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鳥羽天皇
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鳥羽天皇

(社会)
【とばてんのう】

第74代天皇。鳥羽法皇
諱は宗仁(むねひと)。堀河天皇の第一皇子。

治天の君時代

崇徳天皇を疎んじ、近衛天皇を立てるも天皇は若くして崩御してしまう。寵愛の愛娘・翮子内親王の即位も考えたが、やはり寵愛の孫・守仁親王(後の二条天皇)へ皇統を継がせることを決める。しかし、父子の順番からまず守仁親王の親・後白河天皇を中継ぎに即位させる。
崇徳天皇系の皇統継承が絶望的となったことは保元の乱の原因となり、また後白河天皇を中継ぎとしたことは平治の乱の原因となった。

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平家物語 第1巻2 〈殿上の闇討ち (やみうち)①〉〜The Tale of the Heike🪷

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🍃崇徳院(77番)詞花集 恋・228 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

🍃崇徳院(77番)詞花集 恋・228 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 〜川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた水の流れ。 一度は二つに分かれても、また後ほど出会うように、 愛しいあの人と今は別れても、いつかはきっと再会しようと思っている。 💠 崇徳院 💠 すとくいん (1119~1164) 鳥羽天皇の第一皇子 18年の在位の後に近衛天皇に譲位 。 鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立 。 戦となり敗れます(保元の乱) 讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。 在位中、藤原顕輔に 『詞花和歌集』を編纂させています。 …

💠前大僧正行尊 66番 金葉集』雑・556 もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに 知る人もなし🌸

💠前大僧正行尊 66番 金葉集』雑・556 もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに 知る人もなし🌸 〜私がお前に親しみを感じるように、お前も一緒に私のことを 懐かしく思っておくれ。 山桜よ。お前以外に私の心を 本当に知ってくれるものは いないのだから。 💠前大僧正行尊💠 さきのだいそうじょうぎょうそん (1055~1135年) 参議 源基平の三男 十二才のときに三井寺(園城寺)で出家。 諸国を旅して、歌僧としても名を知られる。 白河、鳥羽、崇徳の三天皇からも信頼を得る。 12歳で出家した三井寺は、滋賀県大津市にあります。四季それぞれに美しいお寺です🌸 💠少納言チャンネルは、聴く古典動画を作…

🍃崇徳院(77番) 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

🍃崇徳院(77番)詞花集 恋・228 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 〜川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた水の流れ。 一度は二つに分かれても、また後ほど出会うように、 愛しいあの人と今は別れても、いつかはきっと再会しようと思っている。 💠 崇徳院 💠 すとくいん (1119~1164) 鳥羽天皇の第一皇子 18年の在位の後に近衛天皇に譲位 。 鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立 。 戦となり敗れます(保元の乱) 讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。 在位中、藤原顕輔に 『詞花和歌集』を編纂させています。 …

『後白河院』 by  井上靖

後白河院井上靖新潮文庫昭和50年9月30日 発行平成19年8月1日 31刷改版令和元年12月20日 38刷 図書館で、新着本の棚で目に入ったので借りてみた。やはり、図書館の本でも新しい本は、気持ちい・・・。 井上靖の歴史小説。今年の本のテーマの一つに、歴史、とおもっているので、借りてみた。 本の裏の説明には、”朝廷・公卿・武門が入り乱れる覇権争いが苛烈を極めた激動の平安末期。千変万化の政治状況において、常に老獪に立ち回ったのが源頼朝に「日本国第一の大天狗」と評された後白河院であった。保元・平治の乱、鹿ヶ谷事件、源平の争乱、平家滅亡・・・・。その時、院は何をどう思いどう行動したのか。側近たちの証…

白河上皇、鳥羽上皇陵墓を訪ねて

京都に来て、滞在している所から歩いて行ける所に、平安時代に院政を作った白河法皇、その孫の鳥羽上皇の墓所があったんで行ってみました。 (上が白河上皇陵墓、下が鳥羽上皇陵墓) 二人の陵墓は割りと近くにあり、この辺り一帯が平安時代に院御所として院政を行う舞台となりました。今では陵墓のすぐそばを道路が走り、民家が密集していて往時の面影はありません。 院政が始まったのは白河天皇が天皇を退いて、幼い堀川天皇に地位を譲って隠居したのち上皇になった後から始まったもので、院政とは、このように幼い天皇に代わって政治を行なっていく事です。 白河上皇は40年余り天皇に代わって朝廷の実権を握り続けました。 そして、白河…


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