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山形浩生の「経済のトリセツ」

各種の書評など。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』上巻完訳:5章はただの罵詈雑言だが一つ面白い点

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第5章「SFの社会学」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

これで『SFと未来学』上下巻の上巻は全訳完了!いやあ、よく頑張ったなあ、オレ。まともにきちんと読むやつがいるとは思えないんだけどね。

さてこの第5章、SFはクズばかりだとさんざん罵倒してきたこれまでの章を受けて、なぜそうなるのか、という話。出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから」というだけのことを、つまらない罵詈雑言と、現代ならキャンセル確実な差別用語まみれで何十ページもわめきたてるという、どうしようもない代物。だからAI翻訳でも面倒なところはなくて、チェックもすいすい。すばやくできました。やれやれ。なんだが……

最後にひとつ、ちょっとおもしろい論点が出てくる。それはレム自身のこれまでの罵詈雑言だのいかにも分析めいた鈍重な試みをすべて自ら否定しかねない点。でもそれを書いてしまうのが、レムのおもしろいところというかバカ正直なところというか。

本章の中身

中身は上に書いただけのことで、それ以上まとめるまでもないが、その書き方ときたら。こんな具合。

この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(p.179、強調引用者)

で、SFは完全なゲットーを作って内輪だけでヨイショしあってる閉鎖的な集団で、すべてが安きに流れている、という話。他の分野だってそうなんじゃないですか? それにあんた、なぜ主流文学ばかりを引き合いに出すんです? 推理小説、ウェスタン小説、ロマンス小説、そうした分野との比較はないの? ないんだよね。それははからずしも、レム自身のコンプレックスの露呈でもある。

さらにもう罵倒をひたすら重ねたいだけで、SFは疑似科学寸前だといってキャンベルのサイオニクスやヴァン・ヴォークトの支持するハバードのダイアネティクスの妄言を持ち出して見せる。そしてマーチン・ガードナーの疑似科学批判を、SF批判に我田引水。

 

そして、非SFの評論家がSFについて理解しようとした、なかなかよい文章がある。グリーン「科学と感性」という論説で、理系と文系では世界のとらえかたがちがうよね、という話をして、SFは理系的なとらえかたをして、個人よりも人類全体みたいな単位で話をしたがるのだ、と指摘。SFに対する主流文学読者の拒否感は、そのキャラが平板でパターン化されている点が大きいけれど、それはまさにSFのやろうとしているところから出ている話で、いずれそうした感性が文学にも新しい方向性をもたらすかも、というものだ。おおむね、うなずける話ではある。(pp.180-1)

ところがレムはそれに噛みつく。キャラが立ってるとか古くさいこと言ってる、いまの文学はそんなんじゃねえんだ、そんなことも知らないのか、ボルヘスを見よ、カフカはどうだ、そんなピントはずれの擁護しなきゃならんとは嘆かわしいぜ、しかも理系はSFっぽいのがいいというなら、理系は文学鑑賞能力がないってことか、ふざけんなと。

だれもそんなこと言ってないよ、大きな傾向の話をしてるんじゃん。キャラについてだって、あんたこれまでヴァン・ヴォークトの登場人物は科学者も警官もまるで同じだとかケチつけてただろうに。目先の相手に噛みつくためなら、自分の主張の整合性までつぶしちゃうって、ADHDの典型だよな、レムは。

 

SFは1970年代とかは強い文学コンプレックスがあって、本章で批判されてるみたいな「SFは未来の文学だ!」みたいな、変な強がりはあった。『ユリイカ』だの『カイエ』だのがSF特集すると「おれたちもそろそろ認められたぜ」みたいな雰囲気が漂ったりはしたらしい。また酸っぱいブドウで、「お高くとまった文学なんざもう古いぜ、SFこそ大衆の文学なんだ」みたいなことを言う人もいた。大学SF研まわりでも「わーれらが/国民の文学SFは〜」みたいな歌を先輩たちが歌っていた。そういう時代なら、こういう文章も響く面はあったのかもしれない。そしてそういうコンプレックスがあればこそ、『ニュー・ワールズ』のニューウェーブSFという運動も出てきたわけだ。

ちなみに、この本でレムが言っていることは、山野浩一がNW-SFで書いているようなSF批判とまったく同じ。それはそれで懐かしいものではあった。

でもなあ。もうそれから50年近くたった今となっては、あんた何言ってるの、という感じのほうが強い。そしてそれが、SFが上手くなってきたこと以上に、レムがこの文章でやたらに評価している、商業主義に毒されずきちんとした批評機能が機能して適切な選別が行われているはずの、主流文学の凋落で起きたというのは、たぶんレムが予想だにしなかったことだとは思う。

ひとつ面白いところ:レムの敗北宣言

が……本章には、ちょっとおもしろいところが一つある。以下の部分だ。

しかしヴァン・ヴォークトは優れた物語もいろいろ、特に短編を多く書いている。それに加え、すでに言及した『宇宙船ビーグル号の冒険』のような長編は、魅惑的な断片を含む。だがその理由はずばり何だろうか? (中略) この作家は時々インスピレーションのひらめきを持っていて、それによって最も奇妙な組み合わせの混合物に生命を吹き込み、読者を架空世界へと連れて行けるのだ。ここで本書の理論のかなり微妙な点に触れることになる。一部の作者は、素晴らしい技術の押しつけがましい山だの、怪物、銀河戦争で用いられた原子爆弾とロケットを大量に並べ立てるが、退屈しか生み出せない。だが一部の作者は、表面的に非常に似たガラクタを結合し、そこから示唆的なビジョンを構築するのだ。これは――すでに述べたように――理論にとって難しい点である。なぜなら、二つのこのようなテキストの違いがどこにあるか、誰も知らないからである。構造主義のメスを使えば、本質的な区別を摘出できたように見せかけることはできるが、それでは方法的誠実さを小手先のごまかしで置き換えただけになってしまう。なぜなら、このようなテキスト間に一般的な違いはないからである。(p.188, 強調ママ)

あんだけ悪口を並べておいて、レムはヴァン・ヴォークトの小説がおもしろいし、なんか不思議な魅力があることを認めざるを得ない。そしてそれが、これまでの「分析」なるものでまったくとらえられないことを認めざるを得ない。

ここでカート・ヴォネガット『タイタンの妖女』の内容を正確に再現したら、A・ベスターの『虎よ、虎よ!』と筋書きでは似たものになり、どちらもつまらない話に見えるだろう。しかし、ベスターの小説は、スペースオペラの一種という点では『タイタンの妖女』と親縁性を持つが、魅力的である。一方『タイタンの妖女』はかなり退屈な読み物だ。『タイタンの妖女』の作者は、知性の面ではベスターを上回る可能性すらある。才能が知性の支援なしでも文学で時々感動を生むことはあるが、才能のない知性は文学作品においては、残念ながら読者をうんざりさせるだけだ。しかし「才能」と呼ばれる奇妙な存在に頼るのは不適切だ。なぜならすでに恐ろしく研ぎ澄まされた構造主義の道具があるのだから。しかし、どうすればいいのか? メスがどれほど鋭くても、凡庸なテキストと優れたテキストの秘密の違いは捕らえられない。すると残るのは、恥ずかしい印象批評だけとなってしまう。それは通常は理性的な論理に基づくものではなく、読者の言質に基づくしかないのだ。ヴァン・ヴォークトも、時々読者に魔法をかける作者に属するのだ。(pp.188-9, 強調ママ)

ベスターについても同じ評価。彼の書きぶりは魅力的だ。それはどんな分析でもとらえられない。もちろん、あんた『タイタンの妖女』のおもしろさがわかんないのか、というのはおいておこう。そしてこれに続いて、魔法にかけられた読者についての嫌味があれこれ並ぶのは、悔し紛れのアレだ。それでも、彼はそういう魅力があることを知っている。うん、レムくん、わかってんじゃん。

これはほぼ、レムの敗北宣言ではある。500ページもある本の最後の最後で、ちょろっとこういう敗北宣言でお茶をにごすのはどうよ、とは思う一方で、それをわざわざ書いてしまうというのは、レムのADHDっぽさではある。SFがジャンルとして、下手な小説ばかりでも成立しているのは、そうした変な魅力を引き出しやすい面があるから、というのは否定できないことだとは思う。それが何なのかはわからないんだけれどね。

ちなみにその昔、以下のインタビューを川又千秋が読んで、どこかに感想文をのせていた。

sfwj.fanbox.cc

見つけた。川又千秋「スタニスワフ・レムの冒険」(レム『宇宙飛行士ピルクス物語』(1980)解説)『夢意識の時代』(中央公論社、1987) pp.156-7 だ。

川又が注目したのは、この中の「スター・ウォーズ」に関する部分。例によってレムは、幼稚だウェスタンだ可能性が全部つぶれてるろくでもないくだらないと全否定の罵倒をしている。でも……

それでも彼は、「スター・ウォーズ」を二回も見たのだ、というところを川又は採りあげていた。この罵倒のドグマ性と、それに抗おうとするSFの指向との間でレムが板挟みになっていることを川又は述べている。二回も見たのはその矛盾と折り合いをつけるためだった、と川又は匂わせる。

だけれどそれ以上に、二回も見たことをもっとストレートに捕らえてもいいだろう。レムは「スター・ウォーズ」の魅力に何かしら反応しているのだ。やっぱなんだかんだでおもしろいのよ、あれは。

そしてその反応は、ここでヴァン・ヴォークトやベスターに反応しているのと同じ部分においてだ。でも、それを表立って認められないのか、理論化できないのに苛立っているのか、全否定して見せなくてはならない。それを、レムのストイックな部分と見るか、頭でっかちのやせ我慢の強がりとみるか (いやこの二つは同じことか)。

 

おしいねえ。それを「理論化できない」と投げ捨てるのではなく、もうちょっと大事にする手もあったのでは、とは思わなくもない。そうしたら本書も、もう少し広がりが出てこんな無惨に価値を失うこともなかったのではないかな……

まあこれは後知恵もいいところの、岡目八目ではある。

この先

で、これで上巻は終わり。下巻は……やんのぉ? まあ乗りかかった船ではある。そしてこの最後の、なんだかわからないけど生まれる魅力、という気づきが、今後の分析で多少なりとも活きてくるのか、というのは興味あるところなので、ぼちぼちやっては行こう。

ついでに、本書下巻の最後の章は「メタファンタジア」なる邦題で翻訳がある

そこに訳者がつけた解説が、いつもながら何言ってるか意味不明の要領を得ないものだったし、これまでの流れから見ると、たぶん実際の文章もかなりこけおどしで、大したこと言ってないと思う。それも一応確認したいところではあるので、一応はやるでしょう。しかしなあ。

 

でも下巻の大半は、テーマ別分析となる。たぶんどれもすべて「この作品は十分に考察がない、未来の宗教やセックスについて突き詰めて考えていない、安易だバカだくずだ」という罵倒が並ぶのはだいたいみえてるんだよねー。まあいいか。

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