
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第7章「ロボットSF」。
前章もそうだが、何かこう体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。
冒頭、『未来のイヴ』の話がさんざん続く。ヴィリエ・ド・リラダンは、当時の技術的な範囲の中で、ハードウェアの考察も十分に展開し、そして完全に自分にベタ惚れする人間とまったく同じだが人間でない存在というものがもたらす矛盾と混乱についてもしっかり考えていた、と褒める。
それに対していまのSFは、それをまともに考えようとせず、ハードウェアのほうはいろいろ流行を取り入れて見るけれど、「人間とまったく同じ」というものがそのご主人様にどう影響を与えるか、「人間と同じ」というのがどういう意味かもまともに考えず、なんか都合のいいダッチワイフみたいな話にしてしまい、つまらんお笑いとネタに走ってテーマの可能性をまったく無駄にしているよ、との指摘。
それはロボットでなくても、電子頭脳とかの場合でも同じ。勝手なときには万能にして、一方でまったく融通の利かないアホな存在にしてしまう。自由意志もどきを与えるはずなのに、「悪いことできません」みたいな抽象的な条件つけて平気。アシモフのロボット三原則とかもまったく現実味ない。
アシモフはアイデアおもしろいのに、それを詰めないで話が面倒になるとつまらないオチで逃げて、しかも自分でそれをわかってやっている。作家たるもの、主題に真摯に向き合え! 逃げるな!
でもまあ、ダメではあってもそういう主題を扱うだけましかも。でももっと頑張ろうな。
十分に深掘りされていない、浅いところで終わっている——そういう批判はあるだろう。でもすべての話があらゆる可能性を深く掘り下げなくてはならないという妙な思い込みはなんで?
一つ一つの話は浅くても、多方面から浅い掘り下げをすることで、いろんな問題がジャンルとしては集合的に深く掘り下げられます、ということもあるのではないか、とぼくなんかは思う。フリーソフト業界で言うように「目玉が多ければどんなバグも浅はか」ってね。
だから次のような生真面目なものいいも、まったく共感できない。
なぜなら我々の見解では――芸術の伝統に倣って――文学創作者は、自分の優れた知識を敢えて隠す道徳的権利などないからである——絶対に。作品には、自分の全知性をもって奉仕しなければならないのだ。知性の一部を創作過程から排除してはならない。(p.44)
いや、ぼくはそんなこと思いませんから。勝手に「我々は」とか言って思ってもいないこと言わせないでください。そもそも多くの作家サマは「優れた知識」なんかお持ちとはとても思えんわ。それがTwitterでますますあらわになってきている。ま、だからこそ出し惜しみしてる場合じゃねえぞとは言えるかもね。
そして泰平ヨンのシリーズは、彼はこうした深いロボットや人工知能についての考察を妥協なく追求したものだと思っているらしくて、どんな話でも「おれの『泰平ヨン』ではこのテーマを見事に追求してやったぜ」というのが出てくる。うーん、そうかねえ。
というわけで、言われていること自体は、まあ別にまちがってはいないと思うけれど、そこまでドグマチックになる必要もないと思うよ。確かにあなたの言うような可能性はある。もっと探究すべきテーマも残っている。うん。でもそれを追求してないからって、ダメだ三流だクズだということにはならないでしょう。が、なんだかんだで「でもそういう問題扱うのはえらい」と褒められているので、比較的ほめているほうの章ではある。
あと、レムの守備範囲が広いのもよくわかる。アローの不可能性定理とかちゃんと押さえているのはすごいねえ。
次の章は、宇宙SF。またこういう、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ベスター『虎よ、虎よ!』のすごく長い引用とかあるみたいだなあ。
あと、表現的にイマイチぴんと来ない部分があるんだよね。
SF は、根が広く張り巡らされた樫の木から、輝く優雅な家具を作る者のようだ。それをやるには、まずすべての枝を切り払い、その切断部分に慎重にやすりをかけねばならない。文学は伝統的に別のやり方で進む。それは過度に広く広がる主題、かけ離れた問題と神秘的に絡み合ったものを恐れたりはしない。むしろそうしたすべての絡み合い、すべての複雑さを頑張って引き出そうとする。そのためにお手軽な成功を犠牲にすることも厭わないのだ。(p.51)
この文学とSFの対比、どうもSFが枝や根を払ってやすりをかけるのが、何かよくないことの比喩としてあげられているみたいなんだが、なんでそれがいけないのかさっぱりわからん。次の文学の話から考えると、枝を払ってそこにやすりをかけるというのは、面倒な部分をばっさり捨ててしまい、しかもそこにヤスリをかけてごまかしまですることである、許せーん、ということらしいんだが、輝く優雅な家具を作るためなら、それが正しい方法じゃん。なぜいけないの? 文学ははりめぐらせた枝も有効利用するよ、と言いたいようだけど、それでは家具はできないと思うので、比喩として何の対比にもなってないと思うんだけどね。

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第6章「災厄SF」。
下巻は、SFの主要テーマ別の論説となる。
ちなみに、本書の構成は変で、最初に予定されていた構造/社会/テーマというパートわけが途中でうやむやになるんだけど、わかりにくいしだらだらするので、その予定通りのパートわけをこちらで導入している。
さてこの第6章は、これまでの構造主義の話なんか一切忘れて、SFの大きなテーマの大災厄、地球滅亡の話になる。レム的にはもちろん、SFはクズばかり。ウェルズ、ステープルドンは人類の滅亡を描いてそれがもたらす様々な問題について考察して見せてえらかったけれど、その後の連中はバカばかりで、地球を破滅、人類滅亡の話をくだらないギャグのネタに使ってみたり、人類破滅なんか必要ないような安易なお話をするのに、単なるおどろおどろしさを加えるのに使っていて、嘆かわしいねえ、という話。
でもレムはそこで、なんか不思議な倫理観をみんなに押しつけようとする。なんか、おふざけで「人類滅亡しちゃいましたー」みたいなギャグは許せんのだそうな。それはやってはならないことなんだって、どうも、当時核戦争の危機が目前に迫っている状況で、それについて考察すべきこと、言うべき事がたくさんあるはずなのに、ネタに使うとは何事か、ということらしい。
そしてその後、大災厄においては人類の極限状況を描かねばならないということで、突然、サド (それとドストエフスキー) の話が延々と展開される。その分析自体は見事なんだけれど、なんでそんなものが出てくる? SFが(それも具体的にどれかわからず、レムが見かけたたった一つの作品)、そういう極限状況での道徳の転覆みたいな話を安易に扱っているのがけしからん、という話から、サドを見ろ、ドストエフスキーを見ろ、という話が出てくる。
でもさあ、そんな一作だけの話を元に「SFは〜」とでかい主語で言われてもなあ。さらに、サドやドストエフスキーに劣ると言われましても。だそうですよ、藤井さん! ドストエフスキーに勝るものを書かないとダメじゃないですか!!
そうでないと無価値の偽物のインチキのセコいショックバリューだけのくだらないウンコだそうですよ!
いやそんなこと言われてもねえ、そりゃサドやドストエフスキーには負けるだろうよ。でもさあ、だからって全否定されるべきってことにはならんだろー。
あらすじと言ってもねえ、何かこう、明確な結論に向けた、構築的な理論展開があるわけではないのだ。例によって、レムがその場の思いつきをひたすらタイプして話を発散させるだけ。だからあらすじと言っても、上で書いたこととほぼ同じ。まあ細部を少し足す感じであらすじを作ると……
昔から人類破滅や世界の終わりはあったけど、いま (=1960年代) は冷戦の核戦争の危機のため、世界滅亡がずっとリアルになってるぜ! だから世界の滅亡を描くSFがでかいツラするようになってるけど、いい気になんなよな!
みんな破滅モノSFって、まず実際の核戦争とかに到る道筋をきちんと書けないし、また各戦争後に人類が昔と同じ歴史的な道筋をたどるようなくだらん話ばっかだよな! 『博士の異常な愛情』とか『渚にて』はちょっといいとこもあるけど、凡庸だわな。
さらに人類滅亡をネタにしたギャグSFみたいなのもいっぱい出ていて、嘆かわしい。ネタにしていいような話じゃないだろ。
核戦争以外の終末ものも、くだらない。話の本質には関係なくてショックバリューを挙げるために、派手な滅亡が持ち出されるだけ。
破滅が読者を惹きつけるのは、精神分析的な説明もときどき聞かされるけど、あの手の説明ってすべて後付のインチキな疑似理論でしかなくて有害無益。
破壊テーマが人気あるのは、ある意味でサディズムの表現みたいなもので、既存秩序の破壊を喜ぶみたいな話だ。でもサドは、破壊するだけで事足れりとはしなかった。知的な文化的秩序を破壊することで人間を貶めるという、理知的な歓びをベースにした高度な話がサドだ。ドストエフスキー『地下室の手記』にもそれが見事に出ている。SFはダメね。カミュ『ペスト』の足下にも及ばないわ。
サドの分析とか、非常に鋭利で感心する……んだけれど、読み返してみても、そんなものがここに入る必然性が何も感じられない。途中に入る精神分析的な芸術理論への批判もごもっともなんだけど、ここにそれを書く必要は何もない。
確かに世界の終末を使ってもっとすごくシリアスな人類文明についての考察を行うことはできるだろう。それは大いにやってほしい。でも、そんなのを目指さない小説もある。さっきも言ったけれど、ドストエフスキーに負けてるといって、だからSFはすべて無価値です、ということにはならないのだ。志が低い、という指摘はその通りかもしれない。でもあらゆる作品が文明や人類の難問をグリグリ追求する超問題作である必要はない。サドがいいなら、サドを読めばいいのではないだろうか。でもサドとか、読んでて疲れるじゃん。
多くのSFが、同じ構造で設定を変えただけ、という指摘は正しい。でもね、だからダメとか二番煎じとかは言えない。設定変えたことで、それにより表現されるポイントが伝わりやすくなることだってある。
人類滅亡をSFのギャグねたにしてはいけないというけれど、その理屈もよくわからない。『銀河ヒッチハイクガイド』で地球はバイパス建設で一瞬でつぶされるけど、それが何か非難されるべきものだとは思わない。
ここも例によって、レムの変な生真面目というか純潔主義的な価値観が露骨に顔を出している。
ましてそれを、いま冷戦で核戦争勃発前夜だあ、ナチスのホロコーストがあったばかりだろう、それを茶化すことはまかりならぬ、みたいな議論というのは、それ自体が抑圧的なものいいじゃないの? むしろそのほうが、そのナチスその他に通じる道ではないの?
だから全体としては、確かに人類滅亡をもっとまじめに考察することはできるだろう、でもそれしかやっちゃいけないんですか? というだけの話で、このテーマについての考察として本当に意味があるんですかねえ。全体に、結局何なんですかという感じで、きちんとした理論がまとまっているとはとても言えない。レムの独善的な視点を開陳しているだけ、としか思えない。
次の章はロボットで、『未来のイヴ』の長い引用から始まっている。まあ同じような独善理論の開陳に終わるのは見えているんだが…… ま、お楽しみに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第5章「SFの社会学」。
これで『SFと未来学』上下巻の上巻は全訳完了!いやあ、よく頑張ったなあ、オレ。まともにきちんと読むやつがいるとは思えないんだけどね。
さてこの第5章、SFはクズばかりだとさんざん罵倒してきたこれまでの章を受けて、なぜそうなるのか、という話。出版社が商業主義にはしり、志の低い作家が手軽なクズを量産し、ファンどもはそれをほめそやすバカばかりで、しかも主流文学みたいな内部批評の構造がないから」というだけのことを、つまらない罵詈雑言と、現代ならキャンセル確実な差別用語まみれで何十ページもわめきたてるという、どうしようもない代物。だからAI翻訳でも面倒なところはなくて、チェックもすいすい。すばやくできました。やれやれ。なんだが……
最後にひとつ、ちょっとおもしろい論点が出てくる。それはレム自身のこれまでの罵詈雑言だのいかにも分析めいた鈍重な試みをすべて自ら否定しかねない点。でもそれを書いてしまうのが、レムのおもしろいところというかバカ正直なところというか。
中身は上に書いただけのことで、それ以上まとめるまでもないが、その書き方ときたら。こんな具合。
この「狂信者」の年次大会と米国での最高SF作品のコンテストを外部の観察者が見ると、みんながお互いをヨイショしあっている、苛立たしいほどバカな家族の集いを連想してしまうこともある。悪意ある観察者なら、これが時に、せむしとびっこしか出ない美人コンテストを思わせるとさえ言うだろう。そこには醜悪さが満ち満ちているのに、みんな精神的留保を保つことで、そのカケラすら見て見ぬふりをしているのだ。アンドレイ・キヨフスキは、L・ティルマンドの著作に捧げられた批評的エッセイで、「鼻くそ坊やの天才」および「白痴の賢者と哲学者」という用語を考案した。(中略) 高位の創造的努力は低位の領域とは独立して活動する。このような関連は芸術外の領域、つまり科学的領域でも見られる。この領域では、科学の存在――属性なしの、通常の普通の研究作業として――は頑固な擬似科学を伴う。それは「平らな地球」などの協会の存在、今日アインシュタイン理論を倒そうとする宗派、昨日なら円を四角にしたり角の三等分に取り組んだりした連中などにあらわれている。実際、芸術的・認識論的に本物の価値を作成する精神的能力はないのに、偶然ある程度の才能――必ずしも狂気的ではない――で目立つ人々がいる。彼らは本物の宇宙論、物理学、哲学、または文学を営めないため、お手軽な手の届く代理物と片手間の創作で、自分の創造的不安を解消するのだ。(p.179、強調引用者)
で、SFは完全なゲットーを作って内輪だけでヨイショしあってる閉鎖的な集団で、すべてが安きに流れている、という話。他の分野だってそうなんじゃないですか? それにあんた、なぜ主流文学ばかりを引き合いに出すんです? 推理小説、ウェスタン小説、ロマンス小説、そうした分野との比較はないの? ないんだよね。それははからずしも、レム自身のコンプレックスの露呈でもある。
さらにもう罵倒をひたすら重ねたいだけで、SFは疑似科学寸前だといってキャンベルのサイオニクスやヴァン・ヴォークトの支持するハバードのダイアネティクスの妄言を持ち出して見せる。そしてマーチン・ガードナーの疑似科学批判を、SF批判に我田引水。
そして、非SFの評論家がSFについて理解しようとした、なかなかよい文章がある。グリーン「科学と感性」という論説で、理系と文系では世界のとらえかたがちがうよね、という話をして、SFは理系的なとらえかたをして、個人よりも人類全体みたいな単位で話をしたがるのだ、と指摘。SFに対する主流文学読者の拒否感は、そのキャラが平板でパターン化されている点が大きいけれど、それはまさにSFのやろうとしているところから出ている話で、いずれそうした感性が文学にも新しい方向性をもたらすかも、というものだ。おおむね、うなずける話ではある。(pp.180-1)
ところがレムはそれに噛みつく。キャラが立ってるとか古くさいこと言ってる、いまの文学はそんなんじゃねえんだ、そんなことも知らないのか、ボルヘスを見よ、カフカはどうだ、そんなピントはずれの擁護しなきゃならんとは嘆かわしいぜ、しかも理系はSFっぽいのがいいというなら、理系は文学鑑賞能力がないってことか、ふざけんなと。
だれもそんなこと言ってないよ、大きな傾向の話をしてるんじゃん。キャラについてだって、あんたこれまでヴァン・ヴォークトの登場人物は科学者も警官もまるで同じだとかケチつけてただろうに。目先の相手に噛みつくためなら、自分の主張の整合性までつぶしちゃうって、ADHDの典型だよな、レムは。
SFは1970年代とかは強い文学コンプレックスがあって、本章で批判されてるみたいな「SFは未来の文学だ!」みたいな、変な強がりはあった。『ユリイカ』だの『カイエ』だのがSF特集すると「おれたちもそろそろ認められたぜ」みたいな雰囲気が漂ったりはしたらしい。また酸っぱいブドウで、「お高くとまった文学なんざもう古いぜ、SFこそ大衆の文学なんだ」みたいなことを言う人もいた。大学SF研まわりでも「わーれらが/国民の文学SFは〜」みたいな歌を先輩たちが歌っていた。そういう時代なら、こういう文章も響く面はあったのかもしれない。そしてそういうコンプレックスがあればこそ、『ニュー・ワールズ』のニューウェーブSFという運動も出てきたわけだ。
ちなみに、この本でレムが言っていることは、山野浩一がNW-SFで書いているようなSF批判とまったく同じ。それはそれで懐かしいものではあった。
でもなあ。もうそれから50年近くたった今となっては、あんた何言ってるの、という感じのほうが強い。そしてそれが、SFが上手くなってきたこと以上に、レムがこの文章でやたらに評価している、商業主義に毒されずきちんとした批評機能が機能して適切な選別が行われているはずの、主流文学の凋落で起きたというのは、たぶんレムが予想だにしなかったことだとは思う。
が……本章には、ちょっとおもしろいところが一つある。以下の部分だ。
しかしヴァン・ヴォークトは優れた物語もいろいろ、特に短編を多く書いている。それに加え、すでに言及した『宇宙船ビーグル号の冒険』のような長編は、魅惑的な断片を含む。だがその理由はずばり何だろうか? (中略) この作家は時々インスピレーションのひらめきを持っていて、それによって最も奇妙な組み合わせの混合物に生命を吹き込み、読者を架空世界へと連れて行けるのだ。ここで本書の理論のかなり微妙な点に触れることになる。一部の作者は、素晴らしい技術の押しつけがましい山だの、怪物、銀河戦争で用いられた原子爆弾とロケットを大量に並べ立てるが、退屈しか生み出せない。だが一部の作者は、表面的に非常に似たガラクタを結合し、そこから示唆的なビジョンを構築するのだ。これは――すでに述べたように――理論にとって難しい点である。なぜなら、二つのこのようなテキストの違いがどこにあるか、誰も知らないからである。構造主義のメスを使えば、本質的な区別を摘出できたように見せかけることはできるが、それでは方法的誠実さを小手先のごまかしで置き換えただけになってしまう。なぜなら、このようなテキスト間に一般的な違いはないからである。(p.188, 強調ママ)
あんだけ悪口を並べておいて、レムはヴァン・ヴォークトの小説がおもしろいし、なんか不思議な魅力があることを認めざるを得ない。そしてそれが、これまでの「分析」なるものでまったくとらえられないことを認めざるを得ない。
ここでカート・ヴォネガット『タイタンの妖女』の内容を正確に再現したら、A・ベスターの『虎よ、虎よ!』と筋書きでは似たものになり、どちらもつまらない話に見えるだろう。しかし、ベスターの小説は、スペースオペラの一種という点では『タイタンの妖女』と親縁性を持つが、魅力的である。一方『タイタンの妖女』はかなり退屈な読み物だ。『タイタンの妖女』の作者は、知性の面ではベスターを上回る可能性すらある。才能が知性の支援なしでも文学で時々感動を生むことはあるが、才能のない知性は文学作品においては、残念ながら読者をうんざりさせるだけだ。しかし「才能」と呼ばれる奇妙な存在に頼るのは不適切だ。なぜならすでに恐ろしく研ぎ澄まされた構造主義の道具があるのだから。しかし、どうすればいいのか? メスがどれほど鋭くても、凡庸なテキストと優れたテキストの秘密の違いは捕らえられない。すると残るのは、恥ずかしい印象批評だけとなってしまう。それは通常は理性的な論理に基づくものではなく、読者の言質に基づくしかないのだ。ヴァン・ヴォークトも、時々読者に魔法をかける作者に属するのだ。(pp.188-9, 強調ママ)
ベスターについても同じ評価。彼の書きぶりは魅力的だ。それはどんな分析でもとらえられない。もちろん、あんた『タイタンの妖女』のおもしろさがわかんないのか、というのはおいておこう。そしてこれに続いて、魔法にかけられた読者についての嫌味があれこれ並ぶのは、悔し紛れのアレだ。それでも、彼はそういう魅力があることを知っている。うん、レムくん、わかってんじゃん。

これはほぼ、レムの敗北宣言ではある。500ページもある本の最後の最後で、ちょろっとこういう敗北宣言でお茶をにごすのはどうよ、とは思う一方で、それをわざわざ書いてしまうというのは、レムのADHDっぽさではある。SFがジャンルとして、下手な小説ばかりでも成立しているのは、そうした変な魅力を引き出しやすい面があるから、というのは否定できないことだとは思う。それが何なのかはわからないんだけれどね。
ちなみにその昔、以下のインタビューを川又千秋が読んで、どこかに感想文をのせていた。
見つけた。川又千秋「スタニスワフ・レムの冒険」(レム『宇宙飛行士ピルクス物語』(1980)解説)『夢意識の時代』(中央公論社、1987) pp.156-7 だ。
川又が注目したのは、この中の「スター・ウォーズ」に関する部分。例によってレムは、幼稚だウェスタンだ可能性が全部つぶれてるろくでもないくだらないと全否定の罵倒をしている。でも……
それでも彼は、「スター・ウォーズ」を二回も見たのだ、というところを川又は採りあげていた。この罵倒のドグマ性と、それに抗おうとするSFの指向との間でレムが板挟みになっていることを川又は述べている。二回も見たのはその矛盾と折り合いをつけるためだった、と川又は匂わせる。
だけれどそれ以上に、二回も見たことをもっとストレートに捕らえてもいいだろう。レムは「スター・ウォーズ」の魅力に何かしら反応しているのだ。やっぱなんだかんだでおもしろいのよ、あれは。
そしてその反応は、ここでヴァン・ヴォークトやベスターに反応しているのと同じ部分においてだ。でも、それを表立って認められないのか、理論化できないのに苛立っているのか、全否定して見せなくてはならない。それを、レムのストイックな部分と見るか、頭でっかちのやせ我慢の強がりとみるか (いやこの二つは同じことか)。
おしいねえ。それを「理論化できない」と投げ捨てるのではなく、もうちょっと大事にする手もあったのでは、とは思わなくもない。そうしたら本書も、もう少し広がりが出てこんな無惨に価値を失うこともなかったのではないかな……
まあこれは後知恵もいいところの、岡目八目ではある。
で、これで上巻は終わり。下巻は……やんのぉ? まあ乗りかかった船ではある。そしてこの最後の、なんだかわからないけど生まれる魅力、という気づきが、今後の分析で多少なりとも活きてくるのか、というのは興味あるところなので、ぼちぼちやっては行こう。
ついでに、本書下巻の最後の章は「メタファンタジア」なる邦題で翻訳がある
そこに訳者がつけた解説が、いつもながら何言ってるか意味不明の要領を得ないものだったし、これまでの流れから見ると、たぶん実際の文章もかなりこけおどしで、大したこと言ってないと思う。それも一応確認したいところではあるので、一応はやるでしょう。しかしなあ。
でも下巻の大半は、テーマ別分析となる。たぶんどれもすべて「この作品は十分に考察がない、未来の宗教やセックスについて突き詰めて考えていない、安易だバカだくずだ」という罵倒が並ぶのはだいたいみえてるんだよねー。まあいいか。

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第4章「構造主義から伝統主義へ」。
前章では、構造主義は役にたたない、という結論になった。この章の冒頭では、作品の中に見られるいろんな対立構造とかを増やしても作品の本質には迫れない、という話が繰り返される。作品の意味を見なくてはならないんだって。
オッケー。で?
これまでのところは、まず全体の概要を説明してから、細かい要約をしていった。でもこの章は短いので、それができない。だからいきなり中身を順番に解説していこう。
まず、作品の意味を最大限に理解するためには、それがどんな作品か、何を指しているのかについて読者は判断しなくてはならない。文中で「意味論的アドレス」なるものがやたらに出てくるのはそういうところだ。
これはどういうことか? その作品が、おとぎ話なのか、寓話なのか、比喩なのか、アイロニーなのか、リアリズムなのかについて読者が判断しなくてはならないということだ。そして、それはそこで採用されているお話の構造から判断するのだ、というようなことをレムは、非常に要領を得ない形で述べる。カフカ「変身」を文字通りの昆虫人間の話だと思うのは「テキストの意味の社会的に安定した構造から見て馬鹿げている」(p.155) とのこと。
まあそういう判断はするかもしれないねえ。で?
で、使っている構造的パターンと作品との間には、3種類の関係があるんだって。「作品の誕生に立会った構造的パターンと作品自身との間には、三種類の関係があり得る」(p.156)
ただしレムの言っているのがこの三つだということは、普通に読んでいたら決してわからない。この2つめのパターンの例としてコードウェイナー・スミスについて延々と書いているうちに、レムは自分が何を書いているか忘れて、話がどんどん流れてしまい、いつまでたっても三つ目が出てこないのだ。
話は構造と関係ない方向に進む。コードウェイナー・スミス「シェイヨルという名の星」では狼の脳を宿した番犬ロボットが出てくる、という本筋とは関係ないエピソードについて、これはおとぎ話的な狼のイメージをロボットという科学的な装いに接ぎ木しようとする意味論的なアレコレなんだ、という話が続き、自分もそれを『ロボット物語』でやってそれによりユーモアの効果が得られ云々、という自慢がまた5ページ続く。
8ページにわたり、全然関係ない脱線をしたところで、話はやっと構造に戻ってくる。お話作りで、その下敷きになった構造/パターンが透けて見えると興ざめなので、自分が引用拝借しているのを公言してパロディ化してみせたほうがいいね、だからオールディスの作品は下手で自分の作品はえらいんだ、とのこと。そしてようやく、三つ目の、自律的世界/パターン構築にやってくる (p.164)。でもこの頃には、これが「3種類の関係があり得る」の一つだ、なんてことは読者はすっかり忘れている。ぼくも後から三つ目はどこにあるのか探そうとしてやっと見つけ出したくらい。
自律的世界の構築は、自律的世界なのでこの世界とは独立に存在し、したがってこの世界に対する意味は持たない。だからその世界自体が整合性を持っているかどうか、正確かどうかで判断される。その例としてファーマー『恋人たち』がある。人間女性に擬態して人間男の精子をもらい子供を残す異星人を描いているが、そんな進化はナンセンスであり得ないので、まったくダメダメの笑止千万。
自分も『泰平ヨン』で変な進化を描いたけれど、あれは明らかな戯画化だからいいのだ。
ただしジェイムズ・ブリッシュ「我らが時球」(This Earth of Hours) はうまく書けている (p.170)。地球人が不時着した星は、イモムシ星人たちが住んでいるが、そのイモムシ全員がテレパシーでつながり一つの知性体となっていて、人間の脳はがんのような異常物とされているという話。これは話が風刺的な雰囲気を持っているから、科学的な正確さは問題にしてはいけない。余計な説明文をあまり書かなかったことで作り物めいた感じも薄れている。
ディレーニ『バベル17』(p.171)はこれに対し、地球が戦っている敵がだれで何を求めているか説明がなく、地球の状況について詳しい説明がないため、文明批評の役割を果たさず、言語兵器バベル17が精神操作手法への洞察にもなっていないので、扇情的なスパイ小説でしかない。異世界ものはこの世界とは関係を持たないので意義を出しにくい。
例外がSF自身の内部構造に向けられた批評 (p.173)[読者の心の叫び: ここ、話の流れがまったく見えない。何の例外なんだ?]。その例としてベスター「The Starcomber」がある。[読者の心の叫び: これも延々と引用されているけれど何を示したいのか不明。狂った画家が異世界転生的な夢を次々に見るが最後には自分で自分の道を選び取らねばと悟る、という小説だが引用部分ではそれがまるでわからない]。SFは人々を本当の未来に直面させるより、願望充足的なおとぎ話に堕する方が多い。次章ではなぜそんなふうになってしまったかを分析する。
(ベスター作品は珍しく未訳。以下で読める。
https://nyc3.digitaloceanspaces.com/sffaudio-usa/mp3s/5271009ByAlfredBester.pdf
例によって本章の書きぶりもやたらに要領を得ない。話はあっちとび、こっちとび、まったく構成も考えられていない。そしてすべて「〜でなければならない」と、理由も示さない断定ばかり。でもほとんどは、それはあんたが思ってるだけでしょ、としか思えない。
本章でおおざっぱに提示されている「正しい」読み方は以下の通り。
1 既存構造を拝借して隠しているか?
2 拝借してそれを公然と顕示し、パロディ化しているか?
3 新しい構造を作ろうとしているか?
そんなふうに検討をすべきだ、というのがこの章の主張らしきものとなる。が……
まず途中の、既存構造パターンを使っているかどうかの部分。使っていたらどうなの? 何かそれを拝借するときには、それを隠すのはだめでそれを公然と述べてむしろパロディ化するくらいでないとダメだという。どうして?
これは一切説明されていない。
オールディス「確信」は既存構造パターンを使っているのを隠そうとしたからダメだ、という( p.164)。でも具体的にどんなパターンを使っているのかは示されない。読んでも、どこを問題にしているのかわからない。レムは、その設定——人類の運命をハッタリに賭けようとするというもの——が荒唐無稽だと非難する。でもそれは構造パターンを隠しているためなの? それが拝借した構造パターンって何? まったくわからない。ジェームズ・ボンドがイギリスの運命を賭けて悪党とポーカーするみたいな話のこと? 自分の泰平ヨン作品はそれをパロディ化したからすごいんだと言うけど、オールディスのものとはずいぶんお話の構造がちがうように思うし、何を言いたいのかわからない。
構造だって色々だ。主人公が敵を倒しました。これは一つのパターンだ。でも五人組の戦隊ヒーローが敵を倒しました——これは既存構造パターンなの、新しいパターンなの? それはどういう粒度で話をするか次第ではないの? 物語のパターンなんてだいたいすでに出尽くしているとも言われる。そのパターンを「隠す」って具体的にどういうこと? 「あたし、このパターン使いますからねー!」と宣伝しなきゃいけないってこと? オールディスだって別に隠してるわけじゃない。いちいち宣言しなかっただけだ。
一方、コードウェイナー・スミスは「酔いどれ船」ではっきりランボーを参照しているから、パターンを公言しているんだという。でもさ、ほとんどの人は「酔いどれ船」なんか読んでない。「シェイヨルという名の星」はダンテ『地獄編』を参照しているというけど、スミスがそれを明記したのは短編集の収録するときの序文での話だ。作品自体に「これ、ダンテのパクリですんで」なんてことは書いてない。本当に参照した構造パターンを公言していると言えるんですか?
コードウェイナー・スミスはおもしろいんで読んでね。
そして構造を拝借しましたと宣言すればそれでいいわけ? 別にそれだけでいい作品になるわけないよね。じゃあ、構造を見ることに何の意味があるの? レムはコードウェイナー・スミスをやたらに誉める。既存構造に何か審美的な要素を詰め込んでいるからいいんだって。でも前の章で、バラードは審美的に構築しているけど死と破滅を美化しているからダメと言ったよね。審美的ならいいってわけじゃなかったんでしょ。それはここでは問題にしないの? そしてスミスはSFじゃなくてファンタジーだから科学的厳密さは追求しなくていいようなごまかしをする。なぜ? その理由はまったく書かれない。
冒頭の、作品の性質を読みとって解釈すべきだ、カフカを文字通りの昆虫人間の話と読んではいけないという話も、わからないではない。でも、それってよく考えると、そんな簡単な話だろうか。その作品が風刺か寓話か皮肉か——それってそんなカッチリ読み取れるものなの? それを教えてくれるのが、ブリッシュ作品についてのレムの妙な絶賛だ。
レムはブリッシュ「我らが時球」については、そこに風刺的な調子があるから科学的正確さを問題にしなくていいんだ、と述べる。が……この小説、実際に読んでみると、ぼくは別に風刺的な調子はうかがえない。異星に落ちた軍人たちが、惑星全体で一つの知性体を構成する生き物と出会って戸惑う話で、話としてはそれっきり、特にオチもなく書き殴られただけに思える。大した作品じゃない。言っちゃ悪いが、ブリッシュなんてそんな高度なアイロニーだの皮肉だのをちりばめたお話なんか書く作家じゃないよ。
ここにあるから、興味ある人は読んでほしい。
https://s3.us-west-1.wasabisys.com/luminist/EB/B/Blish%20-%20Galactic%20Cluster.pdf
もちろん、ぼくの読みが正しいとは限らないけれど、いったいレムはこれが何を風刺していると思うんだろうか?
ぼくは意地が悪いので、これについては別の勘ぐりをしてしまう。無数のイモムシたちが完全にテレパシーでつながりあい、惑星全体で一つの、人間の理解できないまったく異質の知性を形成し、人間がそれに出会って戸惑う——これって何か連想しない? これ『ソラリス』だよねえ。
レムはこれを見た瞬間、「ソラリス」と同じだと思って親近感を感じたんじゃないの? そして、それを科学的に詰めようとしたら、「ソラリス」についてもきちんと「科学的」に詰めないといけなくなるよねえ。それを直感的に避けようとして、ありもしない「風刺」を後付でそこに読み取って、「いやこれは科学的に考察しなくていいんだ」と逃げたんじゃないの? まあこれは邪推だけれどね。
ただ、何かが風刺かとか寓話か、というのは読む人によっても変わるというのはまちがいないところ。レムはそれを「社会的に安定した構造」に基づいて判断しろというけど、その作品がどんなふうに社会的に理解されているかなんて、どこを見ればわかるといふのかしら? 「構造パターンの拝借」も、その拝借されたオリジナルのパターンを知らない人にとっては意味があるだろうか?

一方、彼はファーマー『恋人たち』やディレーニ『バベル17』にはえらく手厳しい。あれが書いてない、ここが不正確、これが妥当性を欠くといって。でも『恋人たち』『バベル17』に、多少なりとも寓意や風刺を読んではいけませんか? 風刺とか寓話とか、そんなはっきりわかれるものですか? 多少の風刺をこめたリアリズムだってあり得るんじゃないの? リアリズムだって、どのレベルを描きたいかで描写はかわる。完全な整合性なんかあり得ないってご自分でもおっしゃってるじゃありませんか。
リアリズムだって、『恋人たち』は変な進化を遂げた昆虫生物の話を通じて、地球上にいる変な寄生生物の可能性を指摘している面だってあるのでは?「バベル17」は言語と人間行動の関係に思いをはせるきっかけとなることだってできる。荒俣宏は名著『理科系の文学誌』で、そこに描き出される言語の世界の広がりを実に楽しく教えてくれた。心を閉ざして読めば、なんだってこの世とは関係なくなる。まったく異世界を描いているから、それ自体で完結してあらゆる面で整合してなきゃいけない、というのは、レム自身が非常に狭く作品を捕らえて、それに対して自分の偏狭な基準を押しつけているだけ、ですよね。ほんと、『ソラリス』にこの基準を適用してみせてよ。全否定になると思うなあ。
ということで、ぼくはここでのレムの主張にほぼ説得力を感じなかった。全部、後付のためにする罵倒ではありませんか。コードウェイナー・スミスの絶賛は、驚いたけれど非常に共感した。そして、ここまで読める人が、他のところであんなトンチンカンな議論を展開して悦にいるというのは、首を傾げざるを得ない。
次の章では、SFがこんなダメな作品ばかりなのは、SFがゲットー化してバカがバカのためにバカな作品を量産することでまわってるから、という罵倒が、聞くに堪えないようなひどい罵詈雑言でひたすら続くもの……と言っている間に終わりましたー。
まあこんな具合です。

はいはい、お待ちかね (ってだれも読んでないと思うけど)。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第3章「文学的創造の構造」までやってきましたよ。
この章は、章題でわかるとおり、構造主義的な分析がテーマ、なんだが、相変わらずかなりろくでもない。
第2章では、前半では作品の分類 (SFとは、ファンタジーとは等々) をあれこれ論じた。後半になると、SFは未来学が本来やるべきように、未来についての何らかの知見をもたらすものでなくてはならない、と論じていた。なぜそうでなければならないのか? 理由なし。単なるレムの趣味だ。が、そう論じたいのであれば、それはレムの勝手だ。
で、第3章では話がどう続くんだろうか? 未来学的な知見をどう活かすかについての構造的な分析が続くんだろうか?
いいや。まったくそんな話はない。全然別の話が始まる。ここでの話は、物語を作り上げる技法であり、それにより生じる構造主義的な分析の話だ。そして……
なんとも救われないことだが、この章の結論は次の通りだ。
構造主義のあらゆる指針に従っても、同じパターン構造が、ある作品では非凡性を担い、別の作品では凡庸性を担う原因が何かについて、包括的で確実な認識を簡単に得ることはできない。(中略) 構造主義思想の裏切り者としてカミングアウトしよう——そのかわりに、SFが現在提供できるはずのサービスに関する認識を改善できるという御利益があるのだから。しかしこの裏切りの直接性を和らげてはおきたい。つまり、ある優雅さを持って、すでに検討した場所にまで後退したいのだ。
独訳書130ページを費やして、いろいろ物語の構造とかの分析して「やっぱ使えないね、ダメでした、はいじゃあ元のところに戻りますね、次、次」というだけの章。長々と読んできたあげくに「やっぱダメでした」で放り出されるのは、読者として決しておもしろいものではない。
この章での主張は単純。SFというのは、既存の物語のパターンと共通性を持っているということだ。だからそれを構造主義的に考えよう。物語の構造分析をしましょう、というわけ。
そして物語を作り出すにあたっては、定番のやり方がある。既存のおとぎ話などを持ってきて、その要素を変えることで物語が作れる——たとえば竹取物語のかぐや姫は、実は宇宙人だったのだ、彼女が要求した様々なアイテム(火鼠の皮衣とか)は、彼女の属している宇宙文明のアイテムで、宇宙船を作るために必要だったのだ、ということにすればSFになる。
このやり方では物語の構造は変わらない。だが物語の構造をいじるやり方もある。地球では、人間がサルよりも賢いが、宇宙飛行士が不時着した惑星では、サルが人間より賢かった——いまの日常の常識で語られる話を逆転させれば物語となる。人間が、その自分の常識との齟齬に直面することでお話ができる。

でも、単純にやってもだめだ。かぐや姫が宇宙人でした、というのは別にその話に何も新しいものを付け加えない。形式的な置換、反転が、その物語自体の意味にも影響するようにしないと新しい知見は生まれない。サルのほうが人間より賢い話では、それがちょっとある。実は知性というのは相対的なもの、環境的なものかもしれない、という認識をもたらす可能性もあるからだ。実はそこは未来の地球だった、なんていうオチをつければ——そうだなあ、たとえば主人公が有名なランドマークの瓦礫を見つけるとかするのはどうだろう——それをさらに効果的に印象づけられる。
でもSFの多くは、それをきわめて皮相的にしかやらないので、そうした状況の改変が何も新しい知見につながらない、とレムは批判する。構造レベルの逆転が意味レベルの逆転や齟齬とからみあうことで知見を引き出すべきであり、さらにその構造や要素の変化が持つ意味については、お話の中できちんと整合させないと、そうした操作が皮相的なものになってしまう。
あと、同じ構造を持ったものでも、書き方の善し悪しは当然ある。それは構造分析では出てこない。
だから構造だけあれこれ見ていても無駄ですね。おしまい。
えーと、これってあまりにあたりまえすぎてつまらないのでは。次に、これってSFでなくても、すべての小説に言えることでは?ヒーロー物語の主人公を、別のものに変えてみました、これまでは汚れ役を押しつけられていたキャラにヒーロー的な要素を与えました、というような構造はある。どんな小説でも、どんなジャンルでもそれはあるだろう。
そしてこれだけのことを言うのに、なぜ130ページもかけるんだろうか? 例によって、まずはあらすじを行こう。
いま世界は、自然のもたらした進化的な生存戦略を否定するような科学や文化の知見が出てしまっている。合理主義、文化相対主義がこれまでの常識を覆しつつセックスと生殖の分離など本来の人間の種としての存続を否定するような動きが出てしまっている。そして科学技術発展にともない人間は完全に技術に守られた環境の中で暮らすようになり、そうした技術の発展にともないそれを管理運営する機能が専門特化してしまうがセックスを条件付けすることで仕事をさせるなどの様々な管理技術も可能になりあれやこれや。
SFはそういう重要な問題を検討して文学を活性化させるべきなのに、それができていない。むしろ反合理主義やニヒリズムに走る嘆かわしい動きさえある。[読者の心の叫び: この先続く構造分析の話とはまったく無関係! あるだけ無駄!]
SFはだいたい、次の3パターン(とそのあわせ技) でお話を構築する。
ただしこういう構造だけのおもしろさは、チェスと同じで空っぽのゲームで、その皮相的な部分はチェスの駒が木かプラスチックかみたいな話で意味がない。お話はそういう空虚なゲームを越えてその下の意味論にまで変化を生じさせないと安易なものにととまる。
バラード『結晶世界』はこうした話の構造の変換をうまくつかい、文章もいい。でもそれでやっているのは破滅翼賛、人類の滅亡翼賛であり、人間と文明を否定しているのでまったくダメ。[読者の心の叫び: 構造分析と何の関係もない、レム個人の勝手なご感想でしかないよね。]
作品の中で、作者/語り手が果たす役割について構造学者とかは重視したがる。作者が全能なときもあれば、作者/語り手も(形の上では)何も知らずに進むやり方、その中間という具合に、いろいろ手はある。でもそれは作品内でも変わるし、あまりつついても意味はない。言語についての分析みたいなのもあるが、小説での言語もそんなに一般の言語とちがうわけじゃないよ。自己言及みたいなパラドックスがあってもたいがいは文脈や慣習で判断できるもので、騒いでも仕方ない。[読者の心の叫び: 主旨はわかるけど、それがどうした?]
主題で話の構造が決まる面はある。タイムトラベルもの[読者の心の叫び: レムはこれを気取って「クロノモーション」と呼ぶが、言い換えの意味がないのでやめてほしい。] は、ハインライン「輪廻の蛇」みたいな自己完結型とか時間旅行支配する政府があるとか、それで未来が変わるとか、でも結局は似たような世界に落ち着くとか、ありがちなパターンがある。でもそれをきちんと詰めたりできずに、メロドラマからめたりすべて混乱に陥れてごまかしたりしたがるのがSF。そういうレベルの低いところで自足してるのがSFのだめなところ。
いくつか軸を考えてSF作品を位置づけることができるだろう。既存の話のパラメーターを変えることでSFの物語づくりができるんだから、次のような軸ができる。

[読者の心の叫び: でも作品を実際にこれに位置づけるわけではなく、この図はまったく使われないし参照すらされない。]
SFの実際の作品を見ると、皮相的で単一パラメーター作品ばかり、しかも主題で話がほぼ決まるワンパターンだよね。だからSFダメなんだよ。
このように、構造主義分析をすると、SFはその単純さがあらわになってダメさ加減がよくわかるという御利益はある。立派な作品はもっと複雑だ。でも、構造だけ見てもそれがいいか悪いかはわからない。構造分析はその作品の個別性をまったく無視してしまうので、クソもミソもいっしょになる。ロラン・バルトの007分析とトドロフの『危険な関係』分析では同じ構造が出てきてるじゃないか。
だから構造分析はあまり役にたたないので、ほどほどにしてこれからはテーマ別の話にしようね。
いまのあらすじを見ていただければ、その前でやった概要が決して不当ではないことがわかるとは思う。が、実際に読んでこの概要をつかむのは、たぶんすごく大変だ。というのもその書きぶりが相変わらずひどすぎて、話がつながらずにごちゃごちゃ飛んで、何を言いたいかまるでわからないからだ。
そのひどさは、構成の面でもその内容の面でも顕著だ。構成でのひどさは、この章の冒頭「はじめに」で極度に顕著だ。
冒頭で彼は、現代文明がますます専門分化してきてテクノクラート支配が進んでいること、あと技術が発達してこれまでの生物としての基盤 (セックスなど) も変わりつつある、という話を延々と続ける。前章で未来学の話をしたので、この章でもそうした未来予測的なSFの役割について話したいのかな、とふつうは思う。
ところが、それは実はまったく関係ないのだ。この「はじめに」の最後で、彼はSFがこういうテーマをしっかり扱っていない、と批判して……それでおしまい。
そして次のところからは、SFの物語構造についての議論が延々はじまる。構造分析すると、この「はじめに」で延々述べられたSFが扱うべき現代の問題という話が出てくるんでしょうか? そんなことは全然ない。
すると、この十ページに及ぶ「はじめに」の部分は、前章からのつなぎとしても、導入部としても予告としてもまったく何の意味も持たないのだ。
普通さあ、「はじめに」というのは前の章を簡単にまとめて、それがこの章の話とどうつながるかを述べるとか、この章での問題意識は何なのかとか、この章の議論の概要とか、そんなことを書くものだよね。まったくこの章での議論と関係ない話を延々と続ける「はじめに」って何?
そういうの、やめようよ。現代社会の専門タコツボ化の弊害を論じたいなら、それは未来学的な知見でしょ? だったら前の章の最後につけるとかしようよ。もうちょっと整理しようよ。
またレムは、構造や概念的枠組みの話をしているのに、いきなり思いついた例の話を延々と始める。あるいは、例を細かく説明しているときに、いきなり概念的枠組みの別の話を始める。構造の話をしているときに、そこで挙げた例の具体的な中身 (しかも構造とは関係ないこと) をいちいち述べる。レム自身による『星からの帰還』の評価に興味がないわけではない (p.148)。でもそこでレムがやっているのは、そのディテール (人間の攻撃性を除去する「ベトリゼーション」) の持つ影響と、自分が話にメロドラマ性をつけたことへの後悔。そういう話は、ここではなくテーマ別の分析をやる後の章にまわしたらどうだろうか。
もう一つ、指摘しておくべきことがある。レムはこれを本当に書き殴っていて、読み返していない。それがわかるのは、この章の節以下の見出しのたてかた。
たとえば「3.3.1 状況の物語的切断:リアリズム」という見出しがある。でもこれに対応する「3.3.2」といった節はないのだ。「3.4.1 空想」も「3.4.2」とかはない。
[独訳でもこれは下位の見出しとして目次に載っているが、その節見出しの副題みたいな位置づけという好意的な解釈をしてあげることにした。それでも次のやつはどうしようもない。]
あるいは1)という項目が98ページにある。でもこれに対応する2)とか3)はない。1) はブラウンの小説についての話だから、たぶん次のニーヴンの話が2) で、それに比較されるアナトール・フランスの小説の話が3) となるはずだったんじゃないかな。あるいは、その上のところの箇条書きに対応した小見出しをつけるはずだったんじゃないか (わかりやすさの点からはそのほうがいい)。だけど全然そういうのはなし。
普通は、アウトライン書いて、それを章題や節、部分の題にしてその中身をふくらませることが多い。でもレムはそうしていない。あるいはそういう構想を持って1)と書いて、それを忘れてしまい、筆/タイプライターに流されていったわけだ。そして読み返してもいない。全体の構成を見直してもいない。たぶん「はじめに」の中身がまったくその後と関係ないのも、書きっぱなしだからでしょう。
レムが構成をきちんと見直していたら、まともな編集者がついて原稿を整理したら、たぶんこんなことにはならなかっただろう。でも、そうなっていないのだ。結局、何がいいたいのかわからない文章がずっとウダウダ続く。
さらに、この構造分析を行っているはずの章の分析に、レムは自分のまったく恣意的な価値判断を持ち込む。細かくはいろんなところで顔を出すんだけれど、それが特に顕著なのはバラード『結晶世界』『沈んだ世界』について述べている部分 (pp.113-5)。それが破滅や死を美化しているからダメだ、という。SFたるもの、人類の未来についてポジティブな方向性を与えなくてはならない!
……バラードの破滅三部作は、デカダンス小説の一種なんだから破滅や崩壊や死を美的に描くのは当然でしょう。それがお気に召さないのは勝手で、それはレム個人の勝手な価値判断だ。でもまずそれは、ここで論じられる物語を生み出す構造の話とは何も関係ない。そしてその破滅をどう理解するかは、読者次第ではないの? それを何かの比喩として考えて、それを人間の未来についてのポジティブな理解につなげることだってできるのでは? 「はじめに」であなたは、技術が人間を自然環境と切り離しているのが重要だと述べたよね。バラードの『結晶世界』とかも、人間と環境との関わりの話ではある。そういう理解はダメなの?
でもレムはそんなのは認めない。ぼくがレムのSF論を偏狭と述べるのは、こういうところだ。
そしてこの章は何をしているか? SFのいろんなパターンをあれこれ分類してみせるだけ。既存のモチーフを置き換えたものがある。話を逆転させて (人が犬を噛んだ、みたいに) 意外性を狙うところがある。SFの構造分析をすると、そういうきわめて単純な構造に依拠するものがたくさんあるので、それが安易であることがわかる。そうした変化を導入したことで、もう少し深い意味や考察にまで踏み込める作品もある。でも、その意味への言及や書きぶりは、構造分析だけではわからない。
話としてはそれだけだ。
分類としてはありだろう。各種レビュー論文とはそういうものだったりするし。でも分類そのものが目的じゃなくて、自著として自分の主張にそれがどう奉仕するかが重要でしょ? 構造分析が題名にもある「SFと未来学」にどう関連するのか? またそのパターンはSFの場合、ふつうの小説と何かちがうのか? あるいは何かちがわねばならないのか? SFのやるべき目標を追求するにあたり、適切な構造、使うべきでない構造というのがあるのか? そういうわけでもない。
じゃあ、この章はいったい何のためにあるの? 構造分析やタイポロジーしてみました、でもあまり意味はありませんでした、というだけ。
さらにSFを構造分析したら、それが単純だということがわかった、だからSFの大半はダメでした、といった直後に、でも構造だけ見ていたら、それが意味論に踏み込んでいるかとか書きぶりの良し悪しとかはわからない、と述べる。なら、SFだって構造が単純だからダメです、なんて結論は出せないでしょう。
さらにこの章で「分析」している作品の大半は、短編だ。短編は構造も単純になるし、そんな高い志を持たないものも多い。それをたくさんあげつらって、だからSFはダメです、というのは意味あるの? 上に挙げた図では、SFとそれ以外の小説との分布のちがいが概念的にあらわされている。非SFはもっと複雑でパラメーターも多いよ、というわけ。でもこれホント? これってサンプリングエラーじゃないの? 非SF作品でも駄作をたくさん集めたらSFとそんなに変わらないと思うよ。
まあ、時代的な制約とかはあったのかもしれない。当時は構造分析とか流行っていたので、こういうふうにそれについて長々と批判コメントするのは意味があったのかもしれない。でもそうした構造主義分析批判として成立しているのはごく一部でしかない。それをやりたいならこの本の枠組み内でやるべきじゃなかったんじゃないか。
レムがきちんと推敲して構成を考え、論点を整理したら、本章はたぶんこんな具合になるだろう。
現代SFの安易さについて (いまのSFは安易な書き殴りが多く、現代の文明や人類状況に切り込むものが少ない。それを構造分析ではっきり示そう)
SFの構造分析 (SFは非常に単純な置き換えや転置で構成されていることが多く、その意外性だけで成立するものが多い。構造主義分析はそれを明らかにできる! これは本章の記述の多くの部分をそのまま使えるところ)
よいSF/ダメなSF:意味論と構造 (構造の変化が意味論にまで達するSFと、そうでないSFとを対比させて詳細分析)
構造分析の限界 (上の意味論的な分析は、構造主義的な分析では俎上にすらあがらず、作品のよしあしの評価には使えない。単純な構造=ダメな作品ではない。それができると称するトドロフやロラン・バルトら構造主義者どもは、実はインチキしてる)
オプション;SFの目指すべきもの (バラードみたいな破滅待望はSFの目指すべきものと相反する。現代文明はすでに生物の進化発展そのものを構造的に置換させた面すらある。その文明の構造変化をSFが指摘してそれが意味論的に持つ方向性を指摘しよう!
こうすれば言いたいこともわかりやすくなる。ホント、レムにちゃんとした編集者さえつけば、ずっとまともな話になったと思うんだけどね……
続く章は「構造主義から伝統主義へ」と題されるんだが、これまた非常に混乱した章。コードウェイナー・スミスからフィリップ・ホセ・ファーマーその他、いろんな作品が論じられるんだが、なんだかんだとこむずかしい話を弄した挙げ句に、結局何やら科学的正確さみたいなところに話が落ちてしまう。そして各種議論のほとんども、つまらないことを賢しらな用語を使って言い換えているだけ。うーん。
そしてそれに続いて「SFの社会学」というのがきて、なぜいまのSFは安易に走るのか、という話で、商業主義の粗造濫造にレベルの低いファンどもが作るファンダムが追従してそれを延命させているから、という主張になって、うーんどうしたもんかねえ。
が、それはまた続きを読んでいただきましょうか。

さて、スタニスワフ・レム「SFと未来学」だ。スキャン屋からファイルがきたので、続きをやって、第2章の後半分が完了した。
そして、ますます話がわやくちゃ、としか言い様がない。
第2章の前半「空想的なものの存在論」は、SFとファンタジーとおとぎ話などの、ずいぶん恣意的な分類論に終始していた、という話はした。そこでもいったとおり、ここでの「存在論」というのは、話をわかりにくくするだけで、単に「特徴」という意味でしかなかった。
で、後半は「空想的なものの認識論」だ。
さて一般に「認識論」(エピステーメー) というのも何のことだか、ぼくにはよくわからない。日本語でこの題名がついた本や雑誌や論説と称する駄文で、何が認識論なのかわかったためしがない。
だがここでの「認識論」というのは、本当につまらないことだ。「そこから得られる知見」という意味でしかないのだ。
さらに認識論云々以前に、この部分の論理の流れが、そもそもまったく意味不明。個別の部分で何を言っているのかはわかる。そしてそれにはおもしろい部分もある。が、それが全体の構成として何を言わんとしているの? 普通は、何か前提をおいて、そこからだんだん議論を発展させ、何かその部分としての結論に到達する、というのが通常の論説文だ。が、この部分にはそれがまったくない。そのままでは何を言おうとしているのか絶対わからない。少なくとも、これを読んでいる一般のみなさんには。
さて、ぼくはレムの言いたいことはわからなくはない。が、それはぼくが頭がいいから……というわけでは必ずしもない。レムのきわめて変な前提をなんとか読み取って、それに照らせば、なんとなくわからなくもない、ということだ。そしてぼくは、一応ここまで訳してきたんで、その前提がわかるつもりだ。
その前提というのは何か?
レムは、SFっつーのは社会の発達や新技術の影響について、何か正しいきちんとした予想と知見を提供しなくてはいけない、というものだ。別にそれは正確な予測でなくてもいいが、その枠組みなり提示した仕掛けの持つ帰結の全体像なりは明確に示さねばならない、ということ。それが大前提だ。
これについては前に述べた。第1章のこんな下りがそれに相当する。
だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(p.17)
レムにとってのSFとはそういうものだ。あくまでお勉強のツールなのだ。その少し前にはこうある。
SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(p.16、強調引用者)
ちなみにここでも「認識論的価値」というのが何のことかわかりにくいので、たいがいの人はおそらく初読ではこの文が何のことやらわからない。でもこれは単に「知見」「知識」ということなのだ。
そしてこれで、本書の題名「SFと未来学」というのがどういう意味なのかがわかってくる。未来学というのは、この章でもぼろくそに書かれているが、ハーマン・カーンとかの一時流行った未来予測のようなものだ。繰り返すが、彼はSFというのが、そのいま出回っているインチキな未来学に比肩する、未来についての知見を与えるべきジャンルだと思っている。まさに、未来学が大風呂敷を広げていた通り。だからこの題名は、いまの(ダメな)未来学と対比させたSF、という意味だ。
本書は、それがSFの意義であり可能性なんですよ、だからそういう基準でSFをあれこれ論じますよ、というきわめて偏狭な本なのだ。
これを見て、「いやSFにそんなもの求めていないないよ」という人はたくさんいるだろうし、また作家のほうも「そんな意図で書いてないよ」という人や作品はいくらもある。だが本書のレムは、そんな軟弱なことは許さない。彼にとってそれは、SFの意義を裏切る許しがたい代物なのだ。
だから彼は、リチャード・ガイスの書き殴りSF風ポルノの設定をまじめに批判してみせる。バーチャルリアリティ (レムは「幻影装置」という) についての考察がいい加減である、といって。そんなポルノのストーリーをあれこれつつきまわすことに何の意味が? ぼくは無意味だと思う。日本AVの時間ストップものが、時間停止をきちんと考え抜いてないと言うことになんか意味がありますのん? が、レムはそれを嬉々としてやる。
(ちなみに、リチャード・ガイスのSFポルノって、何か邦訳あったんだよね。昔『SF宝石』で、鏡明が書評していて、いかにろくでもないかをおもしろおかしく述べたうえで、著者の名前がまちがってると指摘していたので覚えている。いやあ、よくオレはこんなくだらないことを覚えているもんだ)
さらにバージェス「時計じかけのオレンジ」は、精神医学の発展をきちんと勉強していないからダメで有害…… いやそんな話じゃないと思うけどなあ。
そして、ディック『ユービック』その他が大絶賛される。おお、レムさんわかってるねえ、と思って読むと、それは単に、ディックの幻想世界では、人々が自分が見ているのが幻想か現実かわからないのが徹底しているからすばらしい、というだけ。そしてそれがあれば、他のところのいい加減さは全部許してもらえる。
……あんた、そんなくだらないことでディックを評価してたの?
ではもう少し細かく見ていこう。
一歩下がって、もう少し細かく内容を見よう。この部分は10の節に分かれている。だが、それが全然つながっていないというか、あまりに散らばっている。まず冒頭では、世間的な未来学 (発表当時、すごく流行ってました) の解説と批判が展開される。その前の部分ではSFとファンタジーのちがいみたいなことを延々と言っていたので、まずそこで「突然なんで話が変わったのか」と混乱するのが人情だ。そして、ハインラインの1940年の作品を持ち出すことで、ほらSFで未来の枠組みをきちんと考えられているじゃないですか、と述べる。そこまでは、くだくだしいが趣旨はまあわかる。が、その後からもうグダグダになってしまうのだ。
以下にそのあらすじをまとめよう。
SFは未来学に近いところがあるので、そこを見ていくよ。
未来学はかけごえ倒れ。いまや地球が狭くなってすべてがからみあっている。今後は人口爆発と環境破壊と資源の枯渇が最大の問題となり、そのため地球規模の政府統一を行って全地球的な管理が必要になるが、未来学はそうした大きな枠組みすら提示できていない。世界が様々な面で相互依存して一つとなる一方で、先進国はますます進歩し、後進国はますます停滞して格差が広がり世界は分裂する。[読者の心の叫び:岡目八目ながら、レムが鉄板と考えていたトレンドもそんなに強固ではなかったよねえ……人口はいまや停滞のほうが心配だし。するとレムの「未来学」もひとのことを言えた義理ではないのでは。]
科学的な創造は概念整理からモデル構築という手法のおかげで発展し、何を目指すかという目標があることで進歩してきた。芸術的創造は似たところもあるが、実証的な検証をうけないところがちがっている。
未来学と称するものはまともな手法もなければパラダイムもない。ハーマン・カーンもトフラーも、サルトルもフロムも思いつきのデタラメを並べ、短期のトレンドをのばすだけ。ローマクラブとかはコンピュータシミュレーションをしてゼロ成長を訴えているがパラダイムがないために妥当性がない。自分は『技術大全』でいろいろ考えて、えらかった。でも人口増とか資源枯渇は問題。[読者の心の叫び: 最初の部分を繰り返してるし、まとめたほうがよかったんじゃないでしょうか。]
カーンら『紀元2000年』を見ると、あれこれ粗雑だし可能性の見通しもいい加減で、物事を考える座標軸もできていないのは明らか。網羅性を重視すると称して、物理学的に不可能な重力遮断なんかまで採りあげてクソもミソもいっしょ。さらにそのほうがアメリカの政治転覆より確率が高いって、賢そうなふりして無知のかたまり。いまのイデオロギーの表明でしかない。[読者の心の叫び: 上に同じ。整理しようよ。繰り返し大杉]
別に予測は当たることが重要なのではなく、きちんとした枠組みを提示することが重要。ハインラインの短編「不満足な解決」は、1940年時点でしっかりした考えの枠組みがあり、マンハッタン計画、パックスアメリカーナ、放射能汚染などを見事に予測できたし、当たらなかったところがあってもその未来シナリオとしての優秀さは際立つ。ハーマン・カーンなんかよりずっとすごい。
未来予測においては、技術の変化などが倫理に与える影響も考えねばならない。バージェス/キューブリック「時計仕掛けのオレンジ」はサイコパスの精神治療/条件付けが、個人の内面の自由に対する侵害だという描き方をしているが、これは精神治療という技術とそれが基づく精神医学の知見について無知もはなはだしい。サイコパスというもの自体が、強迫神経症の結果であり、つまり精神の自由がない状態なので、治療することは自由の侵害どころか、自由を復活させること。そんなこともわからずに小説や映画作ってまちがった認識を広めるのは無知で有害。[読者の心の叫び: ほとんど言いがかりですな。『時計じかけのオレンジ』はそこがポイントじゃないと思う]そして、倫理を相対化するうちにそれを否定しようとする、スキナーみたいな論者や、ドゥルーズ=ガタリみたいなインチキも出てくる。[読者の心の叫び: なんで倫理だけ特出しされてるんです?]
おれ、『技術大全』で「幻影装置」(21世紀のいまならVR) の可能性書いた。VRの真価は、完全なVRになればもう現実とまったく区別つかなくなるってところだ。ヒョーツバーグ作品は、完全なVRがあるはずなのにみんな機械から離れた「本物」の自然を求めるというナンセンス。リチャード・ガイスのSFポルノも、完璧な幻影セックス装置があるのに人間セックスを希求するという矛盾まみれだし、ポルノは完全に即物的だ。いまの主流SFってダメダメだね。[読者の心の叫び: 著者自身すら認める書き殴りのSFポルノをSFの代表にするってひどくね?]
ディックのすごさは、幻覚の中に入った人が、それが現実か幻影か区別がつかないのをきちんと描いているからだ。おいらの幻影装置のポイントをきっちり把握してるよね。[読者の心の叫び: そんだけですか??!!!]
未来学って枠組みがないのがダメだよな。ところで生殖細胞と脳細胞の中間のようなものを作り、それを環境に排してインテリジェント環境を作って、そこに倫理をエクスポートできるのではないか! 情報も質量を持つので E=mc2 の情報版ができる、だから情報により物質を生み出す天地創造が可能だぜ! 片道100年の宇宙旅行が実現したら、何が真実かを確認するのにも100年以上かかるので真偽の意味合いがかわる……[読者の心の叫び: まったく関係ないでしょう!!]
さてどう思う? いまのまとめ、ぼくはフェアにやったつもりだが、正直いって混乱しきっていると思う。
それが最もはっきりしているのは、最後の9部「パラダイムの探究」。前の部分とまったく話がつながっていないのがわかると思う。アイデアとしてはおもしろい。まあ異論はあるが、いずれもそうかもしれん。環境に知性を持たせてそちらに倫理を任せるというのは、ある意味でアーキテクチャによる規制というレッシグ的なアイデアの先取り、と言えなくもない。でもそれで? それがここの話と何の関係がある?
何も関係ないのだ。未来学とも関係ない、SFのアイデアくらいにはなるが、別にそれでどうというわけでもない。レムが単に、突然思いついたことをぶちこんだだけだ。せいぜい、いまの未来学はこういう考察できないだろー、バーカ、という自慢でしかない。
他のところも全部この調子。未来学の現状とそのダメさ加減という話は三つのセクションに分かれているけれど、まったく整理されていなくてぐだぐだ。話はあっちとび、こっちとびで、余計なものばかり。
そんな面倒な話じゃないと思うんだよね。だってこの部分の論点というのは、きわめて単純だ。いまの未来学はダメ、という話をして、ハインライン作品では未来についての枠組みをうまく予測できてる、という話をする。それをもっとやりましょう——基本はそれだけなのだ。じゃあ、その論点をきちんと展開すればいい。いまの未来学はダメなのばかり、というのはわかりました。では、未来学の目指すべきものをある程度できているSF、惜しいSF、だめなものはこういうところを重視すればいいという指摘、そういうのを積み重ねれば、レムとして何を目指したいのか、一般のSFがどこでヘマっているのかについての見方が明確になるだろう。VRとディックの話も、その一例として挙げてくれれば議論が明確になったろう。
ところがそういう話は全然ない。
『技術大全』について、脱線まみれだと述べた。それはここでも変わらない。 話の流れをまったく無視して、その場で思いついたものをとにかくぶちこむ。それが比喩や例ならまだいい。といってもレムの持ち出す比喩はまったく場違いなものや、かえってわかりにくくなるものばかりではあるのだけれど。でも、ぶちこまれるのは脈絡も何もない、単なる脱線だ。たとえばガイスのSFポルノ評の前に、西側ではやたらにセックスが重視されるのは嘆かわしいというのが延々続く(この次の部分参照)。それはそうかもしれないが、ここでの話には関係ないだろ。
さらに批判はきわめて恣意的だ。ゲイスの小説はまさにポルノとして書かれた小説だ。そこにセックス出てくるからって何を文句言ってるんだ。それはあんたが批判するような文化規範の問題胃じゃないぞ。
あるいは「時計じかけのオレンジ」は、別にいまの精神医療の問題点を指摘しようとした小説ではない (と思う)。一歩さがれば、自由というのは反社会的な自由も含まれるのかとか、管理社会はどこまで許されるのかとか、いろんなテーマが見いだせる。でもそうしたものをすべて無視して、精神医学の勉強不足だ無知をふりまく有害文書だとレムは罵る。それは有益な批評なのか? たまたま自分の注目している話が雑だからって、無意味で有害呼ばわりすることい何の意味があるの?
一方でディックについては大絶賛する。が、その評価ポイントは? 幻覚の中では自分が幻覚を見ているか確認できないというのをきちんと描いている、というだけだ。それだけ? ディックの見所はそこですか? それだけでよければLSDフラッシュバック系小説みんなスゲーってことになりますが、それでいいんですか?
さらに、そのディックについてパラレルワールドの設定がおかしいとの指摘をしている。他の作品ではそういう設定のまちがいだけで有害文書呼ばわりされる。ところがディックでは、それはあっさりスルーされる。たまたまレムが注目している部分が、レムの気に入るように描かれているだけで、他の設定がどうであろうとディックはすばらしいことにされる。一方、ポルノ作品は設定がいい加減だというだけで延々と叩かれる。
それって、フェアな批評と言えるんだろうか。ぼくは言えないと思う。そのレムは別のディック評「フィリップ・K・ディック:にせ者たちに取り巻かれた幻視者」で、「注意深くそして好意的に読むこと」(『高い城/文学エッセイ』p.423) を求めている。「批評家のすべき仕事は作品を告発することではなく、作品を擁護することである。(中略) 作品を最も好意的な視点から提示することだけである」(同 p.407)。ぼくは別にこれには同意しないけれど、でもレム自身はこれができているだろうか? 全然。少なくともフェアに見ているだろうか? ぼくにはまったくそうは思えない。
さらにレムの文はちょっとひどすぎる。次のところを見て欲しい。ここでは彼は、完全なVR世界では、その中の人にはVRか現実かは絶対にわかりませんという話をしている。主張はそれだけだ。一行ですむ。だが彼はそれを延々と引き伸ばす。
問題は物事の実際の状態をどう確定するかという話に帰着する。原子の微視的現象にはどうしても避けられない不確定性の限界があるのはわかっている。一方で巨視的現実にはそんな不確定性はない。[読者の心の叫び:ここで不確定性原理の話なんか持ち出す必要はまったくないだろ! 話がかえってわかりにくい]。ケネディ大統領暗殺を例にとれば[読者の心の叫び: 取るな! この例、何もわかりやすくなっていないので、段落のこの後すべて無駄]、その暗殺は具体的に行われたことはだれしも認めざるを得ない。暗殺者が2 人いたなら、それは3 人ではなく、1 人なら1 人だ。100% 確実に何が起きたかは分からない。その問題が決定的に解決されるかどうかまったくわからなくても、その問題の解明を妨げるのは自然法則や超人的力、不可解な障壁ではなく、ひたすら具体的で二次的な状況でしかないのはよくわかっている、つまり疑問の余地はない。単一の電子の軌跡がわからないのと、ケネディ大統領の体を貫いた銃弾の軌跡がわからないのとは、認識論的な観点からすれば、まったく別の話だ。前者についての無知は根源的なものである。それは物質の性質そのものに内在しており、何をもってしても変えることはできない。後者の事実についての無知は、観察データの不足、観察の不確実性、調査の不十分さ、ひょっとすると暗殺者の巧妙さなど、その所与の状況(たとえば実施された暗殺) についてどうしようもない覆いを提供する各種状況から生じるものだが、その状況の内在的な性質によるものではない。
だが幻影装置が実現した世界では、この区別が完全に消滅する。
その世界では、原理的には自分が「自然の現実」と接しているとはだれも完全に確信できない。この規則は、悪辣な犯罪者が人を睡眠中に拉致し幻影生成器に繋いで「幻影的に誘拐する」ような社会的状況によるのではない。[読者の心の叫び:そんな変な状況を考えるやつがいるか! 持ち出すことで話がわかりにくくなってる]いいや、現実の現実の虚構とのちがいをなくしてしまうのは、そうした状況ではない——犯罪的、警察、行政的、つまり「社会的」性質の状況によるのではないのだ。技術自体の出現により、虚構と現実の区別が消滅してしまう。実務的に言うなら、「幻影装置化の脅威」は実際には兆や京分の1 の確率まで減らせるという意味で、ほぼゼロになる。正気の人なら誰もそんなことを真面目に考えない(これは明日隕石で死ぬ可能性をだれも真剣に考えないのと同じだ)。[読者の心の叫び:!!!つまり実際にはまったくあり得ない話ってこと? だったらそんなことを考える必要はそもそもないのでは?]ここでの問題はそれとはちがった、超実践的な意味合いを持つ。[読者の心の叫び:これだけくだくだしく説明した後で、実はそれはすべて実務的にはまったく無意味な話で、単なる思考実験としての意味しかありません、と言い出すのかよ。では、そういう実務的にはまったく無意味なポイントが他人の小説で表現されていないといって批判することに、何の正当性がある?]幻影装置は世界との関係を歪め、幻影と現実を分ける検証を排除する。こういうふうに言ってもいいだろう。検証が可能なら、それは幻影装置ではなく、原始的で不完全な原型でしかないのだ、と。(p.73)
とてもまともに読める文ではないので、目が拒否する人も多いだろう。レムがここで言っているのは、究極なVRの世界や幻覚の世界では、自分がVRにいるのか現実にいるのかもまったくわからなくなるよ、というだけのことだ。それは(ケネディ暗殺の謎みたいに)たまたまデータや確認手段がないからわからない、というものではない。確認そのものもVRの産物かもしれないという、その世界の本質のせいなのだ、というわけ。
そうだろうね。
でもそれだけのことを言うのに、レムの記述はどうだろうか。本筋とは関係ない不確定性原理の話。世の中解明できないこともある、というだけのために入れられるケネディ暗殺の話。あげくに実務的には区別つくから、こんな混乱が生じる可能性はゼロ、これは単なる重箱の隅、と自ら認めてしまう。
なんなんだよ。この本はすべてがこういう書き方になっている。
この段落はまだしも、一応はなんとか各種の話が本筋と関係している。単に比喩が下手クソなだけ、ともいえる。が、次のところなんかどうだ。
2) リチャード・ガイス『ロウ・ミート』はいわゆるSF風ポルノだ。『グレイ・マターズ』にもセックスはあるが、脇役だ。現代西洋の散文では、セックスが登場してもショックなど与えず、セックスがないほうががショックだというのは書き添えておこう。我々の社会からの作家は、西側の出版社、批評家、作家仲間から、エロス面でのほとんど「ビクトリア朝めいた禁欲」の理由を問われると絶句する。そんなあけすけな質問をされると、主人公の心理を描くときにセックスについての話がないと不完全と見なされるのだろうかとさえ思ってしまう。もちろんこれは慣習の問題だ。バルザックが「オルガン音楽に没頭するB侯爵夫人は痔が痒かった」と書けなかった規範倫理の残滓は、セックス方面ではことさら激しく破壊され、それをこまごまと検分するのが必須とされる。「とことんやれ」というこの現代性の標語からすれば、排便問題も注目されるべきだ。精神科医や心理学者は、多くの人において排便がきわめて放埒な白昼夢、特に「権力と支配の夢」を伴うことをよく知っている。寝室の振る舞いが便所より重要と考えるべき合理的理由はない。性の技法を高次の感情と同一視する者だけがこれを愛の冒涜と見る。感情の力が単なる強力な性能力で置き換えられれば、人生は簡単だが退屈になるだろう。文学はすでにそうなっている。誰が誰のどこに何をどう挿入するかを書く方が、個別で再現不能な魅力、反発、闘争、愛の乱流を描くより簡単だ。だから性の「脱タブー化」は、特に三流文学屋のための割引セールなのだ——それもごく短期的な割引だ、なぜなら誰もが常に猥褻なことを言うなら、何も猥褻ではなくなるからだ。持続的努力のポルノは異なる。『ロウ・ミート』は相当部分のポルノにSFの意匠を着せたものだが、優れたSFでもないし巧みなポルノでもない(たった2ページで眠気を誘うポルノは、私には成功とは思えない)。それでもこの作品は注目に値する。その枠組みは典型的な反ユートピアだ。過密で貧困、飢餓の未来世界で、密封ガラスドーム下、「デジタルマシン」(マザーコンピュータ)の支配下で米国文明の残滓が生きている。ドーム内は今日の米国に似ているが、もっとひどい(広告、自動化、空調など)。最大の革新は性生活で生じた。人間同士の性交は厳禁で、最も不道徳な部位はへそだ。なぜならそれはへその緒を連想させ、ひいては出産を連想させるからだ。体や頭に毛は一本たりとも許されない。性生活は完全幻影装置化している。市民はすべて任意の複雑な性的乱交を体験できる機械を持っている。これが私生活の最後の砦となっているのだ(だがここでも、だれもへそは出さず頭に毛すらない)。乱交は店で(今日のビデオテープのように)「セックステープ」として売られる。人工の性は、自然の性より完全で、パートナーは異常な美と無尽蔵の精力を持ち、性器の分泌物までコカ・コーラやオレンジの香りと味だ。だがこれほどの可能性があるのに、主人公の青年はこれら全てに背き、職場をクビになってから自殺する。隣人のティーン少女は同様に「缶詰の性」に耽る。両者の体験が小説の核心だ。二人は偶然知り合い、本物の性交(愛ではない——二人はそんな考えを思いついたこともない)という禁断の果実にあこがれてそれを試みるが、大失敗に終わる。少女は不感症、青年は半インポなのだ。二人は混乱で逃げだし、各自「Gエキサイター」(この装置がもたらす体験のマラソン的性格についてこの新語が使えるならだが)でてっとりばやく慰めを求める。(p.76)
さてこの段落の狙いは、ガイス「ロウ・ミート」のあらすじを説明することだ。つまり、必要なのは後半だけだ。ところが彼は前半の色をつけた部分で、西側では小説でセックスが珍重されすぎるというグチを垂れ流す。それはそうかもしれないが、ここでそんな話をしてどうする? しかもそうした批判を、普通の小説の説明のついでにやるならともかく、あんたがここで扱ってるのはポルノだぞ。そこにセックスが多いと文句言ってどうすんの?
さらにその『ロウ・ミート』あらすじも、なんでこんなに細かく長いの? へその話とか毛がない話とか、その後の議論に何も関係ない。みんなVRセックスにふけって、本物のセックスができなくなってる、という話さえわかれば、その後のレムの批判はすべてわかる。
ディックの作品でも、『去年を待ちながら』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』『ユービック』のストーリーが延々と解説されるけれど、結局のポイントは、幻想が多重化されていて現実か幻想かわからなくなっているということだけ。まったくいらないでしょう。それがひたすら全体の見通しを悪くして、結局彼の論点はわかりにくくなってしまっている。
ある意味で、このひどい文章はレムには有利に働いている。『高い城/文学エッセイ』に収録されている各種の論説は、たぶんほとんどの人は、それぞれ何を言っているかわからなかったと思う。それでももっともらしく思えるのは、この脱線と下手な比喩と余計なだらだらした叙述が、読者を煙に巻くように機能しているからだ。読んだ人は、何を言ってるかわからないが、なんかいろいろあった、ということだけ印象に残る。
でも前出の「フィリップ・K・ディック:にせ者たちに取り巻かれた幻視者」を、そうした余計なものを取り除いて読んでみると、実はたいしたことは言っていない。上で述べたような、もはや幻覚と現実の区別がつかない世界を描いている、という論点を少し発展させて、それがいまや人間の環境であり、ありのままの自然はなく完全に作られた環境内で活かされているのが人間なのだ、それをディックが描きだしたのはすごい、しかもガラクタを集めるような形でそれを描きだしてるのがすごい、というだけだ。これはバラードの「テクノロジカル・ランドスケープ」と同じ観点で、その意味ではよい視点ではある。が、その論点をきちんと読みとれる人が何人いることか。
ちなみに沼野充義は巻末の解説でレムの批評について「一般的な理論の枠組みで作品を切り取らず、あくまでも作品のコンテクストに即した論理的な読解を試みる (本書所収のディック論や『ストーカー』論に顕著)」(同書p.441) と評する。ぼくはこのディック論についてはそうは思わないし、本書のこの部分のディック論はコンテキストあまり見てないじゃん。まして書き殴りポルノSFの思いつきの設定部分をあれこれマジレス論評することのどこに、コンテクストに即した読解があるんだろうか。
『技術大全』の解説で、その紹介が少ないのは内容的に仕方ない面もあるし、特にレムの紹介者の多くが文系だからだろう、という話を書いた。あの本の中身について多少なりとも触れているのは、ツイッターその他で見る限り大野典宏や円城塔くらいだ。あと垂野創一郎が一部翻訳している。そのくらいだ。どれも理系的な素養をある程度は持っていそうな人ばかり。
だけれど他の文系紹介者も、『技術大全』は無理でも、他の文学っぽいものはきちんと紹介してくれてるんだと思いたいところ。たとえば『高い城/文学エッセイ』で論説を選ぶときには、 この『SFと未来学』の議論を踏まえたうえで、そうした議論の特徴を示すようなものを選んでいるんですよね? ぼくはそう思っていた。
が、なんかそうじゃないのかもしれない、という疑惑がだんだん沸き起こりつつある。同書で『SFと未来学』は次のように紹介されている。
『SFと未来学』 (1970年)全二巻、原著で計千ページを越える大著。現代SFを理論的に扱った研究書。方法論としては『偶然の哲学』で練り上げたものを発展させ、読破した数万ページの現代欧米SFにそれを具体的に適用する。その分析の結果はきわめてネガティヴで、現代SFの九十パーセント以上はSF本来の可能性をまったく無駄にしているくだらないものだ、ということになる。こうしてSF理論を体系化したレムは、その一方では自分自身も「家としての成長過程でSFというジャンルそのものの進化の大筋を繰り返してしまった」ことに気づき、創作の面では一種の行き詰まりの状態に陥る。(p.439)
これを読むと、なんだかすごい包括的なSF論が実現したような印象があるだろう。そしてレムが、何かすばらしく広い豊かなSFの未踏のフロンティアを描きだしてくれたんじゃないか、という期待が広がる。現代SFの9割は、そのSFの本来の可能性とやらを無駄にしている、と言われると、何かレムがSFについて非常に壮大なビジョンを持っていたのだろうと思うのは人情だ。SF理論を体系化! つまりすべてのSFを包含する何かすごい理論を構築したわけか! その高い理想に比べれば、まだまだですなというわけ。じゃあ、その壮大なビジョンをみんなが学べば、もっともっとすごいSFがたくさん出てきそうじゃないか!
レムの日本語Wikipediaにも「『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析」なんて書いてあるから、それが高度な文学理論ともつながるんじゃないか、とも期待しちゃうよね。
だが、この第2章まで読んできたところでわかるのは、これがブンガク理論をSFに適用、などというものではまったくない、ということだ。そしてSFの9割が否定されるのは、彼の使うの基準が偏狭だからでしかない、ということもわかる。レムが言っている「SF本来の可能性」というのは、ここで言っている未来学、つまりは未来予測と科学知識・考察ということだ。
そんな基準を適用するなら、スタージョンの法則を待つまでもなく、当然ながら9割はクズということになるだろう。だって、ほとんどの作品はそんな目的で書かれているのではないのだもの。そんなビジョンを学んだところで (というかそういう考え方が一つの選択としてあることは、みんなとっくに知っている) 何も御利益はありませんがな。SF理論なんか体系化してないよな。自分の狭い基準をふりかざしているだけだ。
さらに、狭い了見でも厳密に適用することで見えてくるものはあるだろう。だがここで見た通り、彼は自分の「理論」の適用には厳密さのかけらもなく、自分の思いこみだけをもとに、独善的な理屈をこね、それを恣意的に適用しているだけだと思う。レムというのはそういう作家だし、その頑固さが彼の作品の独自性につながっているのは事実だ。が、その基準を他人に押しつけて、SFすべて論じ尽くた、SF見切ったぜ、と言われてもねえ。
それが見えてくると、さっきの沼野充義の紹介には強い不満をおぼえてしまう。なんか、重要なことを何一つ説明してないじゃん。そのレムの言っている「SF本来の可能性」ってどんなものなのかくらい、説明してくれてもいいんじゃないだろうか。そこをネグって、なんかすげえ理論を構築したんだぜ、現代SFを理論的に扱った千ページの大著だぜ、とふわふわした期待だけあおる——それは商業的にはいいのかもしれない。文学では答が出るだけでは市が栄えない、と石川淳も言っている。が、研究者としてどうよ。だめな部分をわざわざ指摘する必要はない、という見方はある。でもさ、なぜ「SFと未来学」という題名で「未来学」がフィーチャーされているのかくらいは説明して、彼が何を目指していたのかくらいは紹介してよ。何も新しい情報がなくて、すごい、大著、問題作、壮大な、と形容詞つらねて悦に入っているだけじゃ、何も進歩がないじゃないか。依頼されたのに本書を1ページも訳してないというのは、これだけやってきた身からすればよくわかるよ。面倒過ぎるもんね。でもさ、訳さないまでも、少しくらい中身の紹介しようよ。
それを沼野や他の研究者・紹介者が少しでもやってくれていたら、ぼくがこんな面倒な作業をあれこれやらんでもいいはず (まあ自分で頼まれもせず好きにやってるんだけど、レムとか研究してるはずの人が主著の紹介せずに、シロウトがしびれをきらして手すさびでやってるって、バランスおかしいと思いません?) なんだけど……
乗りかかった船だから、まあこの先も続けるでしょうよ。これまでなら数十年がかりだけど、AIは偉大だから年単位で終わるんじゃないかな。これで上巻の半分くらいだ。この後でSFの社会学とか出てきて、作家とファンダムの関係みたいなのも出てくるのかしらー、とかちょっと期待はある。それとこの未来学の話ってどうなるの? さらに下巻に入るとテーマ別のあれこれが出てきて、J・G・バラード論とかもあるんだが『結晶世界』について、美文だが世界の破滅や主人公の死を作品が肯定するように描いているのでダメとか、なんか根本的にセンスのないこと書いてあって、戦々恐々。コードウェイナー・スミスをちょっと扱ってみたり、どういう話になるんだろう。これはまあ、怖いもの見たさではある。なんだか、レイ・ブラッドベリが延々と論じられているところがあって、その最後のところをちらっとみたら「美しいけれど無内容」とか書かれていて、あんたブラッドベリに何を期待してるのよ、という感じで、レムさんわかってねえだろ、というのがいっぱい出てきそうでアレなんだが。
その翻訳は、AIのAniちゃんの協力を得てやっているのは言った通り。全部一応チェックはしている。が、今後はちょっとそのチェック方針を変えるつもりだ。
どういうことか? レムは同じことをくどくど繰り返し、うまくもない比喩をまぜてそれを細々解説して見せることで、かえって話の流れをぶった切ってわかりにくくしてしまう部分ばかりというのはすでに述べた。AIはそういうのをすかさず端折ることが多い。
これまではそういうのを全部忠実に直してきた。原文の段落切りを完全に踏襲し、つまらない繰り返しであっても律儀に訳してきた。しかしながら、AIが端折ったやつ=整理したやつのほうが、文章がずっとわかりやすいところが多いのを、だんだん認めざるを得なくなってきた。AIがすっとばすところは、レムが同じ事をくどくど繰り返しているところだ。それを忠実に元にもどすと、かえって意味不明でわかりにくくなるのだ。
あと、レムの原文のせいなのか独訳のせいなのかわからないけれど、段落の切り方もひどい。中身のまとまりを無視して、何か小説のあらすじを、二行だけ前の段落の末尾にくっつけ、残りを二ページにわたる長大な段落に入れるとか、意味不明のことをやる。AIはそれを直す。えらい。本来、レムの編集者がやるべき作業だ。
ぼくも、忠実に訳したい一方で、万が一読む人がいたら、その人たちに多少なりとも理解してほしいと思っている。そういう理解のほうがぼくは重要だと思う。だからこれから先の部分では、AIによる端折りその他の提案はもっと採用することにする。
(レムの基本的な主張を理解してもらうのにいちばんいいのは、昔ケインズ『一般理論』でやったみたいに、各段落1行ずつでまとめることなんだよなー。ただそれやると、醍醐味の7割が脱線と寄り道にあるので、この本のおもしろいネタを完全に潰してしまうんだよね)
次の章もなー。少しはおもしろいといいんだけどなー。
期待は裏切られた…… いやまあ、そんな期待してたわけじゃないのだけどね。

なんかやっちゃったので、委員会諸賢はご参照ください。それ以外の人は見てはいけません。
こないだあげた「どこにいっていたサンダリオティス」とセットになっている「エニスコーシー・スウィーニーの三つのハルマゲドン」。
「サンダリオティス」のときにはちょっと軽い言い方をしたけれど、訳しながらやっぱこれ、結構重要な作品じゃないかと思うようになったわ。というわけで、訳者解説。ちょっとまとまり悪いんだけれど、言いたい論点は一通り出ているので。
話は、エニスコーシー・スウィーニーという田舎の変な小僧の変な異能の話から始まる。ボクシングのチャンピオンをスパーリングで倒してしまったり、女の子を世界最高の美女に仕立てて結婚したり。ラファティ作品の十八番、ではある。そして何やら数学理論を根拠に彼を殺そうという数学者の陰謀団があらわれ……
だがだんだん様子が変になってくる。この世界線では、フランツ・フェルディナント皇太子は暗殺されず、皇帝になる。自分が暗殺されるのを夢で見て怖じけづき、サラエボにいかなかったのだ。だから第一次世界大戦も起きない。かわりにエニスコーシー・スウィーニーが「ハルマゲドン I」というオペラを1916年に書く。フェルディナント皇帝はそれを見て、なぜ自分の夢を知っていたのかと問い詰める。禁酒法もない。スウィーニーが「禁酒法」というオペラを書くだけ。大恐慌も起きない。かわりにエニスコーシー・スウィーニーが「大恐慌」というオペラを1929年に発表。その世界線では、第二次世界大戦も起きない。かわりにエニスコーシー・スウィーニーがオペラ「ハルマゲドン II」を1939年に発表。
次第にわかってくるのは、エニスコーシー・スウィーニーは別の世界線にいるらしいということだ。そして彼は、その世界線とこちらの実際の世界線を自由に往き来できるらしい。その「可能世界」を利用することで、彼の世界線を変えられる、というべきか。エニスコーシー・スウィーニーのオペラは、その別の世界線を実現させるものでもあり、一方でそれを起きなかったこととして別の世界線にとどめるものでもある。その一方で、その向こうの (というのはこれを読むぼくたちの) 世界線は、スウィーニーたちの世界線に大きな影響を与えている。ぼくたちの世界線を現実のものとして感じ、それを懸念するハルマゲ団=国際連盟の人々が世界中にいる。その人々は、チェコスロバキアとかいう変な国のあるヨーロッパの地図を間に受けていて……
その人々は、スウィーニーがその別の現実を「実現」させてしまうことを恐れて暗殺しようとする。一方で、まさにそれを実現させようとする別の (人間ではない) 一派もいて、そいつらはどうも悪魔らしい。
そして1984年に、エニスコーシー・スウィーニーは「ハルマゲドン III」を発表し……。
ラファティが、こうした現実の世界について直接的なコメントを含んだ作品を書くのはきわめてめずらしい。ここから見えてくるのは、ラファティにとって、このいまの現実の世界線は、実際には起きないはずのものだったということだ。二〇世紀に起きた様々な愚行、特に二度の世界大戦は、彼にとってはあってはならないものだった。悪魔がそれを実現させようとする。ラファティ的には、自分が住んでいた (そしてぼくたちが住んでいる) この世界は、本物ではないのだ。向こうに、悪魔が小細工をしていないダイヤモンドの時代があるはずなのだ。どこかでラファティは、(そして僕たちは)そのダイヤモンドの時代を奪われてしまっているのだ。
ラファティの作品 (特に長編) を読むと、ラファティはおそらくかなり本気でそれを信じていたと思う。現在のこの世界は、神と悪魔の技が入り交じった変な世界なのだ。そしてそれは、偽物のインチキな、まちがった世界であり、元の正しい世界に戻りたいんだけれど、でもそれはどこかでもはや決定的に不可能になってしまっている……この作品はそれが明快に出ている。そして各種のできごと (特に芸術作品) の中で、ラファティが何を本物と見ていたかも明確に出ている。
言うまでもないが (というのは、きみたち当然わかるだろ、という意味だぞ。ちゃんとわかるんだろうな!)このエニスコーシー・スウィーニーは、ラファティ自身でもある。彼は、悪魔たちが実現させようとする恐ろしい世界線を、三流オペラや物語に封じ込めて実現させずにおく存在ではある。その一方で、それについて書くことでまさにそれをみんなの意識にのぼらせ、それを実現に近づけてしまう存在でもある。たぶん彼はここに、作家の役割みたいなものを少し見ていたんだろう、とぼくは思いたいところではある。そしてそれが、アンビバレントな二面性を持つことも、かれは意識していた。
そして同時に、二〇世紀の戦争に対する非常にストレートで痛切な批判というのも、他では見られない。それがもたらす虐殺や死についての恐ろしい描かれ方、明確に避けるべきものとしての描かれ方は、少し珍しいとさえいえる。
というのもラファティ作品では、虐殺というのはふつうは楽しいできごとだからだ。登場人物たちは、笑いながらやる。愚かな地球人たちは当然のようにプーカ人その他に楽しく (プーカ人たちから見れば) 虐殺される。あるいはそのプーカ人やアストローブ人たちは、ゴミクズな地球人なんかよりも知性も生命力も優れているので、己の失敗としての残虐な死は自業自得であり、これまた「ざまあwwww」でしかない。
が、このお話はちょっとちがう。人々は、別の世界線の戦争と虐殺の記憶、大恐慌の悲惨の記憶に苛まれる。それをどう避けようかとみんな右往左往する。ラファティは『アーキペラゴ』で従軍時代の話を少しするけれど、たいがいは同期の仲間との思い出ばかりだ。戦争そのものの話はほぼない。でも『アーキペラゴ』でも、戦争自体にかかわるあたりでは、語り手が自分がだれかも忘れて入院している。何があったんだろうね。彼はアジアの戦場でどんな体験をしたんだろうか。
他の部分でも、ちょっと本書はラファティのふつうの書きぶりとはちがっている。第五部で自分の創った蛇に喰われて、必死でそれを救おうとする町の人々の努力にもかかわらず、苦しみぬいて死ぬ少年の話は、ラファティの他の作品ではあまりお目にかかったことがない残酷さと悲痛さがある。もちろんそれはラファティ流の寓話なんだけれど、なんかありそうだ。彼の描く、アメリカ中西部っぽい、田舎暮らしのノスタルジーの背後に何かあるな、というのがここから少し見えてくるようにも思う。その意味で、この作品は、ラファティの少し自伝的な作品だったりもするのだ。
ラファティはあるインタビューで、本書を自分のお気に入り作品の一つとして挙げていて、だれも読んでくれなかった、二本立ての後半だったのでみんなそこまで体力が続かなかったんだろうとかグチっていた。みんなが読まなかった理由は、まあいろいろあるだろう。が、彼が自分でこれを気に入っていたといのは、そういうところもあるのかな、とは思う。
ということで委員会諸氏はお読みください、それ以外の人は指をくわえてなさい。
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。