の干渉から護ったワケですし。例えばポルトガルの東インド兵力は、総数でも1万人以下、最大規模の戦隊としても2000人未満でした(C.R.チャールズ:1985)。イエズス会宣教師のヴァリニャーノは明確に「日本人の好戦性・多軍勢・城郭・狡猾さと欧州各国の軍事費をふまえて、日本は征服できない」と1579年に報告しています。欧州各国に出来たことといえば、日本のどこか険峻で臨海の地に西洋要塞を築いて、わずかな自国兵と日本人キリスト教徒を籠城させ、優勢な帆船の砲撃で攻城勢を退け続けること位でしたでしょうね。実際に長崎は要塞化の話があったそうで、それが実現しなかったのは日本の幸運でしょう。(5)検証birdea37さん追記の疑問もご尤もですが、検証いたします。重ねて申しますが、日本一国の数十万丁で欧州全土の軍事力を上回る、などと言う説は噴飯です。その上で、じゃあ何丁だったの、と定量性を検証するのが私の目的であり、その検証を乱暴と言われないようにしたいものです。上記の1615年の幕府軍役は、決して「努力目標」ではなく「義務」でした。前政権での五人役が実際に施行されていた事に比べれば、2.5人役や指定された鉄砲役務は、決して過酷ではありませんでした。①福井松平藩は1634年「御軍法役付之事」を藩内に発布し、1万石につき鉄砲25丁を課した。②筑前秋月藩の黒田家は、1637年島原天草の乱での出兵約2000人にて鉄砲218丁を派遣した。③秋田佐竹藩は、1677年「遠路軍役騎馬目録」にて約4000人に対して鉄砲560丁を軍備した。④1687年将軍綱吉は「諸国鉄砲改め」にて、軍役以外で村々に在野する鉄砲数を全国調査した。それによると、仙台藩領3984丁、尾張藩領3080丁、長州藩領4158丁、紀州藩8013丁。以上。いずれも17世紀で恐縮ですが、1615年軍役がまったく現実的であったことは証明できます。④に至っては軍事用の3倍~5倍ちかい「民間」狩猟用鉄砲が世間にあふれていた実数を如実に示します。これらの実例からも、1615年幕府軍役は全国諸藩がきちんと服役していた可能性が高く、朝鮮・関ヶ原・大阪城・島原と15万規模の戦役を繰り返した大軍勢の運用例を見れば確実に計15000~20000丁の鉄砲を動員でき、欧州単一国の鉄砲運用数を上回る能力を持っていたと言えます。繰り返しますが、日本の軍備は「欧州の単一国」を上回れただけです。細切れで小国が乱立していた欧州です。そのたった一国に勝てる軍備があっても、ドングリの背比べに過ぎません。欧州のほとんどの戦役が連合国による戦いであったことからも、日本一国で欧州全土を席巻できる実力などありません。それが、当時の日本の定量的な実力でした。

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その他の回答(5件)

>日本の戦国時代の後期は、西欧に負けないぐらいの鉄砲を持っていたのでしょうか? それを証明するまっとうな史料は残っていません。 トンデモネタの一つですね。信じている人は多いですけれど、戦国期に生産されたと確実に言える鉄砲が一丁も残っていないのが現実です。 ヨーロッパでは1503年チョリニョーラの戦いでスペイン軍が銃砲を多数運用してフランス軍を打ち破り、これをきっかけに銃の普及が進むこととなりました。スペインでは1534年にテルシオ(一個三千名からなる密集歩兵部隊)の編成を変更したとき、銃兵の数を歩兵の半数、つまり1500名としています。 部隊編成における銃兵の割合が50%というのがどれほど多いかと言えば、関ヶ原におけるそれがわずか10%だったことからもわかるでしょう。この段階で数字的におかしいというところに気づくかと思います。 信長が鉄砲を運用した1588年だと、ヨーロッパではアルテマ海戦がありましたが、ここで投入されたイギリス軍の銃砲は大砲2500門、鉄砲7000丁です。イギリス軍は伝統的なロングボウ隊にこだわって鉄砲の普及は遅れたのですが、それでも多数運用されています。>当時の航海技術、兵站では無理だったのですか。 スペインから日本まで船で二年かかります。 二年です。兵站どころの話ではありません。それに、西洋諸国がどこもかしこも植民地化したのは、ざっと200年はあとの話で、この時代はまだそこまでの力を持っていません。アフリカあたりでもそれなりの軍事力を持っている国は植民地になんかなっていないんですよ。 また、スペインが日本にやってきたのは、スペインが急速に衰退する時期にあたります。スペインの強大な軍事力はオランダの財力と南米の銀に支えられていましたが、オランダが独立戦争を始めたこと、イギリスの私略船によって南米の銀の輸送が難しくなったことなど、経済的に一気に苦しくなっています。 1588年アルテマ海戦でイギリスに敗れたことから銀の輸送はますます難しくなり、オランダによるなりふりかまわぬ妨害に海洋における拠点を削られ、植民地拡大どころか勢力の維持すら苦しくなっていました。 スペインが日本を植民地にできなかったのは、あたりまえの話にすぎません。斜陽大国だったんですから、スペインは。追記 動員可能兵力に鉄砲の比率をかけて数を出すというのは乱暴に過ぎるでしょう。 最大動員可能兵力に応じた「鉄砲を用意する」能力があるかどうかは別問題で、実際問題大量動員した場合は「鉄砲配備率が減る」だけで、鉄砲の総数はひょいひょい増やせるものではありません。火薬の問題もありましたし。そもそも最大動員した兵力を「運用」することはできないのですから、最大動員兵力でものを考えるのも間違えです。実際問題、兵力は運用能力に頭を押さえられ、運用能力は技術水準に左右されるのが世の常。まあ、日本軍の鉄砲が「少なかった」とは言いませんが、近年の「世界最大」どころか、ヨーロッパ全土より多かったとか。わけのわからん話は論外ということです。近年はこの話にさらに尾ひれがついているようで、どこまで膨らむことやら。

そんなわけ、ねー。日本が火縄銃を主力に使っていたとき、西洋では歯車を使った火縄不要のライターのような発火機構の銃が出て主流に、なっていたので、銃じたいレベルが日本は劣った。火縄は要らない銃なんで騎馬しながらでも発射できたので西洋では騎馬して鉄砲を撃つ兵をドラグーン、竜騎兵と呼んだが日本は同時期このレベルに到底いってない。伊達政宗の軍勢の騎馬射手というのはウソ。

戦国時代より少し後ですが関ヶ原の戦いは当時の実質世界大戦だったらしいです。その理由は世界中の火縄銃をかき集めた数より多い数の火縄銃が関ヶ原に集まった為だそうです。戦国時代の武将で鉄砲の有効性に気が付いたのは織田信長が最初といわれてます。当時一番鉄砲の生産地だった堺を押さえ、武田勝頼の騎馬軍団を足軽に鉄砲を持たせて打ち破ったそうです。(長篠の戦い)当然他の武将も争って鉄砲を買い集めたらしいです。ただし全て信長に筒抜け。それに信長はポルトガル人のキリスト教を保護してたそうです。当然当時の日本の情報も流れていたでしょう。信長が本能寺の変で死んでも鉄砲の数は減らない。日本は遠いし島国。以上余談がタップリでしたが回答とさせて頂きます。

遠いというのは、余り当時のスペインには関係ありません。それよりは、戦国時代で、大量の鉄砲があったこと、優秀な武装集団が多くいたこと、秀吉、家康が、西欧諸国のキリスト教を使っての侵略意図があることを掴み、徹底的に弾圧し、追放したこと…などが挙げられます。また、スペインにとって誤算だったのが、鉄砲を日本人が自分たちで製造してしまったこともあります。火薬は輸出に頼らざるを得ませんでしたが、幸運にも、日本には世界を席巻出来るだけの金銀が大量にありました。さらに、スペインの無敵艦隊が、イギリスに敗れたことも、スペインの日本侵略を不可能にしました。「地球日本史」(産経新聞社刊)並びに、「逆説の日本史」(小学舘刊)を参照にされたら、如何でしょうか?

織田時代は、世界一の保有国だ。長篠の合戦での使用量は、その時代までのどこの国より多いことが証明されている。当時の風と人力だよりの機械技術では、陸地の目視できない航海は不可能であったから、日本には宣教師程度しか来れなかったのだ。その少し前の蒙古襲来で、世界の半分を席巻した元軍出さえ対馬海峡の広さで失敗したのだ。

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