オペラの演出について
私は個人的に原作や史実に沿ったオーソドックスな演出が、原作の雰囲気を正しく伝えられると思っています。しかし、最近の新国立劇場の新演出は、読み替え演出は「当たり前」という風潮もあるようです。原作のオペラの時代考証を無視して、核戦争後の社会、環境破壊、ウクライナ戦争など現代のテーマの中心に据えて、近年のオペラ劇場では演出家の考えがプロダクションに強く反映されることが普通になっている傾向もみられます。
新国立劇場で初めて取り上げた作品『ボリス・ゴドゥノフ』は、日本では上演機会の少ない演目で、ロシア史に対する理解が不可欠でした、初めての方が多いであろう日本の観客を前に、斬新な「読み替え演出」をいきなり持ってくるのは、無理があるように思いました。
大胆な「読み替え演出」で上演され、芸術監督の意図が分かりませんでした。衣装や小物は現代風にした「読み替え演出」の必然性が分からず、説得力が弱く、「読み替え演出」の狙いが伝わって来ていないように感じました。時代を現代に置き換えそれをこのオペラに効果的に落とし込もうとしているのでしょうが、演出過多でやり過ぎの感は拭えませんでした。演出過多のおかげで、歌手が歌唱に集中できていないとすれば、音楽と演出が分離している印象を受けました。読み替え演出により、ボリスの息子、フョードルに重い障害があるという設定に変更されていました。原作には無いこの設定を、物語に中心に据えることに違和感を覚えました。
世界の人気歌劇場のトップランナーであり続けているニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、繊細な旋律美と、劇的な場面の激しい音楽が抜群のバランスで同居し、圧倒的存在感を誇るトップ歌手を揃え、古典的な美観を重視する演出が多いようです。
『ボリス・ゴドゥノフ』でも、このロシア・オペラの金字塔に心血を注ぐカリスマ指揮者、V.ゲルギエフが満を持して登場し、ボリス・ゴドゥノフ、老僧ピーメン、野心家・グリゴリーなどの人間ドラマを、古典演出で原作に忠実に人間の真実を追求した、ムソルグスキーによるロシア・オペラに、まるでドストエフスキーの小説のような世界に、ゲルギエフが魂を吹き込んだ舞台になっていたようです。観客からは、ドストエフスキーの小説を読むような圧倒的感銘を受けたという声が多く聞かれました。
「読み替え」演出・肯定派との論争
「新しい視点で名作が新鮮に感じられる」という肯定派もいれば、「せっかくの名作が訳の分からない演出のおかげで台無しだ」と思っている人も多く、「読み替え」演出には賛否両論があります。
「読み替え」演出は、戦後の旧東ドイツ圏から始まった演劇運動と言われています。戦争で国土が甚大な被害を被り、劇場や舞台関連施設も多くが破壊されてしまった為、それまでの舞台施設・セット・衣装などが揃わない。そんな環境でオペラを上演する際に、舞台や衣装はシンプルだが、登場人物の内面を強調して描くことでドラマを際立たせるという考え方が生まれてきました。これは高度な演劇性と深い解釈で音楽と演劇の統一を目指す「ムジークテアター」と呼ばれる運動に発展していきます。
現代の「読み替え」派の代表的演出家ペーター・コンヴィチュニーは「良い演出とは、観客を賢く、人間的に豊かにするもの。アンティークの花瓶は博物館に置いておく意味があるが、演出は生命が短い。初演時と同じようにしたまま博物館に置けば死んでしまう。それを現代にフィットさせないとオペラの核を忠実に伝えることはできない」と言っています。
コンヴィチュニー演出のオペラなどは、1回観ただけで演出意図を完全に理解するのは至難で、同じ演目を何度か観るうちに気付き、理解できる要素が増えていきます。それはちょっと謎解きに似ていて、演出家の意図が分かった時、その意図に共感できて、オーケストラや歌手が優れた演奏をしてくれれば歓びは何倍にも膨らみます。事前の予習は必須です。あらすじはもちろん、各場面の歌詞もしっかり把握してから劇場に乗り込み、字幕を見なくても理解できるくらい、その作品に精通しておけば目の前の舞台でどんな演出が展開しても観劇できるのです。「読み替え演出」を楽しむには覚悟が大事なのです。
一方、台本に忠実に演出するオーソドックス派の演出の最高峰は、イタリア・フィレンツェ出身の映画監督・脚本家・オペラ演出家・フランコ・ゼフィレッリ(1923 2019年)でしょうか。
映画の世界から演出・脚本の世界に入ったフランコ・ゼフィレッリは本物志向で、ヴィスコンティ譲りの美学の持ち主で絢爛豪華な舞台を創りだしました。観る者を納得させ感動させる映像美の世界をオペラでも実践できた正統派巨匠で、『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』を始めとする名舞台は今でも世界の劇場で上演されています。音楽と台本が設定した状況に寄り添った演出は、誰もが理解しやすく安心感もあります。一方で歌唱や演技が優れていないと、陳腐な舞台に陥る危険と隣り合わせでもあります。
オペラの「読み替え演出」は「音楽なしのオペラ」
オペラの主役は誰なのか? 演出における「現代性」とは何か?
オペラの読み替え演出とは、「歌詞や音楽はそのままにして、衣装や舞台を現代や近現代などの、元の台本の設定の時や場所とは異なる設定」にして演出することです。バイロイト祝祭音楽祭でシェローが取り入れてからヨーロッパを中心に世界中で行われるようになってきました。世に出て1世紀以上を経た作品が世界のオペラ劇場のレパートリーの大半を占める中、近年は時代設定を近現代に変更して社会問題を描き出す「読み替え演出」が常態化しています。
オペラはオペラ制作時の作曲家、脚本家、作曲家が諸運当時選んだ演出家の総合芸術として制作されました。現在でも、歌手、指揮者、オーケストラ、演出家、広範な分野の人材を集めて創造する総合芸術です。
演出家が作曲家とその音楽に同意をして舞台を作るのでないならば、演出家自身が新しい音楽を生み出すべきではないでではないでしょうか。作曲家が意図していることと違うことをすると、当然作曲家の意図が通じない作品になってしまい、オペラを鑑賞する人は作曲家がその作品に込めた本当の思いを知る機会を奪われてしまうのです。
ミヒャエル・ハンペ氏は、2017年から続くワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」を演出し、20年3月の「神々の黄昏(たそがれ)」で終幕を迎え、コンピューターグラフィックス(CG)を駆使して馬が空を駆けるなど、作曲時には不可能だったスペクタクル性を実現しつつ、台本に忠実な再現に徹した演出を見せました。
演出家は音楽を理解して扱えなければならない。「オペラ」はある物語を音楽を通して物語る。ワーグナーは長い音楽の中で、必ず「何を言いたいか」を常に表現し続けています。特にリングでは「ライトモチーフ」(特定の場面、人物に適用される示導動機)を使うというシステムで全てを語ります。
演出家が音楽にそぐわないアイデアを持ちこめば、音楽がだめになってしまうのです。例えば、オーケストラがヴォータン(神々の長)のライトモチーフ「槍の動機」を演奏した場合は、槍を使って舞台上で何かが起こる場合、観客はオーケストラが鳴らす槍のモチーフが聞こえる状態でなければなりません。
世界で潮流となった読み替え演出を象徴する事件の一つがワーグナーの総本山・バイロイト音楽祭で1976年にピエール・ブーレーズ指揮で上演された「ニーベルングの指環」でした。フランスの偉大な演出家・パトリス・シェロー(1944~2013年、)は舞台設定を神話の時代から産業革命の時代に変更し階級闘争をも具現化しました。
ミヒャエル・ハンペ氏は、リングの演出に関して言えば、パトリス・シェローは音楽なしでオペラを作っていると感じました。これは現代のオペラ劇場を象徴しています。ミヒャエル・ハンペ氏は、演出家の多くが「音楽なしのオペラ」を作っていると思う。例えば、ラインの黄金の冒頭、137小節まで変ホ長調でライン川が流れ、流れ、流れていく。ラインの流れ、全てが含まれている天才的な音楽です。ここでシェロー氏はダムを作りました。これは、ワーグナーが表現しようとした逆のことをしているのです。もしそうするのであれば、流れるような音楽ではなく、ダムで水がせき止められている音楽を作らなければならないのではないでしょうか。
シェロー以降、読み替え演出は「当たり前」になり、リングの場合はゲッツ・フリードリヒが核戦争後の社会を描き、ハリー・クプファーは環境破壊をテーマの中心に据えて、終幕で権力の象徴である指環は砕け散ってしまう。近年のオペラ劇場では演出家の考えがプロダクションに強く反映されることが普通になってしまいました。
演出家が音楽に同意をして舞台を作るのでないならば、演出家自身が新しい音楽を生み出すべきだと思います。作曲家が「流れる音楽」を書いた場面で、「止める音楽」などできない。作曲家が意図していることと違うことをすると、意図が通じなくなるのです。
オペラはオペラ制作時の作曲家、脚本家、作曲家が諸運当時選んだ演出家の総合芸いい術です。演出家が作曲家とその音楽に同意をして舞台を作るのでないならば、演出家自身が新しい音楽を生み出すべきではないでではないでしょうか。作曲家が意図していることと違うことをすると、当然作曲家の意図が通じない作品になってしまい、オペラを鑑賞する人は作曲家がその作品に込めた本当の思いを知る機会を奪われてしまうのです。
オペラの衰退:音楽と乖離したオペラ演出
ドイツ出身の世界的テノール歌手・ヨナフ・カフマン氏の見解
なぜオペラ演出の読み替えをするようになったか。 「戦後のドイツは貧乏でお金がない。でもどうしてもオペラを上演したい。そこで一本の棒をあるときは樹木に、あるときは柱に見立てよう。衣装を作るお金などないから舞台上の時代を現代に移し替え現代の服で済ませよう…」とか言う話だったと思います。
それから時が経ち現在のオペラ界は演出家の時代と言われ、演出家がオペラの音楽や台本を無視し、「(音楽よりも)演出が目新しく目立てばよいと考えているとしか思えない突飛でアホくさい演出」、「音楽が描き出す世界とは全く異なる『演出家のストーリー』を語る演出」が氾濫してきています。
オペラ鑑賞の最大の理由は音楽に浸りたいからです。演出はあくまで補助的なもの、視覚によってオペラの内容に陰影をつけ作曲者の意図をはっきりとさせるもの、または深めるものと考えています。
ですから演出家の意図が何であれ、音楽で表現される作曲者の意図を差し置いてオペラを演出家の主張の場にすることをひどく嫌います。
演出家が優秀ならば作曲家の意図を尊重し、たとえ時代読み替えをしても音楽と乖離することなく彼らの思うところを演出できるでしょう。そして演出家の言わんとするところは言葉で説明されなくても聴衆は理解できると信じています。そのような演出はオペラに新たな深みを与えるでしょう。
しかし音楽が表現する内容と乖離した演出、それ故演出のストーリーとその意味付けを歌劇場や評論家が説明 (釈明、言い訳、つじつま合わせ)しなくては訳が分からないような演出は全く評価しないです。オペラを初めて観る観客にとっては、眼の前で上演される演出と音楽(作曲家の意図)が全く乖離していては、舞台を見ていても訳がわからないでしょう。
音楽と乖離した演出を見ると、演出家が音楽を愛し尊重しているのか疑問に思います。むしろ音楽が表現する世界を理解せず、単に台本の上に自分の世界を築くことが興味の中心としか思えない演出家が居て失望します。
私に言わせれば音楽を無視して自らの考えを優先する演出家は他人のふんどしで相撲をとっているようなものです。もし演出家の意図がオペラの音楽より重要と思うなら、演出者が自らの意図に合わせてオペラの楽譜やセリフを大幅に書き換えた方が筋が通ります。演出主体のオペラにリメイクしたらいかがでしょう。
著作権が失効しパブリックドメインに移行している多くの有名オペラは基本的にリメイクが可能です。「演出家〇〇氏によるリメイク版オペラ『トスカ』!」とか、実にオリジナルな作品になりますよ。もしそれが従来のオペラに新たな芸術的重みを加えることができたと評価されたならば、演出家は「オペラ改革の旗手」として名声を得ることができるでしょう。 (注:現在でも舞台に合わせてセリフ部分などをわずかに変えることはありますが、音楽と乖離しないものはあまり問題ない)。
オペラの基盤は作曲家が書いた楽譜であって、演出ではないと確信しています。オペラを救う解決法があるとしても、それは音楽と乖離した演出ではない、と思っています。
音楽無視の演出が行きつく先のオペラは音楽がバックグラウンド・ミュージックとしての役割しか持たない演出中心の単なる演劇、しかも純粋な演劇と比べると劣等な演劇に成り下がってしまうでしょう。しかしわたしにとってそのような演出は邪道で、「音楽を主体とするオペラ芸術」が異形化し崩壊して行く一過程を表しているように思われます。
吉田秀和・「読み替え演出」とは
「読み替え=元の作品のト書き通りでないように思われるもの」とするならば、そもそも何が違うのか、によって変わってくるわけです。
比較的よくあるのは、原作の前提となる舞台を違う場に設定してしまうもの。世界観を変えてしまうわけです。例えば、ペレアスとメリザンドの舞台が現代調になっていたり、オテロの舞台が恒星間大型宇宙船になっていたり、とか。(これどっちもチューリヒで実際に見せられましたが。後者はホセ・クーラのオテロで、ネッロ・サンティの指揮で。なんでこのメンツでこの演出…)これ、わかりやすいしある意味センセーショナルにしやすいけれども、実は、ストーリーとしてもプロットとしても、つまりは物語の骨子も主題も変わってないのですね。つまり、世界観以外はむしろ原作に忠実。
一方、プロットやストーリーを変えてしまうケースもあります。これも、プロットもストーリーもほぼそのままで、いわば解釈の違いレベルで意味を読み替えてしまうケースもあれば、全面的にプロットもストーリーも変わってしまうケースもあります。前者で有名なのは、ジャン=ピエール・ポネルによるバイロイトでのトリスタンとイゾルデの演出でしょう。1983年とかその辺の演出ですが、舞台上は原作のそれを大きく出ることなく、第3幕、最後の最後の最後に、実は第3幕(少なくとも後半部分)は瀕死のトリスタンの夢でした、という、夢落ちトリスタン、イゾルデは来なかったトリスタン。これなんて、少なくとも今から見るに現代的演出とは言えないし、読み替えてもいない、とすら言えるけれど、でも、結末の位置付けは全く異なる形に、これこそ「読み替えられている」訳ですね。ただ、これは、読み替えているけれど、あくまでポネルの演出は「ポネルが解釈した、ポネルが読み取った」「トリスタンとイゾルデ」なんですよね。ギリギリのところで、それはまだ「トリスタンとイゾルデ」である。
新国立劇場の2年前の「フィデリオ」でフロレスタンとレオノーレが助からない演出です。音楽は変えていないけれども、演出的にはある意味真逆の話になってしまっている。ストーリーもプロットも崩壊している。
「作品を”使って”いるのか否か」。表現者としては、どっちでもいい、というのかも知れません。でも、個人的には、古典作品を自分の言いたいことを言うための「道具」として使うのは、表現者としてどうなのかと思っています。所謂「読み替え」演出では、少なからず「使っている」だけの演出。これをオペラで言うべき事なのか? オペラの中で表現することが必然なのか?という視点。オペラに寄生しているだけじゃないか、と。
まとめ
演出家が音楽に同意をして舞台を作るのでないならば、演出家自身が新しい音楽を生み出すべきだと思います。作曲家が「流れる音楽」を書いた場面で、「止める音楽」などできない。作曲家が意図していることと違うことをすると、意図が通じなくなるのです。
オペラはオペラ制作時の作曲家、脚本家、作曲家が諸運当時選んだ演出家の総合芸術です。演出家が作曲家とその音楽に同意をして舞台を作るのでないならば、演出家自身が新しい音楽を生み出すべきではないでではないでしょうか。作曲家が意図していることと違うことをすると、当然作曲家の意図が通じない作品になってしまい、オペラを鑑賞する人は作曲家がその作品に込めた本当の思いを知る機会を奪われてしまうのです。
参考資料
音楽の友 2008年7月号 特集Ⅰ
「激論! オペラは燃えているか?――賛否両論うずまくオペラ界」
ヨナフ・カフマン「オペラの衰退:音楽と乖離したオペラ演出」
カルチャープラス「ミヒャエル・ハンペ氏が現代の潮流に異議」
毎日新聞デジタル 2019/12/18
朝岡聡 「読み替え」オペラを楽しむ法 ぴあニュース2020年
Ennui, print, Robert Seymour(MET, 1971.564.28), CC0, via Wikimedia Commons
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