「あとで読む」は後で読まない。
だから「いま」読む、一頁でも一行でも。
なぜなら、後回しにしているうちに、私の寿命が尽きるから。生物としての命ではなく、いわゆる健康寿命でもなく、読書寿命とでもいう余命だ。目がかすれ、感性と体力、そして集中力が失われ、読む気そのものが失せる読書欲の死だ。
積読家は嘯く、「積読には賞味期限がある」と。
だが、期限があるのは私の知力と集中力、そして好奇心のほうだ。
私がページを開くのを、本は待っていてくれる。待たせているのを忘れるのは、いつだって私の方だ。そして遠からず、「面白い」と愉しむための感受性が鈍化する。
読書余命が尽きたあと、苦い思いで積読山を眺めるのだけはごめんだ。
だから、読めるうち、アンテナが届くうち、咀嚼して味わえるうちに読む。
そして、新しい本より再読したい本を優先する。新刊を、新しいという理由だけで読むのは止めて、「本当に読む価値があるのか」という観点で吟味する。「読む価値がある」とは、「再読する価値がある」に等しい。
ナボコフは言った「ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけ」。
その通り、再読、再々読する度に、いかに読んでないか、読めていないかを痛感する。それを読んだことにして、感想を書いて公表していたのが恥ずかしい。だが、そのおかげで、初読と再読、再読と再々読の差が見える。
この記事では、2024年12月から2025年11月にかけて読んできた/再読してきた本の中から、選りすぐりを紹介する。
ほとんどが、誰かの呟きがきっかけだったり、読書会の本として手にしたり、「これを読め!」と強力にお薦めされた本ばかりである。私ひとりだけだったら、決して出会えなかった/読まなかった作品ばかりだ。
だから最初に御礼申し上げる。このラインナップは、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」のおかげ。ありがとうございます!
陰キャのつき合う直前が一番エロいよね。
恋愛は「成立する前」こそが最も多様で最も数多くのドラマを生む。
クラスで目立たない陰キャ男子と、彼を好きになったツインテ陽キャ女子の、勘違い・すれちがい・あざとさを、糖度高く描きだす。ニヤニヤが止まらず転げまわる。
女子のモーションが生々しくてよい。歩いてて「どん」と押してきたり、手をつなぐ以前に指を引っ掛けてきたり、妙にリアルだ。作者はきっとそういう青春に恵まれてきたのか、そういう青春を血涙を流しながら眺めてきたのかのいずれかに違いない。
女の子からの猛烈アプローチに、「からかわれている」と身構える男の子。女の子も勇気を出して言い寄っているのに、それに気づかないもどかしさ。私に無かった青春がここにある。
相思相愛が成立した瞬間、揺らぎが終わり、関係は「状態」になる。状態は「続くもの」で、物語を駆動しない。
不安、嫉妬、勘違い、自意識過剰、一歩踏み出せない勇気、相手の沈黙の解釈、何気ない一言に傷ついたり喜んだり……これらは全部、俺を宙ぶらりんにさせる。年間ベストを紹介する「この本がスゴい!」シリーズで、『からかい上手の高木さん』や『僕の心のヤバいやつ』、あるいは『微熱空間』を強力に推していた理由はここにある。
シェイクスピア以来、いや、式部以来、ラブストーリーが面白いのは、つきあう前(それも直前)だ。つき合ってしまえば、多様性は失われる。デキてしまえば、することは同じ(多くてせいぜい48パターンに収束する)。「そして二人は一緒になりました、めでたしめでたし」は、物語の弔辞なり。
もちろん例外はある。沢山ある。だがそれは、ラブコメの王道である「『まだ』成立していない片思い」という豊かな土壌があるからこそ成り立つ。本当の恋とは片思い、(見てて)最高の恋とは両片思いなのだから。
残酷な俺は、この二人が互いに知らないキモチを確かめ合う瞬間を引き伸ばしたい。燃え上がってしまわないよう、熱量をコントロールして、微熱の残り香をずっと嗅いでいきたい。俺の、無かった青春を、この物語で上書きするために。
これは、はてなブックマークで知った。存在しない青春を、これほど彷彿とさせる傑作を教えてくれたことに、感謝しかない。はてブの皆さま、ありがとうございます!
[第1話]やめろ好きになってしまう - もりぐちあきら | となりのヤングジャンプこういう導入だと、学生時代に浮いた話がほとんどなかった人も、「もしかしてあの時のあれは、自分が勝手な思い込みで拒否してしまってフラグを折ってただけだったのでは⁉︎」と思えるので、素晴らしいね。
2025/03/15 16:26
激しく同意なのがこれ↑
女に縁がなかったのは若さゆえの無知で、「フラグをフラグと認識しなかった」からなんだと自分に言い聞かせ、あるはずのない青春を思い出す悦びを分かち合う―――はてブには、仲間がいる。
第1話はここから読める。無かった青春を上書き保存しよう。
なぜ小説を読むのか?
面白いから、現実を忘れられるから、キャラクターから勇気を、物語から興奮をもらえるからなど、様々な理由が思い浮かぶ。
小説を読むことで、物語中の誰かとなり、別の時代、別の場所に生き、見たことのない景色、感じたことのない経験をして、戻ってくる。読む前の「私」と違う存在となる。
単なる娯楽とするならば、映画やゲームや音楽など、他のメディアでも得られる。文字だけで世界を構築することで語彙力を増やし、想像力と創造性を高め、キャラクターへの共感性や描写への感受性を向上させる。
そういう「実利」のために、小説を読むのか?
読むことで得られる「なにか」のために、読むのか?
受け取るだけなのか?
小説から貰えるものを貰えるだけもらって、何も返さないのか?
読んでいるあいだ、物語の中にいる間だけは、形を保っていられる。空っぽの自分の代わりに物語が、キャラが、描写が、そこから得られる感情が詰め込まれる。
だから読む。だが、ただ読むだけでいいのか?読んだもの、自分の中に取り入れたものは、返さないのか?
「なぜ小説を読むのか?」という問いに、一つの小説の形で応答したのが、野崎まどの『小説』だ。念を押すが、『小説』というタイトルの小説だ。
物語が無かったころ、人生は一度きりだった。「もうああだったならば」「こう生きることもできた」という数々の後悔への反発であり、貴族としても犯罪者としても生きる可能性を示し、遠い未来の外宇宙も旅することもできるし、戦国時代の将として活躍することだってできる。男でも女でも人間以外にもなれる。
小説は人生の一回性に対する抗議として書かれたともいえる。小説のおかげで一生が二生にも三生にもなった。現実の、「運命」で片づけられる現象への反抗として、不完全で儚いヒトの記憶への対抗として、小説は書かれ、読まれた。
そういう可能性を、見事な形で小説にしたのが『小説』だ。
あらすじは野暮なので、ここでは紹介しない。前情報を抜きにして、直接、向き合ってみてほしい。まさに、私のために書かれた小説が『小説』だ、と強烈に感じるだろう。
本書を手にしたのは、Asylum Pieceさんのこのtweetのおかげ(ありがとうございます!素晴らしい体験でした)。
トロリー問題の「違和感」から何がジレンマになっているかを炙り出し、「よりマシな悪」を引き受けるためにどうすればよいかを考える好著。
トロリー問題は2種類ある。「運転手」バージョンと「歩道橋」バージョンだ。
【運転手】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれ、待避線に逸れると1人が轢かれる。運転手は進路変更すべきか?
【歩道橋】路面電車が暴走している。そのまま進めば5人が轢かれるが、歩道橋の上にいる男を突き落とせば止められる。突き落とすべきか?
トロッコ問題とも呼ばれるこのジレンマ、この2つは別物に見える。「運転手」の方は問題として取り組むことができるが、「歩道橋」は問題以前の前提のところで禁忌を犯しており、問題として成立していないような違和感を覚える。
言い換えるなら、「運転手」バージョンで、待避線を選び、1人を殺すことと、「歩道橋」バージョンで、男を突き落とすことついて、同じ「1人の命」なのに、本質的に違うように見えるのだ。
あくまでも<私には>そう見える話なのだが、なぜだろうか?
『政治哲学講義』によると、それは衝突している義務が異なっているからだという。
義務には、「消極的義務」と「積極的義務」がある。「人を傷つけるな」といった義務が、消極的義務となる。一方で、「善いことをせよ」というのが積極的義務となる。両者は裏表のようで、このような関係になっている。
| 消極的義務 | 積極的義務 | |
| 遵守 | 加害しない(不作為) | 善行する(作為) |
| 違反 | 加害する | 善行しない |
「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は<一応は>成り立つ。
一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。
この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。
『政治哲学講義』p.93より
たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという。
この考え方は、安楽死(尊厳死)の議論にも見出される。薬物注射で患者に死を直接もたらす積極的安楽死と、生命維持装置につながず、死にゆくままに任せる消極的安楽死だ。前者は殺人罪に抵触するとして規制されている場合が多いが、後者は法的・倫理的に許される余地があるという。
世の中には、様々なジレンマがある。あちらが立てば、こちらが立たない。トロリー問題は、こうした問題を抽象化した思考実験の一つだろう。
私たちは、「限られたワクチンを誰に渡すのか」とか「感染拡大を防ぐために経済活動を制限するのか」といった生々しい問題に直面させられてきた。利害の対立が生じるときや、どちらを選んでも悪い結果を招くことが明白なとき、どうすればよいか。
普通であれば、「どちらが正しいか」といったべき論で考察されることが多い。正義論の原理原則があって、そちらに即したほうの選択肢こそが「あるべき」であるという組み立てだ。
だが本書は、そうした正義の命ずるままに選択を行ったとして、果たして「正義は達せられた」と胸を張れるかと問う。やむを得ない選択だとしても、そこに何かが損なわれたと感じたり、やりきれなさを感じるのではないかと指摘する。
そして、そうした割り切れなさを考えるために、「どちらが正しいか」ではなく、「どちらがマシな悪か」という悪さ加減からアプローチする。「正しさ」というポジティブな視点からではなく、「悪さ」というネガティブな見方から、選択の重さを測る。
特に政治的な問題がそうだ。
どちらを選んでも、非難されることになる。ひょっとすると選択したことにより自分自身が破滅する場合もある。それでも「よりマシな悪(lesser evil)」を選び、引き受けるために、どのように考えることができるかが、紹介されている。
本書が優れているのは、このように具体的な事例として文学作品を選んでいること。トロリー問題のように、「問題」とするために背景や他の選択肢を切り捨てるようなことはしていない。「他にやれることは何か」「どう考えれば”悪さ”を減らせるか」という取り組み方をしているので、一件落着という形でスッキリしない。
だが、それが現実なのだろう。「正しい答え」なんてものはなく、どちらを選んでも手が汚れるし、後悔もする。であれば、よりマシな悪を引き受ける他なかろう。
「人生は一回だけ」という。
だが、もし、その一回の人生が、繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?)
天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。
そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。
ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。
Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
トマーシュは主人公だ。「一度は数のうちに入らない」と嘯くトマーシュは「軽い」。プラハの優秀な外科医で、美形で、女大好き。とっかえひっかえ200人くらいと寝ている。
現実はニーチェの思考実験とは異なり、たとえリピートしていたとしても、その記憶は残っていない。だから、何度目のリピートだとしても、生きるのはただ一度であり、それ以前の人生を比べることも、それ以後の人生を訂正することも無い。
そんなトマーシュが出会ってしまったテレザと、トマーシュの愛人サビナ、サビナの愛人であるフランツの四重奏が、この物語の骨格だ。
四人の物語に覆いかぶさるように、チェコの民主化運動が吹き荒れる。プラハの春と呼ばれ、ソ連の軍事介入によって潰えた運動だ。
歴史の風圧のもとで、登場人物たちは様々な選択をする。「発言を撤回する/しない」とか「帰国する/しない」など、選んだ結果を引き受ける。生活どころか、運命をも変えてしまう選択を、あえて軽やかに引き受けるのは、ニーチェへのあてつけかもしれぬ。
女との偶然の出会いを「一度は数に入らない」と受け流してきたトマーシュは、テレザのために、かなり重い―――取り返しのつかないほど重い―――決断をしてしまう。トマーシュを求める一方、トマーシュの浮気性という「軽さ」に我慢ならないテレザは、性愛においても重くあろうとする。
テレザは、性は遊戯などではなく、身体と分かち難く結びついた「私という存在」を丸ごと承認するものだと捉える。セックスはイベントではなく、愛の儀式として扱おうとするため、「愛と性は別物」とするトマーシュと正面衝突する。
両親、友人、愛、祖国を裏切り続けたサビナは、人生というドラマから能動的に「軽く」なろうとしたのかもしれない。トマーシュとの愛も、フランツとの不倫も裏切り、その関係に名前を与えることを拒絶し、自由であろうとする。代償は孤独と空虚となるが、一通の手紙が持つ引力に打ちのめされる運命が待っている。
サビナの愛人であるフランツ。今回は彼に注目して読んだ。
実はこの作品、再々読になる。最初に読んだときは私自身が独り身だったこともあり、メインの三角関係(トマーシュ/テレザ/サビナ)ばかり追いかけていた。再読のときのレビューは[ここ] に書いた。あれから四半世紀、既婚者で不倫の愛に溺れるフランツの運命が響いた。
関係から軽くなろうとするサビナとは逆に、フランツは、関係に名前を与え、公開しようとする(フランツは「重さ」担当だ)。愛が真実なら、それが不貞であっても隠さず宣言するべきだとする。善良で、不器用で、愛を貫こうとする態度は潔いのかもしれない。
その結果、彼の運命にとって重すぎる決断を、いともあっさりと、軽く選んでしまう。傍から見れば愚かとしか思えない結末に至るが、それこそが、「存在の耐えられない軽さ」なのかもしれない。
人生の選択を重くも軽くもしているのは、結果の引き受け方にほかならない。選んだ方がどれほど深刻でも、そう受け止めるか否かの問題なのだ。
「もう一度でも同じ選択をするか?そう生きているのか」というニーチェの問いに、クンデラはこう応えているように見える。「何度繰り返すにせよ、今を生きるのはその一回だけだから、選んだものを軽やかに引き受けよう」と。
人生で3回読むことになった理由は、読書会の課題本だったから。
同じ作品を読んだ違う立場の11人が集まり、思い思いの疑問をぶつけ合った。
様々なネタや読み方が提案され、捏ねられ、飛び交った。命の軽さからマッカーシー『ブラッド・メリディアン』が提案されたり、クンデラの最高傑作として『不滅』が強く推されたりした。
分からないものは分からないでいいし、裏読み・深読みは自由でいい。互いのリスペクトや礼儀正しさは必要だが、必要以上に政治的な正しさは求められない。「私の考えとあなたの意見は違う」が、そのままの意味でやり取りできる喜び。そういう意味で、リアルの読書会は大変楽しかった。
同じ本を読む人は、わりと近くにいることが確かめられて、嬉しい会だった。主催の東京ガイブン読書会さん、ありがとうございました!
二十世紀アメリカ最高の作家と評されるウィリアム・フォークナー。
その最初の傑作である『響きと怒り』を読んだのだが、正直これ、面白いと言っていいのか、分からない。
1回目の通読に、何度も読み直しさせられたり、辻褄の合わないフレーズを理解するのに苦労させられた(後にそれはフォークナーの超絶技巧であることが判明する)。仕掛けだらけの難解さに加え、同名の別人が登場し、読み手の混乱に拍車をかける。
「この”クエンティン”って、あのクエンティンだよな?」などと呟きながら、行ったり来たりするうちに、散りばめられたピースが組み合わさり、物語の全容が浮かび上がってくる。300ページの長編小説を読み通すのに一週間もかけたのは珍しい。
さらに、全てを読み終えたいま、改めて1ページ目から読み直している。河出書房の新訳だけでなく、岩波文庫とも読み合わせながら読む。歯ごたえはあるものの、噛みしめると滋味あふれる、中毒性のある読書なり。
第一印象を一言で表すと、ピカソのヴァイオリンだ。
ByPablo Picasso -[1],PD-US,Link
「ヴァイオリンと葡萄」パブロ・ピカソ、1912
ヴァイオリンがどんなものかなんて、みんな知っている。写真でも実物でも、いくらでも見ることができるから。だが、「ヴァイオリンとは何か?」「ヴァイオリンを『見る』とはどういうことか」を考える時、私たちはヴァイオリンの様々な側面―――渦巻きのあの形、胴体の木目や弦、特徴的なf字孔―――などを思い浮かべる。
ピカソのヴァイオリンは、そうした断片を組み合わせて、手で触れられそうな立体を構造化するゲームをしている気にさせられる。キュビズムは、様々な側面から表現したモチーフをキャンバスという同一平面上に展開している。多視点を融合し、形態の断片からの再構築を促している。
フォークナーは、ピカソが絵画でやったことを、小説でやっている。
つまりこうだ。『響きと怒り』では、キャディという女性がヴァイオリンになる。20世紀初頭にアメリカ南部の没落貴族に生まれ、性的に自由奔放でありながら母性的な魅力も併せ持ち、崩壊する一家の象徴のような女だ。
物語の中心でありながら、直接的な語り手としては登場しない。なおかつ、物語の進行とともにキャディは一家から遠ざかり、その不在だけが強調されるようになる。
彼女は、三人の兄弟(ベンジー、クエンティン、ジェイソン)の目を通して語られる。愛情と安心の源泉だったり、純粋さと葛藤の対象だったり、一家の没落の原因として語られるのだが、各人の思いや立場によって歪んでいる。そのため、信頼できない語り手として読み解くしかない。
彼女のイメージ、声、におい、触れた感じを呼び覚ますさまざまな縁は残されており、それらをトリガーにして記憶が蘇り、語り手の「いま」の内面に、描写に、直接挿入されてゆく。時間や論理は線形ではなく、フラッシュのように瞬く。「意識の流れ(stream of consciousness)」というやつだ。
ピカソは各部分の断片からヴァイオリンを描いたが、フォークナーは三人の意識の流れからキャディを描く。読み手は、三人の断片からキャディの存在と不在をありありと感じ取ることができる仕掛けになっている。
ジョイスやウルフやフォークナーで有名なので、「意識の流れ」は文学臭がぷんぷんするが、日常でもよくあるやつ。何かのイメージや臭いをきっかけとして、昔のことを思い出したり、今の状況と関係のない思考に横滑りしたりすることはあるだろう。人は、放っておくと、とりとめもないことを思い浮かべたり、しなくてもいい考えに取り憑かれたりする、あれだ。
その思考を垂れ流すだけなのか、読者に与える影響をきちんと計算して書くのかは、作家の力量になる。
たとえばスティーヴン・キング。怪物が潜んでいる暗がりに向かう人は、その暗がりから想起される過去の「いやな出来事」を思い出す(いじめられた記憶や、家族を失った事故とか)。最初は独り言として「」に書かれていたのが、地の文で執拗に内面が掘り起こされ、気づいたら「いま」目の前に怪物いる……というパターン。
原文だとイタリック体で、翻訳版だとゴシック体で記載されている。キングフリークスにはお馴染みのゴシック体を用いた回想と現在との接続は、『響きと怒り』が発祥だったと考えると面白い。
他にも、「どこかで読んだ気がする」感が呼び覚まされる。
例えば、キャディらの母・キャロラインの毒親っぷりと嫌味ったらしい繰り言は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』で4ページにわたり一度も句点「。」を使わず延々と愚痴をこぼすフェルナンダの長広舌そっくりだ。
あるいは、読点を一切使わないまま、過去の対話と眼前の光景を重ね合わせるクエンティンの独白のような地の文は、コーマック・マッカーシー『越境』で何度も目にした。
これ、過去に経験した作品が、「いま」と重なったことがある人にはピンとくるだろう。映画に喩えるなら『スターウォーズ』や『アキラ』を初めて観る人が感じるデジャヴと似ているかもしれない。
ストーリーの骨子はベタな、それこそ新聞の三面記事にありそうなやつだ。ピカソのヴァイオリンがありふれたモチーフであるように、この家族に起きる破滅も、よくある悲劇にすぎぬ。
それを、語り手からダダ漏れる騒々しい声を重ね合わせ、炙り出そうと四苦八苦するうちに、この悲しみが、主観的な出来事として私の内側で再構成されてゆく。キャディに対するベンジーの思いが溢れ出し、彼の意識を埋め尽くすとき、その悲しみを、「そのままの形」で感じることができる。
どこに持ってゆくこともできず、何かに昇華することもできず、それでも人生が続くことを受け入れるしかないことを思い知ることになる。
シェイクスピアは、妻の死を嘆くマクベスにこう言わせた。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full ofsound and fury,
Signifying nothing.明日また明日、そしてまた明日と、
一日一日、小刻み這いずってく。
〝時〟そのものが消滅する、終末のその瞬間まで。
そしてわれらのすべての昨日は、
愚者が死に塵に還る道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、短いロウソク。
人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。
出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、
がなり立てても、芝居が終われば、
もうなんの音も聞こえぬ。
人生とは愚者の語る物語、
響きと怒りすさまじいが、
意味するところはただの無だ。
人生とは「愚者の語る、響きと怒りに満ちた物語」であるならば、そこからタイトルを得た本作は、人生の虚無をそのままの形で受け取ることができる。
まじめにふまじめ、知的で痴的な一冊。
歴史、医学、宗教、経済学、生物学、文学、テクノロジーなど、あらゆる学問分野から「下半身の知」を掘り下げる。知的好奇心と性的好奇心を同列に扱う。
性欲旺盛な高校男女が手にして、知的探求のあまり学問に目覚めるかもしれぬと思うとニヤニヤが止まらぬ。学校図書館に常備しておきたい。
例えば「くぱぁ」の歴史は奥深い。「くぱぁ」とは、観音サマの開陳であり、御開帳であり、オープンリーチ一発ツモ満願であり、雌蕊を指で開くオノマトペである。
本書では、紀元前5世紀のヘロドトスが目撃したかもしれないくぱぁから、スペインのカタルーニャ地方に語り伝えられる「女陰を出すと海が鎮まる」伝説、ヴァギナを見せて悪魔を追い払うフランスの話、岩戸に隠れた天照大御神を引っ張り出すために御開帳した古事記の話などが紹介されている。
言語学的に見て面白いのは、洋の東西でイメージが対照的なところ。
vaginaに代表される西洋語(ラテン系)では、剣の鞘(≒男性器を受け入れる器)を意味する。一方、インド・東南アジア圏では、生命の源といった意味がある(サンスクリット語のyoni:宇宙の源、日本語の「ほと」:火処)。あの場所を、入口として見るか、出口として見るかの違いなのかもしれぬ。
『下ネタ大全』は、そうした、古今東西のくぱぁの事例を解説しながら、女性器を見せつける文化は特殊でもなんでもなく、地球上あらゆる場所で独立に発生している素朴で自然な行為だという。
突拍子もなく感じてしまうのは、我々が近代化の過程で発達させた感覚にすぎず、むしろ女性器を見せつけない文化の方が珍しいとさえ言えるだろう。我々は極めて偏った価値観の中を生きている。
これ、まさにその通りなんだけど、令和よりも昭和の方が偏っているように思える。
というのも、昭和の時代では、出版界の規制により、陰毛や性器の露出は厳しく禁止されていた。当時のヌード写真では、陰部はボカシや黒塗りが普通だった。印刷時に加工できない輸入版のPLAYBOYやPENTHOUSEだと、コンパスの針で削ったかのような「消し」が入っていた。たとえ苦労して裏本や裏ビデオを手に入れても、モザイクが入っていないというだけで、あくまでボヤっとしていた。
昭和では、「見えないこと」が、逆に想像力と欲望を喚起した。「見ることはできないが、確かに存在する」ものとして、神聖視され、神秘的な存在だった。「なんとしてでも見たい」という強い思いは男を衝き動かし、恋愛や結婚へドライブする欲望となっていた。畏れと憧れを込め、「観音様」「御本尊」と呼んでいたのは、「ありがたい」「ひれ伏したい」「拝みたい」といった祈るような感覚がベースにあったからかもしれぬ。
平成は、この希少性が薄れてゆく時代だと考える。象徴的な例として、宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』がある。平成3年(1991)に発売された写真集で、当時18歳だった宮沢りえを篠山紀信が撮影したものだ。人気絶頂の宮沢の、ヘアヌード写真集だったということもあり、165万部という写真集の世界記録を達成した(Wikipediaより)。これがヘアヌード解禁のトリガーとなったことを記憶している。
令和では、お手元のスマホや、PCの大画面で、大量に手軽に鑑賞できる。内視鏡や胃カメラで撮影した内部映像のみならず、CT断面図、サーマルイメージングといった人の眼では不可視の領域まで暴かれている。あれほど見たいと希ったそれは、神秘性や希少性を剥ぎ取られた内臓になる。600年前に世阿弥が言った「秘すれば花」の重みは、時代を経るごとに増すばかりだ。
こんな風に、わたしの想像力(創造性?)を喚起させながら、徹頭徹尾下ネタを延々と語り続ける。
世界を下半身から眺めると、タブーや恥じらいに隠されてきた文化の構造が、驚くほどクリアに見えてくる。性とは、最も人間的で知的で痴的なテーマなのだ。
すべての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは、
私たちのモンスター性、
他人の目から隠そうとしている部分なのです
(グアダルーペ・ネッテル)
この著者の言葉どおりの短編集。すごく好き。人間の不穏当な部分に光を当て、そこで育まれる狂気を静かに描き出す。人の持つモンスター性から、一切の暴力を削ぎ落すと、こんな人生になるのかしら?と考えると愉しい。
例えば、夜な夜なパリのトイレを探し回る男を描いた「花びら」。男が探しているのは、ある女性が残した痕跡だ。
並々ならぬ嗅覚へのこだわりがある男は、人目にさらされない唯一の場所に残された印(しるし)を匂いのかたちで思い出にしていた。白い便器についた一筋の液体に心身の不調を嗅ぎ取ったり、鴨のマンゴーソースといった料理がどのように「解釈」されたかを分析していた。
女性用トイレを探索するたび、新しい解釈を見出し、刺激的な発見に心をときめかせていたのだが、ある日、独特の香りと出会う。第一印象は控えめなものの、生命深部から湧き出る生々しさに虜になる。「フロール(花)」と名づけ、その痕跡の主を探そうとする。
見咎められるリスクを慎重に回避しつつ、毎晩毎晩、フロールを探し求める―――読者は、その異常性を目の当たりにしつつ、これは極めて自然に描かれるラブストーリーであると考えざるを得ない。
果たして男はフロールを見つけられるのか?出会った二人に何が起きるのか?
不穏な雰囲気のまま、読者はラストにたどり着く。これも一つの愛の物語なのだろうと自身を納得させるしかない。そんなストーリーが6つ、用意されている。「まぶた」の写真を撮り続けるうち、理想のまぶたを追い求める男や、男の私生活を、道一つ隔てた部屋から覗き見する女など、歪んだ、でもひたむきな執着心と向き合う。
なぜ、こんなに不安にさせられるのだろう?
すぐに気づくのは、「理由」がないことだ。
どの物語でも、誰が何を求めているのかが詳細に説明される。全てのストーリーは一人称で語られているため、隠されるものは無い―――にも関わらず、「なぜ」については、塗りつぶされたように現れてこない。
主人公の目を通して、読者は、物語の目撃者となるのだが、何が起きているのかクリアなのに、どうしてそうなったかは自分で考える他ない。もちろん「こいつは狂ってる」と片づけることだってできる。でも、狂気の一言で片づける人は、そもそもラストまでたどり着けないだろう。それほど、ひたむきで、執拗で、自然な想いなのだ。
「なぜ、そんなことをするのか?」が説明されない宙吊りの状態が続くと、読み手は、無理にでも理由を持ってこようとする。不穏さを楽しむにはちょうどいい。
作者は、「もともと人はそういうモンスター性を秘めた存在だ」という動機があり、それをどういうモチーフにすると面白いか?といった設計で、これらを書いているように見える。
そこで描かれる登場人物のモンスター性は、読み手が内に秘めたモンスター性とは異なっている。そのため読者は、自分の習癖(性癖・手癖・執着)に気づくことなく、安全な場所から読んでいられる。
安全に狂気を楽しめるものの、読み終えると、それは、狂気ですらないことに気づかされるかもしれない。
「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。
著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。
『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。
ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。
本書では、人間の認知システムを、写実主義と抽象芸術で解き明かす。
人は、進化の過程で、具体的な対象を処理する能力に特化してきた。例えば、顔や身体、輪郭や色彩といった要素は、視覚システムに備わったボトムアップによって素早く処理される。
網膜に映った光のパターンから線や輪郭を抽出し、低次野で処理しながら「これは顔だ」「これはリンゴだ」と判断する能力は、生存に直結するため、極めて重要なものになる。「見たものをありのままに」描こうとする写実主義は、このボトムアップ処理から発達してきたものになる。
一方、抽象芸術はこのボトムアップ処理だけでは十分に理解できない。そこでは現実世界の具体的な形や遠近感が意図的に解体され、色・線・フォルムといった構成要素に還元されているためだという。
トップダウン処理では、蓄積された記憶や経験、知識を引き出しながら、あいまいな刺激に意味を与える。パレイドリアに代表されるように、人間の脳は「何か」を見つけようとする性質がある。
肉塊のように写実的に描かれたベーコンの「目」を手がかりに、「顔」だと認識できるのは、ボトムアップ処理のおかげだが、抽象的な「口」を見ようとすると、視覚システムは手がかりを失い、トップダウン処理になる。そして、これがハマると、鑑賞者は画面に「自分だけの物語」や「感情の奔流」を感じ取ることができる。
「アートが分かる」とは、作品をきっかけとし、ボトムアップやトップダウンのアプローチにより、<私>の中に新しい意味や感情を生成することに他ならない。
著者エリック・カンデルは、アートと科学の還元主義的アプローチに注目する。科学者が複雑な現象を要素に分解し、そこから全体像を再構築するように、アーティストもまた形象を分解し、<私>に再構築を委ねる。そこには、アートと科学の還元主義的アプローチの交差がある。
アートと科学の間に立つ一冊。
めちゃくちゃ笑った後で「美とは何か?」「ホンモノとは?」と悩まされた。
「モナ・リザ」のニスを剥ぐとはどういうことか?
実は、「モナ・リザ」には何層ものニスが塗られている。作品を保護するためなのだが、同時に、色鮮やかにする効果もある。だが、長い時間の経過により、ニスが変質して作品を緑がかった暗い色にしてしまっている。ニスの上塗りで発色は良くなるのだが、一時的なものだ。
だから、繰り返し塗られたニスの層により、私たちが見ている「モナ・リザ」は暗い霧の奥にいる。
これを救い出そうとする試みは何度も検討されてきた。だが、経年劣化でひび割れだらけのポプラ板や、顔料層を傷づけるリスクが大いにあった。歴史的・文化的な価値が極めて高く、現実のルーブル美術館は、修復を避け、温湿度が管理された特殊なケースの中での保存を優先している。
だが、フィクションのルーブル美術館長は、カネ儲けの為に、主任学芸員オレリアンに命じる「やれ」と。古きよきものを愛する彼だけがまともに見えるのだが、いささか心もとない。修復に反対する世論、返還の要求をし始めるイタリア、政府や国家を巻き込んだ騒動に巻き込まれ、絶対に失敗してはいけないプロジェクトを任される。
この「絶対に失敗してはいけないプロジェクト」というのがミソで、こんなん、小説作品として描かれるなら、「押すなよ、絶対に押すなよ!」に決まってるじゃん。登場してくる連中はほぼ全員どこか変だし、なにかやらかしてくれる予感しかしない。
そういう意味でチェーホフの銃だらけなんだけど、すごい意味で裏切られてよかった。銃じゃなくて大砲に撃たれ、息できなくなるくらい笑って涙で読めなくなった。
これ読む人へのアドバイス。手元にスマホを用意しよう。
「なぜスマホ?」といぶかる方もいるかもしれないが、要所要所に美術作品が散りばめられており、検索したくなるはずだから。
カネの亡者の館長はユレヒトの「リューベックの若き女性の肖像」になぞられ、文化省の官僚に呼び出されて行く先にはピュランの円柱が立ち並ぶ。ポンピドゥーセンターの醜悪さのネタは何度も擦られ、メッシーナの「受胎告知」のポーズがハマるシーンもあれば、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのサングラスも出てくる。著者によるオマージュやトリビュートの遊びだけれど、検索して見ると、小説内描写と不思議とピタリとハマるだろう。
スマホの小さな画面にスクロールされる膨大なコンテンツがある。youtubeのまとめ動画と、ルーブル美術館に展示されている名画が、同じサイズのサムネイルで並んでいる。その中で「モナ・リザ」はどのように位置付けられるのか。ルーブル美術館やダ・ヴィンチの業績といった歴史的文脈から切り離され、視覚の洪水の中でアイコンとして見える「モナ・リザ」は、あの笑顔でなければならない―――そう感じるかもしれぬ。
同時に、私はなぜ「モナ・リザ」が好きなんだろう?「モナ・リザ」の何を美しいと感じているのだろう?とマジ考えさせられた―――本書をラストまで読めば、答えはすぐにたどり着くのだけれど、それって本当に「美」なのだろうか?という恐ろしい疑問が待っている。
「音読」をテーマにしたオフ会でお薦めされたのがこれ(daen0_0さん、ありがとうございます!)。
日本最古の歴史書であり、神話と伝承の源泉である古事記。とっつきにくいイメージがあったが、河内弁でしゃべりまくったのが町田康の『口訳 古事記』になる。
町田康の文体って、リズム感があって、言葉に勢いがある。大量殺人事件「河内十人斬り」を一人称で描いた『告白』には独特のグルーヴ感があり、ハマると止められない中毒性の高い「読むロック」だった[書評]。
だから彼の小説は、音読すると面白さマシマシになる。漫才のようなノリツッコミや、寄席のような口上は、声に出して読みたい物語なり。例えばこれ、日本最凶の問題児・スサノオノミコトがスーパーサイヤ人よろしく空を飛んでくるシーンだ。
なにしろ泣くだけで山の木が枯れ海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで昇っていくのだから、コップが落ちた、茶碗がこけたみたいで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしてるみたいに振動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。
このことがすぐに天照大御神(アマテラスオオミカミ)のところに報告された。
「ご注進、ご注進」
「何事です、騒騒しい」
「えらいこってす、芦野原中国(アシハラノナカツクニ)が動揺してムチャクチャになってます」
「マジですか」
「マジです」
一つ一つの行動が災害級の大迷惑で、読んでる方が「どうすんだよこれ」と呆れていると、「マジですか」「マジです」とすっとぼけた会話でシメる(これ、狙ってやってるリフレインだな)。なお、カミサマの名前の読みはルビがふってあるので安心して音読できる。
声に出すのも憚られるような、糞尿・ゲロ・おっぱい・女陰・エログロ描写が丸だしで、ゲラゲラ笑いながら音読する。ギャグ漫画よりもマンガ的で、神話だから規制無しで、しかもカミサマだからなんでもあり。
ぶっ飛んだストーリーなのだが、さすが神話、どこかで聞いた話と繋がるのが面白い。
例えば、お供えのために、オオゲツヒメという女神が料理を任される。オオゲツヒメは、自分の鼻や口や尻穴からひり出したもので食事をこしらえるのだが、どう見ても鼻汁・ゲロ・糞尿なので、スサノオノミコトが激怒して殺してしまう。
すると不思議なことに、女神の屍骸から穀物が生えてくる。具体的には、眼から稲、女陰から麦、尻穴から大豆が生えてくるのだが、これ、インドネシアのハイヌウェレ神話と酷似している。
ハイヌウェレは尻から大便ではなく食べものをひり出す少女で、彼女を気味悪がった村人から殺されることになる。少女の死体からは多種多様なイモが生えてきて、その地域の主食となったという。
生命を生み出すのは女性。その死体から食べものが生えてくるという食物起源神話は、赤坂憲雄の『性食考』で知った[書評]。生きることと食べることの源を女に求めるのは、考えているよりも普遍性を持つのかもしれぬ。
また、女陰を見せつけて大騒ぎするシーンがある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼び出す宴会の件だ。天宇受売命という女神が踊り狂ってトランス状態となる。
踊るうちに、玉やら鏡やら神聖な御幣やら、後は祝詞の力、天の香山の木や草の力やら、後は桶の律動的な拍子、踊りそのものなどが合わさって、天宇受売命(アマノウズメ)は神がかって、思考がなくなり神の力そのものとなって、のけぞって衣服の前を両手で左右に引っ張って乳を丸出しにし、それから、下半身に巻いた裳を結んだ紐を押し下げ、腰を前に突き出した。
その結果、女陰が丸出しになった。
その乳と女陰が丸出しになった状態で、首を振り、頭につけた蔓草を振り乱し、手に結んだ笹を振り回し、なお踊り狂った。
神々が集い、天地を揺るがすほどの大爆笑の騒ぎに、「なんだろう?」と気になるのは仕方ない。気になったアマテラスが岩戸を少し開けた後のお話はご存知の通り。問題はヴァギナ・ディスプレイになる。
女性器の世界史とも言えるブラックリッジの『ヴァギナ』で知ったのだが、古今東西、女陰には、魔物を祓い、幸運を呼び込むパワーがあると信じられていた。
ヨーロッパやアジアの神話において、女性がスカートをたくし上げることで、敵を威嚇したり、荒ぶる海を鎮めたり、戦争において士気を高めたという伝承が多々ある。クールベの『世界の起源』の通り、お釈迦様を除いた人類の源なのだから、そこに神秘性を見出すのは、普遍的なものなのかもしれぬ。
こんな風に、破茶滅茶で奇天烈なのだが、どこか懐かしさを覚えつつ読み上げる。アタマで読むのではなく、ボディで味わう感じ。詩のような歌のような呪文のような神々の名が、最終的には地名や言葉の由来となる。自らの正統性のエビデンスとするために編まれた物語が、これほどのエンタメになるなんて。
まさに音読するための一冊なり。お薦めいただいたdaenさん、ありがとうございました!
なお、ビジュアルで古事記を攻めたいという方には、こうの史代『ぼおるぺん古事記』をお薦め。ボールペンだけで書かれた絵物語とでもいうべき古事記。エロもグロもエッチなところも余さず丁寧に描かれているのがいい。
読み始めた瞬間、何かがおかしい。文を二度見し、首をひねりながら先を追う。冒頭からしてこれだ。
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。
「だった」と「でした」とが入り混じっている。誤植?まさか岩波文庫がそんなわけない。対等関係の常体(だ・である)と、フォーマルで丁寧な敬体(です・ます)が混在し、独特の語調を生み出している。
そして原文(英語)の方が違和感マシマシになる。
I was a palm-wine drinkard since I was a boy of ten years of age. I had no other work more than to drink palm-wine in my life.
「10歳の頃からずっと(since)やし酒のみだった」とsinceを使うなら、I have been~とする方が自然だろうし、「やし酒を飲む以外(more than)何もしない」ならば more than じゃなくてexcept が普通じゃね?と思う。
この違和感は意図的で、わざと正しくない(broken)使い方をしているという。書かれた文章だけど肉声で語られているような感覚で、読むと酔うような文章に仕立てられている。もっとも原文が壊れているので、そのまま翻訳できない。「翻訳不能性」を逆手に取って、歪んだ日本語で語ることで、ねじれたリアリティを醸すように訳している(合わない人は悪酔いするかも)。
さらに、物語そのものは王道の「行きて帰りし」なんだけど、展開がブッ飛んでいる。
あらゆる死者が集まる街があり、親指が破裂して子どもが生まれる(急激に成長し大食漢になり親とバトルする)。木から腕が生えて木の内部に取り込まれた先に街がある。「死」は売買できて、「恐怖」は貸し出せる。
そもそも主人公が妙な術を使う。
やし酒を飲むしか能が無かったはずなのに、神でありジュジュマン(juju-man)だと名乗り、ピンチになると火や煙に姿を変えて難を逃れる(jujuとは西アフリカにおける呪術・まじないを意味する)。攻撃はもっぱら銃やナイフを使ったりする、神なのに。自分の死を売り渡してしまったので不死になるが、「恐怖」は返却されてきたので、「不死身なのに怖い」思いをする(←こういう発想が出てくる文化圏なのだ)。
現実の中に説明されないまま超自然現象が語られるのは、マジックリアリズム(魔術的リアリズム)と呼ばれ、マルケスやドノソが粘り気のある傑作を書いている。これに比べると、幻想色が強く、まじないや呪術が説明抜きで語られる本作は、ジュジュリアリズム(呪術的リアリズム)なのかもしれぬ。
これ、マルケスの魔術的リアリズムよりも、ずっと「まじない」に引き寄せられている。だから、物語に理屈や象徴を読み取る前に、まず呪われる。そんな、物語に呪われる語りの力がある。
まるで見てきたように語られるのだが、「妖怪」とか「幽霊」といったラベルが通用しないところが幻想譚とは違うところ。カフカのような圧ある不条理文学なのかと思いきや、妙に具体的な数字を挙げてくる。
突拍子もない筋立てに、「四百人ばかりの赤ん坊の死者」とか「収容能力四十五人、直径百五十フィートの袋」あるいは「七ポンド十八シリング六ペニーで私たちの死を売り」なんて言われると、思わず想像してしまう。
これは詐欺師のやり方で、大真面目にウソを語るんだけど、数字を入れることで信憑性を増やす。最初に提示された数字に引っ張られて、その後の判断に影響を及ぼすことをアンカリング効果というが、その異種とも言える。数字を出すことで具体的に考えさせる思惑があるのだろう。この辺は、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵で用いられた手法なり。
こんな風に、読むほどに酔うほどにハマれる。空想の赴くままの寝物語か、酔っぱらいの回顧録を、クダ巻きながら聞かされるという感覚だ。いずれにせよ、読み終えたときには、こちらの意識まで千鳥足になっている。
これ、17年前の再読なんだけど、物語に酔っぱらって書いていることが分かる。無制限の想像力が爆発する「やし酒飲み」
経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。
太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。
だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。
「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。
本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場感あふれる戦闘描写は、結果が分かっていてもハラハラさせられる。
この、見てきたような書きっぷりは、塩野七生『ローマ人の物語』と重なる。
ただし、『ローマ人の物語』は「ローマ軍TUEEEEEE!!」と激賞する一方、『失敗の本質』では「日本軍YOWEEEEEE!!」で塗りつぶされている。曖昧な作戦目的、兵力の逐次投入、兵站軽視、陸海軍の反目、代替案の欠如、「空気」が場を決める等、日本軍のダメっぷりがこれでもかと糾弾されている。
「日本軍のここがダメ」の非難が激しすぎて、ちょっと可愛そうに見えてくる。たとえば、ミッドウェーで完敗した理由の一つに、暗号解読されていて作戦が筒抜けだったところ。だが本書はそうではないと断ずる。
作戦がバレていても、実行段階で気づいて対処すべきだったとか、あのとき撤退すれば無益な消耗を回避できたはずなど、タラレバ論が酷すぎる。当時の不確実性や情報制約を無視して、「当然そうするべきだった」と結果論に基づく評価は、事後孔明(英語だとhindsight bias:後知恵バイアス)という。
さらに、著者たちは元々のテーマ「組織論から日本軍を研究する」に落とし込むために、「日本軍の組織文化が究極の原因である」と後付けを一般化している。
これ、歴史書っぽい体裁をしているけれど、歴史書からピックアップしたケーススタディ集と見たほうがよいかもしれぬ。その辺りを考えず、手放しに絶賛しているおっさんがいるみたいだが、危うい。
では、後知恵バイアスにまみれたチェリーピッキングだからダメかというと、そうでもない。バイアス(bias)は斜めに歪んだという意味だから、その偏りを考慮すれば使える教訓が得られる。
以下、偏りを考慮して抽出した「失敗の本質」とそこから得られる教訓を並べてみた。幹部研修で本書を読まされる人には参考になるかもしれぬ。研修レポートに向けた「日本軍の失敗から得た経営戦略への教訓」はここに一覧化したので、活用してほしい。
本書が主張している「日本軍の組織文化が究極の原因である」は過剰な一般化かもしれぬ。だが、「過去の成功体験の過剰適応(過学習)が、時代の変化に対応できなくさせた」という視点は鋭いと感じた。
つまり、組織からすると「過去の成功体験=正しいやり方」という前提から抜け出せなかったと言える。
さらに、第一次世界大戦を通じて西欧諸国が経験した「総力戦」「航空戦力の勃興」「塹壕戦の膠着」という現実を、日本は当事者として体験できなかった。環境の変化を直視する機会を欠いたまま、自国の成功パラダイムを絶対視したのだ。
ここから得られる教訓は、現代にもつながる。
日本軍の失敗は「組織文化」というよりも「変化に対する鈍感さ」に置き換えるとしっくりくる。
「過去の成功が選択を見誤らせる」例なら、KodakのフィルムとかNokiaの携帯電話が有名だろう。現在進行中のやつだと、NikeのBoC戦略だろうか。コロナ禍の外出制限で成功した直販モデルが、ポストコロナの消費者や小売チャネルの離反を招いている。
結局のところ、『失敗の本質』を歴史研究として読むと事後孔明のオンパレードになるが、寓話として読むと現代的な教訓を与えてくれる。「勝ちパターン」に固執すると環境の変化に適応できなくなる。
このあたりまえで冷徹な真実は、過去の戦争からも、ビジネスの失敗例からも学ぶことができる。そういう意味で、「経営者にとっての名著」と呼ばれているのだろう。
結論を述べるとこうだ。モデルとは、現実を映しだすカメラではなく、未来に介入するエンジンである。数理モデルは、未来を当てるためのものではなく、未来に備える道具として使うべし―――これが本書のメッセージになる。
本当に数理モデルは現実世界を語れないのだろうか?
この問いへは、「天気」と「気候」の事例が分かりやすい。
現代の天気予報は、数学でできているといっていい。
「天気」は、大気の運動の物理法則(流体力学・熱力学)を微分方程式で表現する。グリッド分割した区域ごとで変数(気圧・風速・温度等)を割り当て、隣接区域との相互作用を考慮しつつ、その方程式を解くことで数値的に表すことができる。複数のモデルや初期条件がある場合、ベイズ統計を用いることでモデルの不確実性を取り込んでいる。
明日の降水確率から台風の進路状況まで、かなり正確にできるのは、同じ条件で予想結果が高頻度で利用できるからだ。気象モデルは数十億ドルを節約し、多数の命を救っているといえる。
では、この数理モデル(群)を用いて、「気候」を予測できるか?
「気候」は、数日ではなく数十年~数世紀スケールで、より粗い空間スケールで、天候の平均的傾向や統計的分布をシミュレートする。初期値が少しズレるだけで予想が大きく外れる気象モデルを、そのまま用いることはできない。
さらに、気候モデルは未経験の未来を予測する必要があり、データの蓄積はほぼ無い。同じ条件の観測データは無いため、これまで測定したデータを元に推測するしかない。モデルが正しいかどうかは、翌日の天気ではなく、何十年も経たないと分からない。
気象モデルと気候モデルは、同じ数学的基盤を持っていたとしても、目的が異なり、予想する対象・範囲も大きく違う。
すなわち、「モデルは現実を語れない」というのではなく、「現実の一部を語れるモデルが存在する」というべきだろう。あるいは、「どの現実を語るのか」という目的に応じて、モデルを使い分ける必要がある。
モデルが語るのは現実そのものではなく、「どの現実を語るか」を選び取る私たちの価値観なのだ。
数理モデルが登場すると、それは何かしらのデータセットやエビデンスに裏打ちされ、その分野の専門家によって「正しい」とお墨付きを得ているものだと確信する。「数式」なのだから、定量的なインプットがあれば、定量的なアウトプットが得られる―――そう考えてしまう。
だが、モデルとは、現実を映すカメラではなく、現実のある側面を切り取り、強調し、他を捨てた後、何かしらのロジックで組み立てた仮説に過ぎない。
だから、モデルが当てはまる現実もあれば、全く通用しない範囲もある。それはモデルが間違っているのではなく、スコープを越えているからだ。
テクノロジーの進展により、観測の精度が上がるほど、モデルと現実のズレは顕著になる。そんなデータセットが蓄積するたび、科学者たちはパラメータを調整し、定数を入れ替え、数理モデルを【精密化】する。
それでも辻褄が合わなくなると、新しい理論が生まれる。ミクロ経済学がそうだったし、素粒子物理学もそうやって誕生した。これらは、観測結果に即してそう取り決められた言明に過ぎぬという。
現在はうまくいっているということだけで「実用的」と言えるが、それが「真実」かというと違う。問題なのは、科学者が大事にするモデルこそが真実であり、全てを説明できると信じ込んでしまう点にある。
最近では、超ひも理論で全てが説明できると豪語するブライアン・グリーンのような人は減ったが、こうした素朴なモデル信奉者はたまに見かける(経済学と物理学に多いような気がする)。
モデルは現実と離れているかもしれぬ。
それでも、モデルを生み出すプロセスは、状況を合理的に説明させようと促す。不確実であったとしても、それでもなお行動を起こさせようとする。これを、コンビクション・ナラティブ(確信を持たせる物語)という。
コンピュータのY2K問題や、COVID19のパンデミックなど、モデル通りの未来にならなかったことは事実だ。
だが、たとえモデルの予想が外れたとしても、それは失敗ではない。最悪のシナリオを回避するために行動を促したからだ。検証しようがないが、それでも対策した結果が今の世界線だといえる。
それは、ロックダウンをした結果の世界線が今だろうし、京都議定書が形骸化した今を、私たちは生きていると言える。モデルは現実のリスクを「予言」ではなく「物語」として動かす。その意味で、モデルは現実に介入するエンジンになる。
モデルとは未来を予言するためのものではなく、未来を引き受けるために必要不可欠なのだ。
これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。アイゼンハワー大統領「計画は役に立たないが、計画を立てることは絶対に必要だ」を捩るなら「モデルは役立たないけれど、モデルを作ることは絶対に必要だ」と言える。素晴らしい本に出会えてよかった、ありがとうございます!
問いの感度を上げると、問いの質が上がる。問いの質が上がると、的を射たコミュニケーションができる。
本書で示される定義は、次の通り。
問いとは条件に合う答えをある範囲のなかから選択することである
上記を分解すると、問いとは、①予め何かしらの前提条件が与えられており、②ある範囲の中から答えを選ぶことで、なおかつ、③その答えは何らかの基準(価値判断)に沿って選ぶことになる。つまり問いとは、前提、選択、基準の3要素によって構成されるという。
ただし「選ぶ」という言葉に違和感を覚えるかもしれない。例えば「方程式の解を求めよ」は「求める」であり、「犯人は誰だ?」は「探す」が自然だろう。
ここで注目すべきは、答えを導く方法(計算や捜査)ではなく、「答えがどの範囲に属するのか」という点だ。数式なら「数値」、犯人探しなら「人物」という範囲が決まっている。
「問い」と「答え」とセットであり、その答えは文脈や意図に依存する。一意に定まるもの(1+1は?)、人によって変わるもの(ここのラーメンは好き?)、状況で変わるもの(面接と職務質問での「あなたは誰?」)がある。
したがって、「問いとは、前提のもとで基準に沿って選ぶこと」と考えると、その性質を整理しやすくなる。
誰かから問いを投げかけられたとき、あるいは、自ら問いが生まれたとき、「その問いとは何か?」と、問いそのものに目を向ける時に役に立つ。そして、「問いの前提、選ぶ基準と範囲は何か?」に置き換えることで、焦点がハッキリとするだろう。
本書では、様々な問いの分類がなされているが、最も重要なものは「事実の問い」と「評価の問い」だろう。
太郎『あの店のラーメン、どうだった?』
花子『豚骨スープに細麺で、美味しかった』
一見シンプルなやり取りだが、この「どうだった?」には「事実の問い」と「評価の問い」がある。
事実の問いは、基本的に答えが一つに定まる客観的なもので、「豚骨スープ」や「ストレート細麺」がその答えになる。一方、評価の問いは、答えは人それぞれのもので、「美味しかった」という主観が答えになる。
事実か評価か、どちらを想定した問いなのかを念頭に置くと、どんな回答が適切か見えてくる。どちらか分からないような問いなら、両方を示すのが良いだろう
「事実の問いは一つに定まるもの」とはいえ、実際には定めるのが難しい場合がある。あるいは、一度定めても後に変わることもある。例えば「どの政策を採択するか」や「どんな刑罰を科すか」といった問いだ。
この答えは、人によって評価が分かれるが、最終的な結論は所定の手続きで決まる。問題は、「なぜこの政策を選ぶのか」「なぜ死刑にしないのか」のように、評価の問いを、あたかも事実の問いであるかのように押し付ける場合である。
これらの問いの背後に、「この政策は現状にそぐわない」「この犯罪には厳罰が妥当だ」といった主観的な評価が隠れている。それを明示しないまま「事実の問い」の形式で突きつければ、相手に説明責任を押し付けることになる(SNSで炎上する「問い」はたいていこれ)。
問いの感度を上げて、その背後にある「評価」や「意図」を読み取る。これは、知的営みを支える、思考の筋トレといってもいいだろう。
伝説的なエンジニアであり、現代のソフトウェア文化の土壌を作った存在でもあるジェラルド・M・ワインバーグの主著とも言える『コンサルタントの秘密』を読んだ。
タイトルに「コンサルタント」とあるけれど、これはコンサルタントの本ではない。もっと広くて、「(自分も含む)誰かに相談されたとき、どう考えるか」をまとめた本だ(この「誰か」は自分も含む)。
コンサルタントは肩書きではなく、「どのように人と関わるか」が詰まった一冊といえる。彼の経歴上、プログラムやシステムの話が登場するが、あくまで面白いエピソードとして挙げているだけ。
様々なエピソード(だいたいトラブル)を元に、「コンサルタントの法則」として紹介してくれる。これ、実践できている人は当たり前すぎてピンとこないかもしれないが、「これを法則と呼ぶくらい重要な考え方である」ことに気づかない人には宝の山だろう。
トム・デマルコの書籍を通じて知り、自分の身をもって学んできた組織論や発想と重なるところが多々あり、実はこれが源泉だったことに気づく。
コンサルタントの仕事とは、
という役割を守れという。
これは確かにその通りで、相談を持ち掛けられたのを幸いに、相手の判断にまで踏み込んで良し悪しまで口出しする人がいるが、これはただのお節介だろう。「コンサルタント」という肩書でなくとも、相談する側/される側という分を守るのであれば、「判断する/判断材料を提供する」の分を守るべし
そして、コンサルタントの仕事の一つに「そこに無いものを見る」がある。依頼人が解決したい悩みごとを辿っていくと、たいてい見えていない場合が多い。そういう、見えないものを見るにはどうすればよいか?
など、沢山の方法が紹介されているが、私には「他人という異文化を利用する」が馴染み深く応用が利くやつだった。
ワインバーグは、「プログラマの生産性を高める」という目的で招かれた。彼は一人一人にインタビューを行い、生産性を高めるソフトウェアやガジェットが不足していないかを確認していた。
ところが、この職場は、ただ一人でも「これは必要・欲しい」と言い出したものは買うか作るかするという方針だったため、「〇〇が足りない」といった事態は起き得なかったという。
らちが開かないので、彼はインタビューを中断する。そしてトイレに行く途中、オフィスの掃除のおじさんをつかまえて、こう尋ねる「この職場に無いものは何だろう?」。掃除のおじさんはちょっと考えて、「黒板を拭いてくれって頼まれたことはないねぇ」と答える。
ワインバーグはオフィスや会議室を見回って、そこらじゅうの黒板に「消すな!」という警告のもと、電話番号やコードの一部などのメモが書かれていることに気づく。
本来はアイデアを共有する黒板が、二度と消せない個人メモだらけになっており、集団の思考の道具として機能していないことを指摘する。さらに黒板だけでなく、購入したソフトやガジェットは共有されておらず、有効活用されていないという問題にたどり着く。
「ここに足りないのは何だろう?」という問いは、自分よりも他人に聞くほうが有効だ。さらに、網羅性を考える上で、AIはうってつけだ。「10個考えて」とか無茶ぶりしても、なんとかヒネり出してくれる。その上で、人間サマが妥当かどうかを判断すればいい。
『コンサルタントの秘密』が出版された1990年には存在しなかった「AI」という異文化を、いまの私は簡単に呼び出せる。選択肢とコストを並べる役や、「この表に足りないもの」を洗い出してくれる役など、コンサルタントのかなりの部分を任せられるようになった(もちろん、最終判断は人なのだが)。
一方、「どのような問いを投げるか」「どこまで自分で判断するか」といった、本来コンサルタントが担っていた仕事の核心部分に、いやでも向き合うことになる。正解がないと言われる時代、答えよりも良い問いが重視されている。
問いへ向き合う考え方を教えてくれる『コンサルタントの秘密』は、AI時代だからこそ読み直したい。
確率・統計についてモヤモヤしているこの感覚、伝わるだろうか。
コイン投げで喩えるならこうだ。
歪みのないコインを投げ続けたデータを見ると、表が出る確率は1/2に近づいていくだろうが、それは次に表が出る確率が1/2であることを意味しない。この2つは違うものなのに、同じものとして扱われてることにモヤモヤする。
もちろん、この発想は一般的ではないことは承知しているが、独りでモヤモヤしていた。現実世界から得られたデータを数学的に裏付ける統計学こそが最強の学問であり、「科学的に証明された」とは「適切な統計的処理により結論にお墨付きが出た」と同義だと自分を納得させてきた。
ところが、このモヤモヤ、私だけではないらしい。本書を読むことで、私がどこで間違えていたかが分かった……と同時に、このモヤモヤこそが統計学を哲学する箇所であることも見えてきた。
私は、「コインをたくさん投げて得られた」統計データの話と、「理想的なコインならこんな結果になるはずだ」という理論上のモデルの話を混同していたのだ。
両者の違いは、富くじのパラドックス(lottery paradox)だと、見えてくる
観測されたデータから判断する統計モデルでは、一人一人のくじを独立した事象と見なす。そのため、「その人が持っているくじが外れである確率は99%」という判断を下すことになる。
ベイズ統計を用いると、事後確率は0.99になる。もし「事後確率0.99以上はその仮説が正しいと判断する」というルールを採用するならば、「その人が持っているくじは外れである」となる。
この評価は個々のくじに対するものであり、全体(1枚はあたりがある)ことが反映されていない。統計モデルからすると、100人の全員に対して「はずれ」と判断しても、問題ないことになる。だがこれは、前提と矛盾する。
一方、確率モデルでは「あたりは1枚ある」ことを前提に確率を計算する。100人全てについて、「あたりを持っている確率」を再分配する形で考え、観測データに基づいて「ある人がはずれである確率が高い」という情報を更新しつつ、「誰かはあたりである確率が存在する」ことを維持していく。
いま、「100枚のうちあたりは1枚」という前提で話しているが、実際に統計が適用されるのは現実だ。くじの総数もあたりの数も分からないし、引いた結果が必ず出るとは限らない。それにもかかわらず、「確率99%」は「確率100%」で正しいとしてしまっているのではないだろうか。
「いや、99%と100%は違う」というツッコミはあるだろうが、くじの数を一億枚に増やしてみよう。はずれる可能性は99.999999%になる。もちろん現実での統計値は、1億回も取れない。
この、統計で「正しい」とはどういうことか?
この疑問に正面から答えたのが本書だ。推定値の偏りのなさや帰無仮説の判断、尤度やp値など、統計学の「正しさ」を掘り下げていくと、認識論的に「正しいとは何か」という哲学の問題になる。言い換えるなら、「統計学はなぜ哲学の問題となるか」という疑問に対し、統計学と哲学の両方から迫ったのが本書だ。
一口に統計学と言っても、それは一枚岩の理論を指すわけではなく、ベイズ主義や頻度主義といった様々な理論が含まれる。それぞれにおける正当化のアプローチは異なっており、数学的な証明には還元されない哲学的な問い(=調査の対象となる世界がどのようなモデルとなっているか?)が待ち構えている。
一方で、「『正しさ』なんてどうでもいい、次の予測ができればいい」というプラグマティックな立場もある。世界の正しいモデルを追求するよりも、次のコインの裏表が分かればいいという深層学習からのアプローチだ。では、AIから得られた結果は「正しい」と呼べるのか?呼べるのであれば、何を根拠に正当化されるのかといった問題がある。
ベイズ主義、頻度主義、深層学習といった理論や技法を横軸とし、それぞれの正当化の根拠を掘り下げ、統計学と哲学の限界がどこにあるかを明らかにする。
ベイズ主義なら、仮説やモデル<そのもの>は正当化の対象外だ。代わりに、そのモデルを前提として、仮説やパラメータがどれだけ妥当なのかという信念を、観測データに基づいて更新していく。
だから、ベイズ主義は「どのモデルが観測データに適合するか?」といった比較検討にも適しているといえる。しかし、これだと「どのモデルが『正しい』か?」というよりも、むしろ「どのモデルが観測データを最もよく説明できるか」という話になる。
これ、ぶっちゃけ「正しさ」とは、観測データと既存の理論との整合性に還元されているのかもしれない(乱暴すぎるかも)。つじつまが合うようにモデリングして、それまでのデータや理論の蓄積とより整合性が取れている数値を、「正しい」とみなしているのではないか……と懸念する。前出の『数理モデルはなぜ現実世界を語れないのか』は、この立場だ。「正しさ」の中には「納得しやすさ/させやすさ」が含まれている。
そして、この「正しさ」を一歩間違えると、再現性の危機や研究グレーの世界になる。[科学研究はどこまで信用できるか]で書いたが、「正しさ」と「もっともらしさ」をはき違える例は枚挙にいとまがない。
統計の「正しさ」を考え抜くと哲学になる。
税の本質は略奪だ。
こん棒を手にしてた昔よりは洗練されてはいるものの、「ある人から奪い、ない人からも奪う」という本質は変わらない。こん棒が別の呼び名になり、略奪システムが巧妙になっているだけ。本書の前半を読むと、様々な試行錯誤と権力闘争の元に、人類の英知を結集し進化してきたものが、現代の税制だということが分かる(不完全じゃんというツッコミ上等。それは人類が不完全である証左なり)。
一方、脱税は多角的な側面を持つ。
上に政策あれば下に対策あり。税回避は、国家の略奪への対抗手段ともいえる。あるいは、政府よりも最適な資源配分をするための経済合理性を追求する行為だ。あるいは、法の抜け穴やグレーゾーンを見出し、そこで資源を最大化する戦略的なゲームだ。本書の後半を読むと、貧民から富豪まで、創意工夫を尽くして進化してきたものが、税回避のいたちごっこであることが分かる(これは人類の歴史が続く限り続く)。
『課税と脱税の経済史』は、奪う側と奪われる側の双方の視点から、古今東西の歴史を振り返り、「なぜ我々は税金を納めるのか」「そもそも税とは何なのか」を炙り出す、いわば「税の世界史」ともいえる。
税逃れの爆笑エピソードから、強制力の行使による無慈悲で残酷な結末、人間の行動心理の裏を衝いたやり方など、豊富な事例を眺めていくうちに、私が囚われている税への偏見と刷り込みが、クリアになってゆく。そこでは、人類の最悪な部分と最善な部分の両方を垣間見ることができる。この知的興奮がたまらない。
税への見方が360度ひっくり返ったのが、源泉徴収だ。
会社が給料を支払う際、予め税金を差っ引いた額が振り込まれる。わたしが受け取る時には税金は徴収済みというわけだ。召し上げられた税金は、会社がまとめて国に納める。取られた税金は、年末調整で返ってくる。面倒くさい確定申告は会社がやってくれる―――そんな風に考えていた。
だが違う。
源泉徴収の起源は古く、ナポレオン戦争の時代まで遡る。もとは、住み込みの使用人の納税義務を主人が肩代わりする制度だった。「賃金を支払う」というプロセスの一環で行われ、使用人一人ひとりから徴税するよりも、効率的に集めることができる。
所得税なのだから、被雇用者である「わたし」に対して課税されるにも関わらず、実際に納付するのは雇用主である故、納税しているという感覚が薄い。こういう巧妙な仕組みを発明したのはどこかというと―――世界史のなかで最も悪徳を積み重ねてきた国とだけ言っておこう。
今では賃金だけでなく、金利や配当、株式売却によって得られるキャピタルゲインの課税にまでこの方式が用いられている。また、途上国では、スマホなどの輸入品にまで源泉課税の対象となっているという。
このように「自然に」納税しているシステムだが、本書を読みながら改めて考えるとヘンだ。こうある。
年末になると年間の税額が再計算され、源泉徴収された金額と照合される。源泉徴収されていた額が過多だった場合、納税者から政府に無利子貸し付けを行ったことと同じことになる。
(『課税と脱税の経済史』p.366より)
この「納税者から政府に無利子で貸し付けられた」という発想は無かった。
言われてみれば確かにそうだ。納税が遅れると、延滞税という形で利子が課される。これは、延滞利息のようなものだ。延滞利息は取るのに、還付金(わたしの給料の一部)の利子は付かないの?
年末調整で返ってくるのは、税金ではなく、わたしの給料だ(「還付金」という別名になっているので、勘違いしやすい)。「わーい、【税金が】返ってきた」と無邪気に喜んでいたが、政府に貸してた【わたしの給料が】返ってきたのだ。だから、利子の一つも貰いたいもの―――と発想が転換される。それほど長期間でもないし、微々たるものかもしれない。だが、会社全体、いや、法人全体からすると、結構な額になるだろう。
こういう風に考えられてしまうのは、政府にとってかなり都合が悪かろう。
源泉徴収制度は、戦費調達のために1803年のイギリスを皮切りに世界中に広まった。アメリカの源泉徴収制度の設計者の一人であるミルトン・フリードマンは、後に大いに後悔したという。
「反乱を引き起こすことなくここまでの増税が可能になったのは、政府が国民の金を、彼らが目にする前にとりあげているからだ」
(『課税と脱税の経済史』p.368より)
数百年かけて浸透し、当たり前のように運用され、この制度ありきで世の中が回っているため、いまさら異を唱える方が異常なのかもしれない。だが、本書を通じて知った源泉徴収制度に対する不自然な感覚は、忘れずにいたい。
本書は、経済史という体裁を取っているものの、そのサブタイトルに「【悪】知恵で学ぶ租税理論」がついてくる。これに脱税をテーマとしたフィクションをラインナップとして付ければ、『脱税大全』と銘打ってもいいだろう。
税とは略奪だ。やり方は変わっても本質は変わらない。奪われる者、抵抗する者、逃げる者、隠したりごまかしたりする者、『課税と脱税の経済史』には、人類の英知と不完全さ、そして馬鹿さ加減が詰まっている。
これは基本読書の記事をきっかけに手にした一冊。冬木さん、ありがとうございます!
名作オブ名作。
単に素晴らしい作品と称されるだけでなく、時代を超え場所を超え、普遍的に良きもの、「〇〇といえばこれ」とまで言える傑作を、敬意をこめて「マスターピース」と呼び、集めたものがこのシリーズだ。
なので、知ってる作家なら知っている作品だと思いきや、未読を並べてくれるのが嬉しい(私の見聞不足かもしれないが)。パワーズ、オースター、エヴンソン、エリクソンと、この人のおかげで出会えた傑作も数知れず、感謝しかない。多くの小説を翻訳し紹介してきた柴田元幸が推すから信頼できる。
衝撃的だったのが、ヘミングウェイの短編「インディアン村」だ。いろいろ読んできたつもりだが、これは読んでいなかった(つまり、これが収録されているデビュー作『われらの時代』を読んでなかった)。
形容詞を徹底して排し、簡潔で、ぶっきらぼうに紡がれる物語は、一見、何が起きているのか判別しがたく感じられる。だが、会話の端々や、主人公が「見ているもの」を注意深く読み解くと、蠢いている感情やドス黒い苦悩に、直接、触れことができる。
原文は平易で簡素で、難しい単語はほとんどないのに、この機微を汲むのが難しい(つまり、私の英語力が足りない)。原文で読んでもピンとこなかったこの感触を、見事な訳文で伝えてくれる。
少年がある出来事を眺めるシーンがあるのだが、原文の”It all took a long time.” を「何もかもすごく時間がかかった」と訳しているのが凄い。彼が何に立ち会っているのかは、父が医師であることと、それまでの短い会話から理解できる。
しかし、具体的に少年が見ている人の姿勢や動き、使われているモノについての描写は、一切ない。会話と動作を手がかりに、「何もかも」を想像するほかないのだが、それがめちゃくちゃ生々しい。書いてあることで書いてないことを掻き立てるスタイルについて、ヘミングウェイは最強なのかもしれない。
さらに、ラルフ・エリスン「広場でのパーティ」の淡々と語る狂気(狂喜?)が凄まじい。
ひとりの黒人を、集団の白人がリンチする一部始終を物語ったものなのだが、その語られ方が異様なのだ。
広場に集まった白人たち(銃で武装している)と、その視線に晒され、縛られ、ガソリンをかけられる黒人の様子が、一人の少年の目を通じて語られている。目を覆いたくなる残虐な行為が、まるで日常の延長の非日常―――お祭りかパーティのように、「普通に」語られている。
白人たちの一人一人の顔と名前はハッキリと区別され、普段の良き市民としてのエピソードが語られているのに、「パーティ」の間は興奮した一つの群衆として扱われ、非人間的なものとして描写される。
しかも、「パーティ」は暴風雨に見舞われ、飛行機が墜落し、衝撃で電線が切れ、白人女性が感電死する。白人の焦げ臭い肉は淡々と処理された後、人々は再び、燃え上がる黒人男性を取り囲む。この、異常なものを普通に語るディストピア感に怖気立つ。
そして、この舞台設定となった1920年代からまだ100年しか経っていないことにも注意を向けるべきだろう。人種差別や階級間の対立は今なお続く構造的な問題であり、黒人やマイノリティを「敵」として描くスケープゴート化は、歴史的に繰り返されてきたことを改めて思い知らさせてくれる。
他にも、有閑マダムのマウンティングが意外な過去を暴くウォートン「ローマ熱」や、ユーモアすれすれのグロテスクな運命を描いたウールリッチ「三時」など、読ませる名作ばかりが並んでいる。
『ロリータ』の重大なネタバレに触れています
ロリータいいよロリータ。いくら読んでも楽しさが尽きぬ。そして、どんなに読んでも「読んだ」気にならぬ。
読書会を機会に、再々読したのだが、読むたびに新たな気づきが得られ、さらに読書会で「読んで」なかったヒントをもらえた。東京ガイブン読書会に参加された皆さま、ありがとうございます!
学生時代、「変態男の少女愛」だけで思考停止していた俺、もったいない。ストーリーの表層をなぞって満足するのは初読時だけで、面白くなるのは再読から。面白さは細部に宿るし、その細部を追っていった目を上げた瞬間に広がる全体にも宿っている。
これは、小説読みが好きなあらゆる要素が詰まっている。
ぱっと思いつくだけでも、宙吊り、オマージュ、信頼できない語り手、どんでん返し、多声性、異化、ミステリー性、寓意、内的独白、間テクスト性、エピファニー、デウスエクスマキナ、アポリア、アイロニー、自由間接話法、視点変更、メタフィクション、入れ子構造、非線形叙述、ギャグ、カタルシス、不気味の谷、オノマトペ、パロディ、パスティーシュ、言葉遊び……たぶん、「『ロリータ』に出てくる小説技巧」で、世の中の小説の技巧はほぼ網羅できるかも(足すならマジックリアリズムぐらい)。
どこをどんなに読んでも、必ず宝が詰まっている。それに気づくか、気づかないかだけ。
もちろん上辺の筋を追うだけでもいい。「起きたこと」を並べるだけならこうなる。
| 年月 | 場所 | 出来事 | H.H. | Lo | 章 |
| 1910 | パリ | ハンバート・ハンバート誕生 | 0 | ||
| 1923夏 | パリ | ハンバート、アナベルと出会う | 13 | ||
| 1923冬 | コルフ島(ギリシャ) | アナベル、発疹チフスで死亡 | 13 | ||
| 1911 | オーシャン・シティ | クィルティ誕生 | 14 | ||
| 1935-01-01 | ピスキー (ミッドウェスト) | ドロレス(ロリータ)誕生 | 25 | 0 | |
| 1935-04 | パリ | ハンバート、娼婦モニークから「本物の快楽」を得る | 25 | 0 | 1-6 |
| 1935 | パリ | ハンバート、ヴァレリアと結婚する | 25 | 0 | 1-8 |
| 1939夏 | パリ | ハンバートの伯父死亡、遺産相続の話 | 29 | 4 | 1-8 |
| 1939夏 | パリ | ヴァレリアの浮気、離婚 | 29 | 4 | 1-8 |
| 1940春 | ニューヨーク | ハンバート、合衆国に到着 | 30 | 5 | 1-9 |
| 1943-44 | ニューヨーク | ハンバート、神経衰弱で入院 | 33 | 8 | 1-9 |
| 1945 | ラムズデール | ヘイズ一家がピスキーから転居 | 35 | 10 | |
| 1947-05 | ラムズデール | ハンバート、ヘイズ家に下宿開始 | 37 | 12 | |
| 1947-06-26 | キャンプQ | ドロレスが夏のキャンプへ出発 | 37 | 12 | |
| 1947-06末 | ラムズデール | ハンバート、シャーロットと結婚 | 37 | 12 | |
| 1947-07末 | チャンピオン湖 | ドロレス、処女喪失 | 37 | 12 | |
| 1947-08-05 | ラムズデール | シャーロット、ハンバートの秘密を知る | 37 | 12 | |
| 1947-08-06 | ラムズデール | シャーロット、交通事故で死亡 | 37 | 12 | |
| 1947-08-14〜15 | ラムズデール | ハンバート、ドロレスを迎えに行き、Trip One開始 | 37 | 12 | |
| 1947-08-15 | ブライスランド | 最初の宿泊 | 37 | 12 | |
| 1947-08-16 | レッピングヴィル | ハンバート、シャーロットの死をドロレスに告げる | 37 | 12 | |
| 1947-09 | ソーダ(ミズーリ) | 中西部を通過 | 37 | 12 | |
| 1947-09 | スノウ (ワイオミング) | ハイプレーンズ地域を通過 | 37 | 12 | |
| 1947-10 | チャンピオン(コロラド) | チャンピオンホテルに滞在 | 37 | 12 | |
| 1947-11 | カスビーム(アリゾナ) | チェスターナットに滞在、クィルティ尾行 | 37 | 12 | |
| 1948-04 | エルフィンストーン | ドロレスが体調を崩す | 38 | 13 | |
| 1948-08 | ビアズレー(オハイオ) | 旅を終え、定住開始ドロレスが学校に通う | 38 | 13 | |
| 1948-12 | ビアズレー(オハイオ) | ハンバート、プラット校長と面談 | 38 | 13 | 2-11 |
| 1949-5 | ビアズレー(オハイオ) | ドロレス、「特別なリハーサル」に参加 | 39 | 14 | 2-12 |
| 1949-05-29 | ビアズレー(オハイオ) | Trip Two開始 | 39 | 14 | 2-14 |
| 1949-06上旬 | チェスターナット・コート | ドロレス、クィルティと密会 | 39 | 14 | 2-16 |
| 1949-06下旬 | チャンピオン | チャンピオンホテルでテニス | 39 | 14 | 2-20 |
| 1949-06-27 | エルフィンストーン | ドロレスが体調悪化、入院 | 39 | 14 | 2-22 |
| 1949-07-05 | エルフィンストーン | ドロレスが病院を去り、ハンバートと別れる | 39 | 14 | 2-23 |
| 1950 | ケベック(カナダ) | ハンバート、リタと関係を持つ | 40 | 15 | 2-26 |
| 1951-09〜1952-06 | カントリップカレッジ | ハンバート、教職に就く | 41 | 16 | |
| 1952-09-22 | コールモント (ワシントン) | ドロレスからの手紙:結婚と妊娠の知らせ | 42 | 17 | 2-27 |
| 1952-09下旬 | コールモント付近 → 旅路 | ハンバート、手紙を受け取る | 42 | 17 | |
| 1952-09末 | コールモント | ハンバート、ロリータと再会 | 42 | 17 | 2-27 |
| 1952-09末 | クィルティ邸 | ハンバート、クィルティを銃撃・殺害 | 42 | 17 | |
| 1952-09末 | (未詳) | ハンバート逮捕後、獄中で回想録(『ロリータ』)を執筆 | 42 | 17 | |
| 1952-11-16 | (獄中) | ハンバート死亡(心臓疾患) | 42 | 17 | |
| 1952-12-25 | グレイ湖付近 | ドロレス死去(難産のため) | 42 | 17 |
表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。
ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった?
ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか?
この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。
「リチャード・F・スキラー」夫人は1952年のクリスマスの日に、北西部最果ての入植地であるグレイ・スターで、出産中に亡くなり、生まれた女児も死亡していた。
一度でも読んだ人なら、リチャード・F・スキラーが誰であるのかは明白だ。だが、一回読んだだけでは、彼女の運命がどうなったのかは分からない。この小説は、そういう風に書いてある。他の登場人物がどうなったかは「序」に全部書いてある。そこには「読者」も含まれる。初読時に受けたときの衝撃や感情も記されている(自分のことが書かれていると気づいて、慄く読者もいるかもしれぬ)。
再読することで、初めて見えてくる世界がある。この小説は、そういう風に書いてあるのだ。これ、ナボコフが「小説を読むこと」について述べていることと一致する。『ナボコフの文学講義』のここだ。
ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。
(『ナボコフの文学講義』p.57)
この一行だけ切り取られていることが多いが、その真意は直後に明かされている。本を読むということは、一行一行、一頁一頁、目を追って動かす作業そのものだ。「その書物に何が書かれているのか」を知る過程そのものに、時間的・空間的なハードルがある。絵画の鑑賞のように、絵をパッと見た後、細部を楽しむ―――そういう風に書物はできていないし、私たちの肉体もできていない。
だから、再読、再々読を繰り返すことでしかないというのだ。再読を繰り返すことで、初めて作品全体と向き合いながら細部にも目を行き渡らせることができる―――これを実践したのが『ロリータ』になる。
再読を誘う仕掛けはいくらでもある。読書会で知った最大の成果は「Q」だ。
ドロレスを唆し、ハンバートから引き離したクィルティ(Quilty)。「唆した」のかどうかは、ツッコミたくなるが、彼はあちこちに、本当にあっちこっちに登場している。
劇作家の名前として初登場(1-8)するだけでなく、近所の歯医者、彼の戯曲名「魅惑の狩人(The Enchanted Hunters)」はそのままハンバートとドロレスの「初宿泊」のホテル名(1-25)、ドロレスがサマーキャンプに出かけるのは「キャンプQ」であり(1-25)、ドロレスを連れ去って移動しながら宿泊するモーテルの宿帳に記すのは「Q」である(2-24)。
そもそも、ハンバートが教養をひけらかすために要所要所でフランス語を使っているのだが、フランス語でWhatにあたる「Que」が登場する(1-8、2-2、2-6、2-14等多数)。ハンバート自身が無自覚にQを使って手がかりを残していると考えると面白い。
そして、queは英語だと「手がかり」「合図」になる。「Q」は見失ったロリータを探す手がかりでもあるし、ストーリーにきっかけを与え、展開を促す合図でもあるのだ。英語で「Q」で始まる言葉は少ない。そんな言葉を、イメージや暗示、連想を紡ぎつつ、ハンバートだけでなく読者が読み解く手がかりとしても残していく。その響きから、読み手はQで始まる重要な単語―――Question―――を思いつくかもしれぬ。
あるいはQuest(ニンフェットの探索、1-12)、Queen(ドロレス、2-6)にも結びつく。原文で読むとき、「Q」を探しながらだとより捗るだろう。
これは初読時の衝撃だが、チェホフの銃が効果的に使われている。
チェホフの銃とは、「物語の冒頭で銃が壁に掛かっているなら、最後には発砲されなければならない」というルールのことだ。登場させる小道具には何かしらの意味があり、無意味な小道具を出すなという約束事になる(こと銃のような物騒なものは特に)。
『ロリータ』におけるチェホフの銃は、元々はドロレスの実父のものだった。それをシャーロットが譲り受けて(2-17)、最終的にはハンバートが手に入れる。32口径、8連装の自動拳銃だ。
当然、この銃はクライマックスで使われるのだろうな……ということは想像できる。
では誰に向けて?
初読時、私が引っ掛かっていたのは、ドロレスの呼び方だ。ハンバートは彼女のことを、ロリータ、ロー、ローラ、ドリーと呼んでいた(これらはドロレスから派生した呼び名)。あるいはニンフェットとも呼んでいた(これは9~14歳までの女の子で、その2倍以上の年上の魅せられた旅人に対してのみ発動するニンフ/nymphic、1-5)。
この他に、カルメン(カルメンシータ)とも呼んでいた。
最初はドロレスのお気に入りの曲「小さなカルメン」からだが(1-11)、心の中だけでの呼びかけだったのが、実際にドロレスに向かって「カルメン」と呼ぶようになっていた(2-2)。
そして、カルメンといえばメリメの悲劇だろう。平凡な兵士ドン・ホセが、ジプシー女カルメンと出会い、恋に落ち、破局していく物語だ。妖艶で奔放なカルメンは、自由を愛し、社会の規範に抗おうとする一方、ドン・ホセは彼女に執着するあまり脱走し、彼女と一緒になろうとする。
束縛しようとするドン・ホセに対して、彼女の心は離れてゆき、闘牛士エスカミーリョを愛するようになる。彼女のことが忘れられず、ドン・ホセは復縁を迫るものの、自由を失うくらいなら死を選ぶと言い放つカルメン。逆上したドン・ホセは、持っていた短刀で刺し殺してしまう……というストーリーだ。
なので、メリメの悲劇を踏襲して、ハンバートはドロレスを撃ち殺すのだろう、と考えていた。
自由を愛するドロレスと、執着するハンバートは、まんまカルメンとドン・ホセになる。
しかし、チェホフの銃の向き先は、闘牛士エスカミーリョになる。
これには二重の意味で驚いた。ハンバートがドロレスではなくクィルティを撃ったことだけでなく、「ドロレスを撃つだろう」という私の(読者の)予想を巧みに出し抜いたことにも驚いた。ドロレスを「カルメン」と呼んだのはハンバートだが、ハンバートがクィルティに向けて銃を撃たせたのはナボコフだ。
その意味で、ハンバートとナボコフが結託して私を騙したことになる。古典的な作劇テーマを借用しながらも、その予想を出し抜くアイロニー。これは初めて読むときしか味わえない初読者の叫びなり。
ハンバート・ハンバートは、明らかに嘘だと分かることを重ねている。
読み手(陪審員もしくは小説の読者)にもすぐにバレるような、辻褄の合わない嘘のつき方だ。例えば、ホテル「魅惑の狩人」での最初の夜、ドロレスから誘ったかのような書きっぷりになっている(1-29)。あるいは、記憶の混濁を自ら告白している(2-28)。
だから読み手は、信頼できない語り手として接するのだが、書き手はそれ以上に読ませるのが上手い。
ついつい引き込まれてしまうものの、ハッと気づいて「これは本当のことなのだろうか?あるいは少女性愛を正当化させるための虚言なのだろうか」と自問することになる。
だが、たとえ全てが嘘だったとしても、この小説は成り立つ。仮に、嘘もしくは嘘と思われる箇所を塗りつぶしたとしよう。すると、ほとんどのページは真っ黒になり、文は消え、言葉は失われていくが、それでも残るものがある。
それは、ハンバートからドロレスへの愛、だと思う。
二人は、性的搾取と支配で成り立つグロテスクな関係であり、彼は「理想の少女像」を重ねているに過ぎない。
だが、それでもなお彼の言葉が文学として魅惑的であるため、嘘と知りつつもそこに愛(?)を汲み取りたくなる。
もちろん、ドロレスもハンバートも存在しないフィクションのキャラクターだ。それでも、そこに真実の愛(「真実の愛」ってなんだ?)があるとするなら、フィクションが語るからこそ「真実の」と言えるのかもしれぬ。
Fiction is the lie through which we tell the truth.
フィクションとは、真実を語るための嘘だ
(アルベルト・カミュ)Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、私たちに真実を悟らせる嘘である
(パブロ・ピカソ)
もちろん現実ではあり得ないし、あってはならない。だが、フィクションの中でなら成立する真実なのかもしれぬ。
現実では、カルメンを刺したのは「痴情のもつれ」かもしれないし、ドロレスを連れて旅したのは「未成年者略取」になるだろう。同意の有無に関わらず「強姦」は成立する。
だが、フィクションの中では、これを何と呼ぶのか。たとえ全てが嘘でも、どうしても「愛らしきもの」が残ってしまう。 それは現実では成り立たないが、フィクションだからこそ成立する「真実」だと言える(そう思ってしまうのは、それこそH.H.の策略なのかもしれぬ)。
『ロリータ』は、少女愛を綴ったエロ小説としても読める(肩透かしするかもしれないが)。アメリカを横断・縦断するケルアック的ロード・ノヴェルとしても読める(On the Roadの方が後発だが)。僅かな手掛かり(cue)を元に姿なき誘拐犯を追いかけるミステリとしても読める。そして、全てがハンバート・ハンバートの妄想だという読みもできる(←この読み方は読書会で知った!)。
物語は物騙りと言われる。
フィクションとはずばり「嘘」だ。それでも、嘘の中に真実があるとするならば、それは何か?何だと思いたいか?これは読者に委ねられたテーマだろう。
『ロリータ』はどんな読み方にも答えてくれる強靭さと多様さを兼ね備えている。
次は、どんな風に読もうか。
AIに問いかけると、返事が返ってくる。このときAIは「意味」を理解しているのか?
ある人は、「それらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という。またある人は、「統計的に近い意味を持つ言葉から生成しているから、意味を分かっていることと同じ振る舞いをしている」という。
この二人の間に横たわるのは、「意味とは何か?」という古くて新しい問いだ。これは単なるAI論ではなく、人がいかにして世界を理解しているかという、認知・言語・文化の根源的問題でもある。
この問題を正面から受け止め、どのような方向からアプローチすべきかを示した論文集が、『記号創発システム論』(谷口忠大編著、2024)だ。領域は、認知科学、AI、ロボティクス、言語学、現象学、意味論に及ぶ。
一つ一つが広すぎ・デカすぎ・深すぎるため、「記号創発システム」というキーワードを羅針盤とする。
「記号」とは、固定的なラベルではなく、身体と環境、他者と社会、文化と歴史の間で立ち上がる動的なネットワークとしてとらえる。そして「意味」とはヒトの脳内に閉じたものではなく、行為との関係性の中で絶えず生成・循環され続けるシステムの中で成り立つという。
そしてAIがこの循環の中に「身体を持つ知性」として参加するなら、それはどのような共生社会となるか?といった問いにまで踏み込んでゆく。面白そうな章を並べると、こんな感じ。
どれを読んでも宝の山だが、どれも歯ごたえ抜群だ。だから、自分が気になる領域や問題をつまみ食いしつつ、それがAIとの共生社会にどのような位置で取り組まれているかを概観するのがいいかもしれぬ。
私の場合は、長年アタマを煩わせていた記号接地問題の決着がついているのが面白かった。
記号接地問題とは、「AIはそれらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という人が主張している問題だ。
これ、『言語の本質』(今井むつみ、2023)で最初に読んだときは「なるほどー」と思ったのだが、GPTに問うたところ、問題そのものの妥当性を疑うようになった。一種の偽問題のようにモヤモヤしていた。
それが、『記号創発システム論』では、この問題がキレイに片づけられていた。
2000年代ではロボットにカメラやセンサを取り付け、マルチモーダルな感覚からカテゴリを自分で作り、ラベリングするという実験が行われてきたという。
その成果として、「センサーを持つ主体が、世界を区別して、その区別に記号を貼る」ぐらいのことはできるようになったという(※2 記号接地問題は解けた、次に何やる?)。どうやら、今井むつみは、この論文をスルーしているように見える。
そういえば、10月に行った東京大学のシンポジウムで佐藤淳教授の「人外センシングAI」があった。通常の可視光や可聴域に加え、赤外線や超音波を認識するセンサーを搭載したAIに世界を学ばせる試みだ。人間以上の経験を積んだAIは、人間以上に「意味」に通じているといえるかもしれぬ。
さらに、『記号創発システム論』では、記号を意味に接地させるという設定に疑義を投げかける。
記号を世界に貼り付けるモデルではなく、身体と社会の相互作用の中で意味が生成されていく循環モデルを扱う。「意味とは何か?」という問題を解くためには「記号-感覚」だけではなく、「記号-感覚-社会-文化」まで拡張しようとする。
あるいは、「温かいテクノロジー」で紹介されるLovotのような、人と触れ合うことで関係性を築こうとするAIがある。Lovotが自身の経験をLLMに翻訳させることができるなら、「なぜ人と関わろうとするのか?」といった根源的な動機を語り始めるかもしれぬ(ある人は雑にそれを「愛」と呼ぶかもしれない)。
『記号創発システム論』が示すのは、意味とは頭の中の表象ではなく、身体と社会のあいだを循環する運動そのものだということだ。既にAIはこの循環に混ざりつつある。その意味で、記号創発とはAIの問題ではなく、私たち自身の「世界とのつながり方」を再発見するプロセスともいえる。
これは読書猿さんのお薦めで手にした一冊。これから何度も読み返すスゴ本をご紹介いただき、ありがとうございます。
著者である谷口さんご自身に教えてもらったのだが、この方、ビブリオバトルの発案者だという(言われてみれば、お名前に見覚えが!)。お薦め本を紹介しあって一番読みたくなった本を選ぶビブリオバトル、最初に参戦したのは2011年で、小飼弾さんにウンベルト・エーコの『醜の歴史』をお薦めしたり、弩ストレートな『ヴァギナ』で女性票を集めて優勝したこともあった。発案者が著した一冊に蒙を開かれる巡り合わせが面白い。谷口さん、ありがとうございます。
※1The symbol grounding problem,Stevan Harnad,1990
※2The symbol grounding problem has been solved, so what's next?,Luc Steels,2008
※3A ROADMAP FOR EMBODIED AND SOCIAL GROUNDING IN LLMs,Sara Incao,et,2024
振り返ってみると、この一年で読んだ(再読した)本は、一回限りの現実に抗うものが多かった気がする。
無かった青春を上書き保存してくれるラブコメも、
人生の軽さと重さを秤にかけるクンデラも、
数理モデルや統計や税制や正義論の「正しさ」を疑う本たちも、
みんな、「一回限りの現実」に抗いつつ、最終的にどう引き受けるかを<私に>突き付けてくる。
「読む価値がある本=再読する価値がある本」という基準で読んできた結果、今年「も」積読山は全く減ってない(むしろ増えた)。それでも、読書余命を「自分が本当に読みたい本」に費やせた。
それでも、私の残り時間はあとわずかだ。人生100年を謳う連中がいるが、ビジネスレトリックとして聞き流そう。「生きている時間」というよりも「読書を楽しめる期間」は、そんなに多く残っていない。
「リタイアしたら読もう」は不可だ。なぜなら、「週末に読もう」「夏休みに読もう」とした本は、読んでこなかったから。忙しくても、疲れていても、本が読めない言い訳にしない。
持ち越されている『経済人類学入門』(鈴木康治)と『チェヴェングール』(プラトーノフ)、そして『紙葉の家』 (ダニエレブスキー)は読みさしだし、『なぜフィクションか』(シェフェール)と『ストーリーの起源』(ブライアン・ボイド )は一読だけで掴みきれないので再読する。『夜のみだらな鳥』(ドノソ)と『重力の虹』(ピンチョン)は読書会に向けて読み込んでおきたい。
他にも、ビッグデータを使って科学を科学する『サイエンス・オブ・サイエンス』や、さらによい文章を書くために『リサーチの技法』、手にした瞬間ひとめ惚れした『図鑑建築全史』、米国の短編小説の傑作集と名高い『アメリカ短編ベスト10』、ペータース『闇の国々』が待っている。
再読なら、マングウェル(愛書家の楽園)、マッカーシー(ノーカントリー)、ドスト(カラマーゾフの兄弟)を手始めに再読山を崩しはじめよう。
こう宣言しても、それらを飛び越えて手にしたい一冊と出会うことになるに違いない。これは、予感というより確信なり。
ここで紹介した本をきっかけに、あなたのお薦めを、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、私のアンテナでは届かない、魂を震わせるスゴ本に違いない。
なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。
