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出雲口伝
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出雲口伝

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【出雲口伝と宮下文書の徐福伝から見えてくること】

宮下文書の徐福伝において、私が興味を持ったのは以下の点です。 1.老若男女五百余名で日本に渡来 2.富士山を目指すも、到着したのが紀伊国であり、富士山に到着するまで熊野で三年 を過ごした 3.徐福の次男である福嶋が紀伊国の大山を開発した 4.日本に来航したのが孝霊天皇の時代 5.秦姓又は福を付ける氏族、地名は皆徐福の子孫又は共に一緒に来た 五百余人の子孫のしるしであり、福地姓は神々の末裔であり、秦姓は秦国より 渡来した五百人の末裔 6.徐福の次男の福嶋の子孫が徐福の霊を富士山より熊野山に分け移し、 富士山の徐福の宮を元宮といい熊野山の宮を新宮という まず、宮下文書では徐福は老若男女五百余名でや…

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【記紀と口伝】

記紀は天皇の正統性を神話と歴史を通じて示し、国家の統一と律令体制を支える思想的基盤を築くことに重きをおいて書かれています。663年の白村江の戦で唐新羅軍に大敗し、元々人気のなかった天智天皇が671年に崩御、672年の壬申の乱を経て天皇となった天武天皇は、圧倒的な国力を持つ唐をけん制するため 中国の正史に習い、自国の起源や正統性を説明する「国史」を編纂する必要性がありました。そして専制政治体制の国家設立のため、人心を一つにする必要があったわけです。 よって国内向けに編纂されたのが、『古事記』です。天武天皇崩御のため完成したのは元明天皇の時代でしたが、元明天皇が下詔してから4か月ほどで完成したとい…

【野見宿禰(のみのすくね)にまつわる話など】

成務天皇の話の前に、先日出雲の地を訪れましたので、そこで感じたことや、野見宿禰に関して語りたいと思います。 野見宿禰と熊野大社 ブログ【第二次モノノベ東征】で出てきた、最後の東出雲王の大田彦(後の野見宿禰)は、田和山神殿(松江市乃白町)を物部軍の田道間守(たじまもり=当麻蹴速 たいまのけはや)によって攻略されその後、物部十千根(もののべとちね)率いる攻撃軍本体が、東出雲王宮(現在の神魂神社(かもすじんじゃ))を攻めるとの噂を聞いて出雲軍の解散宣言をし、敗戦処理を大夫のホヒ家の日狭(ひさ)にまかせ、親族とともに南の熊野(松江市八雲町熊野)に逃げたということです。 そして、出雲王国の支配権を物部政…

【9第開化天皇と10代祟神天皇の謎】

開化天皇は存在したのか 出雲口伝では第8代孝元天皇までの言及はありますが、第9代開化天皇については全く述べられず、次の第10代崇神天皇(すじんてんのう)からまた伝承が始まります。 しかも第10代崇神天皇はヤマトの磯城家の流れを継がない、九州モノノベ勢力の王であったとしています。 実際、開化天皇と崇神天皇の系図を見ますと、崇神天皇で王朝が変わり、8代孝元天皇から崇神天皇につなげるために、開化天皇という架空の天皇を設定したのではないか?とすら思えるのです。 物部系の欝色謎命(うつしこめのみこと)を母とする、9代開化天皇の宮殿はそれまでの天皇の宮殿と離れた春日山付近とされており、先代天皇の宮殿があっ…

【フトニ大王(孝霊天皇)とキビ王国そして播磨、東出雲王国侵攻】

フトニ勢の播磨侵攻 出雲口伝では、第一次モノノベ東征で大彦(長髄彦)がヤマトを去った後、異母弟のフトニが大王となります。(孝霊天皇) この頃は2世紀後半頃で、1世紀頃に朝鮮半島からやってきたヒボコ勢が但馬から播磨に進出している状態であったため、フトニ大王は播磨地方の侵略を息子達に命じました。(ヒボコについては以前のブログ【出雲王国とヒボコ】をご覧ください) この息子達が桃太郎のモデルになったイサセリ彦(大キビツ彦)とワカタケ彦(ワカタケキビツ彦)の兄弟です。 播磨に住んでいたヒボコ勢の多くは、イサセリ彦とワカタケ彦の大軍に攻められ、淡路島に逃げたそうです。 ヒボコの子孫である出石神社の旧社家で…

【八咫烏(ヤタガラス)の正体とモノノベ勢のヤマト到着】

八咫烏(ヤタガラス)の正体 大彦(長髄彦)は紀ノ川でモノノベ勢力を追い払いましたが、モノノベ勢の大船団を見て、次に戦ったらとても敵わないと感じ、東出雲王家に加勢を頼んだところ、ヒボコ勢に破れたばかりであった出雲国には余裕がなく断られてしまい、ヤマトを捨てて伊賀に移り住みます。 大彦が去った後は、異母弟のフトニが大王に即位します(孝霊天皇)。 その頃、登美家の分家太田タネヒコ(記紀では オオタタネコ)という人が、和泉国の陶村(すえむら)辺りに住んでいたそうです。その地には陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)が建っていてその社の杜(もり)は「太田の杜」と呼ばれるそうです。 陶荒田神社はオオタタネコの祖…

【第一次モノノベ東征 イツセの死と長髄彦(ながすねひこ)】

紀ノ川での戦い 出雲口伝によると、紀ノ川に到達したモノノベのイツセ勢は、紀ノ川を遡り、ヤマトに入る予定で、河口の南岸に上陸しますが、対岸にヤマト王国の軍勢が現われ、モノノベ勢を押しとどめました。 この軍を指揮していたのは、王家の王子である大彦ということです。 この大彦が、いわゆる記紀で神武天皇に抵抗した、ヤマトの指導者である長髄彦(ながすねひこ)と言われる人です。 モノノベ軍のイツセは、紀ノ川河口から守りのために名草山(なぐさやま)に登ることにしました。そのとき、名草村の女村長である戸畔(とべ)の攻撃を受け、毒矢がイツセの肘と脛に命中し、イツセはその地で亡くなったそうです。 その遺体は、近くの…

【第一次モノノベ東征 九州~四国】

ヤマトへ向けて進軍 出雲口伝ではニギハヤヒ(徐福)から5、6代目にヒコナギサタケ王がいて、王の息子のイツセ(五瀬)がヤマトへ進軍することを決めたということです。 当時ヤマトは内乱状態(2世紀後半頃)であったため進軍の好機と思ったのでしょうか。イツセは記紀では五瀬命(いつせのみこと)で神武天皇の兄という設定になっています。 当時モノノベ王国は筑紫全域から壱岐、対馬、豊前、国後半島、四国の伊予、土佐西部まで広がっていたということです。 モノノベ勢は出雲・ヤマトの連合王国の攻撃を避けるため、瀬戸内海を通らず、四国の南の海を通るルートを選びました。 まず、有明海から肥後国のクマ(球磨)川の河口に停泊し…

【徐福の子孫による築秦国(ちくしんこく)B.C.2世紀頃】

モノノベ氏の築秦国(ちくしんこく) 出雲口伝によると、徐福(ニギハヤヒ)は、筑後平野で勢力の拡大につとめ、その地で亡くなったということです。 九州に渡来した時、徐福は武器を携えた秦の兵士を伴っていたため、当時の日本の中では圧倒的な武力を持った集団であったと思われます。 後にその兵力から「モノノフ」に由来する「物部」の氏を大王から与えられたということです。 出雲口伝では便宜的に徐福の子孫をモノノベ氏、彼らの王国をモノノベ王国と呼んでいます。 大分県にある「宇佐八幡宮」の社家であった宇佐氏の宇佐公康さんによる『古伝が語る古代史』に「物部氏の原住地は筑後平野であった」とあります。この伝承は、出雲の旧…

【出雲王国とヒボコ】

ヒボコとは 古代日本に、朝鮮半島からヒボコ王子(天日槍)とその従者の集団が日本にやってきます。『日本書紀』では渡来が垂仁天皇の時代と書かれていますが、それはヒボコの子孫の勢力が拡大した時代で、ヒボコの渡来は辰韓の時代(1世紀頃)ということを出雲口伝では伝えています。 『日本書紀』の記述はヒボコの系譜から考えるとありえないように思われます。ヒボコは但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を妻とし、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲け、諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守(たじまもり)を儲けたという系譜からすると、田道間守は垂仁天皇に仕…


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