Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


Hatena Blog Tags
はてなブログ トップ
グルック
このタグでブログを書く
言葉の解説
ネットで話題
関連ブログ

グルック

(音楽)
【ぐるっく】

Cristoph Willibald Gluck (1714〜1787) 。

ドイツの作曲家。最初はイタリアはミラノでサン・マルティーニに師事。当時、フランスをのぞく全ヨーロッパで支配的だったイタリア・オペラの様式を学ぶが、次第にアリアが特徴的なイタリア・オペラの様式に、音楽と演劇的要素のバランスが取れたフランス・オペラのスタイルを溶け込ませた、「改革オペラ」を、台本作家との綿密なコラボレーションによって生み出す。「フランス派」として、「グルック=ピッチンニ紛争」に参加もする。ドイツ人ながら「フランス派」として論争の矢面に立ったグルックだが、事情を説明すると彼はオーストリアのハプスブルク家に仕えており、皇帝一家の音楽教師をつとめていたのだった。神聖ローマ帝国の女帝・マリア・テレジアの末娘にして、フランス王妃、マリー・アントワネットも、彼の弟子であった。彼女のブルボン家お輿入れに付き従って、グルックもフランスはヴェルサイユに渡っていたのである。

こうして、グルックはオペラ創作に生涯情熱を燃やし、その作品数は43にも及ぶ。脚本と音楽のありかたを考察し、18 世紀のオペラ改革者と目され、彼のオペラは音楽史では重要な位置を占めている。代表作は「オルフェオとエウリディーチェ」、「オーリドのイフィジェニー」。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

グルック〈オルフェオとエウリディーチェ〉、(新国立オペラ、指揮 園田隆一郎、演出 勅使川原三郎)

上演機会の少ない18世紀後半に作曲されたグルックのオペラを、午後お休みいただいて観劇。美しい音楽、シンプルで幽玄さを感じる演出、音楽にマッチした舞踊が組み合わさって、非常に味わい深い舞台でした。 歌手陣では、オルフェオ役のサラ・ミンガルドは、声量的に物足りなさや歌唱のムラを感じた部分がありましたが、舞台慣れした演技はベテランならでは。エウリディーチェ役のベネデッタ・トーレの初々しさとうまく組み合わされていました。とりわけ、第3幕は見応えたっぷりで、舞台にぐっと引き込まれました。 ベネデッタ・トーレは透明感と潤いの双方を併せ持った歌声が素晴らしく、劇場一杯に響きます。アモール役の杉山由貴さんも、…

ネットで話題

もっと見る

関連ブログ

新国立劇場オペラ グルック/歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」

本日は、2度目の新国立劇場です。 www.nntt.jac.go.jp 京葉線で同じ駅から乗り込んできて隣に座った若い奴が臭くて、幸先が悪かったですが。特に若い奴は代謝いいんだから、風呂くらい毎日入れ。 さて、先週末に続くオペラですが、本日はグルックの「オルフェオとエウリディーチェ(Orfeo ed Euridice )」を聴きに来ました。 先週「バロックオペラ聴きたい」とヘンデル「ロデリンダ」を鑑賞してきた訳ですが、そのチケットを買った時こちらも買ってましたと。 www.nntt.jac.go.jp フライヤーへのリンクはこちら 管弦楽はシンプルなヘンデルに対しこちらは仲々豪華イメージなので…

2024年棚ざらえ~今年発売されたディスクから②

○グルック:オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」(全曲) オルフェオ(カウンターテナー):ヤクブ・ヨゼフ・オルリンスキ エウリディーチェ(ソプラノ):エルザ・ドライジグ 愛の神(ソプラノ):ファトマ・サイード 指揮:シュテファン・プレフニャク/イル・ジャルディーノ・ダモーレ クリストフ・ヴィリバルド・グルック(1714~1787)はオペラの改革者として音楽の授業で教わり、学校音楽室の肖像画の並びでもバッハ、ヘンデルの次に居て、次にハイドン、モーツァルト・・・の順ですが、その代表作となるとこの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」ただ一曲となるのでしょう。それもきかれているのは劇中のバレエ音楽「…

最近の届きもの~買い物ディスク紹介

HMVさんに注文していたCDが届きましたのでその紹介投稿です。 〇グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」(全曲) オルフェオ(カウンターテナー):ヤクブ・ヨゼフ・オルリンスキ エウリディーチェ(ソプラノ):エルザ・ドライジグ 愛の神(ソプラノ):ファトマ・サイード 指揮:ステファン・プレフニャク/イル・ジャルディーノ・アルモニコ グルックは音楽史のなかで「オペラ改革」をした重要人物という扱いで、学校の音楽室の肖像画ではバッハ、ヘンデルの次にグルックが並んでいました。しかしその代表作とされる「オルフェオとエウリディーチェ」はあまり上演の機会もなければ録音としてきけるディスクも少ないです。…

スキャンダラスな王妃の肌着姿。~マリー・アントワネットの生涯44。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第4幕後半

ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『自画像』(1781年) 宮廷画家が語る、王妃の気さくな優しさ エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが最初に王妃マリー・アントワネットの前に通されたとき、彼女は緊張に震えました。 しかし、王妃が優しく話しかけてくれたお陰で、緊張はすぐに解けたそうです。*1 ルイーズ(ヴィジェ・ルブラン)は回顧録で『お妃様に会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美しさを伝えることはむずかしい。』と述懐しています。 1783年から87年にかけて、ルイーズは王妃の肖像画を4枚書きましたが、王妃は彼女が美しい声の持ち主であることを知ると、当時オペラ・コミック…

王妃お抱えの天才美人宮廷画家、ヴィジェ・ルブラン。~マリー・アントワネットの生涯43。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第4幕前半

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』(1778年) 仕切り直した王妃の肖像画 ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティが描いたマリー・アントワネットの肖像画『盛装するマリー・アントワネット王妃』が、王に対して不敬であると、散々な評判だったことは前回取り上げました。 宮廷では、新しく王妃の肖像画を制作することにし、画家として、女性画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)に白羽の矢を立てました。 出来た作品は、『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』。 …

ゴシップで炎上した王妃。~マリー・アントワネットの生涯42。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第3幕

マリー・アントワネットの長男ルイ・ジョゼフ ついに、お世継ぎ誕生! 王妃マリー・アントワネットは、第1子の女児を産んだあと、1回流産をしてしまいます。 そして、自分の孫がフランス王となることを切望していたオーストリア女帝マリア・テレジアが亡くなって1年後、1781年10月22日に、ついにマリー・アントワネットは男児を産みます。 出産も、長女のときに、産室にあまりに多くの人が詰めかけて、王妃が酸欠に陥った反省を踏まえて、静かに関係者だけで行われ、しかも安産でした。 産まれてすぐには性別は母親には知らされませんでしたが、しばらく落ち着いてから、めったに感情を表に出さない父親ルイ16世が、『王太子が…

王妃の出産は衆人環視。~マリー・アントワネットの生涯41。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第2幕後半

ルイ16世、マリー・アントワネットの長女、マリー・テレーズ・シャルロット(通称マダム・ロワイヤル) 実を結んだ、兄の忠告 マリー・アントワネットの物語に戻ります。 兄の神聖ローマ皇帝、ヨーゼフ2世がパリに来訪し、妹である王妃マリー・アントワネットには贅沢三昧、娯楽三昧の生活を改めるように、とお説教。 その夫、義弟であるフランス王ルイ16世には、子供を作れるよう、手術を受けるように勧めて、帰国します。 妹への説教はあまり効果はありませんでしたが、義弟への勧告はすぐに功を奏しました。 素直な国王は、義兄のセンシティブな忠告に従い、ついに手術を受けたのです。 その結果、この新婚7年目の夫婦は、ようや…

王家の呪われた運命。~マリー・アントワネットの生涯40。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第2幕前半

母を殺したオレステスを責める復讐の女神 トロイア戦争の結末 マリー・アントワネットゆかりのオペラ、グルックの『トーリードのイフィジェニー』。 ギリシャ神話に基づいた物語は、いよいよクライマックスです。 イピゲネイア(イフィジェニー)の実家、ミケーネ王家では、彼女が遠く離れたタウリス(トーリード)にいる間に、凄惨な事件が起きていました。 まだ、イピゲネイアは知る由もありませんが、悪夢から、不吉な予感に苛まれています。 いったい何が起きたのでしょうか。 イピゲネイアが犠牲になることによって、ギリシャ軍の大船団は、トロイアに向けて出帆することができました。 しかし、トロイア戦争は実に10年もかかった…

パリピ化した妹に呈した苦言。~マリー・アントワネットの生涯39。グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー』第1幕後半

マリー・アントワネット時代のファッション パリピ化した王妃 1774年にフランス王妃となったマリー・アントワネット。 王太子妃時代の窮屈な鳥かごから放たれたのみならず、一挙に絶大な権力も握ったため、遊び熱が年を追うごとにひどくなってゆきました。 仮面舞踏会、ダンス、競馬、ギャンブル… 怪しげな取り巻き連中、〝お仲間〟が、それを助長します。 年齢が20代前半ということもあり、完全に〝パリピ〟化してしまったのです。 王家の生まれで、お金が有限であることも、フランス国家財政はすでに大赤字であることも知りません。 請求書に「支払うこと(ペイエ)」とだけサインすれば済むので、散財を気に掛けることもありま…


[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp