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源融
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源融

(読書)
【みなもとのとおる】

平安時代初期の公卿。河原左大臣と号する。
弘仁十三(822)年生、寛平七(895)年薨。
嵯峨天皇の皇子で、母は大原全子。同母妹に源盈姫、同母弟に源勤。異母兄に仁明天皇がいる。嵯峨源氏の家祖の一人で、子孫は武士化し渡辺党などになった。子には源昇、源湛。
兄仁明天皇の養子となり、後に源姓を賜り臣籍降下。
承和五(838)年に元服し正四位下。以降、斉衡三(856)年に参議従三位、貞観六(864)年に中納言、貞観十二(870)年に大納言と累進。貞観十四(872)年に左大臣となった。
仁和四(888)年に阿衡の紛議*1が生じた際、これを判じた。
寛平七(895)年に薨ずると正一位追贈。
陽成天皇が退位すると、皇位を望んだが藤原基経に「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にてつかへて、位につきたるためしやはある(天皇家の血筋は引いているけれども、臣籍降下して源姓を賜って、臣下として仕えた人間が天皇の位についた前例はない)」と阻止された。
また、贅美を尽くした邸宅をいくつもつくり、とくに陸奥国塩釜の地形を模して海水を引き込んだという河原院は有名.宇治に残した別荘は、後に平等院となった。
『古今和歌集』『後撰和歌集』に各二首の歌を残す。

みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに
百人一首 14/古今和歌集 巻十四 恋歌四 724

*1:仁和三年に生じた宇多天皇と藤原基経との間に生じた政治紛争で、藤原基経を関白とするという詔勅が出た際に、「阿衡の任」につけるという文言に対し、基経側は「阿衡は名のみで職掌を伴わない」と理解して出仕せず、起草者であった橘広相を咎めた。翌年、宇多天皇が勅書の非を認めて橘広相を罰して収拾。

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幽霊になった左大臣の歌碑

月曜日、祝日、福島市の文知摺観音 普門院に行って来ました。 なんとここには源融の歌碑があるんですね。河原の左大臣、光源氏のモデル(の一人)ですね。 「陸奥の 忍ぶもち摺 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに」 この方は自分の建てた河原院という豪邸に執着してしまったためか幽霊になってしまって、宇多上皇に一喝されて「かきけつように うせにけり」という、この話、プレイボーイの左大臣の人間臭い感じが大好きです。 御朱印というものを初めていただきました。そういえばもちずりって染め物ですよね。ああ記念に買えば良かった。紅葉の時期にまた行ってみましょう。

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貫之集 707

陸奥へ下る人を惜しめる かりころも するなにおへる しのぶやま こえむひとこそ かねてをしけれ 狩衣 摺る名におへる しのぶ山 越えむ人こそ かねて惜しけれ 陸奥へ赴く人を惜しんで詠んだ歌 狩衣の信夫刷りで名高い信夫山を越えてく人が偲ばれて、別れの前から名残惜しいことよ。 信夫山は陸奥の歌枕。信夫刷りは「シノブの茎や葉の色素を布にすりつけて表したねじれたような模様。また、そのすり模様の衣服。(デジタル大辞泉より)」とのこと。当地の名産ですね。また、「しのぶ」には、「信夫(山)」と「偲ぶ」が掛かっています。 「陸奥」「信夫刷り」というと、百人一首(第14番)の河原左大臣(源 融 みなもと の と…

【10分で聴く源氏物語 第12帖 須磨1〈すま〉】右大臣一派の圧迫により、須磨への隠棲を決める源氏。紫の上は紫の上は「どんなひどい所だって、ごいっしょでさえあれば私はいい」と言う。健気なり by 😿

🌊【源氏物語267 第12帖 須磨1】源氏は須磨を隠遁の地と考えていた。寂れて人口は少ないが、京にまで あまりに遠いと紫の上も気掛かりである。 〜当帝の外戚の大臣一派が極端な圧迫をして 源氏に不愉快な目を見せることが多くなって行く。 つとめて冷静にはしていても、 このままで置けば今以上な禍いが起こって来るかもしれぬと 源氏は思うようになった。 源氏が隠栖の地に擬している須磨という所は、 昔は相当に家などもあったが、 近ごろはさびれて人口も稀薄になり、 漁夫の住んでいる数もわずかであると源氏は聞いていたが、 田舎といっても人の多い所で、 引き締まりのない隠栖になってしまってはいやであるし、 そう…

渉成園と特別公開「園林堂」ー京の冬の旅ー (追記)渉成園🌸桜の様子🌸

京の冬の旅、特別公開「園林堂」をやや駆け込み気味に見に行きました。 特別公開はもう終わってしまいましたが、記録として残しておきます。 この建物が園林堂。 中は撮影禁止だったので、建物だけ撮影。 襖絵は棟方志功さんが手がけた「天に伸ぶ杉木」と「阿吽の呼吸」と題された四十四面。杉は奈良の十津川村で見た杉の木、そして仏間の襖絵は渉成園から見える東山を表現しているらしいです。 閬風亭(ろうふうてい)から見える東山 今はマンションがあって、あまり山が見えませんね、^-^; 徳川慶喜 筆 石川丈山 筆 この渉成園を作庭したのは丈山だそうです。 (詩仙堂だけじゃなかったのね、^-^;) この大書院を閬風亭(…

光源氏もびっくり! ー そのモデルと伝わる源融、父である嵯峨天皇には29人もの后がいた? 嵯峨野と嵯峨天皇陵をめぐるプチ旅へ

嵯峨野広沢池畔 言うまでもなく、平安時代の天皇は一夫多妻制である。特にその初期には后の数は非常に多かったようだ。『源氏物語』が書かれた一条天皇の時代には定子さまと彰子さまという二人の后がいた。定子さまには、清少納言(枕草子の作者)、そして彰子さまには紫式部(源氏物語の作者)が女房として天皇をひきつけるサロンをつくっていた、と思われる。そのアイテムのひとつが文学作品として今に伝わっていると言えばいいのかもしれない。一条天皇(20歳)が心から愛する定子さま23歳、そこに入内してきた、時の最高権力者藤原道長の娘彰子はまだ12歳だった。だが定子の実家は没落。天皇が円滑に政治を執り行うには貴族たちの後ろ…

【源氏物語384 第13帖 明石46】明石の君は、手紙のやり取りをし 有名な琴の音も聞く事も叶い これ以上は望みたくない。源氏との結婚の夢など見ていないのである。

長い間 噂《うわさ》だけを聞いていて、 いつの日にそうした方を 隙見《すきみ》することができるだろうと、 はるかなことに思っていた方が 思いがけなくこの土地へおいでになって、 隙見ではあったがお顔を見ることができたし、 有名な琴の音を聞くこともかない、 日常の御様子も詳しく聞くことができている、 その上自分へお心をお語りになるような手紙も来る。 もうこれ以上を自分は望みたくない。 こんな田舎に生まれた娘にこれだけの幸いのあったのは 確かに果報のあった自分と思わなければならないと 思っているのであって、 源氏の情人になる夢などは見ていないのである。 🪷🎼道すがら written by ゆうり🪷 …

【源氏物語294 第12帖 須磨28】東宮の御殿は 忍び泣きで満ちていた。世間もだれ一人今度の当局者の処置を至当と認める者はないのであった。

咲きてとく 散るは憂《う》けれど 行く春は 花の都を 立ちかへり見よ また 御運の開ける時がきっとございましょう。 とも書いて出したが、 そのあとでも他の女房たちといっしょに悲しい話をし続けて、 東宮の御殿は忍び泣きの声に満ちていた。 一日でも源氏を見た者は 皆不幸な旅に立つことを悲しんで惜しまぬ人もないのである。 まして常に源氏の出入りしていた所では、 源氏のほうへは知られていない長女《おさめ》、 御厠人《みかわやうど》などの下級の女房までも 源氏の慈愛を受けていて、 たとえ短い期間で悪夢は終わるとしても、 その間は源氏を見ることのできないのを歎《なげ》いていた。 世間もだれ一人今度の当局者…

【源氏物語287 第12帖 須磨21】源氏は朧月夜の君に 手紙を送った。朧月夜の君は非常に悲しがった。流れて出る涙はとめどもなかった。

💠🎼 孤影 written by ハシマミ 💠 源氏はまた途中の人目を気づかいながら 尚侍《ないしのかみ》の所へも別れの手紙を送った。 あなたから何とも言ってくださらないのも 道理なようには思えますが、 いよいよ京を去る時になってみますと、 悲しいと思われることも、 恨めしさも強く感ぜられます。 逢瀬《あふせ》なき 涙の川に 沈みしや 流るるみをの 初めなりけん こんなに人への執着が強くては仏様に救われる望みもありません。 間で盗み見されることがあやぶまれて 細かには書けなかったのである。 手紙を読んだ尚侍は非常に悲しがった。 流れて出る涙はとめどもなかった。 涙川 浮ぶ水沫《みなわ》も 消え…

自己流解釈

今日は百人一首の源融さん役職名?河原左大臣の以下の歌です 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに これを一般的には恋の歌と言う感じでとらえられていると思う しかし、源融さんは宮廷の権力争いの渦中の中におられた方で、その中での政界での身の潔白を表すための歌だと言う捉え方もできないだろうか? 恋の歌であるかのように歌っておるのだが、本意は異なり詠作事情を知っておられる当時の方々ならばそれは当然そちらの意味の方で解釈されていたと言ったようなことも考えられないだろうか? どうなんだろう?

清涼寺・嵯峨釈迦堂 嵯峨天皇と皇后の檀林檀林皇后の宝塔・源融公(光源氏のモデルと言われる人)の墓所・豊臣秀頼公首塚・回すだけで一切のお経を読んだとされる一切経堂 20230305

渡月橋から清涼寺・嵯峨釈迦堂 愛宕野々宮両御旅所 清涼寺・嵯峨釈迦堂 清涼寺・嵯峨釈迦堂仁王門。 境内の案内 多宝塔 源融公墓所(光源氏モデルになった人) 嵯峨天皇と皇后の檀林檀林皇后の宝塔 一切経堂 茶店 棲霞観跡 阿弥陀堂(白い梅が咲いていた) 豊臣秀頼公の首塚 狂言堂 聖徳太子殿 本堂と方丈 地図・アクセス 渡月橋から清涼寺・嵯峨釈迦堂 渡月橋を渡り、ずっと長辻通りを歩いて、JRの踏切を渡り、丸太町通りの交差点をさらにまっすぐ歩くと、突き当たりに清涼寺・嵯峨釈迦堂の仁王門がある。 清涼寺・嵯峨釈迦堂 立地としては観光ルートから外れているような感じがしないでもない。 長辻通りも渡月橋渡の袂…


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