
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第4章「構造主義から伝統主義へ」。
前章では、構造主義は役にたたない、という結論になった。この章の冒頭では、作品の中に見られるいろんな対立構造とかを増やしても作品の本質には迫れない、という話が繰り返される。作品の意味を見なくてはならないんだって。
オッケー。で?
これまでのところは、まず全体の概要を説明してから、細かい要約をしていった。でもこの章は短いので、それができない。だからいきなり中身を順番に解説していこう。
まず、作品の意味を最大限に理解するためには、それがどんな作品か、何を指しているのかについて読者は判断しなくてはならない。文中で「意味論的アドレス」なるものがやたらに出てくるのはそういうところだ。
これはどういうことか? その作品が、おとぎ話なのか、寓話なのか、比喩なのか、アイロニーなのか、リアリズムなのかについて読者が判断しなくてはならないということだ。そして、それはそこで採用されているお話の構造から判断するのだ、というようなことをレムは、非常に要領を得ない形で述べる。カフカ「変身」を文字通りの昆虫人間の話だと思うのは「テキストの意味の社会的に安定した構造から見て馬鹿げている」(p.155) とのこと。
まあそういう判断はするかもしれないねえ。で?
で、使っている構造的パターンと作品との間には、3種類の関係があるんだって。「作品の誕生に立会った構造的パターンと作品自身との間には、三種類の関係があり得る」(p.156)
ただしレムの言っているのがこの三つだということは、普通に読んでいたら決してわからない。この2つめのパターンの例としてコードウェイナー・スミスについて延々と書いているうちに、レムは自分が何を書いているか忘れて、話がどんどん流れてしまい、いつまでたっても三つ目が出てこないのだ。
話は構造と関係ない方向に進む。コードウェイナー・スミス「シェイヨルという名の星」では狼の脳を宿した番犬ロボットが出てくる、という本筋とは関係ないエピソードについて、これはおとぎ話的な狼のイメージをロボットという科学的な装いに接ぎ木しようとする意味論的なアレコレなんだ、という話が続き、自分もそれを『ロボット物語』でやってそれによりユーモアの効果が得られ云々、という自慢がまた5ページ続く。
8ページにわたり、全然関係ない脱線をしたところで、話はやっと構造に戻ってくる。お話作りで、その下敷きになった構造/パターンが透けて見えると興ざめなので、自分が引用拝借しているのを公言してパロディ化してみせたほうがいいね、だからオールディスの作品は下手で自分の作品はえらいんだ、とのこと。そしてようやく、三つ目の、自律的世界/パターン構築にやってくる (p.164)。でもこの頃には、これが「3種類の関係があり得る」の一つだ、なんてことは読者はすっかり忘れている。ぼくも後から三つ目はどこにあるのか探そうとしてやっと見つけ出したくらい。
自律的世界の構築は、自律的世界なのでこの世界とは独立に存在し、したがってこの世界に対する意味は持たない。だからその世界自体が整合性を持っているかどうか、正確かどうかで判断される。その例としてファーマー『恋人たち』がある。人間女性に擬態して人間男の精子をもらい子供を残す異星人を描いているが、そんな進化はナンセンスであり得ないので、まったくダメダメの笑止千万。
自分も『泰平ヨン』で変な進化を描いたけれど、あれは明らかな戯画化だからいいのだ。
ただしジェイムズ・ブリッシュ「我らが時球」(This Earth of Hours) はうまく書けている (p.170)。地球人が不時着した星は、イモムシ星人たちが住んでいるが、そのイモムシ全員がテレパシーでつながり一つの知性体となっていて、人間の脳はがんのような異常物とされているという話。これは話が風刺的な雰囲気を持っているから、科学的な正確さは問題にしてはいけない。余計な説明文をあまり書かなかったことで作り物めいた感じも薄れている。
ディレーニ『バベル17』(p.171)はこれに対し、地球が戦っている敵がだれで何を求めているか説明がなく、地球の状況について詳しい説明がないため、文明批評の役割を果たさず、言語兵器バベル17が精神操作手法への洞察にもなっていないので、扇情的なスパイ小説でしかない。異世界ものはこの世界とは関係を持たないので意義を出しにくい。
例外がSF自身の内部構造に向けられた批評 (p.173)[読者の心の叫び: ここ、話の流れがまったく見えない。何の例外なんだ?]。その例としてベスター「The Starcomber」がある。[読者の心の叫び: これも延々と引用されているけれど何を示したいのか不明。狂った画家が異世界転生的な夢を次々に見るが最後には自分で自分の道を選び取らねばと悟る、という小説だが引用部分ではそれがまるでわからない]。SFは人々を本当の未来に直面させるより、願望充足的なおとぎ話に堕する方が多い。次章ではなぜそんなふうになってしまったかを分析する。
(ベスター作品は珍しく未訳。以下で読める。
https://nyc3.digitaloceanspaces.com/sffaudio-usa/mp3s/5271009ByAlfredBester.pdf
例によって本章の書きぶりもやたらに要領を得ない。話はあっちとび、こっちとび、まったく構成も考えられていない。そしてすべて「〜でなければならない」と、理由も示さない断定ばかり。でもほとんどは、それはあんたが思ってるだけでしょ、としか思えない。
本章でおおざっぱに提示されている「正しい」読み方は以下の通り。
1 既存構造を拝借して隠しているか?
2 拝借してそれを公然と顕示し、パロディ化しているか?
3 新しい構造を作ろうとしているか?
そんなふうに検討をすべきだ、というのがこの章の主張らしきものとなる。が……
まず途中の、既存構造パターンを使っているかどうかの部分。使っていたらどうなの? 何かそれを拝借するときには、それを隠すのはだめでそれを公然と述べてむしろパロディ化するくらいでないとダメだという。どうして?
これは一切説明されていない。
オールディス「確信」は既存構造パターンを使っているのを隠そうとしたからダメだ、という( p.164)。でも具体的にどんなパターンを使っているのかは示されない。読んでも、どこを問題にしているのかわからない。レムは、その設定——人類の運命をハッタリに賭けようとするというもの——が荒唐無稽だと非難する。でもそれは構造パターンを隠しているためなの? それが拝借した構造パターンって何? まったくわからない。ジェームズ・ボンドがイギリスの運命を賭けて悪党とポーカーするみたいな話のこと? 自分の泰平ヨン作品はそれをパロディ化したからすごいんだと言うけど、オールディスのものとはずいぶんお話の構造がちがうように思うし、何を言いたいのかわからない。
構造だって色々だ。主人公が敵を倒しました。これは一つのパターンだ。でも五人組の戦隊ヒーローが敵を倒しました——これは既存構造パターンなの、新しいパターンなの? それはどういう粒度で話をするか次第ではないの? 物語のパターンなんてだいたいすでに出尽くしているとも言われる。そのパターンを「隠す」って具体的にどういうこと? 「あたし、このパターン使いますからねー!」と宣伝しなきゃいけないってこと? オールディスだって別に隠してるわけじゃない。いちいち宣言しなかっただけだ。
一方、コードウェイナー・スミスは「酔いどれ船」ではっきりランボーを参照しているから、パターンを公言しているんだという。でもさ、ほとんどの人は「酔いどれ船」なんか読んでない。「シェイヨルという名の星」はダンテ『地獄編』を参照しているというけど、スミスがそれを明記したのは短編集の収録するときの序文での話だ。作品自体に「これ、ダンテのパクリですんで」なんてことは書いてない。本当に参照した構造パターンを公言していると言えるんですか?
コードウェイナー・スミスはおもしろいんで読んでね。
そして構造を拝借しましたと宣言すればそれでいいわけ? 別にそれだけでいい作品になるわけないよね。じゃあ、構造を見ることに何の意味があるの? レムはコードウェイナー・スミスをやたらに誉める。既存構造に何か審美的な要素を詰め込んでいるからいいんだって。でも前の章で、バラードは審美的に構築しているけど死と破滅を美化しているからダメと言ったよね。審美的ならいいってわけじゃなかったんでしょ。それはここでは問題にしないの? そしてスミスはSFじゃなくてファンタジーだから科学的厳密さは追求しなくていいようなごまかしをする。なぜ? その理由はまったく書かれない。
冒頭の、作品の性質を読みとって解釈すべきだ、カフカを文字通りの昆虫人間の話と読んではいけないという話も、わからないではない。でも、それってよく考えると、そんな簡単な話だろうか。その作品が風刺か寓話か皮肉か——それってそんなカッチリ読み取れるものなの? それを教えてくれるのが、ブリッシュ作品についてのレムの妙な絶賛だ。
レムはブリッシュ「我らが時球」については、そこに風刺的な調子があるから科学的正確さを問題にしなくていいんだ、と述べる。が……この小説、実際に読んでみると、ぼくは別に風刺的な調子はうかがえない。異星に落ちた軍人たちが、惑星全体で一つの知性体を構成する生き物と出会って戸惑う話で、話としてはそれっきり、特にオチもなく書き殴られただけに思える。大した作品じゃない。言っちゃ悪いが、ブリッシュなんてそんな高度なアイロニーだの皮肉だのをちりばめたお話なんか書く作家じゃないよ。
ここにあるから、興味ある人は読んでほしい。
https://s3.us-west-1.wasabisys.com/luminist/EB/B/Blish%20-%20Galactic%20Cluster.pdf
もちろん、ぼくの読みが正しいとは限らないけれど、いったいレムはこれが何を風刺していると思うんだろうか?
ぼくは意地が悪いので、これについては別の勘ぐりをしてしまう。無数のイモムシたちが完全にテレパシーでつながりあい、惑星全体で一つの、人間の理解できないまったく異質の知性を形成し、人間がそれに出会って戸惑う——これって何か連想しない? これ『ソラリス』だよねえ。
レムはこれを見た瞬間、「ソラリス」と同じだと思って親近感を感じたんじゃないの? そして、それを科学的に詰めようとしたら、「ソラリス」についてもきちんと「科学的」に詰めないといけなくなるよねえ。それを直感的に避けようとして、ありもしない「風刺」を後付でそこに読み取って、「いやこれは科学的に考察しなくていいんだ」と逃げたんじゃないの? まあこれは邪推だけれどね。
ただ、何かが風刺かとか寓話か、というのは読む人によっても変わるというのはまちがいないところ。レムはそれを「社会的に安定した構造」に基づいて判断しろというけど、その作品がどんなふうに社会的に理解されているかなんて、どこを見ればわかるといふのかしら? 「構造パターンの拝借」も、その拝借されたオリジナルのパターンを知らない人にとっては意味があるだろうか?

一方、彼はファーマー『恋人たち』やディレーニ『バベル17』にはえらく手厳しい。あれが書いてない、ここが不正確、これが妥当性を欠くといって。でも『恋人たち』『バベル17』に、多少なりとも寓意や風刺を読んではいけませんか? 風刺とか寓話とか、そんなはっきりわかれるものですか? 多少の風刺をこめたリアリズムだってあり得るんじゃないの? リアリズムだって、どのレベルを描きたいかで描写はかわる。完全な整合性なんかあり得ないってご自分でもおっしゃってるじゃありませんか。
リアリズムだって、『恋人たち』は変な進化を遂げた昆虫生物の話を通じて、地球上にいる変な寄生生物の可能性を指摘している面だってあるのでは?「バベル17」は言語と人間行動の関係に思いをはせるきっかけとなることだってできる。荒俣宏は名著『理科系の文学誌』で、そこに描き出される言語の世界の広がりを実に楽しく教えてくれた。心を閉ざして読めば、なんだってこの世とは関係なくなる。まったく異世界を描いているから、それ自体で完結してあらゆる面で整合してなきゃいけない、というのは、レム自身が非常に狭く作品を捕らえて、それに対して自分の偏狭な基準を押しつけているだけ、ですよね。ほんと、『ソラリス』にこの基準を適用してみせてよ。全否定になると思うなあ。
ということで、ぼくはここでのレムの主張にほぼ説得力を感じなかった。全部、後付のためにする罵倒ではありませんか。コードウェイナー・スミスの絶賛は、驚いたけれど非常に共感した。そして、ここまで読める人が、他のところであんなトンチンカンな議論を展開して悦にいるというのは、首を傾げざるを得ない。
次の章では、SFがこんなダメな作品ばかりなのは、SFがゲットー化してバカがバカのためにバカな作品を量産することでまわってるから、という罵倒が、聞くに堪えないようなひどい罵詈雑言でひたすら続くもの……と言っている間に終わりましたー。
まあこんな具合です。
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