AERA 2007/01/1-8号
AERA 2007/1/8,
表紙は浅田真央
磯&宮沢『昭和モダン建築巡礼 西日本編』(日経アーキテクチュア)
音楽でもファッションでも、最初に作られたときには最先端の現代性を持ちつづも、やがて流行りが廃れると一気に陳腐でださくなり、まったく見向きもされなくなるどころか積極的に避けられ石を投げられたりする。そしてそれがまたしばらくすると、ノスタルジーやリバイバルの対象となって復活して、やっと文化的な風景の一部として居場所が確保される――各種文化アイテムはそんなサイクルをたどる。建築でもそれはしかり。かつては古くさいと思われていた明治大正から戦前の近代建築がいまや味のあるレトロ建築としてもてはやされ、保存運動なども活発になる一方で、戦後のモダニズム建築群は、当初は大建築家の名作・出世作として賞賛されたものの今や忘れられ、やがて単に使いにくい古くさい建築としてうとましがられたりしている。
だが、そうした建築群がそろそろリバイバル期に入ったようだ。本書は、日本各地に残る戦後モダニズム建築の名作を実際に訪問し、おふざけもたっぷり入った楽しい文章とイラストで様々に解説しようとする試みなのだけれど、うん、確かにただの古びたコンクリートの箱にしか見えなかった建築を見る目が変わってくる。ちょうど80年代に建築探偵たちが各地の近代建築の魅力を再発見したように、本書もまたモダニズム建築の魅力をもう一度ぼくたちに見せてくれている。そし大阪万博がノスタルジーの対象としてもてはやされたりする近年、その時代の建築を見直す機運も熟しているのだろう。
いま、それらの建築は、築四〇年以上を経て次々に取り壊されつつある。本書が編まれたのも、まさにそれらが消える前に記録しておこうという焦りの結果ではある。本書をきっかけとして、こうしたモダニズム建築も保存への道が模索されるようになる……かどうかはわからない。最終的にはそれが場合によっては改修などを通じ、現代的な価値を提供できるか次第。が、いずれ本書を読んだ地元の人々の間から、そうした動きが出てきても不思議はない、そんな一冊。そして本書を読んだあとでは、あなたの街の名もなき古びた昭和モダニズム建築も、いままでとはひと味ちがった面をかいま見せてくれるかもしれませんぞ。
AERA 2007/2/5号
AERA 2007/2/5,
表紙はmixi社長
キャロル&シュワンクマイエル『不思議の国のアリス』(白水社)
キャロル『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』は、一般には(特に本当に読んだことのない人には)児童向け図書だと思われているけれど、通常の児童向け小説とはかなりちがう代物だということは愛読者ならみんな知っている。まずそこには、児童小説にありがちな教訓じみたものは一切ない。さらに登場人物はほとんど全員(当のアリス自身も含め)重箱の隅つつきと揚げ足取りの大好きな、いやなヤツばかり。定番となったテニエルによる、一度たりとも笑顔をみせない仏頂面アリスの挿画もその印象に拍車をかける。にもかわからず――というよりそれだからこそ、この作品は発表以来多くの人の心をとらえてきたのだった。
そしてその「多くの人」が問題だ。ただの慣用句や社交辞令に屁理屈こねるような話を好む輩は一般に、おたくと呼ばれる人々だったりする。さらに「アリス」では、それが凡庸なおたく的字句パズルを越えて、時空すら歪ませる偏執狂にまで達しており、それが多くの(これまた歪んだ)科学者やアーティストたちの心を捕らえ続けてきたのだった。何を隠そうこのぼくも、その歪みに魅せられて自分で「アリス」二作を翻訳してしまった。
その歪みの最新の犠牲者が、チェコの変態アニメ作家ヤン・シュヴァンクマイエルだ。
とはいえ、かれが「アリス」偏愛を表明したのはこれが最初ではない。しばらく前に、かれは映画版「アリス」を撮影している。シュワンクマイエルのアニメや映像をご存じの方なら想像つくように、これもなかなか歪みきった代物で「アリス」ファンの面目躍如の一作だった。
だが、どうもそれでは満足できなかったらしい。今度は原作の挿画だ。そしてこれまた、コラージュを多用したモノ自体が迫ってくるようなグロテスクなイラストばかり。アリスのビジュアル化は、映画や舞台も含め、もともとのテニエルのイラストが植えつけたイメージにかなり縛られてしまったものが多い(あの金子國義でさえ!)が、そこは天下のシュヴァンクマイエル。これまでだれも想像したことのない、変な――そしてある意味で原作の魅力である歪みに忠実といえば忠実な――世界がそこには描き出されているのだ。
AERA 2007/3/5号
AERA 2007/3/5,
表紙はおばさん仕様の
土屋アンナ
北岡 明佳『だまされる視覚 錯視の楽しみ方』(化学同人)
この本は、とにかく立ち読みでもいいからまず見てみろ! としか言いようがない。でも見過ぎに注意。錯視というのは、止まっているはずの図形が動いて見えるとか、まっすぐなはずの線が曲がったり傾いたりして見えるといった現象なんだけれど、その多くは目の焦点のちょっと外側で起きる。焦点の外に意識を向ける、というねじれたことを長いことやっていると、なんか目がそれに慣れてしまって、普通にものを見るときに一瞬どこに意識を向けるべきか混乱したりするから。
残念ながら、本書に掲載された図はすべて白黒だ。それでもかなりの感激は保証するけれど、著者のウェブページに掲載されているカラーの図みたいな、空間がゆがむような気持ち悪い錯視図形に比べると数段落ちる。ここらへんは地味な版元の地味な本作りで損をしているところだ。が、本書のうれしいところは、錯視の図の作り方をあれこれ説明してくれるところ。錯視図形のパターンを紹介しつつ、自分で作る場合にどこに留意するとよくて、どこらへんに工夫の余地があるかまで解説してくれる。
惜しいことに、錯視のメカニズムについては説明がほとんどない。図形ごとに発生メカニズムはちがうんだ、とは書いてあるんだけれど、一つでも二つでもいいから説明してくれるといいのに。脳の構造やヒューム哲学が云々といった記述はあっても、それが錯視理解にちっとも役にたたないのだ。どこらへんの情報処理を端折ることで、止まっているものが動いているように見えるのか? 仮説でもいいからそんな説明があると個人的にはうれしかったな。これはいずれ、理論的な解説書を是非出して欲しいところ。
でも本書を参考にして多くの人が錯視図形を自分でデザインしてみると、もっともっとパワーのある錯視図形がどんどん開発されるようになるだろう。そしてその過程で、錯視のいろんなメカニズムも明らかになるだろう。著者は本書を、世界唯一の錯視デザインの解説書だと言う。本書を通じ、まだまだ科学でもはっきりしない脳と心の不思議な情報処理の仕組みを、素人でも体験し実験できる――これはすごいよ。さあ、あなたも是非お試しあれ。
(付記:なお、今回は化学同人の本を一般誌の書評にあげられたというのも自分ではポイント高いところ。)
AERA 2007/3/26号
AERA 2007/3/26,
表紙は蒼井そら
左巻『水はなんにも知らないよ』(インターシフト/河出)
「バカ」と書いた紙を見せた水を凍らせたら汚い結晶になる、という失笑もののヨタ話の信者たちが跋扈し、教育現場にまではびこっているそうで嘆かわしい限り。それに限らず、むにゃむにゃイオン水とか、クラスター浄水器とか、ありえん代物を本気にするバカが多すぎる。みんな本書を読んで、そんなの全部インチキなのを理解しなさい。よろしゅうございますね。おしまい。
本来であれば、これ以上言うべきことはないはず、なのだ。が、たぶん本書を読んでくれる「信者」の方たちは少なかろうし、読んで素直に説得される人もあまりいないだろう、という絶望感も抱かざるを得ない。
そしてそれは、本書の書き方が悪いからではない。コンパクトにまとまったよい本だよ。さらにそれは、本書の指摘する科学リテラシーだけの問題でもないと思う。おそらく教育水準がお高めであろう本誌の読者諸賢の中にも、この種のヨタ信者はかなり――下手をすると平均より多く――いるはずなのだ。
それは水に心があるとかいう発想に、人間古来の考え方と親和性があるからだ。かつて人は、万物に神様が宿り心があると信じていた。それは:) を微笑と解釈し、壁の汚れや節穴に表情を読み取る本能に通じるアニミズム的な心性だ。インチキ水信仰はそこに訴えかける。だからこそこの手の信仰は容易には根絶やしにできない。
そして始末の悪いことに、いまの科学リテラシー教育は一方で、こうした心性を利用する部分さえある。最も安易なエコロジー教育では、温暖化で地球が悲しむ、公害で森や川や空や海が泣いているといった教え方がよく行われる。これは水が人の心を理解して反応するというヨタの根底にある発想と五十歩百歩。多くの人はこれが比喩だと理解しているが、最も熱心で狂信的なエコロジストは、まさにこれを文字通り信じている――インチキ水商売信者たちのように。
それを考え始めると、本書の唱える科学リテラシー教育も一筋縄ではいかないんじゃないか。とはいえ、千里の道もなんとやら。まず第一歩は、なるべく多くの人に本書を読んでいただくところからでしょう。信者予備軍を見かけたら、迷わずお薦めくださいな。