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清国
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清国

(地理)
【しんこく】

(いまのところ)中国最後の王朝、清のこと。
清朝

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『清国写真帖』(写真画報臨時増刊)(1906.2)

寫眞畵報臨時増刊第一巻第三編 清國寫眞帖 博文金館發行 ●清国写真 ◎西太后陛下(光沢三色刷) H.I.M. The Empress Dowager of China. 大清国当今慈禧端估康頤昭豫荘誠壽恭欽献崇熙聖母皇太后は清国実際の主権者にて、現皇帝の生母なる醇親王妃殿下の姉に御座しまして、齢既に八十に近きも、なほ不老の仙女に似たりといふ。 Her Majesty is said to be the real ruler of the Empire. She is the elder sister of the consort of the late Prince Ch’un, the mo…

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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その4 明治45年から大正元年(1912年)の履歴

(つづき) 年ごとに、母方祖父の軍歴をたどっている。 さて、この年、1912年は、明治45年と大正元年にまたがることになる。 明治45年7月29日に明治天皇は崩御され、翌日7月30日から大正時代が始める。 余談ながら、 この年におこった世間のニュースを少々書いてみる。 1月17日、スコット隊、南極点到達。 1月18日、白瀬隊南極点到達断念、最終到達地点を大和雪原と命名し、日の丸を立て日本領地宣言。 4月14日、タイタニック号沈没。 5月18日、日本海軍巡洋艦「金剛」進水。これが日本海軍最後の外国製の戦艦となる。 7月3日、通天閣完成。 9月13日、乃木希典、夫人とともに殉死 (メモ:司馬遼太郎…

「南清風景談」 佐々木信綱 (1904.5)

南淸風景談 佐々木信綱 このたび漫遊いたしましたのは、揚子江沿岸の鎭江、揚州、南京、漢口。溯りまして沙市、荊州、宜昌。三峽の下峽ー洞庭湖を横ぎりまして長沙、湘潭。さて蘇州、杭州等で。かの彭澤縣、潯陽江、泪羅、三遊洞、秦淮、靈隱などの名勝古蹟を見めぐりましたが、それらについてお話致しましては、あまりに長くなりまする故、『夕ばえの美しさ。』『岳陽樓と洞庭湖』『浮屠と風鐸。』これらの題目でいさゝか申し述べたいと思ひます。 大陸の景色で最も感じましたは、夕ばえの美しさであります。漢口、沙市、芦林澤などの平原に立つて、幾十百里見る限見わたす限、人なく家なく木なく山なく、丈低き草は皆うらがれ渡つて、滿目蕭…

満洲国建国と真珠湾攻撃(2)

共産主義者は当然ながら共産主義マンセー、共産ソ連マンセーだ。地上の楽園ソ連の隣に日本支援の満洲国があると邪魔なんだろうね。だから満洲国建国大反対で大日本帝国も一緒に滅亡しろという基地外だ。 でも満洲は万里の長城の北だよ。コイツら基地外も地図を読めないのか。滅亡した清国は、万里の長城の北の満洲人(女真族)が建国した国だ。 それが万里の長城を越えて南の明を征服した征服王朝だ。満洲が支那だった事は一度もない。大日本帝国敗戦後から現在までの80年間だけだ。 満洲に満洲人の満洲国を建国して何が悪いのだろうか。満洲国皇帝は満洲人溥儀で、溥儀も満洲人も満洲建国に賛成だ。満洲人は清国滅亡でユダヤ人の様に国を失…

「張之洞の逝去」 他  (1908)

〇淸國大官の病患 二十日張之洞は病氣の爲に休假を請ひしが、五日間の許可を得、二十五日再び五日間の休假を請ひ、三十日更に十日間の續假を得たり、二十一日川田醫士往診の際には、神經亢進して不眠病に襲はれ且つ腹部に痛處ありしが、施藥に由つて殆ど平癒せりと、然れば其後連日の請假に就ては外間種々の煩言あり、單り病氣の爲にはあらざるが如し、 〔『燕塵』 第二年第八号(第二十號) 明治四十二年八月一日發行 の 雜報 北京通信(自六月三十日至七月三十一日) 葱嶺生 より〕 〇張中堂の病氣未だ癒えず、更に二十日間の休假を賜ふ旨の上諭十九日に出づ、先是吾が川田醫師を聘して診察を受け居りしが二十五日に至り更に吾が下瀨…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(1)

一人の絵描きも今は陸軍砲兵少尉として出征する日がきた。 武豊港へ到着した後備独立野戦砲兵第二大隊は朝から資材、馬匹等の積み込みで、兵隊達は目の回る様な忙しさだ。この船に乗船する部隊は後備歩兵第五十二聯隊本部及び第二大隊(一中隊欠)後備独立野戦砲兵第二大隊本部及び第三中隊であった。 我々が乗り込む御用船は河内丸といって約六〇〇〇トン速力は十二ノットで当時としては大型の船であった。私は先発として先に乗り込んで諸準備をして皆の乗り込むのを待っていた。船に乗るのは初めてだったが大きい船なので安心した。 荷積みも終り翌二十六日 万歳の声と共に出港は、したが行き先は誰も知らなかった。 目的地に近づいたと思…

「(大原武慶発 小山秋作宛 ?) 書簡」

〔蔵書目録注〕 ・大原生 大原武慶 この書簡は、清国在勤中の書簡と思われる。 なお、『対支回顧録』・『東亜先覚志士記伝』等に、大原武慶の伝がある。 下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列傳 の「大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)」の一部である。 大原武慶君 (陸軍歩兵中佐) 二十七年、現役に復して、日淸戰役に從軍、第一軍に編入せられ、二十九年二月、大尉に進み、三十一年四月参謀本部出仕に轉じ、同年五月、湖廣總督張之洞の聘に應じて、始めて武漢に入り、幕賓として武備學堂の經營に當り、先任獨逸武官の勢力に拮抗し、畫作萬方、遂に張彪、呉元愷の宿將と提携して、更に武備學堂を擴張し、我が國より平尾工兵大…

「隣邦留学生教育の回顧と将来」 松本亀次郎 (1939.4)

隣邦留学生教育の回顧と将来 松本亀次郎 岩波書店発行の雑誌「教育」四月号特輯に「興亜の教育の問題」に関し老生にも「日本語教授の体験談」を主とし曾て「東亜学校を創設した動機」並に「今日以後の興亜教育に対する意見」等に就き何か書けとの御手紙と本年一月発行の「特輯 新東亜教育」一部を寄せられた。披いて拝見すると当代御歴々の方々が各方面の角度から眺めた切々の至言を満載されてある。最早老措大などの出べき幕ではないが、隣邦の留学生教育には明治三十六年以後今日迄三十七年間の歳月を打込み、日本語の教授と著述には全精力を注ぎ、老生が直接間接に教育した学生諸氏は満支両国に充満して居られるので、さうした立場からも聊…


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