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1824年
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1824年

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神様も逃げ出したくなることがあるのか

文政7年。らくた(らくだ)櫛が流行る。木で作られている。その形は斯くの如し。(図略)上の部分は角ばっている。小さい櫛である。巾下新道で人を斧で殺して自分は首を吊り、女房は召し捕らえられる。熱田誓願寺で自害した者がある。8月4日夜明け前、巾下西浅間町で火事がある。19日から22日まで、東懸所で先門主の三十三回忌が行われる。熱田材木町に延場(取引所)が始まる。栄国寺で渧山上人の説法が行われる。太子談講釈(聖徳太子の物語?)。大池で殺生(漁)をする者がとても多い。船を出して網を打つのは今までないようなことである。大賑わいである。蟹江の茶屋へ、先ごろ京街道で門前町の仏具師を殺したのは自分だとやって来た…

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あっぱれなどと言いながら祭を御覧になったのかなあ

文政7年。3月□(ママ)日から4月1日まで、藤島村堅林寺で観音を開帳する。同10日まで桜誓願寺で部田祐福寺の小三尊を開帳する。24日から児之宮(児子宮)で流行病のはやて(疫痢)、はしかの祈祷修行を行う。4月14日、風が強く、若宮八幡宮の大鳥居が東へ倒れる。4月17日、雨が降る。18日、祭礼が終わり、茶屋から出した大母衣は前方へ行き、鉄棒引は麻上下を着る。これまでは羽織袴であった。後ろを行く者も麻上下を着る。これまではさや(紗綾)形の上下であった。同25日、橋の寮で池の坊が立花を披露する。5月4日申の下刻(午後4時半)から雷がかなり鳴り、雨が降る。万松寺中の万年寺へ雷が落ちる。蒲焼町真広寺で下総…

碑文によると、南溟が竹林に朽ち果てた骨があり、それが災いの元だと告げたようです

文政7年。(図略)一 △印に死んでいた坊主鉄弥は世間では栄竹という異名を名乗る。傍らに1尺(1尺は約30センチ)5、6寸(1寸は約3センチ)の脇差がある。木瓜の鍔で鞘は焼けてしまう。一 尼鉄浄は▽△(これが上下にくっ付いている)の印のところ。□印のところまで出て来て裏口雪隠の前で死んでしまう。腸が出ており、草履を履いていた。一 両人とも指は焼け落ちる。26日夕、両人の死骸を片付けると。天野氏から高岳院で建てた碑の写し。ただし、木でまず仮に建てる。(碑文略)右天野氏は家禄1000石で代々家計が困窮し、屋敷もひどく壊れていたので親類衆が相談するも、いずれの家、あるいは親の代は困窮しており、祖父は内…

みちだけが死罪なの、なんか変だなあ

文政7年。10月19日夜五時(午後8時)から翌20日夜まで雪が降り続く。凡そ雪は3尺(1尺は約30センチ)積もる。さほどの寒さでもなし。11月9日夜、堀川聖運寺前で船頭が殴り合い、半死半生となる。12月1日、高野孫兵衛中間が銀札を作って捕えられる。同4日、七軒町浅野利右衛門召仕の女が小便器へ落ちて死んでしまう。16才だと。同夜、堀越村で火事があり、3軒が焼失する。12月、国府宮で冨(富突)が許される。冨は永らく許されていなかったが、この度またまた許され、広井八幡で冨を突く。12月(ママ)日、土器野において死罪となった女は次の如く。奥州白川郡高野村百姓七郎兵衛娘 当時無宿みち。みちは奥州白川郡関…

これで切腹とはかなり厳しい処分

文政7年。10月9日評定所において次の通り。小普請組 吉田勘之丞。その方は小十人組徳山松衛と刃傷に及び、松衛が死んでしまったので切腹を仰せつけられるものである。徳山兼三郎。その方は当8月21日に父同姓松衛、吉田勘之丞、柴田告蔵、渡辺志摩吉と連れだって丹羽茂左衛門宅へ出かけたところ、松衛と勘之丞が口論となり、居合わせたもので仲介をし、皆で帰る途中で刃傷に及んだ際にその場には居合わせなかったが、そのまま放っておいのはとても不甲斐ないことである。特に松衛は死んでいないので治療をくわえようと勝手に家へ引き取り、この一件を報告をしなかったのは全く配慮が足りないことである。よって改易を仰せつけられるもので…

丸く収めたい本山と白黒はっきりさせたい日潤

文政7年。これは問答の書である。(これは写真版が名古屋叢書四編に掲載されていますが訳は略します。ただ単に読めないだけですが。)次に記すは両僧在京中にこの地へ申し来る日潤の書簡。漸く秋の気配が増し、涼しくなったこの頃、ゆったりと静かなることを喜び申し上げます。この地が無事で、つつがなく静かであることでしょう。数度の親切な手紙を喜んでおります。手紙を書くこともなまけがちで失礼しました。帰りました僧侶の国元での安否承知しました。本山へ2度出かけた際の趣の書付をご覧入れます。この度の役所のお言葉、ありがたく思っております。本山は大いに迷惑とのこと塔中(本山の附属寺院)より承っております。なお、全てのこ…

結局弱い者がばかを見る

文政7年。今年、玉屋町の天王車は文字書欄干が紫□(ママ)になり、その他も色々と修復する。近年、その他にも瑞々天王烑灯台と称して修復する。車数も段々と増え、中々美麗になる。巾下は12、人形も出来、幕も羅紗、或いは錦あるいは麻木綿もあり。広井は10ばかり。下小田井は4つ、これはまた結構なもので幕、彫物、人形。出来町は3つ、これも細かいところまで行き届いている。杉は1つ。押切、馬喰町は共に2つ。浄明寺前は1つ。土呂(宮)町は3つ。益屋町は1つ。車ノ町は1つ。これを追々修復し、彫物、人形、幕、欄干、天井などが段々美麗になる。大久保見町仏具師錺(飾)屋佐助が番頭と2人で大坂へ出かける途中、亀山宿で盗人に…

宗教って結構争いごとが多い

文政7年。去年12月に記した法華宗説法僧本用院が異流(邪義)を勧めて歩き、道俗(僧侶や俗人)を惑わしたので、日比津定徳寺隠居日潤と宗論となり、役所へ判断を求めたところ、役所でも法流(仏教の教え)の意味の判断はできかねるので本山の裁許となり、夏から両人が上京したところ、日就は弁舌にまかせてねじ曲げて説いたが、日潤師は祖伝正道の人であったので弁は立たないが言い勝つと。山主(本山)は本用院を贔屓の様子で、日潤に和談(和解)を勧めたが、日潤が申されたのは、和談は承知できないと。日就は弁舌をもって異流の儀を説法し、道俗を惑わしたので檀方(檀家)にこれに従うような騒動が起こったので、この騒動の決断が白黒は…

庄内川の花火が懐かしい

文政7年。文政7申7月申ノ月の11日、23日の申ノ日の七時申ノ刻(午後4時)に申(ほぼ南西)のに向かって鉢をかぶり、合唱して次の文句を3度唱える。倶毘羅神現頭痛鬼出急々如律令(クヒラシンケンツツウキシユキウキウニヨリツレイ)と唱えて鉢の底に灸を7つすえる。ただし鉢は新しい品を用いる。もっとも誰に用いてもよし。12年目にまたこの日がある。このことがこの時大いに流行る。7月26日、熱田誓願寺の壁にもたれて38、9才の飛脚風の者が切腹する。8月21日、稲生で御松明方の揚火(花火)が行われる。ここで行われるのは初めてのこと。昼夜22本は上げれず。城から御覧になるためここで行われると。他所でもよく見える…


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