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斬罪
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斬罪

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仲間がいたのか

享保1年12月13日。この春、美濃大針村で久蔵という者が母の意見することを憎み、妻と申し合わせて道具を2階へ上げ、母親を絞め殺して盗みにあったと知らせたが、庄屋平左衛門などは疑った。久蔵は牢に入っていたが、この日大針村へ連れ帰った。磔にし、女房は追放した。他に斬罪になった者が2人がいた。

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斬罪とは厳しい処分

正徳1年12月11日。奥舞台で能が行われる。梅昌院様は風邪気味で現れなかった。連枝様方が見物する。辰(午前7時)過ぎに始まり、融(とおる、演目)の半ばで火を灯し、酉半刻(午後6時)に終わる。但馬守様奥番高垣林太夫はこの夜斬罪となる。歩行頭津金与一兵衛は追放となる。近頃、小出信濃守腰物奉行が道具を盗んで行方をくらました。その道具を町人の仲介し、林太夫が世話して売り払った。代金などに不正があった。この盗品のことは町奉行衆から但州様留守居衆に知らせがあった。このため林太夫を奥津六郎左衛門に預けた。津金はこの加判を請け負った者であった。

お家騒動ってやつを隠ぺいしたか

正徳1年11月9日。三州挙母(コロモ)城主1万石本田山城守は毛利甲斐守の実子であった。長門守に入婿となり、拳母の城主となった。長門守弟は伊保の城主本多弾正といい、まぎれもない権力者であった。この日(10月9日)150石山城守側用達三村市左衛門(39才)と200石栗山加太夫が切腹を申し付けられる。加太夫は24歳で、辞世に「ちりぎはは猶哀なりかえり花」とあった。目付役100石中沢甚右衛門は手討ちにされる。中小姓丸山六太夫は暇を出されたが、岡崎のあたりから戻り、禅寺長興寺で自殺した。書置がありその大意は右の3人と自分の4人は国元から附いてやって来たにもかかわらず、3人は死んだのに、1人は暇を下された…

身分制の影がちらつく

宝永7年5月18日。杉村の下条庄右衛門の百姓が竜泉寺へ馬の頭を出した。小畑で他の馬頭が棒を使うのを見て、棒を欲しがった。この者が言うには、こっちへ来いと云々。杉村に見知った者がいて、あれは乞食だ、どうしてこっちへ来いなどと言うとからかった。杉村の1人は頭を打ち割られ、残りの者も散々叩かれた。庄右衛門から町奉行にこのことを訴えた。町奉行はすぐに命じ、玄海のこの乞食に番を付け置いた。後に乞食1人は斬罪となる。残る27人は追い払われた。亥(午後9時)頃、長久寺下赤塚町井田源助手代小嶋喜平治の南側4間口の借家にたばこや平右衛門の妻がいた。この妻は30ほどで子はいなかった。同町木戸の側北側の大用寺地子油…

武士の決まり

宝永5年5月29日。平野彦三郎若党と尾崎重治郎若党がともに斬罪となる。近頃、高須において荒尾弥市を子の刻(午後11時)に刺し殺した。これは切腹で武士の決まりで、斬罪であれば親類が迷惑するから。死体をどこへやったのか誰もわからなかった。亭主作左衛門は閉門となる。大崎は罪に問われなかった。弥市は都合よく切腹仰せ付けられたと。心のこもった内藤佐平から奈須心庵への手紙を人々に見せたが、これは偽の手紙であった。これは心庵の弟子飯田立心が企てたことであった。弥市兄喜右衛門は万三郎様の御用達であったが少し前から引込となっていた。決着がつき、奉公を憚っていたのを津守様から少しも気にすことはないと仰せ付けられた…

いずれも死刑

宝永3年11月15日。近藤武兵衛が又蔵宅で切腹となる。同政之右衛門も切腹となる。揚り屋の庭で地面に筵を敷き、その上にへり(縁)取、布団を敷き、3方に脇差を据え置いた。横井新蔵足軽大田平右衛門が人を準備する。塀和(垪和はが)左平は滝川弥一右衛門宅で切腹となる。検使は大目付遠山十左衛門、目付服部四郎左衛門、供番大塩伝九郎で3ヶ所を廻る。初めに武兵衛、次に左平、最後に政之右衛門。牢屋では、たのが斬罪となる。松平三太夫の母の局と偽った萱屋町婆も斬罪となる。それに久四郎、由右衛門も斬罪となる。円六以下は追放となる。常明寺隠居日妙は追放となる。

身の保身のための殺人か

宝永2年9月7日。未(午後1時)頃から文左衛門は伝太・甚五右・甚介と勝川庚申あたりへ茸狩に出かける。(後略)夜、寄合松平九兵衛悉皆人(家中を仕切る人)の寝首を同僚の若党が切って逃げ去る。9日に熱田正覚寺へやって来て自害するので十念(波阿弥陀仏を10度唱えること)を授けてくれと言う。上人は仔細を聞いてとにかくなだめ、大小を取り上げ、奉行に知らせたと。重罪であったので主人は命を助けず、寺で切腹させるようにと云々。人はこれに感心する。29日に正覚寺で斬罪となる。住持は紀州家中側足軽頭の二男。若党は九兵衛妾と関係を持ち、奪おうとしていた。悉皆人はこれを訴えようとしてここに及ぶ。


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