(『CUT』1992 年 12 月)
山形浩生
前略、お元気でしょうか。いま、長崎のハウステンボスでこれを書いております。最近、なにかと旅行づいておりまして、ここ 1~2 ヶ月の間にやれベトナムだの韓国だのととうろついてきましたが、ここの不気味さは群をぬいています。なんと言うか、バイクで客引きにくるホーチミン市の娼婦(ちなみに US$ 1 だって)もソウルでの犬喰いも、目先が変わっていていいのですが、ここの不気味さは、目先の変わり方が足りないところではなく、ちょうどいいところにあります。それは別に、ここがチャチだということではなくて、むしろ出来がよすぎるということなのです
正直言って、ぼくがここに来たのはバカにしてやろうと思ってのことでした。どうせディズニーランドや日光江戸村的押し付けがましさ充満過剰演出ディテールペカペカ空間だろうとたかをくくっていたわけです。そういう空間は建物一皮だけで、一歩裏を見ればすぐにネタが割れるものなのですしかし、ここは建物の外見に関する限りちょっとケチのつけようがありません。一歩裏、というヤツも、ここまでのスケールでやられてしまうとほとんど問題にならない。たとえばデュッセルドルフとかにいくと、旧市街を保存地区にして飲食街なんかに仕立てあげてあって、観光客のツボをよく心得てるねえほうほう、なのですが、それをそのまま移植してきた感じ。もちろん、中身は(若干ながら)ちがいます。中身は、まあどっかで見たようなレストラン街だったり、そこそこチンケなアトラクションがあったりするわけで、かえってホッとするくらいです。が、スケールから言えば、下手なドイツの保存地区よりも大きいし、メンテナンスだって(できたばっかりだから)優れているのです。中をうろついているのは日本人ばかりだけれど、それはここに限ったこっちゃない。
槇文彦なら何と言うでしょう。この人は、幕張メッセとか、青山のスパイラルとか代官山ヒルサイドテラスなんかの設計をやった建築家で、最近著作集『記憶の形象』を出しました。慎みの槇というだけあって、奇抜さに走らないさわかやな建築が身上の方です。『記憶の形象』を読むと、そこに生きてきた人々の歴史と記憶がひだのように織り重なった都市空間の中で、建築というのがどうあるべきか、みたいな話がしみじみと述べられていて、ホロリとさせられます。特にかれが東京の話を始めると、絶品です。江戸の昔から、この土地に住む人々が意識的にせよ無意識的にせよ選び取ってきた、空間的な型がある。「奥」とか「すきま」とかいうことばで表現されるこうした型への敏感さが、日本の街の豊かさをつくりだしているのだ、という話。もちろんそれを博物館的に保存しようと言うのではなく、それがすでに現在の日本都市では機能しにくい物になっているなかで、建築家は生まれつつある型を読みとり、それを意識化していかなくてはならない、というのが槇の基本的なスタンスです。非常に明快で説得力があるし、かれの設計した建物の多くもそれに応えるものとなっています。絶望的に見えるこの町並みも、きみたちにはまだ見えていないだけで、新しい形態の芽を秘めているんだよ、とこの本は語ってくれます。デザイン(特に自分の建築のデザイン)の話を始めると、急に話が大仰になって白けるけれど、まあ建築家の文章というのは大なり小なりそういうものなので、仕方ないのでしょう。
「われわれは円盤に一つの完結した宇宙、つまりコスモスを夢見ていたのにちがいない。まったく空と海と平坦な浜辺以外に何のレファレンスもない状況における、もっとも完璧にして完結した大地としてのディスク」
こういうのを読んで喜ぶ嫌味な完成を持ち合わせていない人は、この本の五百頁あたり以降は読み飛ばすこと。
ただ、このハウステンボスってのは、生きてきた記憶のひだもクソも、半年前までは何もなかったところなんですよね。でも旅行者にバレない程度の街らしさってのは見事にでっちあげられている。槇文彦的な繊細な都市性は、ここでは一挙に叩きつぶされ、それでもそれなりにそれなりのものが出来上がってしまっているんです。
もちろん、都市は共同体的な合意を金や権力や意志ではり倒すような暴力のうずまくところでもあります。ここも、ある首謀者の強引な意志に貫かれた、ユートピア的な暴力空間だ、という言い方はできるかもしれなせん。村上龍は(かれのましな作品群では)常にこうした暴力を具体化してきました。最近では『コックサッカーブルース』、そして『イビサ』。特にこの『イビサ』は本物の傑作です。ベトナムへも韓国へも持っていきましたが、こいつを読みながら成田に向かうと、まつわりついてくる日本ってのがホントに嫌になって、離陸したときの開放感がちがいます。そして小説のほうも、日本を振り切ってパリに赴いた主人公の黒沢真知子が、テレパシーとおばけの飛び交う発狂したオカルト世界に突入してほとんどキレます。端正に積み上げるようなところは皆無。こちらがチラッとさしのべた感覚の突起に、たちまち読点なしのことばの意図がキリキリまきついてあれよあれよという間に引き上げられ、飛び散る。とってつけたようなラストの数ページは、単にとりあえず本体を終わらせるためだけの方便にすぎません。小説はいつまでも(つまり約 30 分ほど)背筋で渦を巻き続けます。計画や打算など皆無の、ハイなノリだけがめくら滅法に荒らしのように襲いかかってくる、すごい本です。
しかし、このハウステンボスというのは、絶対にそんな発狂したパワーの産物ではない。計算されつくした商業ベースの打算の産物です。この一点で、ここは村上龍好みのがむしゃらなパワーに似つつも、最終的にそれに背を向けている気がするのです。
単なる直感ですが、コンピュータグラフィックスに関する研究がもっと進んだときに、この街の不気味さも説明がつくようになるでしょう。村上龍の獣じみた暴力解放感覚でも、槇文彦の知的な洗練された共同体の優しさでも、この街ではまだ足りないのです。そういうストレートで真剣なアプローチを外すほうな、本物より本物らしい大まじめなウソをつくための理屈が要るんです。
それはたぶん、皮肉と冗談だらけの嫌味な代物となるでしょう。いずれそれを書くのがこのオレだ、とまでは、まだ言うつもりはありません。では。
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