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自治
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自治

(一般)
【じち】
  1. 人民が自ら参加して統治すること。地方自治など。
  2. 自分たちのことを自分たちの責任で統治すること。
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斎藤幸平+松本卓也「コモンの「自治」論」

世の中のちょっとした違和感を突き詰めていくと、行き当たるのが行き過ぎた資本主義経済です。 政治、経済、教育、医療、産業、農業・・・。 これをどう改善していくべきか。そのヒントが満載の本です。 重要なのは個々人がちいさな選択を積み重ねていくことです。 今日食べるもの、どんな服をどこで買うか、行先とその方法、今晩の暮らし方・・。 最初は不便でもそれが大きなうねりとなって知らないうちに変わっていくかもしれません。 杉並区の区長選挙でそんなことがあったのですね。しっかりと住民が考えて選択した結果なのでしょう。このように少しずつですが変化を感じることもできます。 コモンの「自治」論(集英社シリーズ・コモ…

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話そうよ

町内で週1回元気だよ〜と集まる。我が町内には古くても八畳二間の集会所がある。他の町内より恵まれているのは確かだ。元は田圃だったこの土地に今から60年ほど前から家を建てて移ってきた人が多い。最近になって、代替わりをした家や新しく家を購入して入ってきた人が増えてきた地域だ。町内の構成は、自分も含めて年寄りが主になっている。 我が町内の良さは、4・50年前の世代が横のつながりを大切にしながらコミュニティをつくってきたこと。しかし子供会、町内会、祭等などのシステム自体が古い。共働きや一人住まいの人が多い若い世代には古くて合ってないのは確かだ。 70歳前後の自分たちの世代から、積極的に若者と話し合えると…

この国のかたち(7) 自治の危機

辺野古新基地をめぐって国の専横が極まっているが、これは “自治” を破壊する行為である。本来、国と地方自治体は対等の関係にあるのだが、こと日米安保に関わる問題で国は一切妥協しようとしない。沖縄の民意を全く顧みずに推し進められる南西諸島の軍事基地化は、こと沖縄だけの問題ではない。あらゆる“自治”の根幹を揺るがす問題だと受け止める必要がある。 学術会議のありかたに関わる有識者会議の議論が進んでいる。政府の意向は「学術界を政府の意に沿うように利用したい」であり、学術研究の自治を弱めることがねらいである。結果的にそれは表現の自由、言論の自由をじわじわと奪い、権力と財力におもねる社会を生み出すことになる…

戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京

この「天文法華の乱」を以てして「日本における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松本問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。 また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあった…

戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・比叡山延暦寺、兵を挙げる

山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われるのだ。これは前代未聞の出来事であった。 これを苦々しい思いで見ていた者たちがいる。比叡山延暦寺である。 開山当初から霊的な意味で京を守ってきた彼らは、その地にまた絶大な権益をも有していた。元々、京にあった有力な土倉・要するに銭貸しは、軒並み叡山が経営するものであった。だが室町時代も後期に入ると、足利幕府による統制の影響もあって、山門による銭貸し業は大打撃を受…

戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」

洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、法華宗を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。 例えば商業都市である堺は、①は主に「法華宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織である「南荘…

戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った町衆たち

1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。 いまだ戦いをやめない、一部の本願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。 一向一揆は実に手強かった…

戦国時代の京都について~その⑦ 天正法華の乱・畿内を暴れまくった一向一揆

先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。 応仁の乱以降、幕府は弱体化し、将軍位の座は不安定なものとなっていた。更に1507年に発生した「永正の錯乱」による、管領・細川政元の死により、細川家まで分裂してしまう。この辺りの経緯は実に複雑怪奇であって、詳しく記すときりがないので端折ってしまうが、1530年の時点では、まず将軍位は足利義晴のものとなっていた。義晴のバックには管領・細川高国、そして近江守護の六角定頼らがいた。 これに対…

戦国時代の京都について~その⑥ 町組はどのような組織で、どう機能していたのか?

このように外敵には結束して、事に当たった町衆だが、町や町組同士でも争うことがあったようだ。時期は違うがやはり同じ日記に、二条室町と押小路三条坊門との間で、何百人もが参加した合戦に近い大喧嘩があり、双方100人ほどの怪我人が出たことが記されている。 そこで上京・下京を囲む総構とは別に、町組ごとに「町の囲い(ちょうのかこい)」があった。この囲いを出入りするには、釘貫門と呼ばれる木戸門を通らなければならない。つまりは総構の中にも、幾つもの土塀と門があった、ということになる。 上杉本「洛中洛外図」より。過去の記事でも紹介した「町の囲い」。上下京内にあったと思われるこの囲いであるが、どこからどこまで囲っ…


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