Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


Hatena Blog Tags
はてなブログ トップ
劉表
このタグでブログを書く
言葉の解説
ネットで話題
関連ブログ

劉表

(一般)
【りゅうひょう】

後漢時代の君主。字は景升(142-208)。かつて放浪の旅をしていた劉備らを迎え入れた。

海賊だった甘寧を仕官させたこともあった。

後の「髀肉の嘆」という故事は、劉表の下で食事をしていた際に、中座し厠に向かった
ことから生まれたとされる。(劉備の項目を参考)

リスト::三国志関連

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

三国志で英語のお勉強34: 黄祖

Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。禰衡に引き続き第34回は黄祖です。 en.wikipedia.org 黄祖(Huang Zu,?年-208年) After Liu Biao arrived in Jing Province (covering present-day Hubei and Hunan) to assume his governorship of the region, he sought to form alliances with the local elites, particularly the Huang family wh…

ネットで話題

もっと見る

関連ブログ

三国志で英語のお勉強33: 禰衡

Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。張繍に引き続き第33回は禰衡です。 en.wikipedia.org ★「禰」について:日本語では「デイ・ネイ」なので禰衡は「デイコウ・ネイコウ」です。結構重要な漢字でカタカナの「ネ」,ひらがなの「ね」は禰から作られています。豊臣秀吉の正室・高台院の署名に「祢」があります。竈門禰豆子にも使われていますね。 禰衡(Mi Heng,禰正平,Mi Zhengping,173年-198年) Mi Heng was born around 173 in Ban County (般縣), Pingyuan Commandery…

袁術はなぜ南陽を捨てたのか

袁術は南陽を捨てて兗州に侵入したが曹操に敗北すると逃走に逃走を重ねて淮南まで逃げてそこに落ち着いた。 敗北後に淮南を目指した決断こそ考察すべき対象なのだろうが今日はその前段、なぜ南陽を捨てたのか、ということを考える。 もちろん「実は南陽を捨ててはいなかった」という可能性もないではないがそれは今回はいったん無視する。いずれ考えてみたい。 まず、地図(193年1月頃)を置いておく。 武帝紀:四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘。 劉表に「糧道を断たれた」ために、袁術は陳留に侵入したというのである。 一方、袁術伝では侵攻の理由は書かれない。ただし、南陽郡の袁術の政治が、欲望をほし…


[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp