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山形浩生の「経済のトリセツ」

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スタニスワフ・レム『SFと未来学』3章:構造主義分析は役に立たないというだけ

はじめに

はいはい、お待ちかね (ってだれも読んでないと思うけど)。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第3章「文学的創造の構造」までやってきましたよ。

この章は、章題でわかるとおり、構造主義的な分析がテーマ、なんだが、相変わらずかなりろくでもない。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

第2章では、前半では作品の分類 (SFとは、ファンタジーとは等々) をあれこれ論じた。後半になると、SFは未来学が本来やるべきように、未来についての何らかの知見をもたらすものでなくてはならない、と論じていた。なぜそうでなければならないのか? 理由なし。単なるレムの趣味だ。が、そう論じたいのであれば、それはレムの勝手だ。

cruel.hatenablog.com

で、第3章では話がどう続くんだろうか? 未来学的な知見をどう活かすかについての構造的な分析が続くんだろうか?

いいや。まったくそんな話はない。全然別の話が始まる。ここでの話は、物語を作り上げる技法であり、それにより生じる構造主義的な分析の話だ。そして……

なんとも救われないことだが、この章の結論は次の通りだ。

構造主義のあらゆる指針に従っても、同じパターン構造が、ある作品では非凡性を担い、別の作品では凡庸性を担う原因が何かについて、包括的で確実な認識を簡単に得ることはできない。(中略) 構造主義思想の裏切り者としてカミングアウトしよう——そのかわりに、SFが現在提供できるはずのサービスに関する認識を改善できるという御利益があるのだから。しかしこの裏切りの直接性を和らげてはおきたい。つまり、ある優雅さを持って、すでに検討した場所にまで後退したいのだ。

独訳書130ページを費やして、いろいろ物語の構造とかの分析して「やっぱ使えないね、ダメでした、はいじゃあ元のところに戻りますね、次、次」というだけの章。長々と読んできたあげくに「やっぱダメでした」で放り出されるのは、読者として決しておもしろいものではない。

第3章の概要

この章での主張は単純。SFというのは、既存の物語のパターンと共通性を持っているということだ。だからそれを構造主義的に考えよう。物語の構造分析をしましょう、というわけ。

そして物語を作り出すにあたっては、定番のやり方がある。既存のおとぎ話などを持ってきて、その要素を変えることで物語が作れる——たとえば竹取物語のかぐや姫は、実は宇宙人だったのだ、彼女が要求した様々なアイテム(火鼠の皮衣とか)は、彼女の属している宇宙文明のアイテムで、宇宙船を作るために必要だったのだ、ということにすればSFになる。

このやり方では物語の構造は変わらない。だが物語の構造をいじるやり方もある。地球では、人間がサルよりも賢いが、宇宙飛行士が不時着した惑星では、サルが人間より賢かった——いまの日常の常識で語られる話を逆転させれば物語となる。人間が、その自分の常識との齟齬に直面することでお話ができる。

でも、単純にやってもだめだ。かぐや姫が宇宙人でした、というのは別にその話に何も新しいものを付け加えない。形式的な置換、反転が、その物語自体の意味にも影響するようにしないと新しい知見は生まれない。サルのほうが人間より賢い話では、それがちょっとある。実は知性というのは相対的なもの、環境的なものかもしれない、という認識をもたらす可能性もあるからだ。実はそこは未来の地球だった、なんていうオチをつければ——そうだなあ、たとえば主人公が有名なランドマークの瓦礫を見つけるとかするのはどうだろう——それをさらに効果的に印象づけられる。

でもSFの多くは、それをきわめて皮相的にしかやらないので、そうした状況の改変が何も新しい知見につながらない、とレムは批判する。構造レベルの逆転が意味レベルの逆転や齟齬とからみあうことで知見を引き出すべきであり、さらにその構造や要素の変化が持つ意味については、お話の中できちんと整合させないと、そうした操作が皮相的なものになってしまう。

あと、同じ構造を持ったものでも、書き方の善し悪しは当然ある。それは構造分析では出てこない。

だから構造だけあれこれ見ていても無駄ですね。おしまい。

 

えーと、これってあまりにあたりまえすぎてつまらないのでは。次に、これってSFでなくても、すべての小説に言えることでは?ヒーロー物語の主人公を、別のものに変えてみました、これまでは汚れ役を押しつけられていたキャラにヒーロー的な要素を与えました、というような構造はある。どんな小説でも、どんなジャンルでもそれはあるだろう。

そしてこれだけのことを言うのに、なぜ130ページもかけるんだろうか? 例によって、まずはあらすじを行こう。

あらすじ:第3章 文学的創造の構造

はじめに:経験と文化

いま世界は、自然のもたらした進化的な生存戦略を否定するような科学や文化の知見が出てしまっている。合理主義、文化相対主義がこれまでの常識を覆しつつセックスと生殖の分離など本来の人間の種としての存続を否定するような動きが出てしまっている。そして科学技術発展にともない人間は完全に技術に守られた環境の中で暮らすようになり、そうした技術の発展にともないそれを管理運営する機能が専門特化してしまうがセックスを条件付けすることで仕事をさせるなどの様々な管理技術も可能になりあれやこれや。

SFはそういう重要な問題を検討して文学を活性化させるべきなのに、それができていない。むしろ反合理主義やニヒリズムに走る嘆かわしい動きさえある。[読者の心の叫び: この先続く構造分析の話とはまったく無関係! あるだけ無駄!]

3.1 SFの生成構造

SFはだいたい、次の3パターン(とそのあわせ技) でお話を構築する。

 

  • 既存の現象構造を採用しつつ、その一部を局所的および非局所的に置換する。
  • 単純および複雑な反転。その変種は収束(取り込み)。
  • 二つの対立する目的の衝突(ゲーム構造)。
  • 結合操作(例:グループに変形して、そこに上記の各種単純操作を適用)。

 

ただしこういう構造だけのおもしろさは、チェスと同じで空っぽのゲームで、その皮相的な部分はチェスの駒が木かプラスチックかみたいな話で意味がない。お話はそういう空虚なゲームを越えてその下の意味論にまで変化を生じさせないと安易なものにととまる。

バラード『結晶世界』はこうした話の構造の変換をうまくつかい、文章もいい。でもそれでやっているのは破滅翼賛、人類の滅亡翼賛であり、人間と文明を否定しているのでまったくダメ。[読者の心の叫び: 構造分析と何の関係もない、レム個人の勝手なご感想でしかないよね。]

3.2 世界構造と作品構造 I

作品の中で、作者/語り手が果たす役割について構造学者とかは重視したがる。作者が全能なときもあれば、作者/語り手も(形の上では)何も知らずに進むやり方、その中間という具合に、いろいろ手はある。でもそれは作品内でも変わるし、あまりつついても意味はない。言語についての分析みたいなのもあるが、小説での言語もそんなに一般の言語とちがうわけじゃないよ。自己言及みたいなパラドックスがあってもたいがいは文脈や慣習で判断できるもので、騒いでも仕方ない。[読者の心の叫び: 主旨はわかるけど、それがどうした?]

3.3 世界構造と作品構造 II

主題で話の構造が決まる面はある。タイムトラベルもの[読者の心の叫び: レムはこれを気取って「クロノモーション」と呼ぶが、言い換えの意味がないのでやめてほしい。] は、ハインライン「輪廻の蛇」みたいな自己完結型とか時間旅行支配する政府があるとか、それで未来が変わるとか、でも結局は似たような世界に落ち着くとか、ありがちなパターンがある。でもそれをきちんと詰めたりできずに、メロドラマからめたりすべて混乱に陥れてごまかしたりしたがるのがSF。そういうレベルの低いところで自足してるのがSFのだめなところ。

3.4 SFの構造的分類基準

いくつか軸を考えてSF作品を位置づけることができるだろう。既存の話のパラメーターを変えることでSFの物語づくりができるんだから、次のような軸ができる。

 

  • 形だけの変換のおもしろさか、意味にまで変換が影響するか
  • テーマで強く決定されているかどうか
  • 変換したパラメーターの数

 

[読者の心の叫び: でも作品を実際にこれに位置づけるわけではなく、この図はまったく使われないし参照すらされない。]

SFの実際の作品を見ると、皮相的で単一パラメーター作品ばかり、しかも主題で話がほぼ決まるワンパターンだよね。だからSFダメなんだよ。

このように、構造主義分析をすると、SFはその単純さがあらわになってダメさ加減がよくわかるという御利益はある。立派な作品はもっと複雑だ。でも、構造だけ見てもそれがいいか悪いかはわからない。構造分析はその作品の個別性をまったく無視してしまうので、クソもミソもいっしょになる。ロラン・バルトの007分析とトドロフの『危険な関係』分析では同じ構造が出てきてるじゃないか。

だから構造分析はあまり役にたたないので、ほどほどにしてこれからはテーマ別の話にしようね。

レムの相変わらずひどい書きぶり

いまのあらすじを見ていただければ、その前でやった概要が決して不当ではないことがわかるとは思う。が、実際に読んでこの概要をつかむのは、たぶんすごく大変だ。というのもその書きぶりが相変わらずひどすぎて、話がつながらずにごちゃごちゃ飛んで、何を言いたいかまるでわからないからだ。

そのひどさは、構成の面でもその内容の面でも顕著だ。構成でのひどさは、この章の冒頭「はじめに」で極度に顕著だ。

冒頭で彼は、現代文明がますます専門分化してきてテクノクラート支配が進んでいること、あと技術が発達してこれまでの生物としての基盤 (セックスなど) も変わりつつある、という話を延々と続ける。前章で未来学の話をしたので、この章でもそうした未来予測的なSFの役割について話したいのかな、とふつうは思う。

ところが、それは実はまったく関係ないのだ。この「はじめに」の最後で、彼はSFがこういうテーマをしっかり扱っていない、と批判して……それでおしまい。

そして次のところからは、SFの物語構造についての議論が延々はじまる。構造分析すると、この「はじめに」で延々述べられたSFが扱うべき現代の問題という話が出てくるんでしょうか? そんなことは全然ない。

すると、この十ページに及ぶ「はじめに」の部分は、前章からのつなぎとしても、導入部としても予告としてもまったく何の意味も持たないのだ。

普通さあ、「はじめに」というのは前の章を簡単にまとめて、それがこの章の話とどうつながるかを述べるとか、この章での問題意識は何なのかとか、この章の議論の概要とか、そんなことを書くものだよね。まったくこの章での議論と関係ない話を延々と続ける「はじめに」って何?

そういうの、やめようよ。現代社会の専門タコツボ化の弊害を論じたいなら、それは未来学的な知見でしょ? だったら前の章の最後につけるとかしようよ。もうちょっと整理しようよ。

 

またレムは、構造や概念的枠組みの話をしているのに、いきなり思いついた例の話を延々と始める。あるいは、例を細かく説明しているときに、いきなり概念的枠組みの別の話を始める。構造の話をしているときに、そこで挙げた例の具体的な中身 (しかも構造とは関係ないこと) をいちいち述べる。レム自身による『星からの帰還』の評価に興味がないわけではない (p.148)。でもそこでレムがやっているのは、そのディテール (人間の攻撃性を除去する「ベトリゼーション」) の持つ影響と、自分が話にメロドラマ性をつけたことへの後悔。そういう話は、ここではなくテーマ別の分析をやる後の章にまわしたらどうだろうか。

もう一つ、指摘しておくべきことがある。レムはこれを本当に書き殴っていて、読み返していない。それがわかるのは、この章の節以下の見出しのたてかた。

たとえば「3.3.1 状況の物語的切断:リアリズム」という見出しがある。でもこれに対応する「3.3.2」といった節はないのだ。「3.4.1 空想」も「3.4.2」とかはない。

[独訳でもこれは下位の見出しとして目次に載っているが、その節見出しの副題みたいな位置づけという好意的な解釈をしてあげることにした。それでも次のやつはどうしようもない。]

あるいは1)という項目が98ページにある。でもこれに対応する2)とか3)はない。1) はブラウンの小説についての話だから、たぶん次のニーヴンの話が2) で、それに比較されるアナトール・フランスの小説の話が3) となるはずだったんじゃないかな。あるいは、その上のところの箇条書きに対応した小見出しをつけるはずだったんじゃないか (わかりやすさの点からはそのほうがいい)。だけど全然そういうのはなし。

普通は、アウトライン書いて、それを章題や節、部分の題にしてその中身をふくらませることが多い。でもレムはそうしていない。あるいはそういう構想を持って1)と書いて、それを忘れてしまい、筆/タイプライターに流されていったわけだ。そして読み返してもいない。全体の構成を見直してもいない。たぶん「はじめに」の中身がまったくその後と関係ないのも、書きっぱなしだからでしょう。

 

レムが構成をきちんと見直していたら、まともな編集者がついて原稿を整理したら、たぶんこんなことにはならなかっただろう。でも、そうなっていないのだ。結局、何がいいたいのかわからない文章がずっとウダウダ続く。

禁欲的な価値観の押しつけ

さらに、この構造分析を行っているはずの章の分析に、レムは自分のまったく恣意的な価値判断を持ち込む。細かくはいろんなところで顔を出すんだけれど、それが特に顕著なのはバラード『結晶世界』『沈んだ世界』について述べている部分 (pp.113-5)。それが破滅や死を美化しているからダメだ、という。SFたるもの、人類の未来についてポジティブな方向性を与えなくてはならない!

……バラードの破滅三部作は、デカダンス小説の一種なんだから破滅や崩壊や死を美的に描くのは当然でしょう。それがお気に召さないのは勝手で、それはレム個人の勝手な価値判断だ。でもまずそれは、ここで論じられる物語を生み出す構造の話とは何も関係ない。そしてその破滅をどう理解するかは、読者次第ではないの? それを何かの比喩として考えて、それを人間の未来についてのポジティブな理解につなげることだってできるのでは? 「はじめに」であなたは、技術が人間を自然環境と切り離しているのが重要だと述べたよね。バラードの『結晶世界』とかも、人間と環境との関わりの話ではある。そういう理解はダメなの?

でもレムはそんなのは認めない。ぼくがレムのSF論を偏狭と述べるのは、こういうところだ。

何のための「構造分析」?

そしてこの章は何をしているか? SFのいろんなパターンをあれこれ分類してみせるだけ。既存のモチーフを置き換えたものがある。話を逆転させて (人が犬を噛んだ、みたいに) 意外性を狙うところがある。SFの構造分析をすると、そういうきわめて単純な構造に依拠するものがたくさんあるので、それが安易であることがわかる。そうした変化を導入したことで、もう少し深い意味や考察にまで踏み込める作品もある。でも、その意味への言及や書きぶりは、構造分析だけではわからない。

話としてはそれだけだ。

分類としてはありだろう。各種レビュー論文とはそういうものだったりするし。でも分類そのものが目的じゃなくて、自著として自分の主張にそれがどう奉仕するかが重要でしょ? 構造分析が題名にもある「SFと未来学」にどう関連するのか? またそのパターンはSFの場合、ふつうの小説と何かちがうのか? あるいは何かちがわねばならないのか? SFのやるべき目標を追求するにあたり、適切な構造、使うべきでない構造というのがあるのか? そういうわけでもない。

じゃあ、この章はいったい何のためにあるの? 構造分析やタイポロジーしてみました、でもあまり意味はありませんでした、というだけ。

さらにSFを構造分析したら、それが単純だということがわかった、だからSFの大半はダメでした、といった直後に、でも構造だけ見ていたら、それが意味論に踏み込んでいるかとか書きぶりの良し悪しとかはわからない、と述べる。なら、SFだって構造が単純だからダメです、なんて結論は出せないでしょう。

さらにこの章で「分析」している作品の大半は、短編だ。短編は構造も単純になるし、そんな高い志を持たないものも多い。それをたくさんあげつらって、だからSFはダメです、というのは意味あるの? 上に挙げた図では、SFとそれ以外の小説との分布のちがいが概念的にあらわされている。非SFはもっと複雑でパラメーターも多いよ、というわけ。でもこれホント? これってサンプリングエラーじゃないの? 非SF作品でも駄作をたくさん集めたらSFとそんなに変わらないと思うよ。

まあ、時代的な制約とかはあったのかもしれない。当時は構造分析とか流行っていたので、こういうふうにそれについて長々と批判コメントするのは意味があったのかもしれない。でもそうした構造主義分析批判として成立しているのはごく一部でしかない。それをやりたいならこの本の枠組み内でやるべきじゃなかったんじゃないか。

本章のあるべき構成

レムがきちんと推敲して構成を考え、論点を整理したら、本章はたぶんこんな具合になるだろう。

 

  1. 現代SFの安易さについて (いまのSFは安易な書き殴りが多く、現代の文明や人類状況に切り込むものが少ない。それを構造分析ではっきり示そう)

  2. SFの構造分析 (SFは非常に単純な置き換えや転置で構成されていることが多く、その意外性だけで成立するものが多い。構造主義分析はそれを明らかにできる! これは本章の記述の多くの部分をそのまま使えるところ)

  3. よいSF/ダメなSF:意味論と構造 (構造の変化が意味論にまで達するSFと、そうでないSFとを対比させて詳細分析)

  4. 構造分析の限界 (上の意味論的な分析は、構造主義的な分析では俎上にすらあがらず、作品のよしあしの評価には使えない。単純な構造=ダメな作品ではない。それができると称するトドロフやロラン・バルトら構造主義者どもは、実はインチキしてる)

  5. オプション;SFの目指すべきもの (バラードみたいな破滅待望はSFの目指すべきものと相反する。現代文明はすでに生物の進化発展そのものを構造的に置換させた面すらある。その文明の構造変化をSFが指摘してそれが意味論的に持つ方向性を指摘しよう!

 

こうすれば言いたいこともわかりやすくなる。ホント、レムにちゃんとした編集者さえつけば、ずっとまともな話になったと思うんだけどね……

この先

続く章は「構造主義から伝統主義へ」と題されるんだが、これまた非常に混乱した章。コードウェイナー・スミスからフィリップ・ホセ・ファーマーその他、いろんな作品が論じられるんだが、なんだかんだとこむずかしい話を弄した挙げ句に、結局何やら科学的正確さみたいなところに話が落ちてしまう。そして各種議論のほとんども、つまらないことを賢しらな用語を使って言い換えているだけ。うーん。

そしてそれに続いて「SFの社会学」というのがきて、なぜいまのSFは安易に走るのか、という話で、商業主義の粗造濫造にレベルの低いファンどもが作るファンダムが追従してそれを延命させているから、という主張になって、うーんどうしたもんかねえ。

が、それはまた続きを読んでいただきましょうか。

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